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前奏曲

7、

 

その晩、ロイエンタールはあるレストランにいた。良質のワインと食通をも満足させる手抜きなしの料理を提供する店でありながら、オープンキッチンの親しみやすく賑やかな雰囲気で人気の店だ。店内の装飾もこぎれいで明るく、特に女性に喜ばれるこの店を選んだのにはわけがあった。
少々退屈そうではあるが、明らかに人待ち顔の貴族的な風貌の若い軍人の様子を、店中の女性客が興味津々で見ていた。いったいどのような人物を待っているのか…。そこに、軽やかな足取りの可憐な女性を連れた軍服姿のミッターマイヤーがやって来た。
可愛らしいオーガンジーとフリルのドレスを着たエヴァンゼリンの姿を認めて、ロイエンタールは勢いよく立ち上がった。
「ロイエンタール、待たせてすまなかったな。この人がエヴァンゼリンだ。エヴァ、オスカー・フォン・ロイエンタール少佐だ」
バラ色の頬をした優しい笑顔の少女はちょっと膝を折ってお辞儀をし、「はじめまして、ロイエンタール様」、と言って握手の手を差し出した。
ロイエンタールはさっとその小さな手に屈みこみ、触れるか触れないかの接吻をした。そしてまっすぐな背中を起こしてエヴァンゼリンの輝くような白い顔をじっと見降ろした。
「はじめまして。どうぞおかけください」
そのままエヴァンゼリンの手を取ってテーブルに導き、椅子を引いてやった。ミッターマイヤーは婚約者に対する親友の丁重な扱いに、誇らしい気持ちで胸いっぱいになった。その反面、『おまえ、何気取ってるんだよ!』と、ロイエンタールの優雅な背中をどやしつけたい気持ちもあったが。
エヴァンゼリンの方は婚約者のように恥ずかしがったりせず、ロイエンタールの紳士的な態度を親切なものと受け取った。
「ありがとうございます」と、鈴の音を思わせるかろやかな声音ではっきりと礼を言った。
ロイエンタールが内心しぶしぶ認めたことに、その素直な笑顔は確かに気持ちのいいものだった。
ロイエンタールはエヴァンゼリンにワインの好みを聞き、給仕が示す黒板に書かれたこの店のお勧め料理を吟味してエヴァンゼリンの意見を求めた。すべて彼女の望みの通りの献立が選ばれると、シャンパンを持ってこさせて幸せな二人のために乾杯をした。
まったく、ミッターマイヤーが喜ぶのも当然だった。ロイエンタールのエヴァンゼリンに対する丁重さは、最初に彼が婚約を打ち明けた時、自分を嘲笑った男と同じ人物とは思えないほどだった。
ロイエンタールは親友の婚約者に至れり尽くせりの気遣いを見せ、本心では結婚の必要性に疑問を持っているにしても、その場ではおくびにも出さなかった。ミッターマイヤー本人にはいくらでも言えることでも、この疑うことを知らない無垢な少女の前では口にするのは憚られた。
彼女が純真さを装っているのではないことは、その率直な笑顔を見ればロイエンタールにもすぐに分かった。
―我ながら、おれも案外まともだな。
心の内ではそう自嘲気味に呟きつつも、この少女を悲しませたり、恥ずかしい思いをさせたりするのは、ミッターマイヤーのためにも正しい行いだとは思えなかった。
ロイエンタールはエヴァンゼリンに前菜が気に入ったかどうか尋ねた。
「はい、おいしいです。この後どんなお料理が出てくるか、とても楽しみです」
「エヴァはどんな隠し味でもすぐわかるし、再現出来ちまうんだぞ。エヴァ、このなんかハムを巻いたやつはどんな調味料を使ってるんだろう?」
エヴァンゼリンは赤くなって「ウォルフ」、と一言たしなめた。おそらく、二人で食事に出かける時にはこの少女が隠し味をウォルフに教えてやり、相手はそれに感心する、というお遊びをやっているのだろう。エヴァンゼリンは他人の前でそのような才能をひけらかすのははしたないと思っているようだ。
「遠慮せずに教えてください。このチーズとハムの前菜にはどんな秘密があるんです?」
「いえ、そんな、秘密だなんて…」
ロイエンタールはワインを含みながら何としてもこの少女の口を開かせてやろうと決意した。色違いの双眸に射抜かれてエヴァンゼリンの頬は徐々に赤くなった。
「このチーズはミルクの風味が強くてモツァレラのような弾力がある。いや、モツァレラよりも弾力があるな。それに火を通してあるから分かりにくいが、スモークしてあるようだ。こういうチーズはなんと言いましたか」
教師の厳しい視線の下に晒されたかのようにエヴァンゼリンはますます赤くなったが、小さな声で答えた。
「はい、私、チーズはあまり詳しくありませんけど…。スモークしているものをアフカミータというようです」
「そうか、するとこれはスカモルツァ・アフカミータですね。この強い風味は水牛のミルクを多く使っているせいだろう。ハムにモルタデッラを使ったのは少々くどいようだが、どう思いますか」
言われて、問題の料理を小さく切って一口食べると、エヴァンゼリンは瞳を輝かせてロイエンタールに答えた。
「はい、確かに少しお味が強いように思いますが、おイモのおかげで和らいでいると思います。それに、前菜ですから少し個性がある方が食欲が進んでいいと思います」
「あ、ほんとだ、エヴァが言う通り濃い味だな。これはワインに合うな」
ミッターマイヤーはそう言って、パクッと一口でそのハムのチーズ包みを食べた。ロイエンタールは黙って自分のワインを飲んだ。彼もなるほどと思ったのだが、ミッターマイヤーが言った言葉が妙に気に入らなかった。ミッターマイヤーは元気で生き生きとした風貌から頭脳より肉体派だと思われがちだが、人並み以上に幅広い分野に知識があり、誰よりも知性がある男だ。それが、婚約者の言葉を無条件で受け入れる風なのが癪に障った。料理がミッターマイヤーの知識の及ぶところではないにしてもだ。
その後もロイエンタールは運ばれてきた料理についてエヴァンゼリンの意見を求めた。エヴァンゼリンは興が乗ったのか、控えめながらもはきはきと自分の考えを述べた。とは言え、ロイエンタールもあまり食材についてうるさく言って同席者をうんざりさせ、食欲を失わせるような無粋な真似はしなかった。時々はエヴァンゼリンも興味が持てそうな事柄について、ミッターマイヤーに問いかけた。
可愛らしい女性とその恋人の軍人、彼らと大変仲の良い軍人の親友―。その3人は傍から見ても、非常に和気藹々として見えた。
ようやくメインの子牛のリブロースが片付いた時、ロイエンタールはほっとした。
7品あるデザートのどれを食べようか、全部少しずつにしようか、とエヴァンゼリンとミッターマイヤーが真剣に検討するのを、ジェラートにコーヒーをすでに頼んだロイエンタールが少々呆れて見ていた時だった。
レストランの戸口に一等兵の軍服の青年が現れ、ためらいがちに店内を見渡した。
いち早くその姿を見つけたレストランの支配人がその軍人の元に歩み寄った。店内に軍服姿の者はロイエンタールとミッターマイヤーの他にはいない。他の客たちを驚かせないようにロイエンタールはミッターマイヤーに合図をすると、エヴァンゼリンには「失礼」、と言って静かに席を立った。
やって来た二人を見て、支配人はほっとした表情で感謝するように目礼すると、軍人たちをクローク脇に案内した。
伝令の腕章を付けた兵士が二人に敬礼した。
「お食事中に失礼いたします。宇宙艦隊司令本部より参りました。ミッターマイヤー少佐、ロイエンタール少佐には明朝0800に司令本部においでください」
親友二人は顔を見合わせた。
兵士は肩から下げたカバンから二つの封書を取り出し、それぞれの宛名を確かめると二人に手渡した。二人は急いで封を切り、中身を確認した。
再び互いの顔を見合わせると、ロイエンタールは頷いた。
「確かに受け取った。ご苦労だった」
兵士が立ち去ると二人はお互いの辞令を広げて見比べた。ディッタースドルフの言い草ではないが、名前以外、全く同じだった。
すなわち、本日より10日後にオーディンを発ち、可及的速やかに任地へ赴くこと。明日0800に司令本部に於いて任務の詳細について説明を受けること。
ミッターマイヤーは腕組みして襟元に顎を埋めた。
「説明が必要になるような任務になるのだろうか? 任地へ赴き、その地の陸戦隊に中佐として出向する―という話はどうなったんだ?」
首を振ってロイエンタールは答えた。
「分からん。明日、どんなことを命じられるか聞いてみないことにはな」
「そうだな、10日後か―。おまえのパーティーは開けそうで良かったな」
パーティーの開催予定は5日後だ。ロイエンタールは呻いて額から顎まで顔を撫でおろした。
「パーティーなんぞの余裕があると思うか?」
「叔父さん叔母さんが計画してくれてるんだろう? オーディンにいる間に出来ることはやっておかないとな」
「それもこれも明日、何を言われるかによりけりだ」
だが、ミッターマイヤーは何も言わずに思いつめた表情をして考え込んでいる。やがて、勢いよく顔を上げると怪訝な表情の親友を置いて、店内に戻って行った。
「おい、ミッターマイヤー…」
ミッターマイヤーはエヴァンゼリンが待つテーブルまで堂々とした足取りで歩いて行った。彼に気づいてにっこりとほほ笑むエヴァンゼリンをしばし見下ろしていたが、静かにその足元に片膝を立てて跪いた。
「エヴァンゼリン―」
店の真ん中で今まさに起ころうとしている出来事に気づいた女性客から、興奮した悲鳴がひと声起こった。
ミッターマイヤーは懐から小さな箱を取り出し、ふたを開けた。エヴァンゼリンがはっと息を飲んで、震える片手で口元を押さえた。
「エヴァンゼリン、エヴァ―。どうやら辞令が降りたようだ。俺は今さらながら気づいたが、今度の任務で再びオーディンを離れたら、きっとすぐには戻って来ることは出来ないだろう。さっきまでは結婚はもうしばらく後でもかまわない、と暢気に思っていた。だが、また君と離れ離れになってしまう。だから、エヴァ―」
自分がしていることの重大さに気づいたかのように、突如ミッターマイヤーの顔が真っ赤になった。喉仏がごくりと動いて、ミッターマイヤーはようやく口を開いた。
その声は微かに震えていたが、店の戸口にいるロイエンタールにも聞こえるほど大きく、しっかりしていた。
「どうか、フラウ・ミッターマイヤーとして俺が任地へ向かうのを見送ってほしい」
ミッターマイヤーは片手に指輪が収められた小さな箱を乗せ、もう片方の手をエヴァンゼリンに差し出した。
エヴァンゼリンは茫然としたように、跪くミッターマイヤーの顔に視線を注いでいた。宙に浮いたミッターマイヤーの手が興奮と焦燥のために目に見えてぶるぶると揺れた。
大きな目を見開いて、エヴァンゼリンは硬直したように両手を胸の前で束ねていた。
額に冷や汗を浮かべたミッターマイヤーがほとんど発狂しそうになった時、その手にそっとエヴァンゼリンの小さな手が乗せられた。
「はい、ウォルフ。そうします」
わっと周囲の客たちの間から歓声が起き、拍手が降り注いだ。ミッターマイヤーはほとんど叫び出さんばかりになって、勢いよく立ち上がるとエヴァンゼリンを抱きしめ接吻した。
エヴァンゼリンの指に、白く輝くダイアモンドの指輪がミッターマイヤーによって嵌められた。エヴァンゼリンの華奢な指には少し緩いようだが、ひとまず準備して後でサイズを合わせるつもりだったらしい。
拍手の中抱き合う二人に、静かにロイエンタールが歩み寄った。
ミッターマイヤーははち切れそうな幸せの中で、ようやく親友が側に立っていることに気づいた。彼はにこにこして声をかけた。
「ロイエンタール―」
ロイエンタールの顔からはほとんど血の気が失せていたが、彼の陶器のような肌の色はレストランのぼんやりとした明かりの下でははっきりとは分からなかった。ミッターマイヤーがいつも通りの心理状態だったら、親友の瞳が潤んで焦点が定まらない様子に気づいただろう。だが、今のミッターマイヤーには世界中が彼と共に喜び、彼の幸運を祝福しているように見えた。
店内の客は皆、嬉しそうに大きな拍手をして、おめでとう、素晴らしいなどとさかんに声をかけた。ロイエンタールに対しても、お友達にご幸運を、などと話しかけた。
誰もが笑顔のあたたかい雰囲気の中、チンチン、と軽やかな音色が店内に響いた。
シャンパングラスをフォークで鳴らして、人々の注意をひきつけたロイエンタールが、にこやかに周囲の客にお辞儀をした。
「皆さん、今宵は私の親友とその花嫁にとって大変、素晴らしい夜になりました。どうか、私と一緒に二人の未来を祝福してください」
ロイエンタールの言葉を合図にしたかのように、嬉しそうな表情の支配人の手により、客たちにシャンパンの入ったグラスが配られた。
ロイエンタールが白く細いその指にグラスを掲げた。
シャンデリアの輝きをその乳白色の肌に受けて、ロイエンタールの彫像のようににこやかな顔がゆっくりと周囲の客を見渡した。
「我が親友とその花嫁の未来のために―。プロージット」
シャンパンを一気に飲み干すと勢いよく足元に叩きつけ、グラスがパン、と割れた。周囲の客も大きな声で「プロージット!」と叫ぶと、わあっとこれまで以上に盛大な拍手が起きた。
「どうぞ、私から皆さんに、もっとワインを―!」
ロイエンタールがそう叫んだので、ますます熱狂的な拍手と笑い声が起こり、見知らぬ者同士だった客たちがまるで、数年来の友人であるかのように陽気に騒ぎだした。

 

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