Season of Mackerel Sky
前奏曲
4、
翌朝、出勤するエーリカと中央駅広場で別れて、ロイエンタールは自宅へ戻った。昨晩は無精ひげの軍人らしき男に見送られて彼女と連れだって店を出た。その流れでなんとなくエーリカの部屋へ寄ってしまい、特にその気もなかったのに彼女とベッドを共にしたのだった。
彼とて一緒にいる女性に愛着を感じ、離れがたく思う時がある。そのような熱意もなしに女性を抱いたくせに、そんな自分にうんざりするなど我ながら虫のいい話だ。
楽しい夜を過ごして満足感と共に彼女の部屋を出たのであれば、自宅の玄関でしかつめらしい表情の執事と鉢合わせたところで何とも思わなかっただろう。ロイエンタールは十代のころから寄宿舎と官舎での生活を繰り返し、自宅での起居は数えるほどだ。しかし、なにしろ執事は彼を赤ん坊のころから知っており、親代わりの一人と言える人物だった。
余所の家のシャンプーの匂いを漂わせた朝帰りの主を、執事のボイムラーは感心しないという風に見た。ロイエンタールは今度オーディンに長期で滞在するときは、不便でも官舎を申請しようと思いつつ、執事の出迎えの挨拶に答えた。
「旦那様、お客様がおいででございます」
ロイエンタールは表情を抑えた執事の顔を見た後に、自分の腕時計を見た。
「まだ8時前だが、こんな早くに訪問者か。客はおれを待っているのか?」
社交には早すぎる時間だ。執事は硬い表情のまま頷いた。
「旦那様の部下だと仰っておいでの方です。旦那様は外出中でお戻りの時間は不明であることをお伝えしましたが、しばらく待たせてほしいと仰いました。旦那様の任務に関わることかと思い、客間にお通ししてございます」
なるほど、執事の表情が固い理由が分かった。社交の決まりごとを無視して部下がやって来る可能性があるならば、主人は執事にそのことを伝えるべきだったと思っているのだ。
「しかし、おれはまだ辞令も受け取っておらんから、任務どころか部下がいるはずもない。以前の任地の部下とは遠い宇宙に隔てられているし、今のおれは誰の上官でもないぞ。そいつはなんと名乗った?」
苦楽を共にした彼の小さな艦と頼もしい部下たちを懐かしく思い出しながら、次の任務でも同じように素晴らしい艦と部下を得られるだろうかとふと思った。
「それが、旦那様にはまだお目にかかっていないから、名前を告げたところでご存じないので言わぬと申されます。ゆえに旦那様にまずご挨拶をするまでは、わたくしなどには名を明かせられぬとのことです」
ロイエンタールは眉をひそめた。どうやらその部下とやらはロイエンタールに喧嘩を売るつもりでいるらしい。慇懃無礼とはこのことだ。
客間に行くと、一人の軍人がウイスキーのグラスを傾けつつ、足を投げ出してソファに陣取っていた。レオノラ・フォン・ロイエンタールが嫁入りの時に彼女の好みに合わせて誂えたという、執事自慢の当代一流の家具職人の手になるソファだ。
ロイエンタールはつかつかとソファの前まで歩み寄り、自称部下の男を見下ろした。
「私はロイエンタール少佐だ。卿は何者か」
男は悠々とグラスをソファの前のコーヒーテーブルに置くと、それでもきびきびとした動作で立ち上がり、規律正しく敬礼した。
「おはようございます。私はロイエンタール艦長の副長を拝命いたしました、ディッタースドルフ中尉であります。どうぞご命令を、艦長」
ディッタースドルフ中尉は昨晩の無精ひげの男だった。さすがに無精ひげはもう生やしていないがこの顔は間違えようがない。身だしなみも整え、起立した姿は栄えある宇宙艦隊士官に相応しい。だが、どこか人を馬鹿にしたような笑みを口元に漂わせていた。
「私の副長。卿の辞令を見せてもらおうか」
中尉は懐から紙の辞令を取り出し、余裕をうかがわせる笑みを浮かべたまま、ロイエンタールに手渡した。ロイエンタールはその文面を静かに読み、ますます眉をひそめた。そこには男の言う通りのことが書かれており、発効は昨日付けになっている。
「確かに卿は私の副長に任じられたようだな。卿の任務について口頭で何か指示を受けているか」
「その書面にありますようにロイエンタール少佐の元に赴いて、上官の指示を仰ぐようにと言われました」
ロイエンタールはディッタースドルフの表情をじっと見た。人を苛立たせる目つきをしてはいるが、その言葉に嘘はないように思われた。
「一つ聞いておきたいことがある。昨夜、私が友人と共にいたレストランに卿もいたようだが、なぜその時何も言わずにいたのか」
「おや、艦長もいらっしゃいましたか。あの店はいい料理を出しますね。そういえば、艦長はウォルフガング・ミッターマイヤー少佐という方をご存知ですか」
ご存じも何もない。この男は何を言い出すつもりか。
「ミッターマイヤーは友人だ」
「私の友人もミッターマイヤー少佐の副長を拝命しまして、その方と連携した任務のような感触を得ましたもので」
「卿は具体的な任務内容を知らぬのに、憶測でものを言うのか。何故そう思った」
ロイエンタールの指摘にも動じず、ディッタースドルフは澄まして答えた。
「私と友人は同時に呼び出されまして、その辞令が上官の名前以外、一字一句同じでした」
辞令の文面など定型文だろうが、そもそもロイエンタールにしてからがミッターマイヤーとの連携をにおわせた任務の内定を受けていたのだ。とすると、この男はなかなか勘の鋭い性質ともいえる。
ロイエンタールはディッタースドルフを立たせたまま、自分は懐から端末を取り出し、ミッターマイヤー宛てにビジフォンを掛けた。いつまでも呼び出し音が鳴り響き、ミッターマイヤーは取り込み中かと思っているとようやく相手が受信した。
「…ミッターマイヤー、卿は…」
ビジフォンにつややかな髪の輝くような笑顔の可愛らしい少女の顔が映し出され、ロイエンタールは口を開けたまま言葉を飲んだ。
『おはようございます。ロイエンタール様、私、エヴァンゼリン・ミッターマイヤーと申します。ウォルフは端末を忘れて出かけてしまいました。ウォルフが帰りましたら何かお伝えいたしましょうか』
エヴァンゼリン…ミッターマイヤー! まだ結婚もしていないのに、奴の姓を名乗って、妻気取りか…! ロイエンタールは我知らずカッとなった。だが、彼女はミッターマイヤー家の養女なのだ、と何か馬鹿げたことを口にする前に危うく思い出した。
目を剥いて黙りこくっているロイエンタールの様子に戸惑ったような少女の面影がモニタに映る。奴はこの少女と昨夜一緒に過ごしたのか…。だが再び辛うじて、ミッターマイヤーは両親と少女が共に住む家に滞在しているのだと思い出した。
「おはようございます。失礼しました。ミッターマイヤー少佐はどこへ行くか言っていましたか」
『司令本部へ行くと言って、部下の方と一緒に慌てて出ていきました。端末も忘れて…』
その慌てぶりを思い出したかのように、少女は可愛らしい笑みを浮かべた。ロイエンタールは内心の苛立ちを押し隠して、ことさら静かな声で答えた。
「分かりました。彼の後を追って司令本部に行ってみます。もし、行き違ってミッターマイヤー少佐がそちらへ戻るようでしたら、ロイエンタールに連絡するように伝えてください」
『承知しました。ロイエンタール様にご連絡をするようにと必ず伝えます』
少女はまだ十九とも思えぬしっかりした口調で答えた。表情も朗らかながら真面目で真剣なもので、これなら人間に相当根深い不信感を持つ者でさえ彼女の言葉を信用してしまうだろうと思わせた。
ロイエンタールは礼を言ってビジフォンを切った。ふと、目の前に立つディッタースドルフを見ると、彼も端末を操作していた。
「あ、アイヒラーか。卿はミッターマイヤー少佐とご一緒か? なぜ分かったかは後で説明する。卿の上官に代わってもらえないか、ロイエンタール少佐がお話ししたいそうだ」
ディッタースドルフは端末をロイエンタールに渡した。またあの表情を浮かべている。ロイエンタールはいまいましさを感じつつ端末を受け取った。
『なんだ、どうしてアイヒラー中尉の端末が分かったんだ? いったいどうした?』
「ミッターマイヤー、おそらく卿もおれと同様だと思うが、司令本部には辞令を確認しに行くのだろうな」
『そうだ。俺の方はなんの辞令もないのに突然、アイヒラー中尉が来て俺の副長になったと言うじゃないか。きっととうとう俺の辞令が出て、俺のはどこかで行き違ったかしてて、その間にアイヒラーに先に届いちまったに違いない。おまえもそうなのか? さっきビジフォンに出た男はおまえの部下か』
「そのようだ。ミッターマイヤー、おれもこれから司令本部へ行く」
『分かった。とりあえず、俺は先に行ってるからな』
ビジフォンを切って端末をディッタースドルフに返すと、さすがに相手は戸惑ったように上官を見ていた。
「あの…、艦長は辞令を受け取っていらっしゃらないので…?」
いったいどこのどいつがこのように自分を馬鹿げた立場に追い込んだのか。ロイエンタールは中尉に向かって頷いた。
「上官には辞令が届かず、部下には届いているなんて、聞いたことがないですよ。お友達の家で受け取って、うっかりそのままということはないですか? それに、このお屋敷には召使いとか、お女中とかがたくさんいるようですが、そういう人が受け取って渡すことを忘れてるとか?」
ディッタースドルフの口調は年少の未熟者に物の道理を教えようとしているかのようだった。ロイエンタールはぎろりと色違いの双眼でディッタースドルフを睨み付けた。
「ディッタースドルフ中尉、卿は余所の艦の副長から、おまえの艦の兵たちはおまえの指揮通りに戦うことが出来るのかと聞かれたらどうする」
「は?」
「この家の従僕及び女中はみな、おれの執事の指揮の元その職務に忠実に勤めている。卿がおれの艦の副長だと言うならば、おれの執事はおれの自宅においての副長のようなものだ。同輩の職務を敬うことだな」
おれの執事は卿の召使いではない。そう付け加えようとしたが、ディッタースドルフの赤くなった顔を見て口をつぐんだ。少しは態度を改めるかと思ったが、中尉は性懲りもなく言葉をつづけた。
「それではやはり艦長のお友達のところでお忘れではないですか」
「…卿はおれを受け取った辞令の存在も忘れるようなうっかり者だと思うのか」
「念のために確認したいと思っただけです。しかし、艦長が辞令を受けていらっしゃらなかったら、私はいったいどうなるんですか?」
知るか。どうなるかはおれの方が知りたい。だが、ディッタースドルフが初めて少々不安そうな様子を見せたので、ロイエンタールは言葉を継いだ。
「おれは司令本部へ行く。卿はおれの部下ではないゆえこれは命令ではないが、さしあたり官舎で待機しておればよいだろう」
「いやあ、それがです。私はもう辞令を受けて乗り組みの艦もあるのだからと、今朝官舎を追い出されたんです。今頃私がいた部屋には別の奴が入り込んでると思います。帝都は住宅難ですからな」
言われて気づくとソファの足元には大きなずだ袋と携行品箱が置いてあった。乗り組みの艦がすでに準備されているのであれば、副長たる者まっさきに乗り込んで泊まり込みで出港の準備をすることになる。上官に挨拶をして、その足ですぐさま艦に向かうつもりだったのだとしたら副長として相応しい行為だ。荷物を上官の家に持ち込むのはどうかと思うが。
この男はおそらく任務に対する熱意は十分にあり、物怖じしない堂々とした性格をしている。先ほど即座にミッターマイヤーの副長候補にビジフォンを掛けたことといい、勘もいいしよく気が利く。軍人としての能力に不足はなさそうだ。しかし、その態度にはいちいち引っかかった。
ロイエンタールはダークブラウンの前髪をかき上げてため息をついた。感情が激した時、ミッターマイヤーがよく頭髪を掻き回しているが、自分も彼と同様に頭をかきむしりたい衝動を覚えた。
「それでは卿もついて来い。司令本部が辞令の種明かしと卿の官舎の用意をしてくれることを願おう」
ディッタースドルフはにやりと笑った。
「いや、艦長。もしよろしければ小さい部屋でいいんでこのお屋敷に住まわせてもらえませんか。どうせ官舎はすぐ空きはしないだろうし、空いたと思ったらもう宇宙へでなきゃならないってことになるに違いありません。その点、このお屋敷にいさせてもらえれば、本当に艦長の副長になった時にはすぐお供出来ますから」
絶句してロイエンタールはディッタースドルフのにやけ顔を見つめた。
「とにかく司令本部へ行く。後のことはそれから決める」
「承知しました。司令本部が何を言うか聞かなくてはなりません。行きましょう」
先ほどロイエンタールがついて来い、と言ったことに対しての返事ではなかった。命令されたからではなく、自発的にロイエンタールについて行ってやるのだと言いたげだった。