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前奏曲

6、

 

少し足を延ばしたい、という叔母の希望を入れて地上車は先にやり、二人は腕を組んでオーディンの繁華街を歩いていた。叔母は甥の腕を取っていない方の手で持ったハンドバッグを振り振り鼻歌を歌い、機嫌がよさそうだ。
「叔父上は私が勝手なことをしたと怒るでしょうね」
「まあま、びっくりするでしょうけど、怒ったりなんてしませんよ。あの人もたまには自分の思い通りにいかないことがあったほうが退屈しなくていいわ」
オスカーは叔母の言葉に肩をすくめた。
「叔父上に反抗したわけではないんです。ただ…」
「マールバッハ伯爵のことについては良いことをしたと思うわ、オスカー。あなたも伯爵も、あなたのお父様と先々代の伯爵との対立は全く関係ないのだもの。伯爵もそのことにこだわっていないと分かって嬉しかった」
先々代のマールバッハ伯爵と夫人は娘の死を責めてその夫を糾弾した。そのことを亡き父は決して許さず、マールバッハ伯爵家への援助を断ち切り、社交界にも影響力を及ぼし、社会的経済的にも窮地に追いやった。現在のマールバッハ伯爵はそのために苦労したのだから、ロイエンタールを快く思わないとしても当然だと言えた。だが、当代の伯爵自身は別の考えがあることを明確に伝え、オスカーの握手を喜んで受け入れたのだった。
―卿がどのような人物か、私はよくは知らない。だが、過去を水に流して、このように私に友情の手を差し伸べてくれた、その気持ちは生半なものではないと信じる。
父がマールバッハ伯爵家を憎んでいたのであれば、自分はその道を選ぶまい。そう思ってのことだったが、現在の伯爵については噂でしか知らず、手を差し出すに値する人物かためらわれた。その伯爵の為人についてヒントを与えてくれたのが、コルネリアとアルトマンだった。
「ヘルマンはお兄さまがマールバッハ伯爵家と対立していた時も、蔭からいろいろ手助けしていたの。伯爵家の宝石を上手く遣り繰りして、伯爵家の面子を立てて損のないようにお金を借り入れたり、主にそういう方面でね」
先日、甥が叔母に相談した時、コルネリアはアルトマンと伯爵家の関係を説明して言ったのだった。
「家宝の装飾品なども散逸しないように契約書を作成したり銀行に預けたりしたようなの。もし、おかしなことをしたらお兄さまは容赦しなかったでしょうけど、ヘルマンも隙をみせなかったからお兄さまも満足して放っておいていたわ。私が言いたいこと、分かるかしら」
つまり、アルトマンの才覚を認めたからこそ、自由にさせていたのだろう。少しでも凡庸な手を討てば、父は容赦なくアルトマンを潰しにかかったに違いない。
「彼にとってはマールバッハ家は従兄の妻の生家―、つまり姻戚に過ぎないでしょう。なぜそこまで肩入れしたんですか」
「あらまあ、もちろん、レオノラの青い瞳のせいだわ。ヘルマンはレオノラを崇拝していたもの。彼女が元気だったころからお兄さまと亡き伯爵は仲が悪かった。レオノラは生前、ヘルマンに仲立ちを頼んでいたのかもしれないわ」
コルネリアはその時見せた甥の表情には気づかなかった。あるいは、気づいていたが見て見ぬふりをした。実際、甥がマールバッハ伯爵家と復縁したいと言い出した時にはびっくりしたものだ。とかく母親と関わりのある事柄を避けている甥からそのような言葉が出るとは、想像してもいなかった。だが、母親の話題を避ける気持ちよりも、父親がしてきたことへの反感の方が強かったのだろう、とコルネリアはほぼ正確に甥の気持ちを汲んでいた。
「ところで、ディッタースドルフ中尉はお役に立っていますか。慣れないパーティーの準備でお邪魔になっていませんか」
オスカーはふと思い出して叔母に聞いた。
「あらまあ、中尉さんはとても気の利く坊やで助かっているわ。安心して大事なこともお願いできるから、ボイムラーも重宝しているようよ」
「それはなによりです」
くすくすと笑ってロイエンタールはそれ以上、副長のことについて頭を悩ませるのを止めた。

 

ディッタースドルフはパーティーの晩餐会の会場となる大広間にメジャーを持って立っていた。晩餐会の出席者は親族と重要な客人のみで、それでも65人。その人数分のテーブルと椅子を準備しなくてはならない。アンシュッツ夫人がシェフと打ち合わせて出来上がったメニューに合わせて、銀食器類をそのテーブル上に程よい間隔で並べなくてはならない。その上、テーブル上には夫人がデコレーターに特注した花が飾られることになる。
―貴族のパーティーなどとんでもないことだ。執事はもとより、下っ端の下男に至るまで寝る間も惜しんで準備をしなくてはならないではないか。その点、主人の方は気が楽で結構なことだな。
独身のロイエンタールのために女主人の役を買って出たアンシュッツ夫人については、中尉は気楽で結構などとは思わなかった。貴族にしては素晴らしい女性だと思った。賑やかな女性だが立ち居振る舞いに品があり、気取らず親切で、中尉に対しても見下すようなところは全くなかった。
―叔母さんが八面六臂で働いているのに、甥の方は何もしていないじゃないか。少佐もテーブルを運べばいいんだ。あるいは椅子を…!
彼の上官は叔父たちに逆らわずにいるように見せかけて、実は出来ればパーティーに出席せずにいたいと思い、準備にも関わらないようにしているのだ。しかし、そのことは中尉には分からなかった。
中尉が官舎を追っ払われて住むところがないのは本当だった。だが、わざわざ図々しいと分かっていながら上官の屋敷に転がり込んだのは、自分の上官がいったいどういう人物なのか見極めたいと思ったからだった。
今のところ、ロイエンタール少佐は亡き父の遺産処理のための事務処理に忙殺されているらしい。彼は事務弁護士と書斎に籠るか、外出して叔父と共にやはり同様のことをしているらしかった。とにかく、ぶらぶらして令嬢がいる他家を訪問したり、公園を散歩して行き交う人々のファッションチェックをしたり、有力者のご機嫌伺いに出かけるなど、話に聞く自堕落な貴族の若者の日中の過ごし方とは違うのは分かった。
夜、少佐が軍服姿で出かけるときはミッターマイヤー少佐と会う予定と決まっていた。だが、民間人のようにジャケットを着てネクタイをして出かけるときは女絡みだ。しかも、ディッタースドルフが最初にロイエンタール少佐を見た時とは違う女性と会っているらしい。ある夜、彼が庭で涼んでいる時に、高級車が屋敷の前に止まり、そこからモデルのように細身で派手な女性が現れたのだ。その女性は中尉を従僕と間違えて、横柄に「オスカーにカサンドラが迎えに来たと伝えなさい」と言いつけたのだった。
むっとした中尉はその場で端末を取り出し、上官にビジフォンを掛けた。
「艦長、カサンドラとかいう派手な女性がお迎えに来てますよ」
ロイエンタール少佐は怒るかと思ったが、案に反してビジフォンの向こうで面白そうな表情をして、「分かった」と返事をした。
現れたロイエンタール少佐はこれが貴族というものかと中尉も一瞬、目を奪われるほど美々しく見えた。どこにも色味などない黒っぽいスーツを着用していたのにもかかわらず、華やかで艶やかに見えた。シルクと思われる幅広のネクタイにつけられた小さなピンだけが彩を添えていた。よほど良い生地と仕立てのジャケットだろうと言うことだけは分かった。
その日の夜は戻らず、翌朝同じ服を着て帰って来たことからして、上官が夜をどこで過ごしたか明らかだった。
中尉はフラウ・アンシュッツに頼まれた、65人のためのテーブル上の皿と飾りつけの採寸を助手の従僕の一人とともに終えた。そこに執事が呼びかけ休憩することになった。
「ディッタースドルフ中尉にはお手伝いいただき大変感謝しております。信頼できる人はなかなかおりませんもので…」
「無理をせずに人手を雇ったらいいのではないかと思いますが。私が察するに艦長にはそれだけの余裕がおありのようですがね。執事さんからはご主人には頼みづらいかもしれないですが」
執事は重々しく首を振った。
「臨時の雇人もおりますし、当日はアンシュッツの奥方様のお屋敷からも助っ人が参ります。旦那様はじき軍務でお留守にされますので、あまり過剰に人手を雇うことは出来かねます」
主人を庇うような執事の言葉を聞き、中尉は気の毒に感じた。ロイエンタール少佐はあのように上等な服装に金を出しておきながら、彼に仕える人々の苦労を知らずに、財布のひもをきつく締めているに違いない。金持ちにはありそうなことだ。
「実は中尉には当日お願いできればと思っていることがございまして…」
執事が控えめに言ったので、中尉は興味を惹かれた。この働き者の虐げられた執事の手助けをしてやりたいと思った。
「当日? 私にはテーブルに皿を運ぶのは無理ですよ。地上車の配車でもやりましょうか」
「給仕には確かな経験が必要でございますね。それよりも、中尉にはお客様の名前を告げる役になっていただきたいのです。中尉は軍人だけあって大変体格もよろしく見栄えがいたしますし、良く通る響きのいい声をしていらっしゃる」
「ええ? もしかして、あの、映画などでよく見る、『何々伯爵および令夫人~』ってやつですか」
中尉はうかつにもそれは面白そうだと思った。配車やクロークの係りよりは目立つし、やりがいがありそうだと思った。
「そうそう、そのお役目のことです。もちろんパーティーには晩餐会のあとの立食とダンスだけに出席されるお客様がいらっしゃるので、総勢500人にはなりましょう。半分はわたくしがお手伝いします」
「…500人」
「本当はお手伝いいただいたお礼にダンスやお食事をお楽しみいただければと思いますが、実は当てにしていた者が病気になりまして、パーティーも急な開催でございますからなかなか他の者とは折り合いがつかず…。なに、大丈夫でございます。お客様方のお名前と階級を絶対に間違えず、はっきり大きな声で告げればよろしいのです」
「それは…。結構大変そうではないですか…」
執事は断られては大変と思ったものか、力づけるようにして中尉に笑いかけた。
「旦那様がディッタースドルフ中尉は度胸があるし、頭の回転が早いから、何でも上手くやれるだろうと仰っていました。僭越ながらわたくしもこの数日、中尉のご様子を拝見しまして旦那様のご意見に相違ないと思いましてございます。ぜひ、どうか、お願いできましたら…」
中尉は額を押さえて顔を仰向けた。度胸があるなどと言われて、しかも執事にこのように懇願されて悪い気がしないのは確かだが、上手く困難を背負い込まされた気がした。
―少佐は結局なにもしないで美人と踊りまくったり、美味い酒を飲んだりするんだろう。明日にも辞令が下りて、そんな楽しい目には合わずに済めばいいんだ…! 俺も早いとこ宇宙に出てしまいたいもんだ。宇宙に出ればこっちのもんだ。あんな上官なんぞ、いてもいなくてもなんとでもなる。
上官と同じ希望を抱いていることには気づかず、中尉は心の中で毒づいたのだった。

 

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