Season of Mackerel Sky
前奏曲
11、
ディッタースドルフは大急ぎでシャワーを浴びて、格納庫まで下りて行ったせいで油臭くなった身体を洗った。綺麗なシャツと特別に借り受けた軍服の正装をクリーニング店の袋から出した。正装と言っても中尉の軍服はそれほど特別には見えなかった。
―どうせなら将官の正装を着れるようになりたいもんだな。せめて佐官になればかなり見栄えがするが、まあ、今の俺には分相応というところか。
ロイエンタール家の執事が薦めた宮廷風の半ズボンのお仕着せとカツラを断ったのだ。屋敷の主人が軍人なのだから、それを補佐する自分も軍人らしくやるのだ。
「副長! 大した色男じゃないですか。これから結婚式ですか」
航宙士長がからかって呼びかけた言葉にディッタースドルフはじろりと目を向けた。
「卿も良く知っての通り、艦長のお屋敷のパーティーに行ってくる。卿には留守番を頼むことになって悪いが、何かあったらすぐに連絡をくれ」
「救援を乞うまでになるべく持ちこたえるようにしますよ。副長は重要な役目があるのだから、そう簡単には抜け出せんでしょう。まあ、楽しんできてください」
艦長は主だった士官たちも自分の屋敷で開かれるパーティーに招待した。若い士官たちは、立食形式の料理に上流階級のお嬢さん方が相手のダンスがあると聞いて喜んだようだ。兵士たちの反感を買いはしまいかとディッタースドルフは思ったが、艦長や士官というのは特別な存在で、自分たちとは関係ないと思っているようだ。ともかく、この5日間、艦長が寝る間も惜しんで出立の準備に奔走していたおかげもあるらしい。上層部の働きぶりに兵士たちは敏感なものだ。
艦長が夜外出し、恋人と会っているらしいことをディッタースドルフは知っていたが、それすらも艦の者たちは皆、気にすることでもないと思っているようだった。
―俺がこだわり過ぎなのか? だが確かに艦長はよくやっている…。
ロイエンタール邸に着くと、裏口から入って廊下を急ぎ足で行き来する女中や下男の間を縫って玄関まで行った。いつもは静かな屋敷は立ち働く人々の興奮交じりのざわめきに満ち、煌々と明かりに照らされ、お客が来るのを待ちかねていた。
「まあまあ、来たわね、今夜はよろしくね。ディッタースドルフ中尉。あらまあ、結婚式みたいよ」
大きな階段の正面にある玄関ホールにはすでに鮮やかな青いドレスを着こんだフラウ・アンシュッツが夫と共にいて、航宙士長と同じことを言って、ディッタースドルフを困惑させた。
「帝国軍の勇士に慣れないことを頼んだようだな。私たちの甥のために面倒をかけたようだ。感謝する」
ヘル・アンシュッツは慇懃に言って中尉に握手を求めた。『甥のために』と言った彼の言葉は中尉の胸の内をチクリと刺した。
「いえ、その…。精いっぱい努めさせていただきます」
ようやくそう言って握手に答えた。
「ところで私たちのその問題の坊やはいったいどうしたのかしら。部屋にこもりっきりで出てこないのよ。ドレスの色が気に入らないのかしら」
「おおかた本当に出てこなくてはならなくなるまで、顔を出すのはごめんだと思っているのだろう」
叔父がほぼ正確に甥の心理を言い当てて、妻を笑わせた。コルネリアは手の中に扇をパシッと打ち当てると、ドレスをちょっとつまんで階段に向かって行った。
「きっと真珠のネックレスをなくしたとか、リボンが足りないとかで不貞腐れてるんだわ。ちょっと見てくるわね」
青い極楽鳥のような夫人がそれでも優雅な足取りで階段を上がっていく様子を、ディッタースドルフとアンシュッツは見送った。
「あの…。フラウがおっしゃっているのは艦長のことですよね」
アンシュッツはひと声大きな声で笑った。
「もちろん。あれの言葉遣いは気にせんでくれ。オスカーはコルネリアにとって息子の代わり、娘の代わりのようなものだからな」
苦笑して答えたアンシュッツの目が寂しそうに見えたので、ディッタースドルフは気づかないふりをして咳払いをした。大きく開かれた玄関から、客が入ってこないかとさりげなく外を覗く。すると表の通りから地上車がやって来るのが見えた。すぐに後から続いて来ているようだ。
「さてさて、おそらく最初に来るのは一族の者たちだろう。しばらくは名前を呼ばなくてもよい。そろそろとなったら声をかけるからな」
アンシュッツはディッタースドルフの肩を叩いて安心させると、玄関にやって来た恰幅の良い中年男性に両手を広げて近づいて行った。
オスカーは叔母のものらしき靴音を聞いて、急いでウイスキーのボトルとグラスをオーディオシステムの収納に隠した。扉を閉めた途端、叔母がノックもなしに部屋に入って来た。
「オスカー! さあ、観念なさい。今すぐ下に降りて行かないと後悔することになってよ」
「まだ親類の誰彼が来たというところでしょう。何も後悔するようなことは…」
「いいえ、あなたのミッターマイヤー艦長はきっと時間通りに来るわよ。彼と許嫁の姿を一番に見たいでしょう」
「…なるほど」
叔母はオスカーの軍服を厳しい目で上から下まで眺め、銀色のモールを指ではじいて綺麗に整えた。後ろに回って佩用のサーベルの帯がちゃんと金具に掛かっているのを確かめると、肩のあたりをハンカチではたいた。
「さっき執事が念入りに確認しましたよ、叔母上」
「あらまあ、それでも見させてちょうだい。大騒ぎが始まったらじっくり見て楽しむ時間はあまりありませんからね」
叔母が鼻声で言うのを聞きつけて、オスカーは後ろを振り向いた。叔母は化粧が落ちないように小さくたたんだハンカチを潤んだ目元にあてていた。甥と目が合うと笑って言った。
「まあ、馬鹿みたいね。あなたのこんなに立派な姿を、お兄さまやあなたのお母さまがご覧になったら…、って思ったらついね」
甥はなるべく声音がきついものにならないように答えた。
「さあ、あの人たちがどう思うか知りませんが、叔母上には今日まで骨を折っていただき、感謝しています」
「オスカー! あなた結婚するの!?」
叔母が頓狂な声を上げたので、甥は目を天井に向けた。
「何を言ってるんですか」
「だってまるでお嫁に行くみたいよ! さあさ、結婚行進曲に乗って、手に手を取り合って戦場に行くのよ。そろそろ下には敵がいっぱいになっているわよ」
「…つまり叔母上の腕を取って階段を下りて、客に会えと言っているんですよね」
「もちろんよ! ロイエンタール艦長、全速前進!!」
興奮した叔母から誰か助けてくれないかと視線をさまよわせる甥の腕を引っ張って、コルネリアは結婚行進曲を口笛で吹きながら階段に向かって行った。
「ウォルフガング・ミッターマイヤー少佐、並びにフロイライン・エヴァンゼリン!」
招待状を半眼にかざしつつ、ディッタースドルフ中尉が高らかに声を上げた。
階段の上から名前を呼ばわれた二人が広間に入って行くのを見て、叔母がほらね、というように甥に目配せをした。ロイエンタールは苦笑して叔母の腕を取って階段を下りて行く。
ミッターマイヤーが気づいてロイエンタールに手を振って近づいた。
「いいパーティーになりそうだな、おめでとう、ロイエンタール」
ロイエンタールは目を天井に向けたいのをこらえて、親友の握手に答えた。
「…ありがとう。食事の後のダンスまで楽しんでいってくれ」
エヴァンゼリンは輝くような笑顔でロイエンタールが彼女の手に屈みこむのを見ていた。顔を上げた彼に興奮した様子で頬を赤らめて言った。
「本当に、ロイエンタール様、こんな素敵な機会をいただけてとても嬉しいです」
「こちらこそ、味気ないパーティーに花を添えていただき、ありがとう。ご婦人のことはよくわからないが、なにかあったらこの叔母に言ってください」
「あらまあ、わたくしなんかの出番はありませんよ。このフロイラインにはちゃんと素敵な騎士がいるんですからね。でも、わたくしはいつでもあなたのお役に立ちますよ」
玄関からは次々と客が入って来た。ミッターマイヤーがそれに気づいて、コルネリアにお辞儀をし、ロイエンタールには目配せして、エヴァンゼリンを連れて離れて行った。エヴァンゼリンの裾が大きく広がった可愛らしいドレスにミッターマイヤーが足を取られて、二人してくすくす笑いながら去っていく。ロイエンタールもしぶしぶ親友の後姿から視線を外した。
「マールバッハ伯爵クリストフ閣下、並びに令夫人!」
少し離れたところで客と話していたアンシュッツがぎょっとしてロイエンタールに振り向いた。すでに広間でおしゃべりに興じている複数の客人たちもどよめき、首を伸ばして玄関ホールを見た。
コルネリアが両手を広げてマールバッハ伯爵夫妻に近づいた。
「マールバッハ伯爵、良くおいでくださいました。伯爵夫人もご一緒においでいただけてとても光栄ですわ」
「お招きありがとう。素晴らしい宵になりましたね。あなたの装いはこの夜にぴったりですよ」
「ありがとうございます。奥様のネックレス、とても素敵ですわ。なんてすんなりとして優美なお首でしょう」
叔母はまるで首切り役人が言いそうな台詞を言って、おかしなところを褒めるものだと甥は思ったが、伯爵夫人は素直に褒め言葉と受け取ったようだ。にっこりしてコルネリアに礼を言い、彼女のドレスの色合いは珍しいものだが良くお似合いだと褒めた。
アンシュッツの叔父がロイエンタールの袖を盛んに引っ張って注意を向けようとしていた。
「なんてことだ、オスカー! マールバッハ伯爵をお呼びしているなど、一言も…! 席次などは問題ないのか? コルネリアは平気な顔をしているが、前もって知っていたのだろうな!?」
小声で叩きつけるように甥に言った。
「叔父上には黙っていて申し訳ありません。叔母上も執事も前から分かっているので、伯爵に失礼になるようなことはありません」
「…そうか、ならばいい。びっくりさせるではないか。このことで一族の者たちは皆、おまえは一筋縄ではいかぬと思い知っただろうな」
叔母が言った通り、アンシュッツは出し抜かれて怒ることはなかった。むしろ人の悪そうな笑顔で愉快そうにほくそ笑んでいる。叔父はずっと父の懐刀として過ごしてきて、ロイエンタール家の親族の男性陣には抜きがたい対抗意識があるらしい。
「どうやら、波紋を投げかけることに成功したようだね。お招きありがとう、オスカー」
ヘルマン・アルトマンが二人の少女の腕を取って現れた。旧知のアンシュッツと懐かしそうに握手をして、娘二人を紹介した。彼女たちはまだ15、16と言ったところだが、フェザーン風のすっきりとしたデザインのドレスを着て大人びた美少女たちだ。パーティーには物慣れている様子だが、ロイエンタール家の若き当主の挨拶を受けてぼうっとしていた。
晩餐の開始の銅鑼が鳴らされ、ロイエンタールがこの場で一番身分の高い、マールバッハ伯爵夫人の手を取って、先頭に立って晩餐が準備された広間へ進んだ。後にコルネリアの腕を取ったマールバッハ伯爵が続く。
晩餐の間、ミッターマイヤーはエヴァンゼリンと少し離れた席に案内されて、ハラハラして彼女の方ばかり見ていた。エヴァンゼリンはと言えば、すぐ近くにフラウ・アンシュッツが座って、さかんに周囲の人々におしゃべりを投げかけていたので、不安な気持ちはすぐ忘れたようだった。
「お若い方、あなた、こちらのオスカーの戦友なのかしら」
隣の席に掛けた森の老木のようなかなり年配のご婦人がミッターマイヤーに問いかけた。
「はい、私は彼とはもうずっと何年も一緒に戦場を行き来しています」
「何年も…? 何十年も?」
しわだらけの口元をほころばせてご婦人がからかった。
「失礼しました。まだ3年くらいなんですが、私にとってはもっとずっと以前から一緒にいるように感じます」
「いいお友達なのね。こちらのオスカーが軍人になると聞いた時は、もったいないと思いましたけど、彼は上手くやっているのかしら。あの正装姿は素敵ですけどね」
老婦人はしゃがれた甲高い声で笑ってワインを飲んだ。ミッターマイヤーは苦笑して答える。
「お身内の方からしたら、きっと彼の子供の頃の姿を思いうかべて信じられないのかもしれませんが、ロイエンタールは私が知る中でも最上の軍人です。帝国軍でももっとも優れた士官の一人だと思います」
「そうなの? まあ、前回オーディンにいた時あの子はたくさんの社交界の花を散らしました。とうとう降格、追放に近いことになってねえ…。軍隊があの子をまともにしてくれたのなら結構なことですよ」
ご婦人はよほど近しい仲の親類だろうか。この場で自分と会う前の親友について聞くことは適切だろうかとミッターマイヤーは思った。
「あのような騒動になって、あれの父親は家の恥だと思ったようですけどね。私などから言わせれば、男親だけでは反発するばかりで無理があったのですよ。もっと早くに私たち親族の手に任せてくれていればね。私なら立派な経営者に仕立て上げることができたというのに」
最後の言葉を聞いてミッターマイヤーは直前まで想像していた優しい義理の母の姿を打ち消した。周囲の人々の会話から察するに、どうやらロイエンタール一族はオスカーの父親のおかげで、男女問わずたいへん経済活動に熱心なようだ。
「しかし、彼はもうすでに軍人として経験も積み、信頼を得ています。奥様は彼の将来について安心なさっていいと思います」
老婦人は心底残念そうにしぶしぶ頷いた。
「まあ、私たちはもともと武を貴ぶ帝国騎士の家柄ですからね。アルトマンのような細工師は異質ですよ。もっともあれの父親が骨董狂いの変わり者でしたから、まだましな方ですよ」
経営者として世間を良く知っていても、手工業に従事する者に対する貴族的な差別意識は抜けないらしい。ミッターマイヤーは少し残念に思いながらも、アルトマンを庇うつもりで言った。
「私は彼の店で素晴らしい婚約指輪を購入しました。デザインも質も素晴らしいものでしたので、婚約者はとても喜んでくれました」
「確かにウェレンマイスターは帝国の誇りある良い店です」
金色のネックレスをもて遊びながら言ったことから察するに、ご婦人はウェレンマイスターの顧客と思われた。
「あなたの婚約者はあちらのお嬢さんでしょう? ずっと私と反対側を見ていたからすぐわかりましたよ。オスカーも早くあのような素敵な娘さんの手を取ることが出来ればいいのだけどねえ。このパーティーを開いたコルネリアの意図は、そこにあるとにらんでいますよ」
「私も、ぜひこのパーティーで親友によい女性が見つかればと思います」
ミッターマイヤーが熱心に言ったので、老婦人は大喜びで甲高い声で笑った。