Season of Mackerel Sky
19、
ディッタースドルフ副長は、艦長のご機嫌が大変良いのを目にとめ、にやりと笑った。艦長の様子は言ってみれば、遠足前の少年の如く胸を躍らせているという形容が相応しいと思われた。この艦長がステップを踏みながら鼻歌を歌い出したとしたら驚きだが、その想像も難くないと思われるほどであった。それほどの軽みを見せながらも、艦長はすでに副長相手に多数の訓練のアイデアを持ち出してきた。その内容の考え抜かれた緻密さは、さすがのディッタースドルフも襟を正さずにはおれないものだった。
―だが、まずはオーディン軌道上で開けと特別に言われている命令に何が書かれているか…、だ。
今、艦長は命令書を読むために一人艦長室に向かった。間もなく彼は呼ばれて、その内容が明かされることだろう。
ロイエンタールは艦橋を離れる時に見慣れない顔を見つけ、航宙士長に声をかけた。
「はっ、直前までインフルエンザで寝込んどりましたが、無事間に合いました。シュラー! 艦長にご挨拶しろ」
呼ばれて士官はさっとモニタ席から立ち上がり、「ご迷惑をおかけしました」と言って敬礼した。インフルエンザで寝込んでいたとは思えないほど、顔色も良い。軽症だったのならば幸いだ。
「元気になったのなら何よりだ。再発せんように無理はするな」
「はっ、ありがとうございます。体調に気を付け、帝国のため励みます」
ロイエンタールは頷いて士官を下がらせた。彼は艦長室へ急いだ。
搭乗の直前に事務官から手渡された紙の命令書を開く。その中身を読み進め、しばし考え込んだ。これはぜひミッターマイヤーとも話し合いたいところだ。目的地までは長い航海になる。
ロイエンタールは命令書の内容について協議するため副長を呼んだ。
ディッタースドルフ副長はまるで扉のすぐ外にいたかのように間を置かずに現れた。この男のことだから、実際にそうであったとしても不思議ではない。
だが、現れた副長は怪訝そうな表情をしていた。
「申し訳ございません、艦長。実はどうしても今すぐ艦長とお話をしなくてはならない、と言う者がおりまして…。しかも、そいつはさる高官のお墨付きを持っているとぬかすんですが…」
ロイエンタールはある予感がして副長に問いかけた。
「もしやその高官とはメルカッツ提督ではないか」
「なぜお分かりになったのですか!?」
ディッタースドルフは仰天して艦長をまじまじと見た。ロイエンタールは自分に与えられた命令書をひらひらと翻した。
「おれの今回の任務はメルカッツ大将閣下が最終的な責任者になっている。それゆえ言ってみたまでのことだ」
「はあ、なるほど…。それでは艦長、そいつをここへ呼びますか? どうも怪しいです。私も同席します」
ロイエンタールは机を指で叩いた。副長の遠慮のなさはどういうわけか過保護ぶりに変わって来た。
「よかろう。卿も同席しろ。その士官が何を話すつもりか聞いてみよう」
疑り深い表情をした副長が連れて来たのは、インフルエンザだったという航宙士、シュラーだった。ディッタースドルフは念が入ったことにブラスターを手にしており、シュラーは先ほどよりよほど青ざめていた。
デスクの自分の席を離れて、ロイエンタールは後ろに手を組んで二人の士官を前に立った。
「シュラー、卿はおれに何か言うことがあるようだな。もしや、卿のインフルエンザは仮病か」
「…なぜお分かりに…。そうです。訳あって、出航するまで外に顔を出すことは危険だと思われましたので。航宙士長には申し訳ないとは思いましたが…」
副長が忌々しげにシュラーを鼻先から見下ろした。
「あのくそ忙しい時に健康な人間がのんべんだらりと遊んでいたとはな…」
「よせ、ディッタースドルフ。この者は訳があったと言っている。その訳を聞かせてもらおう」
「はい、私は軍務省に雇われた間諜でした」
その言葉にディッタースドルフは鋭く息を吸った。彼は軽蔑するようにシュラーを見たが、当人はそのことを覚悟していたらしく、ぐっと固く拳を握りしめた。
だが、ロイエンタールは何の感情も表さずにシュラーを見つめていた。
「それで、間諜などがおれに何の用だ。おれに何かうまいネタでも売り込むつもりか」
「艦長がお望みであればお譲りいたしましょう。しかし、条件があります」
その姿勢は緊張したままであるものの、シュラーもまた、表情を変えずに上官に答えた。ディッタースドルフがその様子を見て、ますます嘲りの表情を濃くした。
「ほう、大金でも欲しいのか?」
「私を軍務省の手先から保護し、あなたの元でまっとうな航宙士として使っていただきたいのです」
上官を見返したその表情は、見る者によっては無礼とも取れそうなほどまっすぐなものだった。
「間諜としてはもう使われたくないということか。なるほど、それでメルカッツ提督に庇護を求めたか」
「はい。私は1か月前にさる任務から戻り、軍務省に報告に行くべきところを、オーディンに着いたその足で閣下の元に向かいました。私が報告に現れなかった時点で軍務省の手先が私を探し始めたはずです。閣下は何とかしようとおっしゃってくださいました」
「おれの部下に紛れ込ませるというのが、閣下のその何とかする手か」
シュラーは頷いた。
「最短の予定で、もっとも遠方に向かうことになっている艦はヴィーゲンリートか、姉妹艦のディソナンツでした」
明らかに憤慨した様子でディッタースドルフが口をはさんだ。
「艦長、軍務省だか何だか知りませんが、一度間諜になったものがそう簡単に逃れられるとも思えません。こやつは我らの艦と艦長に災いをもたらすようなものです。こやつを匿ったことで艦長ご自身が軍務省に睨まれることにもなりかねません」
「軍務省か。今のところ、軍務省などがおれに用はなさそうだがな。しかし、卿の懸念はもっともだ。そもそも間諜であったとして、実は軍務省などではなく別の払いのいい奴の指示で、この艦を探るために派遣されたのかもしれん」
シュラーは怒りも嘆きもせずに無表情のままロイエンタールに視線を向けた。その視線をディッタースドルフは落ち着き払ったふてぶてしさと感じた。一方で同じものをロイエンタールは帝国の裏側を覗いてきた男の諦観のようなものと感じ取った。
「もし、そうだとしたら、その別の人間に私が得た情報を渡したでしょう。それがあれば、その者は才覚次第で皇帝に取り入ることも、誰か大貴族を操ることも出来るでしょう」
馬鹿にしたようにディッタースドルフが「はっ!」と言って笑った。
「よくもまあ、皇帝とは大言壮語も甚だしいな。艦長、お許しいただければ衛兵を呼びますが」
ロイエンタールは鼻息の荒い副長に片手を向けて、押さえる仕草をした。シュラーに厳しい視線を注いだまま、ロイエンタールは言葉を継いだ。
「軍務省の誰だか知らん卿の報告相手に持っていけば、よくやったと言って、卿は晴れて退役出来たのではないか?」
「むしろ、消されてしまう方があり得ると思いました」
「…思うに、卿は自身ではその情報を使う気はないようだな」
初めてシュラーの瞳が揺らぎ、ロイエンタールの顔から視線を外した。
「おっしゃる通りです。この情報は明らかにされれば必ずある人々の運命を左右することになってしまいます。しかし、簡単に捨ててしまうことも出来かねました。この情報があればいざという時、私の身を守るものとなりましょうから」
シュラーは懐から何かの用紙を畳んだものを取り出した。ディッタースドルフは釣り込まれて思わずシュラーの方へ身を乗り出した。
「それがその情報とやらの証拠か? 紙にして所持するとは無防備だな。それを盗られたらどうするんだ」
「私が見つけた情報の証拠はこの世にこの書類より他にはありません。データなどで複製を持つより現物を持つ方が安全なのです。これを奪うためには私を倒さねばならぬのですから」
シュラーのその言葉は、腕に自信のあるディッタースドルフにとって彼に対する不敵な挑戦のように思われた。ムッとしてシュラーを睨み付けると、上官の方をちらりと見た。
ロイエンタールも好奇心に駆られたようだった。後ろ手に組んでいた手を体の前に組みなおして、シュラーの手元の紙をその色違いの瞳でじっと見つめた。
「これはある女性の母親が遺伝性の病気により死亡したことを証拠づける医師の診断書です。表向きは事故による死とされていますが」
「遺伝性の? なるほど、そういったものへの偏見が未だにあるのは事実だが…。何故それがそこまで重要視されるのだ」
現代の社会において、劣悪遺伝子排除法はすでに有名無実化されている。
シュラーは頷いた。
「私ごとき一般人ならばたいした問題にはならないでしょう。ですが、それが問題になる人々もいるのです。例えば、皇帝の寵姫」
一瞬ひやりとしたのを押し隠し、嘲るような笑いに紛らわせて、ディッタースドルフがシュラーに指を振った。
「おい、めったなことを言うなよ! そんな高貴な人々のことは放っておけ!! だいたい卿なんぞがなぜそのようなご婦人の事情に足を突っ込む必要があるんだ?」
「私はそもそも、このご婦人の弟ぎみの動向を探るために派遣されたのです。この弟ぎみは非常に優れた知性と才覚をお持ちの方です。ひとたび、このご婦人に何かがあれば、その弟ぎみの将来にもかかわって来るのです。この方たちには大きな敵がいます。お二方ともたびたび暗殺されかかっています。もし、この情報をその敵が手にしたら、この方たちはどのようなことになるか…」
「放っておけ」
ロイエンタールが醒めた目つきでシュラーに言った。
「その弟ぎみとやらが本当に優れた人間ならば、そんな障害は自分で何とかするだろう。いや…、そうか。分かった」
にやりと笑った上官の色違いの瞳が猫の目のようにきらりと輝いたように思い、ディッタースドルフは目を瞬いた。
「卿はその情報を自分で使って、その優れたお方の運命を左右したい誘惑にかられたのだな。ところが、そんな考えが空恐ろしくなり、証拠を捨ててしまいたくなった。しかし、先ほど卿が言ったように軍務省の手先が現れたら、この情報を盾に駆け引きをして自分の身を守らねばならん。それで、誰かに身の安全の保証と情報の責任を取ってほしくなったのだろう」
ロイエンタールが彼の心を言い当てたことをシュラーは当然のように受け入れたようだった。皮肉交じりの艦長の言葉にも動じることはなかった。
「…おっしゃる通りです。どうか、この情報をお受け取りください。そして、私を軍務省の手先から守ってください」
そう言うとようやく、シュラーは恥じ入るように深く頭を垂れた。
そのような情報を使うことを考えるなど卑怯だ―。ディッタースドルフはそう思いつつも、先ほどシュラーが懐から証拠の品を取り出した時、自分が何も考えずにそれを読もうと手を伸ばしたことを思い出した。
―もし、俺がこいつと同じ立場になったら? 俺が皇帝の寵姫の運命を左右する?
それは大きすぎる誘惑だった。その情報をもみ消すために寵姫とやらが何をするか分かったものではない。それともその寵姫の敵はどう出るか…。いっそ、自分でそれらの人々を手玉に取ってみるか?
とんでもない、とディッタースドルフは思った。どこをとっても平凡な自分にとてもそんな危険な綱渡りが出来るはずがない。しかも、一方に死への道があると知りながら、一人その決断の岐路に立たされたら、まともな判断などできるだろうか。
しかし―。
もし、運命を自力で左右するにふさわしい能力を持つ者であったら、どうする?
大胆かつ、緻密な計算が出来る者で、如何なる事態が訪れようとも冷静さを失わぬ、そのような人物がそれを手に入れたら、どうする?
ディッタースドルフは、感情の伺えない上官の静かな表情をちらりと見た。
そして上官がシュラーに向かって、その優美な白くて細い手を差し伸ばすのを見た。
ロイエンタールの目から視線を離さず、シュラーが4つ折りに畳んだ証拠の書類を差し出す。それを手にすると、ロイエンタールはじっと手の中のものを見つめた。
二人の士官は上官がそれを持ったまま、自分のデスクに歩み寄るのを見ていた。
上官はデスクに備え付けられたシュレッダーに書類を差し込んだ。
書類は一瞬にして灰になり、消えた。
「これで終わりだ」
この上官にしては珍しくおどけたように、両手を広げて言った。
シュラーは呆けたようにロイエンタールを見ていたが、その場にへたり込んで顔を覆ってため息をついた。
「―ありがとうございます…!」
「ゴミを処分して礼を言われるのは初めてだな。そもそも、おれが聞くメルカッツ大将のお人柄から察するに、閣下も同様にされただろうことは想像に難くない。閣下にお会いした時即座にお渡していればこんな手間はかからずに済んだはずだ」
「それはそうかもしれません。しかし、閣下が私の行く先として示されたロイエンタール少佐の噂を私は知っていました。そこで、私は自分の運命をあなたに賭けてみたくなったのです」
呆れたように眉を上げて、ロイエンタールは床に膝をついたままのシュラーを見下ろした。
「何を聞いたか知らんが、卿はおれにこの情報を秘匿して欲しかったのだろう。もしおれがその卿の言う優れたお方にこの情報を使ったら、どうするつもりだったのだ」
「その時は私の見込み違いということで、責任を取るつもりでした」
そう言って上官を見上げたシュラーの目に何を見たのか、ロイエンタールはクックッ、と肩を揺らして笑った。
その笑い声を聞いて、初めて緊張して成り行きを見守っていたことに気づいたディッタースドルフが声を上げた。
「艦長! こいつはとんでもない奴です!! 私は断固、この男が我らの艦に同乗することを拒否します!」
「卿はこいつを宇宙に蹴り出すつもりか? こいつがおれを殺すつもりだったとしても、今はその元凶となるものも消えた。ディッタースドルフ、この者をどうするかはおれが決める」
への字に口を引き結び、真っ赤な顔で憤慨して、ディッタースドルフは天井を睨み付けていた。必死で何かを飲み込むような顔をしていたが、やがて上官に視線を戻し頷いた。
「艦長のご判断に従います」
「結構」
再び背後に手を組んで、ロイエンタールは跪いて彼を見上げているシュラーに目を向けた。
「さて、シュラー。卿は航宙士として使ってほしいと言うからには自分の能力に自信があるのだろうな。役立たずを乗せていられるほど、この艦は広いわけではない」
上官の色違いの目から視線を離さず、シュラーはじっと見上げていたが、その言葉にさっと素早く立ち上がった。
「はいっ。私はすぐにも航宙士長の代理が務まるだけの経験を積んでいます」
「航宙士長と争うような部下はいらんぞ」
「優れた上長に逆らうほど愚かな行為はありません」
「そうか―。では持ち場に戻れ」
「はっ」
折り目正しい敬礼をすると、シュラーは副長に目礼してから静かに艦長室を退出した。
ディッタースドルフはいただけない、と言いたげに上官を見つつ首を振っていた。
「あいつを特別扱いするなよ、ディッタースドルフ」
「特別扱いですか…? 艦長、私はあの男を苛めたりなんぞしません。そういう意味でおっしゃったのならば。あの男に度胸があるのは認めます。とにかく、私はご判断に従うと申し上げましたので、非常に難しいことですがその通りにします」
一言付け加えずにいられないらしい。その言葉を聞いて、ロイエンタールは再び笑った。自分がこの男に艦長の言葉を何でも受け入れる、イエスマンの役割を期待していないのだと気づいたのだ。
ディッタースドルフはと言えば、上官の機嫌はこの一幕にも関わらず、引き続き良いようだと思った。
ロイエンタールはきびきびと扉に歩いて行きながら、副官に言った。
「おれもやることをやらねばな。ディッタースドルフ、全艦におれたちが向かう目的地を伝える。その準備をしろ」
しばらくして、総員その場で聞くようにとの前触れで、副長からの艦内放送があった。
彼らの艦長、オスカー・フォン・ロイエンタール少佐が今回の任務に先立ち、中佐に昇進したことが全艦に告げられた。艦長の昇進は艦の名誉だ。これは幸先の良いニュースとして受け入れられた。
ついで艦長自身により、今回の任務の行き先の座標軸が告げられた。航宙士長は示された数値に気づき、その表情に緊張が走った。艦橋の壁面を覆う大画面に行く手の星図が次々と示された。
「我々はイゼルローンには寄らずに、まず惑星レグニッツァに向かい、その後進路を変更することになる」
艦内放送のモニタ上で、誰の目にもロイエンタールの色違いの瞳がきらりと光ったように思えた。
「最終目的地はカプチェランカだ」
Ende