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光芒走りて

9、
対峙する二人は予想より時間がかかっていることを意外に思った。自分たちの息が少々上がっていることに気づく。どちらも相手に決定的な隙を見いだせず、何度か刃を交わすものの、互いに攻めきれずにいた。
ロイエンタールは焦ってはいなかったが、これは面倒だと思い始めた。その心が剣を構える姿に油断となって現れたのだろうか、男が再びぬかるみを蹴ってロイエンタール迫った。ロイエンタールが飛び退りざまに男の剣を弾き、その途端にピイィィィン…と驚くほど澄んだ音がした。ロイエンタールははっとして剣を折ってしまったかと思った。このような異常な音は相手の剣を無理な力で弾いたためかと思ったのだ。
だがロイエンタールが男の姿を視野に入れつつ、自分の手元を見ると剣は刃こぼれもないばかりか、まるでその鋼の輝きを増したかのようだった。かざす刃の向こうで、男の目が羨望と賞賛のまなざしをこちらの剣に向けていることに気づいた。
男の剣がまるで無謀なほど素早い動きで迫り、ロイエンタールはその剣を再び迎えて弾いた。だが、男はその反動を上手く操って、走りぬきざまにロイエンタールの右手の甲を刃が掠めていった。
うっすらと手の甲に血が滲み、ロイエンタールは内心舌打ちした。わずかな傷でも負えば動きに影響が出る。自分で思っている以上にこの男を相手に疲労しているようだ。
「僅かですが、私の方に1点ですな。どうです、そんな擦り傷でも疲れてくると結構ききますからな」
「戦場では擦り傷くらいしょっちゅうだ。傷だらけになるのを恐れて猫と遊べんからな」
男は自分を猫だと言われて怒るどころか、あの顔をゆがめた奇妙な表情で楽しそうに笑った。
「私は猫が好きですので、このようないたずら猫と遊んでいただいて光栄です。あのオーベルシュタイン閣下の犬のようなものはいけませんな。主人に甘えるばかりで頼りないことだ」
「…やはり貴様はオーベルシュタインを狙っていた男だな。いや、彼の剣をと言うべきか」
「さようです。先ほど、私の剣を弾いた時のその剣の輝きを見ましたか。なんという強靭な、そして美しい鋼…!」
男の目は熱狂してロイエンタールの手元を舐めるように眺める。その様子に思わず、ロイエンタールはちらりと自分の剣を見てハッとした。なお一層、最初に刃を抜いた時よりさらに輝きを増し、濡れたように艶やかに見えた。
―馬鹿な。朝日の光のせいだろう。
だが、まるで戦いを欲して、血を吸いたがっているように見えた。
「その剣に斬られてみるのも悪くない気がしますな。もっとも、その剣を自分の手に握り、あなたの白い身体を斬る方がずっと素晴らしいと思いますが」
男はロイエンタールが見たものと同じものを剣に見たかのように呟いた。だが、男はその目から陶酔の表情を消し、顔をゆがめて笑った。
「あなたがその剣を奪って行ったときは、これでずいぶん楽しくなると思ってわくわくしましたよ。しかしあなたはご趣味がお悪いですな。剣を手に入れるためとはいえ、あんな軍人とも言えない頭でっかちの軍官僚に迫るとは」
「…なんだと」
「その手にかすり傷をつけたのはあなたの真似をしたつもりだったんですよ。軍服を脱いでシャツ1枚になっていただければ、腕に傷をつけて差し上げられたんですが。もっとも、その軍服はあなたの引き締まった身体をぴったり包んで、よく引き立てていますがね」
ロイエンタールはこの男があの夜、自分たちがダンス室でやっていたことを知っているらしいと知って、眉をひそめた。
あの時、オーベルシュタインがあの無表情を保ったまま、意外にも機敏に彼の刃から逃げたことが面白くてからかった。その後どうして、オーベルシュタインを己の中に誘い込んだのか、自分でもよく分からない。思った通りに初めその手は冷たく、その骨ばった手で彼の火照った体を撫でなだめる様に動いた。次第に温まるその手を秘所に感じることは嫌な感触ではなかった。
いずれにせよその体験は彼ら二人だけのもので、誰かがそれを見ていたと知って、ロイエンタールは反吐を吐く思いだった。いくら彼の寝室での振る舞いが数々の恋人たちを満足させてきたように大胆なものだからと言って、他人に、ことに敵に見られて喜ぶような趣味は彼にはない。羞恥で赤くなりはしなかったが、彼は男を炎よりも冷たい鋭い視線で軽蔑するように見た。
男は声を出さずに気持ちよさげに笑うと、まるでたった今決闘を始めたばかりだというように、機敏に動いて踏み込み、ロイエンタールを掠めるようにして走り抜けた。
ロイエンタールの頬に一筋の血がにじんだ。あの時、彼がオーベルシュタインをからかってその頬に薄いかすり傷をつけたのと同じような傷だ。
ロイエンタールの頬はカッと焼けるように熱くなった。それほど深い傷ではないのは分かっていた。顔と言う敏感な場所のせいだろうか、その傷は非常な熱を持って感じられた。それに呼応するように、今まで多少のわずらわしさしか感じなかった手の甲の傷も熱くしびれるように感じた。
ロイエンタールは剣を構える自分の手の甲を見た。手全体が真っ赤になっているように見えた。その視界はなぜか波の中に潤んで焦点を定めるのが難しく、何度も瞬きをした。
「自分としても精いっぱい決闘らしく振舞いましたが、意外にあなたがお強いのでそろそろ本来の自分のやり方で戦おうかと思いましてね。実は剣にちょっとしたものを仕込んでみました」
「…毒か」
その声があまりに弱々しかったので、ロイエンタールは苛立った。身体は言うことを聞かないが、脳の働きは今までと変わらず活発で、その相克にロイエンタールは焦りを感じた。
「毒というと陳腐に聞こえますな。新開発の薬剤と申しましょうか、それが体内に入ると少量で筋肉を弛緩させます。これが優秀なのは薬剤を摂取した人間の脳までには影響しないことです。最期まで意識を保ったまま、なぶり殺すことも可能です」
「…たいして新しくも聞こえんな」
「困ったことにこの薬剤は一度体内に入ると簡単に除去できず、血中濃度を下げるために血液透析でもするしかなくなります。聞くところによるとその過程は大変つらいものだそうですよ」
「…ご教授ありがとう」
ロイエンタールが明らかな体の不調に耐えつつも、皮肉な調子で答えた。
「ご安心を。透析などしなくてすむようにじき楽にして差し上げます。それまで精いっぱい私のお相手をしていただけると最期まで楽しめて結構ですな」
男はますます顔をゆがめて笑った。

 

南門への途中で地上車を徐行させながら周辺を探索していたフェルナーと出会い、オーベルシュタインは地上車を降りて副官と共にエングリッシャー・ガルテンの中へ入って行った。広場へ出る木々が鬱蒼と茂った小道の途中、ぬかるみに倒れる二人の男を発見した。
「ボダルトと、軍服からしてあれがアイヒベルク中将ですな」
フェルナーが周囲に目を配りつつ、オーベルシュタインが連れて来た憲兵と共に駆け寄る。どちらも剣によるものと思われる無数の傷でおおわれていた。アイヒベルク中将は完全に事切れていたが、ボダルトはまだ息があった。憲兵に急いで救急病院へ運ばせる。
運ばれていくアイヒベルク中将の遺体を見てフェルナーが顔をしかめて言った。
「致命傷以外にも何の必要があるか分からない傷がたくさんあった。ノイラートの嗜虐性が分かろうというものじゃありませんか」
何とも言えぬ不穏さに急き立てられるように、フェルナーを従えてオーベルシュタインは黙って小道を進んだ。しばらくすると、再び泥水の中に倒れる姿があり、フェルナーが「あっ」と言ってその姿に駆け寄った。
「くそっ、俺の部下です…! つけられていると知ってノイラートがやったに違いない!」
部下は首から胸にかけてたった一太刀で切り裂かれていた。おそらく先ほどの二人のように遊ぶ余裕はないと気づいたのだろう。
フェルナーの部下はまっすぐ小道の先を頭にして倒れていた。
「ノイラートがこの上小細工をしていなければ、この先に奴はいるだろう」
「そうですね、このかわいいグレーテルは血染めのパンくずを後に残していってくれていますからね」
軽口を叩いてはいるが、フェルナーは完全に目が座っている。この男にしても部下の死を前に、さすがに笑ってはいられなくなったようだ。
「閣下、急ぎましょう。なんだか嫌な気分になってきました」
オーベルシュタインはそれに頷いて拳を握りしめた。

 

ロイエンタールはまだ立っていた。
宇宙酔いになった時のように上を見ても下を見ても吐き気に襲われた。高熱に襲われたかのように体中がだるく熱い。男の隙をついて攻撃することなど不可能だった。ただ何とか相手の攻撃を危ういところでかわした。うまくかわしたと思っているのは錯覚で、単に男になぶられているだけかもしれなかった。
水の中にいるような視界の中で、剣先が迫り、ロイエンタールは剣を顔の正面に立てて防ごうとした。我ながら無様な防ぎようだと思っていると、無事だった方の手の甲を剣が斬り裂いた。
パッと真っ赤な血が手の甲に広がり、一滴、泥水の中に沈んだ。
そこから毒が再び入り込んだのだろうか。とうとうロイエンタールは膝の力が抜けたように剣を支えにして二つ折りにくずおれ、音を立てて両膝を泥の中についた。
「…もうお終いですか。これは残念…」
ロイエンタールは妙にはっきりと男の声を聞いた。男が言ったように筋力だけが薬剤の影響を受けるなどと言うことがあるのだろうか。人が死ぬときに最後まで残る機能は聴力だと聞いたことがある。頬に鋼の冷たさを感じ、触覚もまだ生きているようだと考えた。
「あなたのこの綺麗な顔を傷つけるのは心が痛みますな。もちろん、顔をつぶすようなことはしません。しかし剣だけいただくようでは興趣に欠けるのも事実。あなたに勝ったしるしにそのお首をいただいて参りましょうかな」
―頭がどれだけ重いか知っているのか。血染めの刀とこんなお荷物を抱えて結構な逃避行だな。
「少なくともあのオーベルシュタイン閣下などよりずっと見栄えのする置物になる。そもそもこの剣を顧みもせず死蔵して、満足に剣を持つことも知らぬxxxのくせに…」
―なんだと?
「…おや、何か言いましたか? あんな男は何の価値もない半端な人間だというんですよ」
ロイエンタールはいきなり立ち上がって剣を男の方へ勢いよく突き出した。男は「おほうっ」と言ってゲタゲタ笑いながら身を捻って攻撃をかわし、ロイエンタールの剣をその手から払った。
バシャッと水音を立てて剣が地面に落ち、ロイエンタールも手を払われたほんのわずかな力で再び膝をついた。
「あんな男がちょっと貶されたというだけで、残りの力を使い果たしてしまうとは、あなたは意外にお優しいのですな」
男の手が軍服の襟をつかみ、ロイエンタールは顔を仰向けられるのを感じた。波の中のような視界に男の不快な顔が見える。
「さあ、終わりにしましょう」
木々を激しく揺らす風の中で男の声が聞こえ、きらりときらめく一筋の光がロイエンタールの色違いの目を射た。
だがその時、突然の銃声が風の音を引き裂いた。

 

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