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あの日~3

2011年3月11日(金)

あの日、11時を過ぎてもまだ家に向かって歩いていた。

結論から言うと、11時半ごろに自宅にたどり着いた。私の兄弟もその時はまだ仕事場から家に向かって歩いている途中だったが、無事だった。親も会社の若者に車に送ってもらって早いうちに帰っていた。留守番していたわんわんもかなりのストレスを感じていたに違いないが、無事だった(よかったよ…)。

あと5~6kmという距離まで歩いたところで、道のりがずっとつらくなった。当然それまでの疲労も積み重なっていたが、車などで通ってよく知っている土地を歩いているせいもあったろう。なかなか家にたどり着かなかった。

この日、自宅まで歩いたせいではないかと疑っているのだが、この年、右足が内反小指になった。いわゆる外反母趾の小指バージョンだ。もともと足のアーチが崩れかけていたに違いない。靴によっては痛くて歩き続けることが出来なくなってしまった。最近比較的楽になって来たのは、多分ヨガで足裏が強くなったおかげだろうか。

家の近くの駅付近まではずっと街道沿いの道を歩いていて明るかったのだが、家に直接向かう道に入ると、途端に街灯も暗く、人影がなくなった。住宅街だから時間によっては誰も通りに人がいないのだ。この道のりが実は一番不安だった。前に若者数名が歩いていたから、ほっとしてその後ろをついて行ったら、「先にどうぞ~」と譲られてしまった。まあ、そうだよね…。ついてきてほしくないよね…。私はしばらく一緒にいさせてほしかったのだが。

自宅にようやく帰り着くと、テレビがつけっぱなしで津波による信じられないような被害が繰り返し報道されていた。お風呂がとても暖かく嬉しかった。

たびたび余震があったせいで、夜中もひっきりなしに街の防災のサイレンが鳴っていた。あれは嫌な音だ…。子供のころあれを聞くと空襲がくるという想像におびえたが、これからは地震のことを思い出すだろう。

私が経験したことは当然ながら東北で被害にあった人々とは段違いのものだ。家族も家もなんともなかった。だが、誰がひどい目にあって誰がそうでなかったかなど、比較することは無意味なことだ。あの日、日本中の、あるいは世界中の人々が心に大きな傷を負ったのだ。程度の差があるにしろ、誰もがつらい目にあった。自分も当事者だったということを忘れずに、3月11日に何があったか、心にとどめておきたいと思う。

<オマケ>

*常に持ち歩くようになったもの:メガネ(コンタクトがだめになって目が見えないのは恐怖)、小型の懐中電灯(手動で充電:停電すると夜道は物凄い暗い!)、ホイッスル(閉じ込められた場合)

*会社に常備しているもの:置き菓子(これは重要。実際に必要になった時、口に合わないものだとつらいので、気に入ったものを。私はSoy joy各種)、会社支給のヘルメット、防災用品(震災後に支給された)

*帰宅難民になったら:本当は自力で帰らない方がいい。今回も途中で巨大な余震に合ったかもしれなかった。会社の建物が信頼できるものであれば、会社に残る。あるいは(混雑しそうだが)付近の避難所を頭に入れておく。

*自力で帰ることが可能な状況なら:会社から家までの道のりを確認しておく。私はたぶんもう大丈夫だと思うが、また歩いて再確認した方がいいのだろうか? ひとまず、会社から2~3駅くらいは普段も歩いて馴染むようにした。全部の道のりを歩かずとも、少しずつでもいいらしい。

*家族との連絡:焦らず、災害伝言板を利用。携帯メール、電話は繋がらないもの。あの日はネットは生きていたのでLineでもいいかもしれないが、次はどうだか。

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