Season of Mackerel Sky
前奏曲
13、
ロイエンタールはシャンパンのボトルとグラスを片手に、一人庭の東屋に向かった。少し離れた屋敷からは明かりがさして、賑やかな話し声が聞こえる。エヴァンゼリンの言葉に従って、彼は従姉妹の全員と踊った。5人とは一人1曲踊り、残りの3人はカドリールで大騒ぎのうちにとっかえひっかえ踊った。この3人はアルトマンの下の娘を含む従姉妹の中でも年齢の低い娘たちで、この若い従姉妹たちと踊るにあたって部下の士官たちを巻き込んだ。彼女たちは大はしゃぎで士官たちの手を取って、ステップもリズムも何が何やら分からぬうちにころころと笑い転げて終わった。
ダンスの曲はその後、静かなワルツに代わった。優雅な曲に合わせて少し薄暗くなった照明のおかげで、―こんなロマンチックな演出まで計画して叔母には恐れ入る―、ようやくロイエンタールはこうして抜け出すことが出来たのだった。
恐らく、ミッターマイヤーとエヴァンゼリンは仲良くワルツを踊って、周りの客たちにため息をつかせていることだろう。ところが彼ら二人はいろいろな思惑が混じった周囲の視線など気づかずにいるのだ。
ワルツの始まりの音を聞いて、ミッターマイヤーとエヴァンゼリンはそっと見つめ合い、何も言わずに互いの手を取った。そして、二人は視線を逸らしもせずにフロアに出て行った―。その自然な流れを眺めて、自分は焦りも怒りも感じず、ただ二人の後姿を見送ったのだった。
ミッターマイヤーのすべてがただひたすらにエヴァンゼリンに注がれている様子を見て、自分は怒ってもいいはずだった。だが、二人に対して怒りは感じなかった。ただ、ミッターマイヤーを失ったことに対する少しの悲しみと、恐らく二人は一生離れることはないだろうという諦念を感じた。
彼はエヴァンゼリンの中に、その華奢な骨格や優しい微笑みとは裏腹に、まるで大木のように大地にどっしりと根を下ろしたようなゆるぎなさを感じた。彼女には軽薄なところも、薄情なところもない。まことにしっかりした娘だった。それはロイエンタールの知らないタイプの娘で、彼は他に彼女を形容する言葉を知らないと思った。
彼女を認めたくはない。だが、ミッターマイヤーを考える時、今やそのそばに彼女の存在があり、もう二人を離して考えることは出来そうもなかった。
何を戸惑うことがある? 初めから分かっていたはずだ。ミッターマイヤーに関して、自分が望むようにはならないだろうということは。
―いいや、今まで通りとはいかないだろうな。ロイエンタール、俺は婚約者がいるんだ。寂しい独り者のおまえとはもう違うんだ…。
今、自分がいる場所は、とても寒く、孤独だった。だが、それはなじみがある孤独で、結局はミッターマイヤーがいなかったころと同じ場所に立ち戻っただけ。いや、少なくともミッターマイヤーがいるということを知っているだけでもあの頃とは違うのだろうか。
それではミッターマイヤーを知らないままの方が良かったか? 答えは否だった。自分が得ることが出来るのは彼の陰に過ぎないとしても、もう何も知らなかったころには戻れないのだと分かっていた。それはロイエンタールでさえも余りに耐えがたいことだった。あの頃のように無力で希望などない自分にはもう戻りたくない。
静かな足音がして、月明かりが差す木々の間から人影が近づいてきた。その足音さえ心に刻むほど知っていなければ、それをミッターマイヤーの訪れかと期待したところだ。
だがそれはヘルマン・アルトマンの足音で、東屋の石のベンチに腰掛けているロイエンタールを見つけて彼はにっこりした。
「今夜の主役がこんなところに隠れていたか。そのうち誰かが捜索隊を結成するだろうな」
「その誰かが来るまではここにいる」
アルトマンは小さく笑うと、そっと手を伸ばした。まるで暗がりの中、手探りでその唇までたどろうとするかのように、ロイエンタールの頬に指を走らせ、顔を近づけた。ゆっくりと、その少しアルコールの香りがする舌と唇をロイエンタールは味わった。
余りに人肌恋しく、心が冷える様な寂しさを感じていたから、もしもうパーティーが終わる時刻だったら、このままアルトマンを自分の部屋に引き込んでしまいそうだと思った。
だが、まだパーティーは終わりそうもなく、しかも屋敷中に他人がうろうろしていて、それに彼は年若い娘を二人も連れている。
ロイエンタールはアルトマンの腕の中から、そっと自分を引きはがした。
「あなたの娘たちが舞踏室からここを見たら、父親が何をしているか知ってびっくりするだろう」
「大丈夫、ここはあそこからは見えそうで見えないんだ」
確信があるような言い方に、ロイエンタールは目を細めてアルトマンを見た。
「…この屋敷に住んでいるのはおれの方なのに、どうしてそうと分かるんだ?」
それには答えずにアルトマンはロイエンタールの額に接吻を一つ落とすと、隣に座った。
「レオノラが言っていたんだ」
彼のその細くともがっしりとした骨格の腰に手をまわしていたから、アルトマンには彼女の息子の身体がビクッとしたのが分かった。
アルトマンの腕を自分の腰からはたきたい思いを押さえ込んで、ロイエンタールは小さな声で聞いた。
「…おれの母親が何を言っていた?」
ロイエンタールの言葉に隠されたものに気づいていないのか、アルトマンはぼんやりと遠くの広間の明かりを見ながら答えた。
「彼女はこの場所が好きだった。よく、ここへ来て一人で座っていた。あの頃はもっと木々は若くてこのように茂っていなかった。まるでこの東屋に隠れているかのような彼女に、きっと広間からは丸見えだろう、と言って私はからかった」
―おばかさん、ヘルマン。あそこに戻ってここを見てごらんなさい。きっと私の姿を見ることは出来ないから。だって、そういう風にあの人が作らせたのよ。
―ご主人が?
―もちろん。私のためにお庭にちょっとした隠れ家を作って頂戴、と頼んだの。
―でも、そうしたら、ご主人はあなたがどこにいるか分からず心配するでしょう。
レオノラはある方角を指さして答えた。
―ヘルマン、今度あの人の書斎に入ったら、そこからお庭を見てごらんなさい。きっとここを見つけることが出来る。
座っていることが出来ず、ロイエンタールは突然立ち上がった。
「…ここは母親のお気に入りの場所で、親父はそれを遠くから見ていたということか」
「そうだと思うよ。書斎で仕事をしながら妻の姿を見守っていたなんて、なかなか素敵な話じゃないか」
アルトマンは懐かしそうに書斎がある方角を見つめていた。
さっき飲んだシャンパンが食道を逆流しそうだった。何とか吐き気を押さえてアルトマンを見下ろした。
―ヘルマン、あんたはおれの母親とここで何をしていた? 親父が見張っているかもしれない、こんな場所で。
ようやく客足も落ち着き、一息つくことが出来たディッタースドルフはテラスに置かれた椅子に座って、シャンパンを飲みながら料理を平らげていた。パーティーの準備期間中に知り合った屋敷の従僕や女中たちが、彼に運んできてくれたものだ。彼は今やこの屋敷のスタッフの一員として遇されていた。客もそのように彼を見ていたし、屋敷の従僕たちも彼を仲間だと思っていた。
―それなのにダンスを踊りたいとは言えんよな…。俺だけ楽しむわけにはいかないしな。
屋敷の従僕や女中たちはディッタースドルフが年末の時期にこの屋敷にいないことを残念がった。年末には、召使だけのパーティーがまさにこの広間で行われるというのだ。それはそれは盛大なもので、よそのお屋敷の召使たちも招待出来るし、料理も本格的、ご主人様や奥方様がご健在の頃には街中の噂になるほど…。今のご主人様はまだその機会がないが、当然、奥方様をお迎えになったら、同様に自分たちのパーティーを開催することをお許しになるだろう。
ディッタースドルフは『ご主人』、ロイエンタール少佐が自分の家にいるにもかかわらず、非常に微妙な立場にあることに気づいていた。客たちの大半は彼の親族だが、どの親戚も罪深いほど金持ちで、新しい当主の品定めばかりしていた。その娘たちは彼の気を引こうと躍起になって、互いにけん制し合っていた。
「アンシュッツの奴め、上手くやりおった。先代亡き後、宿り木がなくなり慌てるかと思いきや、上手く息子に取り入ったな」
ほら、まただ。ディッタースドルフは顔をしかめた。もちろん、彼も目立たないように物陰に座っているとはいえ、この貴族どもときたら、従僕(と目されたディッタースドルフ)を人とも思わず、所構わず噂話ばかりしている。おかげで彼はロイエンタール少佐に対する噂話の蒐集でもしているような気がしてきた。
「コルネリアをまんまと仕留めた時、すでにアンシュッツはわしらより一歩先んじた。―しかし、オスカーのあの様子では、一族の娘っ子の誰かと結婚してもまんざらでもなさそうではないか?」
この親族たちの妻もほとんど娘をけしかけるようにして舞踏室に送り出していたが、男親も同じようなものだとディッタースドルフは思った。
「わしは、マールバッハ伯爵が親族の娘を娶わせるつもりでいるのではないかと睨んどる。オスカーもそのつもりで伯爵に近づいたのかもしれん」
勝手な憶測にすぎないのだが、親族の男たちは感銘を受けたようだ。そのうがった見方に彼らは一様に唸った。ひときわ年配の男の声がぼそぼそとつぶやいた。
「思えば先代はマールバッハ伯爵家とは絶交したままであった。それを復縁させたとなると、これはやはりオスカーの先代に対する反抗心はまだ続いているとみるべきであろう」
「アンシュッツの入れ知恵ではないか?」
「いや、あの男も驚いているようであった。オスカーの独断なのだろう」
「今の伯爵は代々のぼんくらな伯爵と違う、鋭い経済感覚の持ち主だ。オスカーと組んで何か事業を起こすつもりかもしれん」
この男たちの会話になぜ違和感を覚えていたか、ディッタースドルフは突然気づいた。彼らはご当主、オスカーが帝国軍の軍人であることを忘れている。
―まるで少佐が今にも彼らの娘と結婚して、父親と同じように経済活動とやらを始めるかのようだ。
それは親族の男たちにとって良く知っている道なのだろう。それであれば、彼らはオスカーを凌駕し、教え導くことが出来る。だが、親族に軍人の道を知る者はいないようだ。これだけ大きな一族であれば軍人になった叔父や従兄弟が複数いても不思議ではないが、少佐の父親は一族の有能な男はすべて事業に参画させたものらしい。確かに、そのような才能と機会があるのであれば、軍人などは危険で金にならない馬鹿げた商売だろう。
ディッタースドルフは少佐が気の毒になった。少佐の前に彼を導く頼りになる大人はおらず、親戚ときたら金のことばかり考えている。愛情深い叔母が夫と共に彼を蔭から支えているのがわずかに救いとなるのみだ。
―貴族と言ってもいろいろ…、そりゃわかっている。少佐も親父さんと同じ道を進んだらよかったのに。
だが、少佐がそうしなかったことに頼もしさのようなものを感じた。少佐が父親の後を継いで楽な道を進まず、軍に入ったその決断の経緯は、少年時代のディッタースドルフと同じもののような気がした。
その時、ディッタースドルフは玄関ホールの方角から大きな人声を聞いた。後から思えば舞踏室の音楽とおしゃべりの中、なぜそれに気づいたか我ながら不思議だったが、自分の持ち場を死守する軍人の直観のようなもののお陰だったかもしれない。
自分と交代して今は執事が玄関を守っている。様子を見て必要ならば彼を手助けしようと玄関に向かった。
ディッタースドルフは、誇り高い表情を保った執事が剣を掲げるようにして黒い蝙蝠傘を手にして、玄関に立つのを見た。
玄関ホールには数人の仮面の男たちが、ロイエンタール少佐を取り囲むように立っていた。
少佐の手にはブラスターが握られていた。