Season of Mackerel Sky
前奏曲
3、
ミッターマイヤーは金と黒の重々しい雰囲気の店構えにしり込みした。ショーウインドーから見える太い金鎖のネックレスに目を見張る。
「なあ、この店はちょっと高級すぎないか?」
ロイエンタールは腕組みして親友を見た。
「何を買うつもりにせよ、最も良いものを見てそれを判断材料にするんだ。そうでないとまがい物を掴まされるぞ」
「こんなすごい店、俺なんかきっと相手にしてくれないよ」
窓からちらりと店内の様子を見てミッターマイヤーが小声で言った。店内は天井が高く、神殿のような白く太い円柱の間にまばゆいショーケースがあり、数人いる店員は寄りがたく見えた。
「堂々としていろ。気に入ったものがあれば買う気でいればいい。実際に買うかどうかは別としてな」
「買う気でね…」
店の入り口すぐに色鮮やかな二組のバングルがガラスケースに展示されていた。ミッターマイヤーはロイエンタールについて行きながら、そのケースの中の小さなプレートに目を止めたが、示された値段のゼロの数を見なかったことにした。
―エヴァにはふさわしくないな、あんなけばけばしい色合いは。
そう思うと、不思議と落ち着いてきた。
ロイエンタールはしばし店内のショーケースを眺めていたが、彼に声をかけるタイミングをうかがっていた女性店員に振り向いた。店員はロイエンタールの顔を見て息を飲み、見る見るうちに赤くなった。
「ヘル・アルトマンはおいでだろうか」
哀れな店員は今度はぎょっとしたようだった。
「支配人のアルトマンでございましょうか。失礼ですがご予約はいただいておりますか」
「予約はない。少し話を伺えたらと思っただけだ。彼が忙しいようであれば構わない」
だが、店員が「申し訳ございませんが…」という前に当のアルトマンが、店の奥の扉からロイエンタールの方へやって来た。
「君、いいんだ。彼は私の親戚だ。―どうしてここが私の仕事場だと分かったのかね」
言葉の最後はロイエンタールに向き直って聞いた。
「アンシュッツの叔父にあなたがこちらにいると聞きました」
「ヘル・アンシュッツか。彼にはお客を寄越してくれたお礼を言わねばな。何かお探しかな」
ロイエンタールとミッターマイヤーの両方に視線を送りながら言った。ロイエンタールが頷いてミッターマイヤーを押し出す。
「友人のミッターマイヤー少佐が婚約したもので、彼の婚約者のために婚約指輪を見立ててもらえたらと思って」
「それはそれは、おめでとうございます。こちらのケースにある指輪などは女性の方によくお選びいただきます」
ミッターマイヤーは赤くなって口を開いたり閉じたりしていたが、親友が涼しい顔をしているので、ようやく気を取り直して言葉を発した。
「実は少し控えめなデザインの方がいいかと思うんですが…。その、派手だと値段もあれだし…」
「よろしければご予算を伺えますか」
思いつめた表情のミッターマイヤーが述べた金額に、ロイエンタールは目を見張った。それは少佐の年棒全額と同じだった。それがミッターマイヤーにとって気軽に出せる金額ではないことはロイエンタールでさえ分かった。
そんな金額を宝石店の支配人に打ち明けては、足元を見られるか、カモにされるかどっちかだ。ミッターマイヤーの袖を引いて、ロイエンタールは警告しようとした。
だが、さすがにアルトマンはミッターマイヤーが提示した金額の意味を知っていたようだった。
「それだけご用意されていらっしゃったら、ご安心ですね。それではまずはこちらをご覧いただきましょうか」
ショーケースの中の引き出しから出してきた指輪は、目を奪うような装飾のものはなく、どれもほんのアクセント程度で、バンドも取り扱いやすい細身のものだった。値段もせいぜい少佐の月給3か月と言ったところだ。ミッターマイヤーがほっとしたように少し屈んで真剣に吟味しだした。
アルトマンがもう一つボックスを引き出して、ショーケースの上に乗せる。
「これはちょっと太めのバンドですね。三重になってるんですか?」
「そう、指輪をはめたままそれぞれクルクルとまわすことが出来ます。3回まわせたら願いが叶う、という言い伝えがあるのですよ」
「へえ」
金のバンドとエマイユ*のバンドが重なって連なっており、ミッターマイヤーが手に取ってみると、アルトマンの言葉通りに、バンドがそれぞれくるくると回りながらも外れることはなかった。
「へえ~、面白いな、どういう仕組みだろう」
ミッターマイヤーは太くてがっしりした自分の指にはめようとしたが、ロイエンタールが親友をつついた。
「おまえがはめてどうする。彼女の指輪のサイズはいくつだ?」
「あ、そうか、えーと」
ミッターマイヤーは自分のずんぐりした小指を眺めて眉をしかめた。親友の手を取ってその小指を比べてみる。
「俺よりは細いが、エヴァの可愛い手に比べたらでかいな」
「…おい」
アルトマンが笑って声をかけた。
「靴と指輪はサイズがはっきりしていませんとね。もし、サイズがお分かりでないようでしたら、ぜひ婚約者の方と一緒にまたおいでください。私か、店長がご案内いたしますので―」
ミッターマイヤーは赤くなって蜂蜜色の頭に手をやった。
「いやあ、どうもありがとう。彼女と一緒か、サイズを聞いて出直してきます」
ロイエンタールは取られたままの手を勢いよくミッターマイヤーから取り返した。その勢いで横を向き、そのまま離れたところにあるカフリンクスが並んだショーケースの前まで歩いて行った。
この店のデザインの特徴である、鮮やかなエマイユの意匠をこらしたカフリンクスのいくつかを吟味するように見た。
「ロイエンタール君、カフリンクスをお探しかな」
後を追って来たらしいアルトマンが声をかけた。
「ええ、まあ…」
本当は別に欲しいわけではなかった。ただ、ミッターマイヤーの隣に立っているのが少し堪えがたいと思っただけだった。だが、このカフリンクスは確かになかなか綺麗だった。平服の軍服に付けて洒落のめすような、大貴族出身の軍人の馬鹿げた真似をするつもりはないが、正装であればぜひこだわりたいところだ。
アルトマンはカフリンクスの引き出しをショーケースの上に出して、客が良く見られるようにした。手袋をした手で一組を摘まみ上げて、白地のベルベットのトレイに乗せる。
「これなど君のその瞳の色と似ているな。鮮やかな青だ」
「…どうせ上着の袖で見えなくなる」
「だが、君がそれをつけたら、少なくとも私は瞳と同じ色を君が袖に忍ばせていると知っていることになる」
ロイエンタールはカフリンクスから顔を上げて、アルトマンの顔を見た。その顔立ちはやはり40代の頃の父と似ているが、表情が違うせいでまったく似ていないとも言えた。今、その顔は静かにほほ笑み、だが自分の誇りある店にいるせいか自信たっぷりに見えた。
アルトマンはもう一つ別の色合いのカフリンクスを摘まみ、目の高さに上げた。
「あるいはもう一方の瞳にも合わせられる。こちらのエマイユは少し濃い青でまるで黒く見える」
照明が当たって、アルトマンの顔は細部までよく見えた。今までなぜ付かなかったのだろう。アルトマンの髪は少し明るいダークブラウンで、その瞳は両目とも暗い色合いだった。ほとんど自分の右目と同じくらいの色合い。
それは黒い瞳だった。
―彼女に…君の母親によく似ている。
ヘルマン・アルトマン…。40代半ばくらいか…? 自分が生まれる25年前にはまだ20代だった…。それに母親を知っている…。父親といとこ同士でそのせいか、よく似ている。
「あの人はおまえの親戚なんだろう。支配人と言ったら店の一番の地位の人だよな。おまえの友人だと言うんで俺の相手をしてもらってすまなかったな」
「…気にするなよ。別に気に入ったものがなかったらあの店で買うことはないぞ」
「いや、やっぱりエヴァにどんな指輪がいいか聞いてみないとな。一緒に行ってみるのが一番かな。それにしても、親戚だけあっておまえとよく似ていたな、ヘル・アルトマン、だったな」
「似ているか…?」
「ああ、横顔とかがなんとなく似ている。正面から見るとそうでもないんだが…」
―似ている? 父親といとこで、おれの親戚だから?
ロイエンタールは夕方、ダークスーツに着替えると執事に見送られてオーディン市街の中心地まで出かけた。あるカフェに入ると、そこには叔父の秘書を務めている女性がおり、緊張した様子で薄い金色の飲物を飲んでいた。彼女はロイエンタールに気づくと、にっこり笑って手を振った。
「ロイエンタール少佐、お会いいただけてとてもうれしいですわ」
ロイエンタールは立ち上がろうとする彼女を押しとどめ、隣の席に座った。
「こちらこそ、誘っていただきありがとう。お待たせして申し訳ない。あなたの上司は人使いが荒くて」
彼女は神経質な調子で口元を手で覆ってくすくすと笑った。
「5分も待っていませんわ。きっと叔父様は補給品もお出ししませんでしたでしょう。もうお食事に行きましょうか? ロイエンタール少佐」
くすくす笑いはいただけないが、とっさに軍人向けのジョークを言ったのは悪くない。陳腐なジョークだが努力は認められる。
「オスカーでけっこうですよ。慌てなくてもそれをゆっくり飲んでから行きましょう。あなたについて知る時間が欲しいから」
「オスカー、私はエーリカと呼んでくださいな。私もあなたのこと、詳しく教えて欲しいですわ」
「もちろん」
ロイエンタールはエーリカのうっとりしたような瞳を見つめたまま、店員に向かって手を上げると彼女から視線を離さずにビールを頼んだ。
叔父の秘書の女性と彼はお互いについて話し合った結果、とあるビアホールに行くことにした。
エーリカは少々気に障るくすくす笑い以外はおしゃべりも楽しい相手だった。可愛らしい女性だが、なんとなく次に会うことはない気がする―。そんなロイエンタールの考えを彼女が聞いたら残念に思うだろう。だが、エーリカはそんなことには気づかず、店内の何かが気になる様にチラチラと彼の後ろの方を見ていた。
「何か気になることでも?」
くすくす笑いもせず、エーリカが少し彼の方に身を寄せて小さな声で答えた。
「あちらの隅の方にいる男の人がさっきからずっとこちらを睨み付けているの。―だめ、見ない方がいいわ」
ただワインのグラスを取ろうとしただけでロイエンタールは振り向く気はなかったのだが、彼女は慌てて彼を制止した。ロイエンタールは心配げに握られているエーリカの手を握った。
「あなたの昔の恋人の一人ではないのか?」
「まあ、まさか! 私の知った人じゃありませんもの。なんとなくあなたの方を見ている気がしますわ」
「ふーん」
椅子をエーリカのすぐそばにまで引き寄せて、さも彼女と離れがたい恋人のようにぴったりと寄り添い肩を抱いた。すると、視界の端に彼女が言うとおり、こちらをじっと見つめる男の姿がぼんやりと見えた。
エーリカはロイエンタールの腕の中で顔は真っ赤になっていたが、彼が何をしようとしているか分かっていたようだ。
「見えました? 無精ひげの、ビールを飲んでいる人ですわ。あなたのお知り合い?」
「ああ、見えた。私の知り合いでもないようだな」
その男のテーブルに一人の人物が手を振りながら近寄った。さりげなく視線を送ると、その人物は歩き方や背格好から軍人らしく思えた。そのことを彼女に伝えると納得して頷いた。
「それではあの無精ひげの人も軍人さんじゃないかしら。きっとあちらはあなたを知っていて、話しかける機会を待っているのね」
彼らを睨み付けていた、という不穏な様子は忘れることにしたらしい。ロイエンタールも彼女の判断に同調して、男のことは忘れることにした。
無精ひげの男は友人が来たのにもかまわず、ロイエンタールが女性と顔を寄せ合ってひそひそと話す様子を見ていた。友人が男の袖を引っ張る。
「おい、何を睨み付けているんだ。なぜ挨拶に行かないんだ?」
「あちらは私服だぜ。軍人の仲間だと思われたくないのは明らかだ。下手に挨拶なんかに行ったら馬鹿を見ることになりそうだ」
「挨拶しない方がまずいと思うが。俺は挨拶に行くからな。こちらも私服だが、後で顔を会わせた時に何か言われてはかなわん」
無精ひげの男は友人に空いた椅子を指し示した。
「あちらはこっちに気づいてもいないさ。ほら、座れよ、あちらさんはもうお帰りだ。どうせどこか二人っきりになれるところに行くんだろうよ」
「いいじゃないか、恋人同士なんだろう。やっかんでるのか?」
「馬鹿言うな」
男は鼻で笑うと、ロイエンタールの後姿にビールのジョッキを掲げた。
「あんな軟弱な坊やが俺の上官だなんてな。しかも女遊びがお盛んな貴族のご子息とやらだ。卿もあの噂を聞いただろう、先が思いやられるな。その点、卿の上官は平民出の出世頭だって聞いたぜ。羨ましいね」
友人はため息をついて男の肩を小突いた。
「自分の上官のことをそんな風に言うもんじゃない。俺の上官については卿の言うとおり、かなり期待が持てそうなお人だ。だが、卿の上官についてもっと別の噂も聞いたぞ。実際に仕えることになるまで偏見を持たん方がいい」
だが、無精ひげの男は友人の忠告を馬鹿にしたように笑ってビールをあおった。
*エマイユ(仏:émail) :エナメル(英:enamel)、シュメルツ(独:der Schmelz)
すなわち七宝、琺瑯のこと。
宝飾店なので、仏語ルーツの用語にこだわりがあるようです。