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前奏曲

15、

 

翌朝のロイエンタール邸は常と違って朝が遅かった。執事や従僕、女中たちはあくびをしながら、かろうじて他家から笑われぬ程度には遅くならずに起きてきた。いずれ主人が出立した後は、パーティーに奔走した彼らは順番に休暇を取ることになっている。
ロイエンタールは前夜―といってもすでに朝の3時になっていたが―、部下たちはその日の午後から任務に戻ればよいと副長に伝えた。ディッタースドルフはにやりとして礼を言って頷いた。
「みんな艦長のお気持ちをありがたく思うでしょうが、戦場でのことを思えば、本当に昼から出てくる奴がいたら私はそいつのケツをひっぱたきますよ」
ディッタースドルフが艦長に向かってぶしつけにも『ケツ』と言った時、口の中で噴き出したのは無視し、ロイエンタールは首を振った。
「いいや、彼らはもう5…、4日後には出立するのだ。自分の持ち場に出ることを禁じはせぬが、あくまでも無理をするなと伝えろ。卿もだ」
ディッタースドルフは「ありがとうございます」と言うと、再びにやりとした。
「艦長もどうか、今日はゆっくりおいでください。1300からお仕事に取り掛かれるように準備しておきます。その前にいらしても邪魔になるだけですよ」
艦長はきっと朝早いうちに艦に戻るつもりに違いない。そのことをディッタースドルフは半ば確信していた。
ロイエンタールはじっと副長の顔を見つめた。以前と同様の人を舐めきった態度だが、それまでとは何かが違っていた。副長と自分との間にあった見えない垣根が、あちらから取り外されたように思われた。ロイエンタールとしても部下に自分を信頼してほしいと思っている。戦場では一人の不信感が全軍を崩壊させることもあるのだから、これほど恐ろしいものはない。だが、たかが喧嘩の仕方を気に入ったからと言って、これほど人の気の持ちようが変わろうとは、軍人としての知略に少々の自信がある彼としては忸怩たる思いがある。
―しかし、本当に互いの真価を知ることになるのはやはり、宇宙に出てからのことだ。まずは一歩進むことが出来たということにしておくか。
ロイエンタールは朝一番とはいかずとも、9時には艦に向かおうと思っていた。ところが、目が覚めてみるとすでに10時を回っており、さすがに慌てて起きた。自室の中はカーテンを閉め切ったままで、廊下もしんと静まって朝の活気はなく、どうやら執事が主人を起こさないようにと手配したものらしい。実際に、執事はディッタースドルフと相談して、なるべく長くロイエンタールが睡眠をとれるようにしたのだった。
シャワーを浴びて気分をしゃっきりとさせ、軍服を着て遅い朝食を食べると、ようやく目が覚めた。少々疲れてはいたが、昨夜パーティーを済ませることが出来て、これで肩の荷が下りたと思った。
ところが、それは時期尚早だった。目の下に隈を作りながらも、にこやかな執事が食堂に現れて言った。
「旦那様、フロイライン・エヴァンゼリンがおいででございます」

 

エヴァンゼリンはそわそわとスカートの裾を直しかけて、落ち着かない自分をたしなめた。客間は明るく日が差して心地よい空間で、先ほどお茶を持って現れた執事の朗らかさと考え併せても、婚約者の親友を訪れた自分の行動に不安を感じる理由はないはずだった。
だが、しばらくしてロイエンタールが現れた時、彼女のその確信はすっかり消えてしまった。
「おはようございます。突然お邪魔しまして申し訳ございません」
ロイエンタールはちらと彼女の顔を見て、頷いた。
「…おはようございます。どうぞ、おかけください」
彼の声は小さくて呟くようで、エヴァンゼリンは意気消沈してソファに腰掛けた。ロイエンタールは昨夜と違って冷ややかで、取り付く島もないように見えた。彼はだいぶ疲れているようだった。自分たちは昨夜1時ごろに退出したが、彼は屋敷の主人としてもっと遅くまで客の対応をしていたのかもしれない。彼女としては11時ならもう早すぎない時間だと思ったのだ。だが、どうやらそうではなかったらしい。
「あの…、お疲れでしょうに、早い時間に突然お邪魔しまして申し訳ございません」
「…いえ」
最初の挨拶で同じように謝罪を口にしていたことに気づき、エヴァンゼリンは唇をかんだ。思い浮かんだ言葉をそのまま口にしてしまったのだ。それは彼女の率直さの現れだったが、この場では自分が洗練されない子供じみた存在に感じた。
ロイエンタールは彼女を見つめるだけで、何も言わない。
ウォルフの思い出話をしたいと思っていた、彼女の昨夜からの思いは小さくしぼんでいった。もうこの上は早く用事を済ませて帰ってしまうしかない。それはとても残念ではあったが、彼女の勇気にも限界があった。
エヴァンゼリンはソファの隣に置いていた袋から大きめの四角い箱と紙袋を取り出した。
「あのう…、お口に合うか分かりませんけれど、トルテとクッキーを焼きましたの。あのう…」、エヴァンゼリンはそれ以上、同じ言葉を繰り返さないように唇を引き締めた。「昨夜のお礼と言ってはささやかなものですけど、どうぞお召し上がりください」
白い箱と可愛い絵柄の紙袋をソファの前のコーヒーテーブルに置くと、膝の上で手を握り合わせ、この後どのように帰りの挨拶を言うべきか考えた。
「…あなたは」
かすれた声で言いかけて、ロイエンタールが大きな咳払いをした。
「これを、私のところへ持ってくるために、今朝ご自分で作られたのですか」
今度はしっかりした声で問いかけた。
エヴァンゼリンが顔を上げると、ロイエンタールの目と視線が合った。
「はい、そうです。私、お菓子作りが好きで、いつも作っているんです」
「知っています」
ロイエンタールの瞳に何か生気のようなものが宿った。
彼女は昨夜遅かったにもかかわらず、早起きをして、彼のためにお菓子を焼いたのだ。今朝早起きをするためには、昨夜すでにその計画を立てていたに違いないということが、ロイエンタールにも分かった。
「お気遣い、ありがとう」
ロイエンタールは一言、そう言っただけだったが、その声は力強く響いた。エヴァンゼリンはほっとして、次の用事を片付ける勇気がわいた。
「いえ、ありがとうございます。…あのう、それで、本当はウォルフがお持ちするべきだったのですけど、今日は午前中ゆっくりするはずだったのですけど、艦のほうで何かあったようで、私に預けて飛んで行ってしまいまして…」
「何をお持ちですか」
あまり忍耐強いとは言えないロイエンタールの声が聞こえて、エヴァンゼリンは話の筋道も考えず、自分がだらだらと話し続けていたことに気づいた。
真っ赤になって、エヴァンゼリンはハンドバッグから封筒を取り出した。
「私たちの結婚披露宴の招待状です。時間がないので、ご招待する方たち皆さんに手渡ししているんです。みんなお友達ですし…」
不安を押し隠すために再び言葉が無軌道に溢れ出そうになるのに気づき、エヴァンゼリンは口をつぐんだ。差し出した封筒を受け取る気配が一向にないので、顔を上げると、ロイエンタールが表情のないぼんやりした目で、じっとその封筒を見つめていた。
ミッターマイヤーならば、ロイエンタールの表情にためらいの色を見て取っただろうが、エヴァンゼリンには無関心を表すものにしか見えなかった。
仕方なく、エヴァンゼリンは封筒をテーブルに置いた。
―ぜひいらしてください。私やウォルフの楽しいお友達をたくさんご紹介しますわ。お食事もロイエンタール様がお好きになりそうなおいしいお料理が出ます。私のお友達が勤めるレストランのお料理ですの。ウォルフも私も、あなた様を私たちのお友達に自慢したいんです。私たち二人のとても素敵なお友達ですって…。

唇を開くことは出来なかった。

エヴァンゼリンはゆっくりと立ち上がった。
とたんにロイエンタールも立ち上がった。
それは女性が立てば男は一瞬たりとも座っていることは出来ない、という彼の身体に染みついた礼儀作法だったが、エヴァンゼリンにはまるで自分が帰るのを彼が待ち望んでいたように感じた。
じんわりと彼女の瞼の裏が熱くなり、唇が震えそうになるのを感じた。このお屋敷を出るまでは決して泣くまい。エヴァンゼリンはハンドバッグのハンドルを握りしめた。
俯いたまま、彼女は言った。
「お会いいただき、ありがとうございます。私たち、おいでを心からお待ち申し上げております」
それは彼女の本心だった。彼が自分を歓迎していない、昨夜の親切な態度は彼のジェスチャーに過ぎなかったのだとしても、ウォルフのためにぜひ来てほしかった。
その時、何の脈略もなく昨夜の記憶が蘇った。
―彼は含むところなどない、まっすぐで、すがすがしい気性の男です。
―それが分かるならば、やはりあなたは彼の花嫁に相応しいのでしょう。
そう言ったロイエンタールの表情は生真面目なものだった。
エヴァンゼリンは急に怒りに駆られて、顔を上げた。
ウォルフはきっとこの人の二枚舌に騙されている! 何もかも見せかけだけ! 真心なんてこの人にはどこにもない!
息継ぎも忘れてエヴァンゼリンは彼の色違いの瞳をまっすぐに見つめた。
「私のことをどのようにお思いになっても構いません。だって、私にとってあなたは何でもない他人なんですもの。でも、ウォルフを傷つけるようなことだけは決して許さない。あなたが私のウォルフを傷つけたら、私は決してあなたを許しません。いえ…! 私が許しても、その時にはウォルフもあなたがどんなに冷酷で、無情で、ひどい人かきっと理解しているはずです!!」
エヴァンゼリンは涙でいっぱいになった視界の中に、ロイエンタールの真っ青になった顔を見た。
突然、彼女は自分が言い放った言葉が、まったくの根拠のないものだと悟った。
ヒュウっと大きく喘いで、エヴァンゼリンは顔を覆って泣き出した。
「…ご、ごめんなさい! あ、あなたのことを何も知らないくせに…!!」
ロイエンタールはしばらく黙ったまま、彼女が肩を震わせて泣くのを見ていたが、やがて呟くように言った。
「―いいえ、あなたの言う通りです」
エヴァンゼリンは手の中にハンカチが押し込まれるのを感じた。
「私は冷酷で、無情な、ひどい男です。あなたが言う言葉に一つとして間違ったところはありません。私も、もしミッターマイヤーを傷つける者がいたら、その者を一生許さないでしょう」
その言葉にエヴァンゼリンは顔を上げた。ロイエンタールは苦笑を浮かべて彼女を見下ろした。
「そして、あなたが言うとおり、私とあなたは友人同士にはなり得ない。だが、ミッターマイヤーを傷つけないという一点にかけては、あなたにお約束しましょう。だから、安心して帰りなさい。それから言っておくが、結婚前の女性が独身の男の家に一人で訪れるのはタブーです」、彼は自分に呆れたように天井に目を向けた。「どうやらそのタブーも数日のうちに無関係になりそうだが」
少し、昨夜の親切で紳士的なロイエンタール少佐の姿が立ち戻ってきたようだった。
エヴァンゼリンはいい香りのする少佐のハンカチで涙を拭いた。分厚いハンカチは貴族的というより、むしろ軍人らしさを感じさせた。自分もウォルフにこういうしっかりした布地のハンカチを用意してあげよう、とエヴァンゼリンはぼんやりと考えた。
エヴァンゼリンはハンカチを持ち主に返した。ロイエンタールも黙って軍服のポケットに収めた。持って行けとは言わなかった。そうすることは二人の間に何かの絆を残すことになるからだと分かった。
ため息をついてエヴァンゼリンは握手の手を差し出した。
「ロイエンタール様、それでも私はいつかあなた様とお友達になりたいと思います。私はいつでも、あなた様が私をお友達として訪れてくださるのをお待ちしています」
「ミッターマイヤーがいない時に?」
そう言ったロイエンタールの声は、少し滑らかで艶やかすぎるように聞こえた。
「ウォルフがいない時、いる時、いつでも。どんな時でも歓迎します」
差し出された手にロイエンタールの唇が落された。手が離され、エヴァンゼリンは甲に押された彼の唇の後をふき取りたいのを我慢して、頭を高く上げて扉に向かった。彼のこういったふざけた態度は何かの韜晦だと気づいたから、不快とは思わなかった。だが、彼女は彼の率直さをいつか感じることが出来るのだろうかと思った。
―だけど、この方から率直さを引き出すには、さっきのような大きな力が必要なのだわ。私には荷が重すぎる。それをするのはきっとこの方の奥様になる方。その方に早く現れて欲しいわ。
自分の立ち去る背中を見つめる視線を強く感じつつ、エヴァンゼリンはまっすぐな姿勢を保ったまま部屋を出ると、彼を中に残したまま扉を閉めた。とたんに廊下に立つ、フラウ・アンシュッツの姿に気づいた。夫人はニコニコしてエヴァンゼリンを見ていた。
「ありがとう。あの子をまともに扱ってくださって」
エヴァンゼリンはハンドバッグを抱きしめて激しく首を振った。また涙が溢れそうに感じた。
「ねえ、こちらでお茶を飲みましょう。結婚式の話を聞かせてほしいの」
夫人は温かいふくよかな手でエヴァンゼリンの肩を抱くと、屋敷のキッチンへと連れていった。

 

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