Season of Mackerel Sky
前奏曲
5、
辞令はなかった。
ミッターマイヤーが事務員を締め上げ、危うく憲兵が呼ばれるところを、アイヒラーがなだめてことを収めた。ディッタースドルフが憤慨する事務員に同情的な態度で状況の確認を求めたが、結果は同じだった。ミッターマイヤー少佐及びロイエンタール少佐の辞令は準備中。我々の手元にはありません。なぜ、副長の辞令が出ているか知りません。準備中の辞令の内容については、宇宙艦隊司令本部の機密のため明かすことは出来ません。
「いったいどういうことだろう。結局、卿には俺の辞令が出るまでは待機していてもらうことになりそうだな」
アイヒラーが上官の言葉に頷いて慇懃に答えた。
「そうします。ご迷惑でなかったらちょくちょくご挨拶に伺います。小官には艦長の副長たれという辞令が出ているんですから、何かありましたら遠慮なくお呼びください」
「いや、そうもいかんよ。卿の連絡先を教えてくれ。待機中は別に挨拶はいらんから、すぐ連絡がつくようにしてくれればいい」
アイヒラーはオーディンに家族がいるということだ。それでは友人の一人も泊めて欲しいところだが、ディッタースドルフは当然のようにロイエンタールの後についてきた。
ロイエンタールは自宅に向かう道筋でディッタースドルフに聞いてみた。
「待機中、卿はどうするつもりか」
「ええ、先ほども申しました通り、艦長のお宅にお邪魔させていただければ」
ため息をついてロイエンタールは頷いた。
「それは聞いた。卿の部屋を執事に準備させよう。おれの屋敷に滞在中になにか予定でもあるのかと聞いている」
「はあ。まあ、思わぬ休暇のようなものですから、ゆっくりさせていただければ結構です」
ロイエンタールは急に立ち止まってディッタースドルフに振り返った。
「卿はなかなか気の利く性質のようだ。それに軍務に熱心だと思われる」
突然上官に褒められてディッタースドルフは目をしばたたいた。
「恐れ入ります」
「そのように有為な人物に何の任務も与えられんのは、帝国にとっての損失だ」
疑いのまなざしを向けて、副長候補はロイエンタールの口元を見ている。
「ゆえに、おれの家にいる間、執事と叔母を手伝ってパーティーの準備をしてやってくれ」
「パ、パーティー?」
執事には遠慮なく副長をこき使うように言ってやろう。彼も日常の仕事以外にもパーティーの準備に追われて忙しいのだから、余分に人手が使えるなら非常に助かるだろう。
「卿のような優秀な人材はどこでも必要とされるだろうから、おれの執事もたいそう感謝することだろうな」
「あの、それは、恐縮ですが…。いえ、はい…。パーティーですか…?」
ディッタースドルフの余裕の表情をようやく突き崩すことが出来て、ロイエンタールは内心ほくそ笑んだ。屋敷に住まわせてもらっておきながら遊んで暮らすなど、好き勝手をさせてのさばらせるつもりはなかった。
ヘルマン・アルトマンはオーディンの老舗宝飾店、『ウェレンマイスター』本店の貴賓室で接客中だった。アルトマンは20代のころ、オーディン帝国大学の化学専攻科に在学中、金細工に魅入られ、ウェレンマイスターに職人として弟子入りした。その頃は親戚の誰もが彼の仕事など金持ちの子弟のお遊びだと思っていた。ロイエンタール本家の当主が代々の生業となっていたしがない小役人の道を捨て、投機と才覚で莫大な資産を得てから、一族の後の世代の若者たちは皆、大なり小なり親とは違う道への野心を持つようになった。オスカー・フォン・ロイエンタールとて例外ではないのだ。
アルトマンは金細工の細工師としてウェレンマイスターの中で一定の地位を得た。だが、彼の野心は一介の細工師に納まるものではなかった。ロイエンタールの手引きで経営の知識を修め、老エルンスト・ウェレンマイスターの一人娘と結婚し、後継者の座にまでのし上がった。
フェザーンの支店で長らく支配人兼デザイナーとして務め、(その間、二人の娘が生まれたが妻を亡くした)、昨年、本店の支配人として戻って来た。老ウェレンマイスターが美術工芸に才能を見せ始めた孫娘たちを手元に置いて、直系の跡継ぎの育成に乗り出したというのがもっぱらの噂だった。アルトマンはその中継ぎに過ぎないというのだ。だが、アルトマンはその評価を甘んじて受け入れ、才能ある芸術家に育ちつつある娘たちに将来、より相応しい舞台を与えるべく、この老舗宝飾店を盛り立てていくつもりだった。
今、彼の前には帝国の新しい層の代表ともいえる若者が、妻のためのプレゼントを吟味していた。この若者は貴族出身ではあるがその家は貧しく、伯爵でありながら苦学して大学で経済学を修めた。この伯爵もまた、かのロイエンタールの道に倣って、おのれの才覚で財産を築き成功しつつあった。現在は開明派貴族、リヒターの顧問の一人となっている。
大貴族から虐待され、皇室から見放された貴族の若者たちのうち、自尊心と覇気に富む者たちは貧しさの中から自ら這い上がろうとしていた。とは言えその多くは軍に活路を求めており、経済界で活躍するに値する才能を持つ者は稀だ。
マールバッハ伯爵クリストフは繊細な糸のような金の鎖の連なりをじっくりと眺めていた。
「いかがでしょう。伯爵夫人のお好み通りのシンプルなデザインに仕立てました。鎖は軽くて一晩身に着け続けても負担にならず、取り扱いやすく、お召し物に引っ掛かって痛めることもない。もちろん、夫人のお肌を傷つけることもありません」
伯爵は手にその金の鎖を滑らせて感嘆した。
「確かにこのように絹のように滑らかなネックレスは見たことがない。そのうえ、輝きもデザインも素晴らしいものだ。妻も喜ぶだろう。さすがはウェレンマイスターの技だな」
「ありがとうございます」
伯爵が支払いの手続きをする間に、アルトマンは18金の蜘蛛の糸のような金色のネックレスを丁寧に箱に収めると、マールバッハ伯爵家に送り届けるように手配した。
妻への誕生日の贈り物を手に入れた伯爵を引き留めて、巧みに伯爵本人のために先ほどのネックレスと釣り合うようなネクタイピンなどを薦めた。そうこうするうちに貴賓室の扉が開いて、アルトマンが待っていた人物が現れた。
アルトマンはにこやかにその人物を室内に招じ入れ、伯爵に紹介しようとした。
だが、伯爵はその新来の人物の姿を認めて眉をひそめた。
「どういうことだ、アルトマン。他の客が来るのであれば私はこれで失礼する」
「このようにお会いする非礼をお詫びする、従兄殿。ヘル・アルトマンには無理を言ってあなたと会う機会を作っていただいたので、どうか彼を責めないでいただきたい」
伯爵ははっとして相手の顔をまじまじと見つめた。
「卿は…」
「私はオスカー・フォン・ロイエンタール少佐です」
母方の従兄である伯爵にロイエンタールは握手の手を差し出した。驚きに目を見張っていた伯爵はようやく気づいて握手を返した。
「そうか、卿がロイエンタール家の当主のオスカーか。子供の頃、会ったことがあったな。その目は忘れようがない。このオーディンにそのような目の男は二人といないからな」
「マールバッハ家の姿にロイエンタール家の色ですわよ、あなた。この子のお顔はお母さま似でよかったこと。うちの家系は体格ばかり立派でお顔は十人並みですからね、ねえ、ヘルマン」
真っ赤なウールのスーツを着て、おそろいの小さな帽子をその温かみのある栗毛色の結髪に被った、堂々たる夫人が甥の背後から現れた。コルネリア・アンシュッツはそのふくふくとしたえくぼのある手を甥の頬に滑らせると、こちらも従弟のアルトマンの両頬に頬を寄せ接吻した。
「あなたは我が一族の若者にとって太陽でしたよ、コルネリア。もちろん今も変わらず」
「まっ、フェザーンに行ってあちらの人たちのお口のうまさがうつったみたいね。あなたたちときたら、みんなそろってレオノラを女神のように崇めていたではないの」
コルネリア叔母は、閉口している甥は無視して伯爵に手を差し出した。
「わたくしたち、はじめて会った他人みたいにご挨拶するべきかしら。それとも、あのちいちゃな赤ちゃんがこんなに大きくなって…って、あなたに申し上げてもかまわないかしら」
マールバッハ伯爵は笑って親戚の夫人のふくよかな手を取り、接吻した。伯爵は大柄な夫人よりもさらに背が高く、さぞ大きな赤ん坊だったのではないかと思わせた。
「どうぞ、お好きなだけ私がいかに貧弱な子供だったか、おっしゃってください。あなたのことも覚えております。フラウ…、アンシュッツでしたね」
「コルネリアと呼んで頂戴。あなたはかわいい子供でしたわよ。このオスカーと並べたら兄弟のようだと思ったものでしたわ。そのせいであなたのお祖母様とレオノラの葬儀で喧嘩しましたわ、今思い出したわ。それともあれはあの方のジェットを私が踏んづけたからだったかしら。あんなところにロザリオを置くなんて、伯爵夫人も変わった方だったわ。でも、オスカーが座っていた椅子にあの方はハンドバッグを置いていたんですもの。それでこの子がその上に座ってしまって、まあ、あの時…」
「叔母上…。そのようなお話はまた別の時にしましょう」
目を丸くして亡き祖母の逸話を聞いている伯爵の脇では、アルトマンが耐えがたい笑いの発作に襲われていた。その葬儀の時、レオノラの不幸は下級貴族の夫と平民と結婚したその妹のせいだと言って、先々代の伯爵夫人がロイエンタール一族を罵倒し、呪ったことを彼はよく覚えていた。問題のジェットのロザリオは伯爵夫人がコルネリアに投げつけ、その暴挙に怒った彼女はそれを踏んずけたのだった。兄と甥を守って伯爵夫人と舌鋒を交わしたコルネリアが忘れているはずもないが…。
アルトマンがオスカーの方を見ると、彼もまた皮肉を言いたげな表情をしてアルトマンをちらりと見た。彼はほんの子供だったはずだが、もしかしてその愁嘆場を覚えているのではないかと思った。
「よろしければ、伯爵、こちらのテーブルにどうぞ。コーヒーなどお持ちします。ロイエンタール君、叔母様をお連れして」
「あらいやだ、ヘルマン、この子のことはオスカーと呼べばいいんですよ」
アルトマンは青年の色違いの瞳がきらりと光るのを見た。ウェレンマイスター得意のエマイユで仕上げたあのカフリンクスの深い青とそっくりだと思った。
「では…、オスカー」
肩をすくめてオスカーは叔母の手を取ってテーブルまで導いた。
マールバッハ伯爵との会談は叔母とアルトマンの助力を得て、満足のうちに終わった。今、ロイエンタールはウェレンマイスターの貴賓室で化粧室に行った伯母を待っていた。
従兄の伯爵が噂通り、堅実な実業家で確かな見識を持っていることは会ってすぐに分かった。世襲の家柄と財産だけを頼りに暮らす他の軽薄な貴族どもと同じだとしたら、そもそも伯爵と会ってみようとは思わなかっただろう。
伯爵を見送って通りまで出ていたアルトマンが戻って来た。
「オスカー、先日見せたカフリンクスの新作が入ったのだが、見ていかないか」
「ありがとう。しかし、叔母上がいるので―」
ロイエンタールの向かいに立って、アルトマンは店の方に誘うように手を振った。
「コルネリアなら君のために喜んで見立ててくれるだろう」
笑って、ロイエンタールは手を振って答えた。
「だからですよ。あなたはご存知か知らないが、叔母と買い物などしたら日があるうちには帰れなくなる」
「我々のような商売はそのような熱心な女性がいるおかげで成り立っているようなものなのでね。コルネリアが君を引き留めるなら、私は喜んでコルネリアに加勢するよ」
ロイエンタールが本当にぞっとしたような表情をしたので、アルトマンは声を立てて笑った。つられて青年の方も苦笑する。
「本当に、オスカー…」
賑やかに誰かに話しかけながら廊下をこちらへ向かって来る、コルネリアのヒールの音がした。
ロイエンタールは立ち上がった。テーブルをはさんで向こうに立つアルトマンとはほとんど同じ背丈だった。
「ありがとう。また別の時に一人で来ます。たぶん、パーティーの前に…」
アルトマンはロイエンタールの差し出された手を力強く握った。
「ああ、君の身の回りのものを私の店で選んでくれると嬉しい。待っているよ」
その言葉を聞いて青年は目を細めてアルトマンを見ると、仕方のない人だ、と言いたげに静かに微笑んだ。アルトマンはその微笑みに見覚えがあった。
―ヘルマン、それではあなたが作ったという新作のネックレスを持っていらっしゃい。本当に金細工の腕前が上達したか見てあげる。
彼女はよく出来ていればパーティーに着けて行ってあげる、と言ってくれた。それがかなうことはなかったが…。