Season of Mackerel Sky
前奏曲
10、
その日、あと1時間もすれば店じまいという頃、自分の事務室で端末に向かっているアルトマンの元に店長から通信が入った。
『ヘル・アルトマン、ご親戚のロイエンタール少佐様がお連れ様といらっしゃいましたよ。ご挨拶なさいますか』
アルトマンは興奮したような店長の口調に眉を上げた。どんな貴人や有名人の来店にも当然のようにふるまう店長が、ずいぶんとあの色違いの瞳の青年を気に入っているようだ。
「そうか、彼も我々のちょっとしたものを気に入ってくれているようだね。お連れとは先日のミッターマイヤー少佐かな」
『あら、女性の方です。他でもないあの、モデルのカサンドラです。彼女が軍人さんと付き合っているなんて知りませんでした』
アルトマンは店長の言葉に冷ややかに答えた。
「有名人の噂話をするとは君らしくないね。邪魔をしては悪いから私は顔を出さずにおこう。君も特別扱いして彼らを辟易させないようにな」
『―申し訳ございません。大丈夫です、お客様がご不快になるようなことは致しません』
「頼んだよ」
アルトマンは通信を切ると自分に対する嫌悪感に両手で顔を覆った。だが俯いていては仕事にならない。しぶしぶ顔を上げて端末に向かって書類を読むふりをしたが、やがて誘惑に負けて店内の様子を映したモニタに視線を向けた。
店の中央、ウェレンマイスターの品々の中でも一番高級なネックレス類が揃ったショーケースの前に彼らはいた。
女性の方は確かにここ数年で有名になったファッションモデルのカサンドラだった。彼女がこれまでこの店に来たことがないのは、まだ若い女性だからだろう。我が店に来ようとは彼女は少々背伸びをしているようだな、と品定めしつつ、隣に立つ軍服姿を見た。
彼の方はまだ20代半ばですでにこの店に相応しい気品と風格を感じさせた。黒と銀の軍服が彼の容貌に年齢以上の落ち着きを与えている。そもそも彼ははしゃいだり、騒いだりするタイプではない。彼は店内をじっと見渡していたが、カサンドラに呼びかけられてそちらに彫像のような笑顔で振り向いた。
彼はショーケースに寄り掛かって、あれこれネックレスを試しているカサンドラに感想を言ったり、アドバイスをしたりしているようだ。カサンドラがひときわ大きな繊細な金のレース編みを思わせるネックレスを首にあてた。値段のことを言えば、今、店内に出しているジュエリーの中で一番高価なネックレスだ。
まさかあれを彼女に買い与えるつもりかとひやひやしながらアルトマンがモニタに噛り付いていると、ロイエンタールははっきりと首を振った。彼女は何か抗弁しているようだが、やがて諦めたか残念そうにネックレスを首から外した。接客している店長もほっとしたような表情をしている。
どうやら上手く収まったらしく、カサンドラは恋人と店長のアドバイスを受けて、先ほどのものより値段は控えめだが、ずっと彼女に良く似合うネックレスを選んだ。店長が安心してさかんに褒めている様子がモニタからも分かった。彼の表情ははしゃぐカサンドラが邪魔になってよくわからなくなった。
店長及び店員全員で幸福な恋人たちを見送ったところまで眺めて、ようやくアルトマンはモニタから視線を外した。
少し休憩して気分を変える必要を感じて、アルトマンは席を立った。給湯室で熱いコーヒーをゆっくりと淹れ、その香りにほっとしながらカップを持って自分の席に戻った。
カップを置いたアルトマンがさて、椅子に座ろうと正面を向いた時、彼の事務所の窓からある情景が見えた。
この店の建物の2階に彼の事務室があり、その窓は裏通り側に向いている。その小さいながら由緒ある店が立ち並ぶ通りのところどころに、さらに奥へ続く路地があった。彼の事務室の窓の正面にもそのような路地があり、今、そこに二人の人物がいた。
裏通りから奥まった位置にある路地は薄暗く、誰もそこをのぞき込もうとはしないだろう。真正面の2階の窓から見る者以外に彼らの姿に気づくことはない。
だが、その特等席にいる者には彼らが何をしているかよくわかった。
彼らは抱き合って忙しなく唇を合わせていた。女の方は男の首にしがみついて、ほとんど男の身体によじ登ろうとしているかのように見える。男の方は壁に寄り掛かって、女が羽織るコートの下に手を滑らせて女の腰の線に沿ってその身体を撫でていた。
女がじれったそうに男の腰に長くてみずみずしい足を絡ませたので、コートとドレスの裾がすっかりはだけた。モデルが着るにふさわしい最新流行のデザインで仕立てた小さなドレスは、女の腹の辺りまで完全にまくり上げられて、白い肌を晒していた。そこに男の手が伸びて布地を押し上げ、掬うようにするとまるい胸が現れた。女の胸を揉みしだき、ぷっくりとした朱色の頂点を口に含んで時折ちらりと舌が覗いた。同時に男の手が女の裸の足の間に動き、女もその動きに合わせて大きく腰を揺らしていたが、不意に口を開いてのけぞった。
アルトマンには聞こえるはずのない女の叫びが聞こえた気がした。
ほとんど裸にしか見えない女と比べて、男の軍服に乱れたところはなかった。彼の顔は背の高い女がしがみついたせいで、こちらからは隠れてしまった。その男の手が女の丸い尻に伸びて、自分に引き寄せた。
音は聞こえずとも彼の腰の前後する律動とそれにこたえる女の動きから、彼らが何をしているか一目瞭然だった。
アルトマンは自分に考える余裕を与えずに、震える手で映像を消した状態でビジフォンを掛けた。しばらく呼び出し音が鳴り、その音はアルトマンの激しい鼓動の音とまじりあった。
『―はい』
アルトマンの頭の中は完全に真っ白になっていた。ビジフォンに出た彼の声は意外なほど落ち着いていた。
「今すぐここへ来るんだ」
彼の低い笑いが聞こえた。そこに女の喘ぐ声が混じった。布がこすれる音と何かがぶつかり合うような音、彼の徐々に激しさを増す息づかいまで聞こえた。
彼はビジフォンを切っていない。
『ああっ、いいわ…! もっと、オスカー! もっと…!』
女がうわ言のように男の名前を呼ぶのが聞こえた。彼の動きが激しくなったのが、その息づかいと二人の人間がぶつかり合う音でわかった。女が悲鳴を上げると、男も抑えた声を一声あげ―。
アルトマンはビジフォンの小さな機械を部屋の隅に放り投げ、それは壁に当たって部品を飛ばして壊れた。
頭を抱えて自分のデスクに掛けるアルトマンの前に、オスカーが現れた。
「何か話でも?」
アルトマンがゆっくりと頭を上げた。
「話…? 君はいったい…、なぜ、あんな…」
混乱した脳を反映するようにしどろもどろにしか言葉が出なかった。オスカーは肩をすくめてアルトマンを見下ろす。
「あなたはこの間から、そればっかりだ。言いたいことがあるならはっきり言ってくれ」
突然何もかもどうでもよくなり、アルトマンは激高して立ち上がった。
「言いたいことだと!」
両手を振り上げてオスカーの胸をドンと突いたので、彼はよろめいて後退した。その肩を掴んで激しく揺さぶった。
「君は私が欲しいと言っておきながら、こちらからの連絡には一向に返事もせず、そのうえ、私の店にあんな女を連れて来て、しかも私の目の前で―」
アルトマンは言葉の途中で彼の唇にむしゃぶりついた。息継ぎも忘れて彼の柔らかく甘い口の中を夢中で探った。
彼の顔から唇を離さず、ほとんど引きちぎらんばかりに軍服の前のホックを開き、その下のシャツを引っ張り上げた。ベルトを外して軍服のズボンをすっかり彼の膝のあたりまで降ろしてしまうと、彼自身が誇示するように姿を現した。アルトマンがその緩く立ち上がったものを平手で打ったので、オスカーは息を飲んだ。
「なんて男だ! 私をからかって! 結局これを使わなくては、私ではだめだと言いたいのか!」
「―そんなつもりは…! ヘルマン…!」
自分の名を呼ぶ声にカッとなったアルトマンはオスカーの軍服を捻り上げて突き放し、ソファに彼を投げ倒した。
その勢いを駆ってアルトマンは手を振り上げた。
だがオスカーの頬に手が触れる直前、はっとして動きを止めた。オスカーが目を丸くして頭上に振り上げられた手を見ていた。その顔は真っ青でぼんやりとした瞳には明らかな恐怖が宿っていた。
アルトマンはソファの前に膝をつき、オスカーの胸の上に頭を垂れた。
「すまない…! 私は何をしているんだ…! 君を殴るつもりはなかった…。ただ、君があまりに私を愚弄するから…」
オスカーは半裸でソファに寝転がったまま、アルトマンを見ていたが、やがて彼に手を伸ばした。
「いいんだ。あなたは何も言わないので、あなたの口を開きたかった…」
アルトマンはオスカーの手の下で小さく笑った。
「私には何も秘密はないよ…、単に自分のことを自分から話すのは苦手なだけだ…。聞きたいことを聞いてくれれば何でも話す…」
オスカーが小さな声で、おれも同じだと言った。ため息をついてアルトマンを彼の上に引き寄せた。
「本当に何も秘密はない?」
「どうやら君から離れることが出来なくなってしまったこと以外は―。これは君より他には誰も知らないことだ」
オスカーはじっとアルトマンの顔に強い視線を注いでいたが、やがて言った。
「それではここに来て、殴ろうとしたことを償ってくれ」
少し起き上がってアルトマンのシャツのボタンを一つ一つ外し、その中に冷たい手を差し入れた。
ロイエンタールはしばらくぼんやりして天井を見ていたが、やがて軍服のポケットを探って端末を取り出した。艦に搭乗中、受信を停止していたビジフォンを作動すると、着信欄にいくつかアルトマンからの通信を受信していた。それを確認すると、アルトマンの方に振り返った。
「辞令を受けて以来、ずっと艦と市内を行ったり来たりしていて着信に気がつかなかった。無視していたわけではないんだ」
「…そうか。君は軍艦乗りだったな。怖い艦長の頼れる士官といったところかな。どこか任地に行く予定なのかい」
ロイエンタールはその言葉の民間人らしい暢気さに思わず笑った。彼は徴兵の経験がないのだろうか?
「ヘルマン、おれがその頼れる士官の怖い艦長なんだ。任地がどこかは言えないが、5日後にはオーディンの空の上だ」
アルトマンは仰天して目を見張った。
「艦長…!? 5日後だとは…。だが、明日はパーティーがあるだろう。取りやめになったとは聞いていないが…」
「パーティーはやる。出立は5日後」
ロイエンタールがため息をついて言ったので、アルトマンは納得してうなずいた。
「そうか、それは忙しいだろうな。それでも恋人と会う時間は作ることは出来たのだな。任地に行ってしまったらカサンドラも寂しがるだろう」
「カサンドラ…? ああ、彼女とは別れた。寂しがる必要もない」
アルトマンは驚いて絶句した。
ロイエンタールはアルトマンのデスクに座り、窓から路地が見えることを確かめると、自嘲して首を振った。アルトマンから話を聞いた時にはまさか、これほど良く見えるとは思わなかったのだ。ビジフォンがかかってくるまでのことは意図してのことではなかったが、これは怒るだろう。
「だって君たちはあそこであんな…。君はあのような高価なネックレスを彼女に買ってやって…。彼女は本当に納得して別れたのか?」
「ヘルマン、女は現金なものだ。君のせいではないと言い、彼女の好きな物を買って物質的に満足させて、さらに肉体的にも満足させてやると、大概の女は別れ話に自分で理屈をつけて納得する」
三度驚きに囚われてアルトマンは澄ましてこちらを見るオスカーの表情を見つめた。
「君はひどい男だな。そんな別れ方をするほどあの娘はひどいのか? そもそもなぜ別れるんだ」
「パーティーがあるし、任務があるから。明日も付き合っていればパーティーにおれのパートナーとして出席したがるし、出立の日に涙ながらに見送られても困る」
つまり、カサンドラはそれを両方やろうとして彼に別れ話を切り出されたのだろうか。よく五体満足で女の手から抜け出せたものだ。信じられないことだが、ロイエンタールの台詞からは彼女が納得して別れたらしいことが察せられた。
混乱した様子のアルトマンには構わず、軍服の身なりを整えると、ロイエンタールはデスクの上の店内の様子を映したモニタを見た。
「そういえば、ヘルマン、ミッターマイヤーはあの後この店に来たか?」
「…ミッターマイヤー少佐? ああ、君が彼を連れて来た後に一人で来たよ。婚約者には内緒で買って驚かせたいと、意気揚々とやって来てね。彼はいい若者だね。店の者たちも皆、楽しく彼のお手伝いをさせてもらった。彼は婚約者に無事指輪を渡せたのかな」
ロイエンタールはアルトマンの言葉を聞いてもぼんやりしているようだったが、やがて気づいて言った。
「おれや他に20人くらいの人間の前で、プロポーズのやり直しをして、まんまと彼女の指にはめた。彼女の指には緩そうだったから、二人一緒にまたこの店に来るかと」
アルトマンはほっとしたように笑った。
「それはよかった。彼女のサイズはかなり小さくて、在庫にはないものだから今は取り寄せ中だ。少佐はひとまず一番小さい指輪を持っていくと言ってきかなくてね。そうか、君も結婚式が楽しみだろう」
「来週結婚式だと言ってる。ミッターマイヤーもおれと同時に辞令が降りて、一緒に任地に向かう。それで危機感を持ったらしい」
そう言ったロイエンタールの表情が鬱屈したものだったので、アルトマンは不思議に思って彼の前まで行った。デスクの椅子に座って何かを考え込んでいる姿は、どう見ても不貞腐れているようにしか見えなかった。
「君はミッターマイヤー少佐が先に結婚してしまうんで、それで機嫌が悪いのか」
ロイエンタールは鼻で笑ったが、「そんなことはない、ミッターマイヤーが結婚してすごくうれしい」とは言わなかった。
アルトマンは彼の隣に立ち、肩に手を置いて優しく撫でてやった。
「今は寂しいかもしれないが、彼はいい男だ。いずれ、彼の幸せを自分の幸せとして感じるようになるよ」
「おれとは関係ないところでやつが幸せになるのが癪に障るんだ」
アルトマンの腹に後頭部を預けて、彼の大きな手が自分を撫でてなぐさめるのを感じつつ、ロイエンタールが小さくつぶやいた。