top of page

前奏曲

 

8、

 

その夜のオーディンは気温が下がり、かなり肌寒さを感じた。
ロイエンタール邸の玄関扉の外に従僕が一人立ち、何事か冗談でも聞いたように笑いながら今まさに扉を開けて中に入ろうとした時だった。
玄関前に地上車が走り込んだと思うと、扉が開き、荒々しい足音を立ててこの家の主人が現れた。
従僕が「あっ」と言って挨拶をしようか、引き留めようか迷ううちにも、イライラした様子の主人は勢いよく玄関に駆け込み、止める間もなく扉を開けて中に入ってしまった。
「ウォルフガング・ミッターマイヤー元帥閣下、並びに令夫人~!!」
ディッタースドルフの朗々とした大きな声が響いて、ロイエンタールの顔面に降り注いだ。
あっけにとられた執事とディッタースドルフが、ロイエンタールの真っ青になった顔を見つめた。
最初に正気を取り戻した執事が慌てて主人に駆け寄った。
「申し訳ございません、旦那さま。ディッタースドルフ中尉に今度のパーティーでお客様方のお名前を呼びかける役目をお願いいたしまして、その練習をしておりましたところで、てっきりお客様役の従僕が入ってくると思っておりましたら、旦那様が…」
真っ赤になったディッタースドルフも、顔色を失った上官をはじめて怖いと思いながら敬礼して言った。
「あの、ミッターマイヤー少佐を元帥と申し上げたのは、別にふざけてのことではありません。パーティーにはいろんな階級のお客さんが来るだろうから、いろいろな難しい名前の組み合わせとか、独身の人だったり、娘さんと一緒だったり、いろんなパターンで練習してまして、やっぱりなんでも練習が大事だということは重要な事実で…」
時計の秒針が進む音さえ大きく響くような、重々しいほどの沈黙が降りた。
ロイエンタールはディッタースドルフをその鋭すぎる色違いの目で睨み付けた。
「ディッタースドルフ中尉、私は10日後をもってオーディンを発つようにとの辞令を受けた。そのことにつき明朝0700に司令本部へ行く。卿も同行するように」
「えっ、10日後! 承知しました。明日0700にご一緒いたします」
「結構。下がれ」
「はっ」
ディッタースドルフは早々に逃げ出した。どのみち明日朝司令本部へ行くのなら、早めに寝てしまった方がいい。
執事が主人に急いで歩み寄った。
「旦那様、ようやくの辞令、おめでとうございます」
ロイエンタールは頷くと、踵を返して玄関扉に手を掛けた。
「出かけてくる。明日朝、7時前には戻る」
驚く執事をしり目にロイエンタールは再び扉を開けた。扉の外で寒さと恐怖に震えて立っていた従僕には気づかず、そのまま玄関前で待っていた地上車に乗ると、行ってしまった。

 

店のセキュリティーを作動し、点検を終えたヘルマン・アルトマンは裏口を出て表の通りに歩いて行った。店じまいが早い高級品店が軒を連ねた通りは、すでに人気がなかった。だが、ウェレンマイスターのシャッターが下りた表通りに面した出入り口に一人の男の姿があった。
アルトマンはその姿が軍人らしいのを知ってぎょっとしたが、さらによく見ると従兄の息子のオスカーだと分かってさらに驚いた。
「オスカー! 何をしているんだ、こんなところに立ってどうしたんだ」
「こんばんは、ヘルマン」
オスカーが静かな声でアルトマンの問いには答えずに言った。彼は店の出入り口のシャッターに寄り掛かって腕を抱えて立っていたのだった。
「どうしたんだ、ここをたまたま通りかかったのか?」
アルトマンが青年の腕に手を置くと、その軍服の生地は非常に冷たく感じられた。いつからここに立っていたのか。
「あなたに会いに、ここまで来たんですよ」
「私に?」
オスカーの表情はちょうど明かりの陰になってよく見えなかった。
「そう、あのカフリンクスを見せてもらおうと思って。どれかひとつ、欲しいんです」
「しかし、もう店は閉めてしまった。明日では…」
「辞令が降りたんです。明日から忙しくなる。今のうちに手に入れておきたいんです」
アルトマンは早口に言うオスカーをじっと見て、彼が震えているのに気付いた。首を振って青年の肩を叩いた。
「君、ずいぶん冷えているようじゃないか。仕方ない、こっちへ来て。私の事務室に戻ろう」
事務室は先ほど出る時に暖房を切っていたが、まだ暖かかった。再度暖房をつける。控え室の給湯設備で熱いお茶を淹れて、事務室に戻った。
手を温めるようにお茶のカップを持ち、オスカーは一口飲んだ。真っ白な頬に少しだけ赤みが差した。
「カフリンクスは?」
「本当に今、見る必要があるのかい? セキュリティーを作動してしまったし…」
「解除したらあなたの責任問題になる? 別に強盗しようと言う訳ではないのだから。でも、ぜひ見たいんです」
その色違いの瞳をじっと相手に注いで、オスカーは低い声で言った。その瞳はことさらに輝いて潤んで見えた。
「それでは、少し待ってもらえるか。セキュリティーを手順通り解除するには時間がかかるんだ。警備会社から警告の連絡があったら、わがままな貴族の坊ちゃんが突然やって来て無理やり応対させられたと言おう」
オスカーはお茶のカップを覗きこんだまま、軽いビブラートのかかった低い声で「ん~」と言った。何と言われようと気にしない、という態度だ。
その態度をいぶかしく思いつつ、アルトマンは店内に入って行った。すべてのセキュリティーをいったん解除し、カフリンクスを収納したボックスを取り出した。そうしておいてから、再びセキュリティーを掛け、店内を安全な状態に戻した。
アルトマンはカフリンクスのボックスを持って、事務室に急いだ。オスカーが掛けるソファの前のテーブルにボックスを広げて見せた。青年の真向かいのソファにドスンと音を立てて座って、鼻息も荒く腕を組んだ。
「さあ! 持ってきたぞ。どれでも好きなだけ見なさい」
オスカーはテーブルを回ってきて、アルトマンが掛けるソファの隣に座った。ボックスの中を覗き込んでいる。
アルトマンは間近に座るオスカーの横顔をぼんやりと見た。滑らかな頬の上の黒い瞳が横に動いて、じっと見返した。左の青い瞳が見えず、まるではじめて見る男の顔のように思えた。これほど特異な瞳にもかかわらず、両親と同じ青い瞳で彼の印象を捕えていたのだ。
「青いエマイユがいいと言ってましたね。赤みがかったものもあるし、黄色と混じった不思議な色合いもある。この紫っぽいのはどうですか」
「君が気に入ったなら、それでもいいんじゃないか」
オスカーは一つを摘まみ上げて、右目にかざした。
「あるいは、もっと濃い色。これは深い青、紺と言うよりほとんど黒と言っていい。あなたの瞳の色のようだ」
一粒ダイヤをきらめかせた艶やかなエマイユのカフリンクスを持って向き直ると、アルトマンの目の横に並べた。ほんのすぐそこに青年の顔が近づいた。
「青いエマイユの中でダイヤの光が一つだけ光って、まるで瞳に明かりがさしているように見える」
神経が逆立つように感じて、アルトマンはしゃっくりするような笑いをこぼした。
「そんな言葉は女性に言いなさい。まるで口説き文句のようだ」
色違いの瞳がさらに近づいて、オスカーの息づかいを肌に感じた。
「女性に? ヘルマン、あなたに言っているんだ。あなたの瞳は宇宙の暗がりのように濃い青が集まった黒みたいだ。宇宙ではいつもその暗がりを感じる。きっといつか、おれもそこに飛び込んでいくのかもしれない」
「―暗がり…? 君の瞳の方がずっと綺麗な黒だ。私の瞳なんて取り立てて言うようなものじゃない」
ソファに沈み込むように背を押し付けて、オスカーから離れようとする。そして、何も気づいていないかのように言葉を紡いだ。
「そうですか? でも、おれの右目とあなたの瞳の色はよく似ている…。同じ黒」
断言するように言うと、アルトマンの顔の側面に両手を置いて、その瞳をのぞき込むようにした。アルトマンは突然気づいた。
彼は自分に接吻しようとしている。
逃れようにも彼の視線に囚われて動くことが出来なかった。
「…何を、君は何を…、どうして…」
柔らかい唇がそっと触れ、離れて行ったので、アルトマンの言葉は途切れることなく聞こえた。オスカーの手が両頬をそっと包み込む。
「あなたが欲しいんだ」
なぜ、どうして…? 駄目だ、やめるんだ。
「どうして駄目なのか、教えてください」
オスカーの一方の手がアルトマンの手を取り、指を絡めた。もう一方の手でオスカーは相手のジャケットの中に手を入れると、胸の辺りまでシャツの肌触りを確かめるように滑らせ、ボタンを一つずつ外していった。
「…さあ、言って」
絡めた手が引き寄せられ、アルトマンの胼胝の出来た指に息が吹きかけられた。手のひらに唇が触れ、小指の根元に小さく噛り付き、ふわりと口に含まれたせいで頭に血が上った。
「…言う…? 何を…?」
「なぜ、おれがあなたを欲しがってはいけないか、言って」
…なぜ? 君はレオノラの息子だ…。君が赤ん坊だったころを知っているんだ…。
柔らかな唇の間に小指が引き込まれ、赤い舌をちらりとのぞかせ、水音を立てながら指の股を舐める。もう一方の手はいつの間にか肌蹴たシャツの中にあり、裸の胸の中心を弄っていた。
彼の色違いの瞳が色も分からなくなるほどすぐ近くにあった。それは瞬きもせずにじっと相手を見つめる。
「それで? 言ってください」
小さなため息に隠れされていたが、その言葉にはある種の鋭さがあった。オスカーの手と唇が肉体に及ぼす影響に支配されていなかったら、アルトマンはその言葉に隠されたものに気づいたかもしれない。
だが、彼には分からなかった。

 

その甘く柔らかな唇は彼のために差し出された。
手が届くところはすべて引き締まって張りがあり、まるで手がかりなどないように感じるほど滑らか。
オスカーの白く長い指がいたずらするようにアルトマンに絡みつき、優しく、だが激しく行き来した。あまりの強すぎる感覚に遠ざかろうとする意識をなんとか引き戻し、負けじとオスカーに指を走らせると、彼は喜んでしがみついて白い喉をのけぞらせた。
まるで猫のように身体をすり寄せて刺激を求めるその肉体は、忘れていた感覚を呼び起こした。縋りついて、自分を極限まで攻めて欲しいと訴えるその白い身体に、夢中になって飛び込んだ。
自分のものか、彼のものかも分からない叫びを遠くに聞きながら。

 

彼は赤ん坊だった。
小さくてまるまると太った手をぱたぱたと振って、その人にこちらを向いてほしいと必死で呼びかける。すると温かい腕が彼を抱き上げた。その腕はゆっくりと彼を揺らして動く。その人の香りに包まれて彼は満足した『あ~』という声を立てた。
だが、突然、その人の腕がまるで細い枝のようなぎすぎすした骨になって、赤ん坊の彼のふっくらした肌に食い込んだ。その骨のような腕は先端に光るものをきらめかせて彼に襲いかかった。
―ムッティー! ムッティー!!
小さな子供の彼が泣き叫ぶ。
すると確かにそれは彼が良く知っている若い女の姿をしていて、今まさに彼にナイフを突き立てようとしているのだった。赤ん坊の彼には、小さくて弱々しい子供の彼には、そんな枯れ枝のような骨の攻撃さえ防ぐことは出来ない。
だが、その時、その女の後ろから蝙蝠のような大きな黒いものが覆いかぶさり、女は刃物を取り落した。金切り声が響いて、それは赤ん坊の彼が彼女を呼んで泣き叫ぶ声と一緒に混じり合った。


自分の激しい鼓動を聞きながらロイエンタールは目を覚ました。周囲は馴染みのない暗闇で、一瞬宇宙に放り出されたかのような感覚に陥る。だが、そこはアルトマンに連れられてやって来た彼の部屋で、気がつけば体の下に温かく柔らかいベッドがあるのだった。
アルトマンは今、彼の隣で眠っている。
あの時、ウェレンマイスターの事務室でアルトマンはしばらく茫然としてなすすべも知らずにいた。ロイエンタールが彼の家に連れて行ってほしいと言うと、黙ってそれを受け入れた。彼は茫然としてはいたが、ロイエンタールを突き放そうとはしなかった。
―君はレオノラの息子だ…。君が赤ん坊だったころを知っているんだ…。
それでは彼は確かに母親と赤ん坊の自分を間近に見たことがあるのだ。だがそれ以上は何も言わなかった。ただロイエンタールが与える愛撫に我を忘れてしまっているようだった。
おかしな夢を見たのは、母親を知っているこの男の腕の中で眠ったせいかもしれない。そもそも男と寝るのも久しぶりだった。
夢はすべて現実にあったことで、それを思い出したに過ぎないという奇妙な感覚を残した。母親が赤ん坊の自分にナイフを突き立てようとしたのは実際にあったことだ。だが、骨やら蝙蝠やら金切り声やら、安手のゴシック映画のような道具立ては初めて見るものだった。
―おれもいいかげん、おかしくなってきているな。
はめたままの腕時計に気づき、時間を見るとまだ5時前だった。もう少し眠ることが出来る。これは他人のベッドだが、暖かく居心地がいいベッドだ。いずれ10日後には宇宙に飛び立つ。艦長として自分は他の乗組みよりずっと恵まれた待遇だとはいえ、いざという時いつでも飛び起きられるように睡眠中も緊張してぐっすり眠ることなどない。誰のベッドであっても彼に安眠を保証してくれるものを拒む気はなかった。

 

My Worksへ   前へ  次へ

This website is written in Japanease. Please do not copy, cite or reproduce without prior permission.

bottom of page