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光芒走りて

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【目次】

1、  2、  3、  4、  5、  6、 

 

7-1、  7-2、  8-1、  8-2、  

 

9、  10、 

 

オマケ:ならず者と貴族

 

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「ここにあらかじめ了解しておくべきことは、君主、とりわけ新しい君主は、人間にとって善と考えられているすべてのことを実行することは、できないということである。それは、しばしば必要に迫られ、または国を保持するために、信義、慈悲、人道、宗教に反することをしなくてはならないからである」


―マキアヴェルリ 『君主論』

 

 

 

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1、

ざあっと軽い雨が降り注ぎ、背の高い痩せぎすの姿が足早に通りを行く。彼は自分が急いでいるのはこの通り雨から逃れたいためであり、背後から彼を追うもののせいではないと言い聞かせた。
そもそも帰宅時には常であれば送迎の地上車に乗り込んだら、途中で降りることなどめったにない。だが、その日は急に思い立ってある目的のために車を降りた。その目的を果たした後で地上車があった場所に戻ってみると、待っているはずの車はなかった。そして、突然あの男が現れて背後から彼に笑みを含んだ声で呼びかけたのだ。
「オーベルシュタイン閣下? ご興味がおありでしたらわたくしがいくらでもご説明申し上げましたのに…」
その言葉に答える愚を知っていたから、オーベルシュタインは相手を無視してそのまま通りを歩いて行った。日課を外れて気まぐれに行動すれば相手には分からないと思ったのだが、そうではなかったらしい。この事実から察するに相手は四六時中自分を監視してでもいるようだ。
彼は無意識のうちに人通りの多い、明るい場所を選んで元帥府ビルがある方角へ向かって歩いていた。だが、どこか通りを曲がり間違えたらしい。官庁街があるはずの通りとは違う、大小の店のサインが雨の中でぼんやりと明かりを灯している通りに出た。後ろから一定の速度で足を運ぶ音が聞こえてきて、ままよとネオンサインの中でも控えめで落ち着いた色合いの店のドアに飛び込んだ。

 

そこはクラブの入り口らしく、毛足の長い絨毯がひかれた天井の高い部屋で、重厚な黒光りするカウンターの向こうから、軍服に似たお仕着せの従業員がこちらを控えめに見ていた。カウンター横にクロークがあり、その奥の扉の向こうから賑やかな声が聞こえてくる。彼が所属する沈鬱な雰囲気の、糸くずが落ちる音さえ聞こえそうなクラブとは少し様子が違うようだ。そのクラブにもめったに行くことはないが。
カウンターの向こうの従業員にタクシーを呼んでもらおうと声をかけようとした時、背後の扉が勢いよく開けられ、オーベルシュタインははっとした。あの男か?
「すまんが中に入るか外に出るかしてくれないか。おれの外套が卿に当たって濡れてもかまわんなら好きなように突っ立っていればいいが」
その朗々として低く響く声にオーベルシュタインは静かに振り向いた。内心、知った人間の声を聞いて安堵の思いを抱いたことにいら立ちを感じた。
振り返った顔を見て、相手も自分が誰か気づいたようだった。その秀麗な細い眉を吊り上げて、意外なものを見たと言いたげに目を見開いた。この青年は(自分から見たら彼などはずいぶん若い)意外に表情が豊かなようだ。
「これはオーベルシュタイン、まさか卿がここの会員だったと今まで知らずにいたとは」
妙な節回しで大きな声で相手は言った。すでに少しきこしめしているようだ。
「とはいえ当然か。卿も今や上級大将、自動的にここの会員になる資格はある。今まで酒席を共にしたことがなかったとは残念なことだ」
一人で言って一人で納得している。その間、オーベルシュタインは何も言わず彼を見ていたが、今は彼の相手をする気はない。すっと視線を逸らして従業員の方へ声をかけた。
「地上車を呼んでくれぬか」
従業員は少し戸惑いを見せつつ、オーベルシュタインの軍服と彼が新来の客と知り合いらしいことに勇気づけられたか、「承知しました」と言ってビジフォンを取った。
軍服のようなお仕着せだと思ったが、これはまさしく従卒が着用する軍服そのものだ。ここはおそらく、話には聞いていたが自分には関係がないと思っていた、『海鷲』という高級士官向けクラブなのだろう。偶然軍関係者が良く利用する店に辿り着くとは―。
従業員のビジフォンを操作する手に、白くて細い手がそっと置かれた。従業員が戸惑って相手を見た。
「―失礼しました。ロイエンタール閣下、今、同僚に閣下のご案内をさせますので―」
「いいんだ、ここの中へ入るのに案内はいらん。それよりこの男と少し話しがあるのだ。地上車は30分後くらいに来るように手配してもらえるか」
「承知しました」
オーベルシュタインは眉をひそめて「承知しましたではない、私はすぐに帰る」と言おうとしたが、彼の静かな声は再び勢いよく開かれた扉の音にかき消された。
新しくやって来た若い数人の客は、カウンターの前に建つ二人の上級大将の姿にびっくりして敬礼した。「オーベルシュタイン閣下―」、「まさかここで―?」、ひそひそと交わされる声にじろりと睨み付けてやると、彼らは押し黙った。オーベルシュタインが戸口に向かって歩いていくと、その眼光に押し出されるように彼らは道を開いた。
「おい、どこへ行く。地上車はまだ来んぞ」
「帰るのだ。邪魔をしないでもらいたい」
「濡れるぞ。そのためにここに雨宿りしに来たのだろうが」
そうではない、と言えばそれではなぜここにとっさに飛び込んだか、理由を問われるかもしれない。会話をするわずらわしさからロイエンタールに答えもせず、扉を開けた。地上車は通りを戻ればすぐにつかまるだろう。
扉を出たオーベルシュタインにざっと雨が降りかかる。先ほどより雨脚が強くなったようだ。早く帰らなくては―。
「おいっ!!」
ロイエンタールの鋭い声がして、強く手首をつかまれ引っ張られた。オーベルシュタインは肩が抜けるかと思うほど強く引かれて、ロイエンタールの方に倒れ掛かった。「何をするか、卿はクラブに戻れ―」、そう言おうとした時、彼の目の前を銀色に光るものが一閃した。
オーベルシュタインは額にひやりと冷たさを感じ、ついでカッとその個所が熱くなったのを感じた。
強い力で肩を掴まれ、彼はクラブの壁に叩きつけられた。掴まれていた手が勢いよく解かれ、オーベルシュタインの前に人影が飛び出した。誰かが殴り、殴られると思しき鈍い音が響き、カランッと金属が地面で音を立てて、ロイエンタールの「待て!」という声と同時にバタバタと逃げていく足音が聞こえた。
「くそっ、逃がした! おい、何をボーっとしている、憲兵を呼ばぬか!」
ロイエンタールは戸口からこちらを伺っている者たちを叱責した。そこで、クラブの煉瓦飾りの塀にオーベルシュタインがほとんどもたれかかるようにしているのに気付いた。オーベルシュタインの肩を持って揺さぶった。
「おいっ、今の奴にやられたんじゃあるまいな」
オーベルシュタインは苦しい息の下で苦笑した。こめかみが痛み、血か、あるいは雨が頬を流れるのを感じた。彼は真っ暗になった視界を閉じた。
「―少し静かにしてくれぬか。卿のせいで前が見えなくなった」

 

高級士官クラブ「海鷲」の2階にある個室にけが人が運び込まれた。けが人は何度も「構うな、家に帰る」と言い張ったが、聞き入れられることはなかった。オーベルシュタインはそれ以上は面倒になり、黙って運ばれるままになった。気がつくと、彼は寝椅子に横になって、こめかみには包帯をし、額は消毒され絆創膏が貼られていた。ぼんやりと天井を見ていると、誰かが彼の背後から近づいた。タオルを巻いた冷却パックが額に乗せられて、痛む頭を冷やした。
「卿の目は全く見えないのか」
オーベルシュタインは自分が義眼であることを元帥閣下に伝えた以外は、他の者に知らせる義理はないと思い、誰にも何も言わずにいた。だが、いつのころからかそれは周知の事実となったようである。
「見えないのは知っているのであろう」
ロイエンタールの声が苛立ったように答える。
「そうじゃない。先ほど、『見えなくなった』と言っていただろう。その、卿の『目』が壁にぶつかった衝撃で壊れでもしたのではないかと聞いている」
「…壊れたかと思ったが大丈夫なようだ。今は見えている」
「そうか、それでは見えなくなったのは脳震盪を起こしたせいだろう」
なぜかホッとしたような声音だったので、それを聞いた自分も安堵を感じたことをオーベルシュタインは不思議に思った。自分を心配する存在がいることに心慰められるとは、襲われて気弱になっているせいだろうか。
彼は居心地の良い寝椅子に身体が重たく沈み込むように感じた。このままここにいるわけにはいかない。帰らなくては―。
「地上車を呼んでくれぬか。帰る」
ロイエンタールのため息が聞こえた。
「卿も頑固な男だな。そのような状態で無理に帰ることもなかろう。ここの客室に泊まればよいだろう。今、医者を呼んでいるが、脳震盪を起こしたのならば医者も同じことを言うと思うが」
「………」
それに答えるのが煩わしく、オーベルシュタインは押し黙った。廊下で人声がし、歩く音がする。窓の外からかすかに通りを行く地上車の音が、雨が降る音に交じって聞こえた。
「あの男は何者だ?」
沈黙を破ってロイエンタールが尋ねた。どうやらこの部屋には自分と彼だけが残されているらしい。なぜロイエンタールは自分を置いてさっさと帰らないのだろう。
「…知らぬ。物盗りか何かだろう」
「本気でそう思っているのか? 卿は、あの男から逃れるためにここに飛び込んできたのではないのか?」
何故それが分かった―。オーベルシュタインは思わずそう聞こうとして気がついた。痛む頭に乗った冷却パックを押さえて、寝たままロイエンタールがいると思しき方角に少し顔を向けた。
「卿は私がここに入るところを見ていたのだな」
フフフッと低く滑らかなビロードの如き含み笑いが聞こえた。
「大した急ぎ足で迷いなくここに飛び込んだな。すぐ後ろに誰だか付けている者がいたからこれはと思ったが、卿もその気になればなかなか俊敏に動けるのだな。命までは狙ってはいないようだが、卿ほどのものをからかうなどたちの悪い相手だ」
何がおかしいのか、泉が湧き出るような笑いを含ませてそう言った。オーベルシュタインは冷却パックを視界からずらして、視界の外れにいる人物の方を見ようとして首を巡らした。ロイエンタールは椅子に腰かけて、長く細い足を組んでその足の向こうからこちらを見透かしていた。
「なぜ命までは狙っていないと思うのだ」
ロイエンタールはそばのテーブルの上にあるものを掲げて見せた。それは光を受けてきらりと光った。
「なんだそれは」
「空き缶のふた。縁が鋭くなっているから下手をするとこんなものでも卿の皮膚を切ることが出来る」
「―本気であればそのようなものでも殺しの武器になるであろう」
「そうだな、確かに」
カラン、と音を立ててロイエンタールはテーブルに鉄くずを放り投げた。組んだ足の上に肘をついて寝椅子に横たわるオーベルシュタインを見下ろす。
「どうやらおれは卿の命の恩人らしい。さて、何ゆえあの男に命を狙われるような目に合ったのか、話してもらおうではないか」
命の恩人にはそれを聞く権利があるとでも言いたげだ。おそらく、この男は自分の話を聞くまでは諦めぬであろう。オーベルシュタインはため息をついた。

 

「あの者は私の持ち物を欲しがっている。だが、私は譲る気はない」
オーベルシュタインが冷却パックの下から静かに言った。ロイエンタールが身を乗り出して、続きの言葉を待つ気配があったが、オーベルシュタインはそれ以上言わなかった。
「―それで? 何を欲しがっているんだ」
「卿には関係のないものだ」
ロイエンタールが鼻で笑った。
「関係ないとは結構な言いぐさだ。楽しく酒を飲むはずが、こんなところで卿と一緒に過ごさなくてはならなくなったというのに」
「―さっさと下に行って酒を飲めばよかろう」
「憲兵が来るのを待っているんだ。彼らに事情を話さねばならん」
「追い払え」
ガタン、と激しい音がしてロイエンタールが勢いよく椅子から立ち上がったと察せられた。かっとなってさっさと部屋を出ていけばよい。だが、沈黙ののちにやがて再び椅子に座る気配がした。
「ふうむ。人に知られたくない、何か秘密のものを卿は所有しており、卿を害してでもそれを欲しがる輩がいる。金目の物、価値が高いもの、時代を経たもの、卿とあの輩のみその価値が分かるもの―」
オーベルシュタインはため息をついた。
「詮索はよせ。ただ我が家に伝わる個人的な持ち物と言うだけだ」
「なるほど、家宝となれば―」
「ただの剣だ」
ロイエンタールが押し黙った。あまりに沈黙が続くので、オーベルシュタインはそっと冷却パックを目元からずらした。転がった姿勢ではこの男をさっさと帰らそうにもうまくいかないようだ。彼は手をついてゆっくり起き上がった。
頭に重さを感じてはいるが、気分は悪くない。どうやら自力で帰れそうだ。ちらりとロイエンタールの方を見ると、彼は腕組みしてじっとこちらを見ていた。なにやら面白いものでも見つけたという表情だった。
「家宝で、人を害してでも欲しがるようなもの、卿が手放したくないほどのもの―。どんな剣だ?」
「何も特別なことはない。あれは私のものであり、オーベルシュタイン家のものである以上、他の者に渡す気がないというだけだ」
「卿の息子やら孫やらにでも遺すか」
「そのような予定はない」
「賢明だな」
オーベルシュタインは立ち上がった。足元がおぼつかないような気がしたが、しばらく瞼を押さえてじっとしてからゆっくり顔を上げた。目の前にやはり立ち上がったロイエンタールがいた。
「卿にはどうやら世話になったようだ。礼を言う」
ロイエンタールは肩をすくめた。「正直言って卿が脳震盪を起こした理由はおれにあるだろう。思いっきり卿を引っ張って奴の攻撃から遠ざけようとしたからな。その時壁に頭をぶつけただろうことは想像に難くない」
「いずれにせよ、礼を言う」
「あの男はなぜ卿の家宝の剣をそれほど欲しがっているんだ? それほど素晴らしい剣なのか? 剣の実用性ならともかく、芸術性などおれには分からんが―」
その言葉に呆れてオーベルシュタインは若い同僚を見た。好奇心か純粋な興味か、いい加減あきらめるということを知らぬ男だ。
「卿が気にするようなことではない。では、失礼する」
その時、階段の辺りが騒がしくなって、こちらへ数人の誰かがやってくる気配があった。
ロイエンタールはにやりとして戸口をふさいだ。
「ほら、憲兵が来た。卿は面倒だか何だか知らぬが、このクラブの店先を騒がして迷惑をかけているのだ。憲兵に事情を話して店とは関係ないということを納得させるべきだろう」
「卿が証言すれば十分だろう」
「これはオーベルシュタイン上級大将のお言葉とも思えんな。いや、卿らしいといえるか。人に厄介ごとを押し付けて、われ関せずと自分はゆっくりお帰りか」
オーベルシュタインが反駁しようとしたその時、扉を控えめに叩く音がした。ロイエンタールは扉をパッと開けて、急に開いた扉の外でびっくりしている数人の憲兵を部屋に迎え入れた。
「さあ、入ってくれ。オーベルシュタイン閣下はご気分もよくなられた。きっと卿らの質問に丁寧にお答えくださるだろう。しかし、まだこのようにお顔色も良くない(いつも良くないがな)、あまり証言を無理強いせぬことだな」
「―もちろんです。そのような…」
「しかし、今夜のことは大したことではないと思っているようだから、お諫めしてくれ。卿らには関係ないと言うだろうが、聞き入れてはいかん。方々に敵がいる身を理解しておられぬようだ。軽率なことはせんようにご忠告してくれ」
「―はあ…」
憲兵たちがオーベルシュタインの方を向いた時、その目には相手がだれであろうと断固として言い逃れを許すまいという固い決意が見えた。ロイエンタールめ、なんの腹いせか、憲兵に偏見を植え付けておいて、自分は「下で酒を飲んでいる。いつでも呼んでくれ」と陽気に言って部屋を出て行った。

 

 

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