Season of Mackerel Sky
前奏曲
16、
ロイエンタールはひどく疲れていた。
何もかも忘れて永遠に眠ってしまいたい―。だが、彼はいずれ起きなくてはならないのだ。出来るだけそれがずっと後のことであれば…。
ロイエンタールは肩を揺すられて少し目覚めた。
「よほど疲れているようだな。眠るのであればベッドへ行きなさい」
低い声が彼の耳元で囁いた。
「いや、起きる―、起きるよ、ヘルマン」
「そうかい?」
だが、どうしても目が開かずに重い身体を柔らかなソファに沈み込ませた。
ふと、首元に違和感を覚えて目を開ける。目の前にアルトマンが座っているのが見え、その向こうに壁に掛かった時計が見えた。まだそれほど遅くない。
また眠りにつこうとして、首元に妙な重さを感じ、はっきり目が覚めた。
「なんだこれは…」
「良く似合ってるよ」
首に手をやると何か金属が引っ掛かり、カチャカチャと音を立てた。アルトマンがくすくすと笑って鏡を見せた。
「なんだこれは!」
アルトマンが大きな声で楽しそうに笑い出した。
「すまん、すまない。すぐ外すよ。ああ、無理に引っ張ると皮膚を傷つけるよ」
鏡に映ったのは金の糸と宝石を連ねたような大振りなネックレスだった。当然、デコルテを大きく晒したドレスに似合うような女物だ。アルトマンがロイエンタールの首の後ろに手をまわして、金具を外し、身体の前に掲げて見せた。
かなり派手なデザインで、金の細い鎖の連なりと色とりどりの模造石が鮮やかだった。これが似合う女はおそらく大振りではっきりした目鼻立ちに、白い曇りのない肌が必要になるだろう。
「君の首は長くて細そうに見えたんだが、やはり男だな。意外に首の辺りの筋肉もがっしりして逞しい。縦に3つホックがあるんだが、一番上しか掛けられなかった」
「…当たり前だ。趣味が悪いな、ヘルマン」
相変わらずくすくす笑いながら「悪かったよ」と言いつつ、ネックレスを手元のケースにしまった。
「これは細工師として老ウェレンマイスターに弟子入りした私が、初めてデザインしたネックレスなんだ。最近の流行からすると少々大仰なデザインだ。うちの娘たちはプリミティブでいいとか言ってなぐさめてくれるけどね」
その娘たちは祖父の家に滞在していて留守だった。そうでなければロイエンタールは彼の家に来なかっただろうが。
「売れないほどまずいようにも思えないが」
アルトマンはロイエンタールの言葉をお世辞と受け取ったようだった。
「ありがとう。金細工そのものは悪くないので、欲しいと言ってくれる顧客はいるけどね。これはある人に差し上げるつもりでとうとう渡しそびれてしまったものなのだ。だから、こうして記念に取ってある」
「ある人…?」
何か予感がして、ロイエンタールはさっと顔を上げた。
「そう、レオノラ、君のお母さんに。だが、彼女は最初のデッサンを確認しただけで、これが出来上がる前に体調を崩してしまった。その後はもう、彼女はパーティーには行かなくなった」
ケースの中を見つめて、アルトマンはため息をついた。黙り込んでしまったロイエンタールの様子をよそに、ケースの蓋をしっかり閉じた。
「将来、君の奥さんになる人にこれを身に着けてもらえると嬉しいのだが…。君のお母さんが花嫁に贈り物をするようにね。もちろん、少々今風のデザインに変える必要があるな。どう思う?」
まともに答える気にもなれず、ロイエンタールはソファに再び沈み込んだ。
「さあね…」
再び眠り込んでしまいそうなロイエンタールに、アルトマンがかがみこみ、その額に唇を押し付けた。
「君、私を放って寝てしまうつもりか? こうやって、君が嫌がることまでして起こそうとしたのに…」
アルトマンの手がシャツの間から忍び込んで裸の胸をさぐった。ロイエンタールはため息をついてその手の上に自分の手を重ねた。
「どうせなら喜びそうなことをしてくれ…」
ゆっくりと彼の背中に手をまわし、その腰を引き寄せる。太ってはいないが中年の男の肉置きががっちりした骨格に積み重なっている。掴み甲斐がある腰だ。
うとうととしながら、自分がすっかり裸になって、胼胝のある大きくてがっしりした手が柔らかい敏感な場所を撫でさするのを感じた。それはとても気持ちが良かった。ロイエンタールはその真綿のような快感の中、再び眠りに引きずり込まれていった。
ロイエンタールは飛び起きた。
激しい鼓動が胸を打ち、冷や汗が体に滲んでいた。また、あの夢を見た。あの女がまた夢の中に現れて、彼の安眠を妨げたのだ。
今度は彼の上に屈みこんで小さなナイフを掲げている、あの女の顔がはっきりと見えた。青い瞳は狂気に血走って、手元は震えているのに手に握ったナイフはしっかりしていた。そうだ、あの時だれも遮るものがいなかったらきっと最後まで目的を達しただろう。目的を達していたらどうなっていただろう。
暗闇の中で目を転じると、そこはアルトマンの私室のベッドの上だった。隣に眠る男の身体の暖かさを感じる。気がつくと首元にまた重さを感じ、小さく舌打ちした。アルトマンの思い出の品。くそ忌々しい馬鹿げたネックレスを自分が眠っている間にまたつけたらしい。ヘルマンは悪い男ではないが、芸術家気質と言うのか感傷が過ぎるのが玉に瑕だ。その感傷が主にロイエンタールの母親に由来しているのも気に食わなかった。
―こいつをつけているせいで、おかしな夢を見たんだろう。
何も羽織らず裸足のままベッドから抜け出した。キャビネットに据え付けられた鏡の前に立ち、首に掛かっているネックレスを見て再び舌打ちした。掛け金を外そうと後ろに手をまわしたがどこがどうなっているか、分からなかった。1つしか掛からないと言っていたが、自分の首をがっちり絞めつけている様子から3つのホックが全部掛かっているように思われた。
―良く似合ってるよ。
馬鹿々々しさを感じながら、鏡に目を近づける。ふと、自分の青い瞳と目が合ってじっと見つめた。
あの女はこんな目をしていたのだろうか。
ぼんやりした明かりが照らす鏡の中に、その細い首に大きなネックレスをした女が浮かび上がった。白くすんなりとした長い首に見合う、幅広の金糸のネットに大胆な意匠の凝らされたネックレス。
白い手が裸の胸を這い上がり、ネックレスの縁に沿って指を走らせた。
テーブルには女主人のために果物を切る小さなナイフ。
ベッドに色違いの不思議な瞳の赤ん坊。
彼女に混乱をもたらした元凶を消し去ってしまえば、また、元のように何も考えずに面白おかしく暮らすことが出来る。片目になった赤ん坊は乳母が面倒を見る。彼女は新しく作らせたネックレスをしてパーティーに行ける。
その柔らかい髪の毛が遊ぶ額を押さえつけて、ちょっとだけ手を動かして、赤ん坊はこんなに小さい、血も大して出ないだろう。
あと少し、少し近づければ―。
白い指がナイフを握り、暗闇の中の黒い瞳をめがけてその切っ先をかざした。ぼんやりと鏡に写る明かりの中に金糸のネックレスをした姿が浮かび上がる。鏡の中の姿を左手で押さえつけ、右手でナイフを握りしめ―。
さあ、今だ! 切りつけてしまえ!!
その時、闇の中から大きな黒い姿が浮かび上がり、白い身体に飛び掛かった。
「やめろ! 何をしているんだ!!」
アルトマンがナイフをかざすロイエンタールの右腕を両腕で押さえ込んだ。鋼の強さで握りこんでいるナイフを、なんとか腕を捻るようにしてこじ開けた。刃物はロイエンタールの指から落ちた。ロイエンタールは鏡に向かっていっぱいに左手を差し伸ばし、押さえ込むアルトマンの腕に逆らった。
「あんたはあそこにいたんだな!! ヘルマン! あの女がおれを刺そうとしたあの時、あそこにいたのはあんただったんだな!!」
「何を言っている! オスカー、君は夢でも見てるのか!? 目を覚ませ」
「あんたはあそこにいたんだ!!」
駄々っ子のように身体を大きく振るってアルトマンの腕から逃れると、ロイエンタールは鏡に背をつけてアルトマンの正面に向き直った。
「赤ん坊のおれにあの女はナイフを向けた! その時、その後ろに影が差した! あれは何だろうと思っていたが、あんただったんだな! あんたはあの女の部屋で何をしていた、言え!」
「なにを…」
「おれは見たんだ! あれはあんただったんだな! あんたは…、あんたは…」
急にロイエンタールは黙り込んだ。じっとアルトマンを見つめて何も言わずに立っていた。
アルトマンは口を開きかけては閉じ、また開きかけては閉じることを繰り返していたが、やがて言葉を発した。
「君がなぜその時のことを知っているか分からないが…。確かに私はレオノラが君に刃物を向けた時、その場にいた。隣の部屋にいて、女中か誰かの悲鳴を聞いて彼女の寝室に駆け付けると、ゆりかごに向かってナイフをかざすレオノラがいたんだ」
ただひたすらじっと彼を見つめるロイエンタールの暗い瞳を見てアルトマンは続けた。
「まるで、今の君にしたみたいに彼女の腕に飛び掛かってナイフをその手からもぎ取った。赤ん坊が泣いていた」
そして気づいて、「君が―」と言った。
ロイエンタールの小さな声が闇の中から聞こえた。
「―なぜ、そうした?」
「私は何が起こったか分からなかった。ただ、赤ん坊が危険だということだけが分かっていた。その直感だけで飛んで行ったんだ」
「赤ん坊があんたのものだったから?」
アルトマンはその言葉が理解できずにロイエンタールを見つめていた。ロイエンタールが言い直した。
「赤ん坊はあんたの種だったのか?」
「赤ん坊は、それは君のことだ…。なにを、オスカー、なにを…、まさか…」
ロイエンタールはほとんど優しいと言えるほどの柔らかな口調で言った。
「まただ、ヘルマン。あんたは肝心な時にはっきり言わない。あんたはあの女と寝たのか? そして黒い瞳の赤ん坊を生ませたのか?」
「君は、まさか私が君の父親だと疑って…? だが、なぜ…、君はそれなら…!」
アルトマンがロイエンタールの肩を鏡に押し付けた。その勢いで、鏡の前に置かれていた小物入れや瓶がガシャンと音を立てて倒れた。
「君は…! そんな疑いを持ちながら、なぜ私とセックスをしたんだ! 私が君を息子と知りながら、君をベッドに引きずり込むような破廉恥な男だと思っていたのか!?」
押さえ込まれた肩に金糸のネックレスが食い込み、皮膚を破った。模造石が首をひっかいて傷を作った。その痛みを感じながらロイエンタールは微笑んだ。
「そもそも、おれがあなたを欲しいと言った時、もし父親だったらそう言って拒絶するかと思ったから」
「あの時―、では最初から…」
ロイエンタールの白い歯が見えて、その口元が歪んだ三日月形に形作られたので彼が笑ったことが分かった。アルトマンは右手を大きく振りかぶり、目の前の白い頬に渾身の力でたたき込んだ。
ロイエンタールは殴られた勢いで後ろに倒れた。
その拍子にキャビネットに後頭部をぶつけた。彼の上には小物入れと瓶がガシャガシャと音を立てて落ちた。