Season of Mackerel Sky
前奏曲
17、
ずきずきと痛む頭を抱えてロイエンタールは目覚めた。こめかみを押さえると頭には包帯が巻いてあった。ゆっくりと視界を巡らせ、閉じたカーテンから日の光が差しているのを確かめた。
もう朝だ―。万全の体調とは言い難いが起きなくては。今日はミッターマイヤーの結婚式がある日だった。披露宴には出席しないと決めていた。だが、顔だけは出すつもりだった。
左の頬に違和感を覚えて触ると、湿布が貼ってあった。さらに首回りがひりひりしていたが、ネックレスはもうしていない。この頭に包帯を巻き、ネックレスを外したのはアルトマンだろう。だが、ベッドにも寝室にも姿がなかった。
今は何時か確かめたかったが、端末がどこにあるか分からなかった。軍服のポケットに入れていただろうか。だが、その軍服にしてからがどこに行ったのか。それに、寝室に時計があったはずだが見当たらない。
寝室に隣り合ったバスルームに入り熱い湯を浴びた。鏡に映る頬は少し赤いようだが湿布のお陰か気になるほどではない。包帯を取り、後頭部の一番痛む個所を確認したが、腫れているだけで切れてはいないようだった。
以前ここに泊まった時、バスルームに小さい時計があったように思ったが、やはり見つけられなかった。
バスローブを羽織ってバスルームから出ると、部屋のカーテンが開けられ、明るい日が差し込んでいた。今度はコーヒーとトーストの皿を乗せたトレイを持ったアルトマンがいた。
「おはよう。気分はどうだい」
ロイエンタールは返事をせずにアルトマンがトレイをベッド脇の小さなテーブルに置くのを眺めた。アルトマンはトレイを置くと、布張りの一人がけソファに座って足を組んだ。
「オスカー、座って。コーヒーを飲みながらでいいから話をしよう」
当然、そうなるだろう。ロイエンタールはベッドに腰を下ろし、コーヒーに手を伸ばした。アルトマンがテーブルから彼にカップを手渡す。いい香りのする熱い飲み物がロイエンタールの喉を潤した。
「私は君の父親ではない。レオノラとは…。彼女は私など相手にもしなかった。彼女にとって、私は崇拝者の一人にすぎなかったんだ。それでも、私は君の父上のお気に入りの従弟としてロイエンタール邸にいつでも出入りすることを許されていた。それで、レオノラも私をお使いを頼むのに手ごろな若者の一人として重宝していた。ただ、それだけだ」
「おれの母親が一人でいる時に会うことを許されたり、マールバッハ家との仲立ちを依頼されたり、信頼されていたのだろう?」
「信頼にもいろいろあるよ」
アルトマンは苦笑して首を振った。
「無害で忠実、そんなところだろう。彼女の寝室のすぐそばにいても誰も咎めなかったのだから。当時の私はその信頼をなんとありがたく思っていたものだったか…。レオノラが実は君の父上を裏切って誰かと会っていたらしいと知って、私にもチャンスがあったのだと分かった時の驚きと言ったら…。自分は全くなんてお人よしだろうと思ったね」
ソファの肘掛けに頬杖をついて、ロイエンタールがコーヒーを飲むのをうつむき加減に眺めながら言った。
「もしかして、私があのネックレスを渡すことが出来たら、私にも彼女の愛を分け与えてくれたかもしれない。その後、どうなったか分からないがね。私は結局、彼女に憧れていただけだったのだから、長続きはしなかっただろう。それでも…」
立ち上がると、アルトマンはソファから離れてキャビネットに近づき、寄り掛かった。輝くような日差しに目を細めながら、窓の外に視線を映す。その足元には壊れた小箱や転がった瓶があり、昨夜のことを思い起こさせた。
「それでも思わずにはいられない。もし、彼女を自分のものにしていたらどうなっていたかと。彼女の微笑みを得るために、なんと多くの男が馬鹿な真似をしたことか…。だが、あの頃はそうするだけの価値があると思っていたものだ」
アルトマンはベッドに座るロイエンタールに歩み寄ると、その頭にそっと手を伸ばした。
「痛むかい? 湿布も包帯も外してしまったのだな。頬は大丈夫なようだ。頭は血は出ていなかったがかなり腫れていて、君はいつまでも目を開けないし…。すまなかった」
アルトマンが痛む個所を触ったので、ロイエンタールは口の中で鋭く息を吸った。
「…あんたはおれの親父がそうだったように、カッとなると手が出るな」
「君が怒らせたんだよ。君は私の最悪の部分を引き出すのが得意だね」
ロイエンタールの頬を撫でていた手がふいに止まった。
「父上は君を殴ったことがあるのか。カッとなって…」
「…父親は息子を好き勝手に殴ってもいいと思っていたのかもな」
ロイエンタールの隣に座って、アルトマンは彼の肩を抱いた。
「私は子供を殴ったりしない。うちの子たちは女の子だが、男の子だとしても…。君が私の子供だったら、君の父上と戦ってでも引き取っただろう。君はレオノラの恋人が父親かもしれないと疑っているのか? だが私が見るに、君は確かに父上のお子だと思う。姿は母親似だが、君は父上にもとてもよく似ているところがある」
ロイエンタールは鼻で笑った。
「あんたもおれの親父によく似ている。特におれを殴った時など本人かと思った。…親父のお決まりの怒鳴り声が聞こえた…」
アルトマンはひるんでロイエンタールの肩から手を離し、ベッドから立ち上った。
「君の父上と悪いところが似ているようだ。すまなかった」
「おれがあんたを試すようなことをしたから。それについてはおれの方こそ謝らなくてはならない。殴られるに値することをしたと思う」
「だが手を上げるなど褒められたことではない」
「ヘルマン、おれはもう子供ではない。だからあんたに殴られたことは自業自得だろう」
再びキャビネットに寄り掛かって、アルトマンはため息をついて言った。
「では、お互いさまということにしておこう」
頷いてロイエンタールもベッドから立ち上がった。
「ヘルマン、おれはもう行かなくては。今日はミッターマイヤーの結婚式があるし、その後、急いで艦に戻らなければならない。いろいろあなたには世話になったし、迷惑もかけてすまなかった」
キャビネットに寄り掛かったまま、アルトマンが寂しげに微笑んだ。
「もう君とはお別れということかな…。それとも、また会えるだろうか」
「会えるとしても、それはいつになるか分からない。数年のうちにオーディンに戻れるかもしれないし、何年も転戦して、その挙句に宇宙の藻屑になるかもしれないな」
「ミッターマイヤー少佐は君と一緒か」
「ありがたいことに、あいつと一緒ならどんな馬鹿げた戦も戦いやすくなる。ヘルマン、軍服はどこにある? クローゼットか?」
アルトマンはキャビネットに向き直って引き出しを開けると、ブラスターを取り出した。帝国軍支給の標準型式で、ロイエンタールが日ごろ携帯している最新式のものとよく似ていた。
その銃口はまっすぐにロイエンタールに向けられた。
ブラスターを右手に掲げて、アルトマンは肩をすくめて笑った。
「ミッターマイヤー少佐か。精悍で信義に篤い、いい若者だ。君の親友に相応しい。パーティーであの無法者と戦った時、君たちは息もぴったりだったね。彼はあの可憐な女の子と今日結婚してしまう。君は笑顔で彼らを祝福して、ミッターマイヤー少佐の素晴らしい親友であることを証明しなくてはならない。かわいそうに」
ロイエンタールはじっと自分に向けられたブラスターの銃口を見ていた。アルトマンは微笑んで言う。
「だが、君には他にも道があるよ。この部屋から出ずに、これからを私にすべて任せてしまうという道だ。まったく君は…」
微笑みは歪んで眉の間に深い溝が刻まれた。
「君はなんと言ったか…。おまえが悪いのではないと言って、欲しいものを与えてやり、肉体的にも物質的にも満足させてやると、勝手に理由をつけて納得して別れてくれる…ということだったな。いやはや、私には何を与えてくれる? オスカー」
ロイエンタールは鼻で笑ってバスローブの袖に包まれた腕を組んだ。
「金でも欲しいのか?」
「金か…。私たちにとって金を作ることほど簡単なことはないと思わないかね。そんな簡単に手に入るものに価値などないことは、君の父上の例を上げるまでもなく、我々は良く知っているはずだ」
アルトマンはブラスターを支える右手が震えているのに気付いて眉をひそめ、左手を右手に添えて言った。
「私たちはさっき、お互い悪いところがあったと了解しあったね。君の身体は実際、惜しげもなく私に与えられた。それが素晴らしいものだということは保証する。だから、あと一つ、私に少しでもいいから分けて欲しい」
震えの見える腕をまっすぐに突き出してロイエンタールに言った。
「オスカー、君の心を少しだけでいいから私に与えてくれ。君のすべてがミッターマイヤー少佐のものであっても、残りのほんのわずかでいいから、私に分けて欲しい」
「…そんなことは出来ないと言ったら?」
「少なくとも、君の肉体だけは私の手元にすべて残る」
キャビネットから背を離して少し身を乗り出したアルトマンに、ロイエンタールは静かに言った。
「ヘルマン、ブラスターの銃口などおれには脅威とも思わない。あんたが撃つ前にその手からそいつを奪う自信がある」
アルトマンは苦笑して、パーティーの夜のロイエンタールの剣技を思い起こした。
「なるほど、君ならできそうだ」
ロイエンタールは自分の言葉を証明するようにアルトマンに近づいた。
「それに、ヘルマン、一つ言っておきたいことがある」
「…なにかな」
「安全装置が掛かったままだ。それでは撃てない」
「えっ」
思わずアルトマンは自分の手元を覗きこんだ。
「ヘルマン!!」
ロイエンタールはひと声叫び、アルトマンの手元に文字通り飛び掛かると、やすやすとその手からブラスターを奪った。
「撃鉄に指を掛けたまま、銃口を覗きこむな! 暴発して自分の頭を吹き飛ばすぞ。初歩中の初歩だ」
今まで聞いたことがないほど厳しく耳を圧するロイエンタールの声に、アルトマンは心臓を轟かせて間近に立つ相手を見た。
「だが、安全装置が掛かっていれば…」
ロイエンタールはブラスターを確認して安全装置を掛けると、バスローブのポケットにしまった。
「いいや、ちゃんと外れていた。危なかったな、ヘルマン」
アルトマンは唖然としてロイエンタールの顔を見ていたが、やがて小さく笑いながらソファの背にくずおれた。
「はったりか…! だが、安全装置が掛かっていようが外れていようが、私はどっちとも分からなかった。君を撃つ気なんてなかったんだ…。そんなもんだよ、私など…」
ソファに身体を預けて、緊張が解けたせいで溢れ出る笑いを抑えられずに言った。
「レオノラの時と同じ、思い切ったことなどできやしない。ただ、君がずっと私の元に残ってくれたら…、そんな考えをもてあそぶだけだ…。君を失うことを納得するなど嘘だ…。君の恋人たちは納得したふりをしただけだ…。私には分かる…」
目元を覆ってソファにもたれるアルトマンに近づいて、ロイエンタールはその肩に手を置いた。
「さっき、あんたに与えられる信頼にはなんの価値もないようなことを言っていたな。だがおれはこの間も昨夜もあんたのベッドで…、あんたの隣でぐっすり眠ることが出来た。あんたを信頼していたんだ、ヘルマン」
「…それはありがたいね」
眉をひそめてロイエンタールはアルトマンの肩に置いていた手を離した。
「皮肉を言われるのは嫌いだ」
「すまない、悪かったよ。君の信頼か…。確かに軽々しく扱っていいものではないだろうな。私が欲しいものとは違うが…」
アルトマンは立ち上がって自分から離れてしまった手を急いで取り戻すと、ロイエンタールの腰に手をまわした。彼の背中を引き寄せ、その頬に唇を滑らせて拒絶されないと分かると、ロイエンタールの口に唇を押し付けた。しばらくその唇と舌の甘さを確認するようにゆっくりと味わっていたが、やがて離れた。
アルトマンはブラスターを隠していたのと同じキャビネットの引き出しを開けて、ロイエンタールの端末を取り出した。ついでにそこから各所から外した時計を取り出す。
「せめて時間を忘れて、少しでも長くここにいて欲しいと思って。女々しいやり口だとは思ったが、どうしようもない」
自嘲しながらアルトマンは端末をロイエンタールに返した。ロイエンタールは端末に示された時刻を見てさすがにぎょっとした。時間がない…!
ロイエンタールは急いでバスローブを脱ぎ捨てて裸になった。
「ヘルマン! おれの軍服は? 今すぐ出なくては間に合わなくなる!!」
悲しそうな表情を湛えたアルトマンがロイエンタールを見返した。この部屋から出ることを納得してはいないのだろうか。ロイエンタールは焦りを感じ始めた。
「彼女と約束したんだ! おれに彼女の信頼を裏切るようなことをさせないでくれ!」
「彼女? 誰だ?」
必死と言えそうな表情でロイエンタールが言い返した。
「エヴァンゼリン!!」
アルトマンは笑い出した。ミッターマイヤー少佐のためではなく、その花嫁の信頼のために…? 彼は何て不器用なのだろう…!! 彼の愛情を捧げる相手のためではなく、その愛の対象を奪った相手の信頼の裏切りたくないとは、なんと複雑な感情の持ち主だろうか…。
「ヘルマン!! もう一度ここへ来るから…」
「オスカー、そう言ってくれてとても嬉しいよ。だが、君は忙しい身だ。無理しないでくれ」
アルトマンはロイエンタールの焦燥をその声に聞いて、鷹揚に答えた。彼に懇願までさせては鷹揚にならざるを得なかった。しかも、アルトマンには後ろ暗いところがあるのだ。
「オスカー、本当にすまない。軍服は捨ててしまった。まったくヒステリー女じみているが、あの時は絶対に二度と君をここから出すまいと思っていたんだ…」
栄えある帝国軍少佐の軍服ひと揃えが、46階建て高層マンションのダストシュートを滑り降り、生ゴミとネズミと一緒くたになっている様子が、ロイエンタールの脳裏に浮かび上がった。