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前奏曲

Anchor 1
Anchor 2

夜よ、来れ、わが友よ、汝の翼で、
わが愛と希望をかくし包んでくれ


―ホベリァーノス「夜に」

1、

 

帝国暦483年―

 

「ロイエンタール、俺、婚約した」

緩みきった幸せそうな表情のミッターマイヤーの言葉に、ロイエンタールはガンと頭を殴られたような衝撃を受けた。

その日二人は軍施設で射撃訓練を行い、その帰りにカフェに立ち寄ったのだった。道行く人を眺めながらテラスでビールを飲んでいると、しばらくもじもじしていたミッターマイヤーが思い切ったように親友に打ち明けたのだった。

ロイエンタールは胸をとどろかせながら、親友から婚約の報告を打ち明けられることなど日常茶飯事であるかのように、聞いた。

「そうか。いつおまえのフロイラインに申し込んだのだ?」

「昨日。突然だって分かってるけど、この機会を逃したら次にエヴァに会えるのはいつになるか分からないだろう」

ロイエンタールは頷いた。二人は次の任地への辞令が下るのを待っているところだった。ひとたび辞令が出ればすぐにオーディンを立たねばならない。一度任地へ旅立ったらいつ帰って来るか、しがない少佐の身では予想などつかない。

いきなりミッターマイヤーは興奮した様子でしゃべりだした。

「ロイエンタール、分かってるんだ。いったい俺はいつエヴァに告白するつもりだ、ふがいない男だと思ってただろう。俺だって自分のことをそう思ってた。ずっとオーディンを離れて直接会えないことが免罪符になってたんだ。でも、今度ようやっと帰って来れて、俺ももう24だし、少佐になってそこそこ収入も当てになるようになったし…」

親友が黙りこくっていることに気づかず、ミッターマイヤーは久しぶりに会ったエヴァンゼリンが記憶以上に綺麗だったこと、直接目の前にして彼女の声を聞いて、その声があまりに優しくて胸が苦しくなったことなどを楽しげに話し続けた。

「それで、いつ結婚するんだ?」

ミッターマイヤーの言葉を遮ってロイエンタールが言った。親友の言葉を聞いてミッターマイヤーはくすくすと笑った。あの武勇優れた、剛毅なミッターマイヤーがくすくすと腑抜けのように笑うところなど、今まで見たことがなかった。

「明日にもすぐ結婚したいところだがな。でもエヴァはまだ19だし、しばらく婚約期間を設けてからでもいいかと思うんだ」

少し恋人同士の気分を味わわせて欲しいと思っても罰当たりではないだろう、と再びくすくす笑いながら言った。

「そうか、ではしばらくは今まで通りか」

ロイエンタールはミッターマイヤーの言葉に内心ほっとしたことを押し隠して言った。

「いいや、今まで通りとはいかないだろうな。ロイエンタール、俺は婚約者がいるんだ。寂しい独り者のおまえとはもう違うんだ」

後頭部で手を組んでミッターマイヤーは夢見るような瞳で空を見上げた。ミッターマイヤーの言葉も気に入らなかったが、親友が自分を見ていないことにもロイエンタールはむっとした。

「昨日婚約したばかりというのにもう今からそれか。既婚者の独身者に対する根拠なき優越感には恐れ入る。ミッターマイヤー、おまえがまさかそんな軽薄な態度をとるとは思ってもみなかった」

ミッターマイヤーは青空に描いたエヴァの笑顔から隣に座る親友に視線を戻した。相手の冷笑交じりの皮肉な言葉を聞いてもなお、その満足げな笑顔は失われることはなかった。

「なんとでも言えよ。ロイエンタール、おまえも結婚しろよ。そうすればおまえにも分かるよ。俺にはエヴァがいる、そのことだけですべてがうまくいく気がするし、エヴァがいてようやく俺は完璧になれるんだと分かった」

―おれのことは?

ロイエンタールは口から出かかった言葉を飲み込んだ。ミッターマイヤーとの間に築かれた友情により、自分が感じている充足感が一方通行のものだったような気がしてきた。真実はそうではないことは分かっている。ミッターマイヤーも自分との友誼を軽んじているわけではない。だが…。

「そうか、ではおれにはおまえのエヴァのような女がいなくてよかった。おれは完璧には程遠いが、女がいたところでおれに何らかの益をもたらすとは思えんからな」

「違うよ、ロイエンタール。女性との仲は利益や何か得するというようなものではなく…」

「おれに女について講義するつもりか、ミッターマイヤー。やめておけ。おまえが知っているのはただの女の子だ」

眉をひそめてミッターマイヤーは親友の色違いの瞳を見つめた。

「俺には世界中で女性はエヴァンゼリン一人で十分だ。エヴァは世界でただ一人の女性で、エヴァこそ俺にとっての女性なんだ」

ビールのグラスを右手で弄びつつ、ロイエンタールは鼻で笑った。

「その女の子はおまえをベッドで一人前にしてくれたわけか」

「おい! エヴァについてそういう言葉を吐くことはいくらおまえでも許さんぞ!」

「おれは怒るようなことを言ったか? 女なら誰でも出来ることだ。おまえのエヴァンゼリンとて例外ではないだろう。それともまだ試していないのか」

テーブルをバン!! と叩いてミッターマイヤーが立ち上がった。

「いい加減にしろよ! ロイエンタール!!」

「おれは言いたいことを言うさ! おまえの女だからってなぜ遠慮する必要がある?」

嘲笑うロイエンタールの喉元のシャツを両手でわしづかみにし、ミッターマイヤーは捻り上げようとした。その万力のような手から逃れようともせず、ロイエンタールはミッターマイヤーの胸をドンと拳で小突いた。

「よせ。おまえと女のことで喧嘩するつもりはない。しかもその女はおれとは何の関係もない」

ミッターマイヤーはしぶしぶロイエンタールから手を外した。澄まして襟元を直す親友を見て、首を振って言った。

「関係ないはずないだろう。俺の妻になる人なんだよ、ロイエンタール…」

「関係ないさ」

ロイエンタールはビール代と思しき帝国マルクをテーブルに置くと、椅子から立ち上がった。

「おい、帰るのか」

「ああ。ミッターマイヤー少佐は婚約者のことで頭が一杯なようだからな。おれは退散する。一人で思う存分楽しんでくれ」

その言葉が親友を傷つけたのが分かった。どことなく寂しそうなミッターマイヤーの表情に罪悪感を覚えつつ、ロイエンタールは背を向けた。

テーブルに一人座ったままのミッターマイヤーのつぶやきは雑踏に紛れてロイエンタールには聞こえなかった。

「親友の幸運を少しは喜んでくれてもいいだろう…」

俺のエヴァはおまえの嫌いな世間一般の女とは違うんだ。俺が好きな女はおまえにとっても特別であってほしいんだ。

 

ロイエンタールはまっすぐな視線を少し上向けて、規律的な軍人らしいいつもの歩き方でミッターマイヤーといたカフェから早足で遠ざかった。ミッターマイヤーに対する腹立たしさと、それを露わにした自分を恥じる気持ちが彼の歩みを早めていた。

―馬鹿なやつ、ミッターマイヤー。女なんかに、しかもあんな子供に囚われて…。昨日、おれの方は親父の墓参りをしていたというのに、あいつは女の子にプロポーズをしていただと?

彼が亡き父親の墓参りに行かなくてはならなくなったことは、ミッターマイヤーが婚約したこととは全く関係ない。だが理不尽だと分かっていても、ミッターマイヤーに対する恨みのような気持ちが、ロイエンタールの胸を重くさせていた。

彼とミッターマイヤーは、永遠に誰にも阻まれることのない親友同士でいられるものと迂闊にも思い込んでいたことに気づいた。ミッターマイヤーが幼馴染のあの少女に深い愛情を抱いていることは知っていた。だが、彼がその愛を告白し、首尾よく婚約出来るとは思っていなかったのだ。

少なくともそれはいつになるか分からない、将来のことのように思っていた。

ミッターマイヤーがエヴァンゼリンのために薔薇の花を購入していた時、ロイエンタールはロイエンタール一族の墓の前にいた。2年前に亡くなった父のために墓に詣でる気はなかった。決して近寄るまいと思っていた。だが、彼とは違う考えを持つ者がいたのだ。

「旦那様、当家の墓守の老ゴットヘルフが先ごろ引退いたしました」

ロイエンタール家の執事、ボイムラーが当主に告げたのだった。

主がさすがに戸惑う風であるのを見て、執事は説明した。

「ゴットヘルフは長年当家の墓所を守ってまいりましたが、足腰を悪くしまして、また老齢のせいもあり墓守の仕事を息子に譲りました。つきましては息子をご紹介がてら、旦那様にお目にかかりたいと申しております」

それで決まりだった。

ここ数日、叔母コルネリアの夫であるアンシュッツと事務弁護士とともに、遺産処理のため膨大な書類の相手をさせられていたロイエンタールであった。その過程で亡き父が執事を筆頭とする自分に仕えた人々、―秘書や下男、家政婦や家女中、運転手や庭師に至るまできめ細やかに贈与の遺言を残していたことが分かった。その中には墓守父子の名もあったのだ。父は生前から幅広い階層の人々と付き合いがあった。使用人も例外ではなく、引退した者の面倒もよく見ていた。それは息子のオスカーが知らない父の一面だった。

ある人にとっては父が慈悲深い良き人間だったとしても、彼の父に対する評価は変わりはしない。外面がいいだけの人でなし―。だが、父がそのように人々を遇してきたのであるなら、オスカーとしてもそのやり方を無視することは出来なかった。

ことは彼一人の問題ではなく、ロイエンタール家が面倒を見ている人々すべてにかかわっていた。

ロイエンタールは墓所のすぐ近くに住む墓守父子の家を訪れ、老人を見舞い息子をねぎらった。手続きが遅れたことを詫びつつ、恩着せがましくならぬよういささか苦心して、亡き父の遺言を告げ贈与の品と金銭を渡した。

涙ながらに亡き父の思い出を語り、跡継ぎたる若き現当主に感謝の言葉を述べる老人を振り切り、墓所を訪れた時は、むしろほっとしていた。

墓所は何世代も前に建てられたもので、質素ではあるが地上車一台くらいは入りそうな巨大な建造物だった。ところどころに彫刻がある他は、隣接する他家のようなけばけばしい装飾などはなかった。ロイエンタール家は創設当時から武を旨とした質実剛健たる家柄だった。だが、それは時代を経て毎日の暮らしに汲々たる小役人の家になり果てた。それを財力に物を言わせて、誇り高く華麗な貴族の家に変えたのがオスカーの父だったのだ。

子供の時、おそらく母の葬儀に参列した時以来、この墓に来たことはなかった。だが、この石造りの建造物の静かなたたずまいは、ロイエンタールの好みに合った。

―先祖にもまともな感覚の者がいたのだな。

父が建てたとしたら、ごてごてした飾りと金箔でいっぱいになったかもしれない。

しばらく正面の石造りをじっと眺めた後、少し裏にまわって様子を見てみる。墓所の裏手には一本の木が植えられて、気持ちのいい木陰を提供していた。墓守のゴットヘルフの行き届いた手入れのお蔭か、裏側に至るまできっちりと清められていた。

もう一度正面に戻ってくると、そこに男が立っていた。

 

その人物はフェザーン風に背広にネクタイを着用した黒髪の40代半ばくらいの男で、がっちりとした体の前に手を揃えてじっと墓石を見ていた。こちらの気配に気づいたのかふと顔を上げ、オスカーの方を見て明らかにぎょっとした。

オスカーも一瞬その男の顔に亡き父に似たものを見つけ、心臓が鼓動を一つ踏み外した。

二人は互いにじっと相手の顔を見つめ合った。

やがて、男の方が先に気づいてオスカーに近づいた。

「君はロイエンタール家のオスカーではないかな? 彼女に…君の母上によく似ている」

オスカーは苦笑した。いつになったらあの女の亡霊から逃れられるのか?

「そういうあなたもまさしく、ロイエンタール家の係累に違いない。父や叔母によく似た顔立ちをしておいでなので」

男は頷いて右手を差し出した。

「私はヘルマン・アルトマン、君のお父上とは母方の従弟にあたる。遅ればせながら、お父上がお亡くなりになったこと、お悔やみを申し上げる。昨年までフェザーンにいたため葬儀に出席できず本当に残念だった…」

「私も出席していません」

オスカーは相手の手を取って握手をした。肉厚で胼胝のあるがっしりした手が自分の細く白い手を握る。忌々しいが父とよく似た手だった。

アルトマンは握手したまま、オスカーの軍服を眺めた。

「軍人であれば親の葬儀に間に合わぬというのも仕方がないことだ。君は…確か少佐になられたのだったかな。まだ随分お若いのにすでに少佐とはすばらしい。さすがは父上のお子だな」

明らかなお世辞に礼を言うのも馬鹿げているので、オスカーはただ頷いた。アルトマンは握っていた手を放した。どちらも互いに次に話すべき言葉が見つからず、居心地の悪い沈黙が落ちた。

その時、静寂を破って墓地に相応しからぬ端末の呼び出し音が鳴った。アルトマンの懐から鳴り響いている。

相手は少し赤くなって、「失礼」と言って端末を操作しビジフォンに出た。

「…ああ、そうだ…、ああ。…なに予定では…。そうか、分かった仕方ない。すぐ店に戻る」

アルトマンはビジフォンを切るとオスカーの方へ振り返った。

「失礼。私はある店の支配人をしていてね。今日の遅くにご予約いただいていたさるご婦人が、気まぐれにたった今店にお出でになったと連絡があって。どこかでコーヒーでも飲みながら、君とゆっくり話が出来ればと思ったのだが」

親戚付き合いは面倒だと思ったが、オスカーは黙って目礼した。アルトマンも頷いて再び握手の手を差し出した。

「そういえばパーティーにご招待いただきありがとう。ぜひ、娘たちを連れて出席させていただく。その時また話が出来れば嬉しいね。パーティーなどではゆっくり話も出来ぬかもしれないが…」

オスカーは眉をひそめつつ相手の握手に答えた。

「…パーティー?」

「そう、君の無事帰還の祝いとロイエンタール家を継いだお披露目だそうだね。ロイエンタール家の一族が集まることなど、お父上が病を得てからは近年例のないことだ。また君に会えることを楽しみにしているよ」

曖昧に頷くオスカーにアルトマンも頷き返して、青年の肩を叩いてからその場を去った。その去り際の後姿もがっしりと広い肩幅で亡き父とどことなく似ていた。

 

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