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フェリックスの旅

12、

レッケンドルフは今週末まで仕事で、その後2週間の夏の休暇を予定している。オーディンの大半の企業の勤め人はほとんどが夏の休暇に入っており、商業地区は少々閑散としている。だが、来週26日の22年目の先帝追悼式典に関連したイベントがいくつもオーディンでも予定されており、それに参加するために地方から観光客が続々と集まってきていた。そもそもフェリックスが家出してホテルに泊まろうとして果たせなかったのも、この混雑のせいだったのだ。

地元っ子はむしろオーディンを離れて、よその土地で式典をソリビジョンで見る方を好む。レッケンドルフも湖水地方での避暑を予定していたが、それをキャンセルしてフェリックスと過ごすことに決めた。

彼らはまるで以前もそうしていたように、日課に沿って過ごした。朝、レッケンドルフを見送ると、フェリックスはロイエンタール元帥の記録のうち、まとまっていないデータや、年表の校閲をして過ごす。夕方にはスーパーへ買い出しに出かけ、帰って来たレッケンドルフに家庭料理をごちそうする。レッケンドルフはフェリックスが自分の金で食材を買ったことにすっかり食べ終わってから気づき、自分名義のクレジットカードを遠慮するフェリックスに強引に渡した。

「これで何を買うか分からないのに、いいんですか」

「戦艦でも買おうというのでなければ、なんでも好きなものを買ってくれていい。願わくは、私も一緒に楽しめるものだと嬉しいがね」

それで、翌日の夕飯にデザートが一品追加されることになった。これもフェリックスの手作りだったから、かえって青年に手間をかけさせてしまったと、嬉しいような、困ったような表情のレッケンドルフだった。

木曜日の午後3時ごろ、フェリックス宛てにレッケンドルフからビジフォンがかかって来た。休暇前の追い込みで残業をしなくてはならず、今夜は遅くなるだろうというのだ。だから、夕飯は自分の分は作らなくていいと付け加えた。

創業者、社長と言ってもいろいろだが、レッケンドルフはかなり精力的に業務の細部に関わっているらしい。エヴァンゼリンはミッターマイヤーの帰りが遅い時はいつも、すぐ温められるスープを作っていたことを思い出し、フェリックスもそれに倣う。

そのスープとパンで簡単な夕食にしてしまうと、いつもより早く食べ終わってしまった。前の晩二人でしていたように、ビデオを見たり、データについて考えたりしてもいいが、一人では面白くない。暇を持て余してフェリックスは先週、図書館で借りた本を持ってそれを返却しに行くことにした。レッケンドルフの家に厄介になっている間、読もうと思って借りたものだが結局読まず、これからも読む時間を取れそうにない。延滞すれば遅延金を払わなくてはならなくなる。それに、ヒルデが討論会をやっている、と言っていたことも気になった。

図書館で本を返却し、女性司書の熱い視線を背中に感じつつB-2の自習室に行ってみると、ちょうど学生たちがにぎやかに部屋を出てくるところだった。ヒルデが扉の鍵を閉めている。彼女はフェリックスの姿に気づいた。

「あっ、本当に来てくれたの!? ごめんなさい、今日は議論が進まなくてもうお開きなの」

「いいよ、ちょっと遅い時間だし、もう終わっているかと思ってた」

興味津々の表情の女性がヒルデに声をかけた。

「ヒルデ、これから一緒に食事に行かない? そこの彼も一緒に」

ヒルデがフェリックスを見たので、彼は首を振って答えた。

「食事は済ませてきたから。それに本を返しにしただけで一文無しだし」

くすっと笑ってヒルデは友達に返事をした。

「今日はもう帰る。おじいちゃんが待っているし」

友人に手を振って別れ、ヒルデとフェリックスはなんとなく一緒に歩いて図書館を出た。ヒルデが立ち止まったので、フェリックスも立ち止まる。

「フェリックス、あの、私ずっと言いたいことがあって…」

「うん」

それはあの、パーティーの夜の事だろうか。なんだかあれから何か月も時間が経ってしまったみたいに感じる。フェリックスが考える間にヒルデはどう言おうか言葉を探しているようだった。ようやく、再び口を開く。

「あの、パーティーの夜、私勝手なことを言ってごめんなさい。私があなたを好きになってしまったら、あなたのせいみたいな言い方して。そんなこと言われてもあなただって困るのに」

何とも答えようがなく、フェリックスは顔をしかめて黙っていた。その通りだとも、違うとも言えない。あの時のことはお互い様だというのが本音だろう。

「あのね、ロイエンタール元帥は私の初恋の人だったっていうのは本当。あの絵が小さい時からずっと好きだった。元帥を相手にして勝手にいろいろ想像していたの。それなのに、そっくりなあなたが現れて、あなたを好きになったら、まるでロイエンタール元帥の身代わりみたいじゃない。それはよくないことだなって、思って」

「そのロイエンタール身代わり説については僕にも言いたいことがある」

フェリックスは少しおどけた調子で言ったが、表情は真面目だった。

「結局僕にとっては相手が悪すぎるんだ。父は絵画や写真だけで見ても強烈な個性を持っている。話に聞けば尚更、いったいどういった人だったんだろうと興味を引き立てる。僕にはそんなすべての人を振り向かせるような個性はない。将来身に着いたら素晴らしいと思うけど、今はまだだめだ。あんな人、他にいないよ」

「でも、私、あなた自身が好きよ」

ヒルデは言ってから、一瞬前までそんな告白をするつもりはなかったことに気づいて赤くなった。フェリックスは優しく微笑んだ。

「ありがとう。でも、僕はもう自分が何だか分からなくなった。だから、ありがとう。だけど」

「いいの、私あなたに何か要求したいわけじゃない。ただ知っててほしいだけ。ね、覚えていて、私があなたのこと好きだってこと」

「…うん…」

ヒルデの早口の告白に曖昧な返事をすると、彼女は図書館前の階段を駆け下りて、通りを走って行った。彼女はちょっと振り返って手を振った。

「また…、またね! フェリックス!」

フェリックスはあっけにとられて、胸の前まで手を上げかけたが、彼女はどんどん行ってしまった。

フェリックスが帰ると、ちょうどすぐ後にレッケンドルフも帰って来た。まだ玄関口に立っていたので、お互い玄関ポーチに立ってびっくりして顔を見合わせる。

「今、図書館に本を返しに行っていて…、帰ったばかりで」

「そうか、帝都図書館かい? 図書館前なら地上車で通ったから君を見つけられたらドライブが出来たのに」

そんなことになったらややこしいことになっただろう。別に悪いことをしていたわけではないが、あまりいい展開とは思えない。レッケンドルフにはヒルデのことで相談をしていたくらいなのに、おかしなことになったものだ。

ベッドに入ってレッケンドルフがフェリックスに手を伸ばしてきても、彼は反応することが出来なかった。身体は素直に開いたが、心は固く閉じていた。レッケンドルフがため息をついて青年を腕の中から解放する。

「何か考え込んでいるね。女の子の事かな」

フェリックスは目を見張って否定することも忘れた。

「どうして…?」

「どうしてか? 年の功とは恐ろしいものだ、そういう表情は身に覚えがあるよ。それに帝都図書館に行っていたのだろう。あれは帝国大学のすぐ隣にある、学生がよく使っている、君が言っていた女の子も大学生だ。単純な三段論法だな」

「…これじゃ嘘もつけない」

「そうだよ、だまそうと思ったって無理だ、あきらめた方がいいね…」

レッケンドルフは機嫌良さそうにくすくす笑って言ったが、急にフェリックスを抱きしめた。

「レッケンドルフさん…!」

「なんだね! ああ、くそ、君はじきにオーディンを離れるし、距離的にも遠くに行ってしまい、しかも君はこんなに若い! なんて、なんて遠いんだろう」

フェリックスの胸に唇を滑らせ強くその頂を吸った。フェリックスがあっと細い声を上げる。そのまま唾液の跡を残して腹の上に舌を走らせ、青年の兆し始めた中心を口に含んだ。鼻先でそれを立ち上がらせて裏側を舐め、根本をやわやわと揉んで、フェリックスに悲鳴を上げさせた。

「…君が側にいなくなっても幸せにやってくれれば、それでいいと思っていた…。だが、私だって君が欲しい、欲しいんだ」

「また、後悔するつもりですか? それなら後悔しないですむようにしたらいいんだ…! 来てください、僕のところまで」

レッケンドルフが中心に唇を添えたまま言う。

「君のところ…?」

「ハイネセン」

自分を含んで吸い上げしごくように動く、レッケンドルフの頭にしがみついてフェリックスは腰を動かそうとした。レッケンドルフの方はその腰を押さえつけて離さない。互いに強く押し合った。レッケンドルフが口からフェリックスの中心部を離すと、それは飛び上って雫を散らしながら跳ねた。それを握って青年の足を限界まで開かせ、窄まりに自分を押し付け、強引に押し分け入っていった。

「や…、あ、あ、んん!」

熱いその中は毎晩の交歓によっても慣れることなく、男を締め付ける。これ以上ないほどの強度で張りつめた自分をフェリックスに叩きつけた。フェリックスの悲鳴が濡れた艶のある嬌声に代わり、望み通りに感じるところを突き上げていると分かる。

「いやっ、あ、あんん! はぁんっ」

「…きっと、私がとうとう、君に会う勇気を出した時には…、君は私を忘れている…!」

「僕は…忘れたりなんて…!」

フェリックスは投げ出した腕を頭上で揺らしながら、相手の腰に足を巻き付けた。

「分からないですよ…、あなたのほうこそ、すっかり…、忘れてしまうんじゃ…ないですか…あぁ!」

男の腰にしがみついていた両足を担ぎ上げられ、角度が変わったせいで最後の言葉は苦しげな喘ぎ声に紛れた。フェリックスの腕が支えを探して肘をつき、上体を起こそうとした。彼は眉をひそめた苦しげな表情のまま、男に縋りつこうとするように伸び上った。

「あ! はあっ! あぁ!」

レッケンドルフも青年の肉体にすべてを集中して、欲望を最高潮まで引き上げ、二人同時に白濁としたものを溢れさせた。

 

土曜日、レッケンドルフの休暇の第一日目に、二人とも早起きして地上車に乗って出かけた。

レッケンドルフは出来ればフェリックスを連れて、もともと訪ねる予定だった湖水地方へ行きたかった。だが、青年にはオーディン市内に祖父母がおり、おそらく彼を心配している母親がそこで待っている。

フェリックスは子供ではないから、『お宅の息子さんはここにいますよ』、などと連絡することは出来ない。だが、いつでも彼が帰りたいときにすぐ帰れるように、オーディンを遠く離れてはいけない、と思っていた。ひとたび惑乱してそれが覆されることを願い、青年にぶつけもした。だが、青年には帰るべき場所があることを本当には忘れることは出来なかった。

二人が向かったのはオーディンからほど近いフロイデン山脈の高原にある山荘で、見晴らしの良いそこからはオーディンの街並みを望むことが出来る。山荘に着くと、フェリックスは真っ先にキッチンに籠って、レッケンドルフに近くの湖まで散歩するようにと言って追い出した。青年は自分で思っている以上にフラウ・ミッターマイヤーの影響を受けているようだ。

フェリックスが一緒に歩いてくれることを願いながらも、散策するうちに心が晴れ、レッケンドルフは徐々に自分がこの状態を受け入れられることに気づいた。彼はすでに20年以上前に大きな別離に立ち会っていた。そして、それを乗り越えて来た経験は何物にも代えがたい、彼の資質となった。かつても彼は大きな望みを失って、とても生きていくことは出来ないと思っていた。だが、傷を負いながらも道を見つけ歩いてくることが出来た。

だから、これからも同じように、新たな道を見つけることが出来るだろう。

山荘に戻ってみると、山と遠くのオーディンを望むテラスに昼食の準備が出来ていた。休暇を祝福してワインを開けて乾杯し、おいしい手料理を頬張った。高原の新鮮な空気はすべてのものを輝かしく見せた。オーディンではフェリックスも何かに憑かれたような瞳をしていたが、それはすっかり影を潜めた。二人とも、ロイエンタール元帥の話はしなかった。彼の話はオーディンで十分にしてきたように思ったのだ。

午後は二人で遠くまで散策して、途中の道で放牧中の牛と出会ったり、湖でボートを漕いだりして過ごした。そして、夜にはテラスから遠くオーディン市街の空に上がる花火を見上げた。

「先帝追悼の期間の始まりだな」

レッケンドルフはフェリックスが現在の皇帝陛下とかなり親しいという印象を受けていた。彼は皇帝と共にフェザーンでこの式典に参加しなくてもいいのだろうか。

「それは皇太后陛下がお決めになったことなんです。こういった式典に参加する資格が欲しいなら、宮内省や関連の職員に就職して、運営側として参加しなさい、とね。僕のような陛下の学友たちや、獅子の泉の元帥たちの子供は、特別な存在として扱ってはならないと厳命されたんです。特に元帥たちの子供ですね。実際、僕らは何度か式典の裏方のアルバイトをしましたよ」

「ああ、いわゆる獅子の泉の子供たちだね。この言い回しこそ、まるで準皇族を思わせる」

「僕らを特別扱いしたがる、フェザーンのマスコミときたらひどいもんです。でも、皇太后陛下のおかげで僕らはずいぶん静かに暮らすことが出来ました。そうでなければ、アレク陛下には本当の友人など一人もいないことになってしまった」

フェリックスの表情が楽しげだったので、レッケンドルフは聞いてみる。

「アレク陛下は良い友達かい」

「まったく、優しくて頭が良くて頼りがいがあるんですよ、僕らの陛下は。背負われていらっしゃるものを考えると当然かもしれないけど、とてもまじめで僕よりずっと大人びてる。幼年学校のころ、あんまり大人しいから、子供らしさを育むことが出来ずかわいそうな皇子、とマスコミから言われました。でも、大人が言う子供らしさって胡散臭いものですね。アレク陛下はあれが彼なんです」

まるで彼自身、子供時代に戻ったように憤慨してフェリックスは言った。ある意味では彼はまだ子供時代に半身を浸しているようなものだ。それはまだ彼のすぐ後ろにあった。レッケンドルフは子供時代を忘れてはいないが、それは主に自分の娘のおかげだった。

「では尚更、先帝陛下の追悼のようなときはお側にいたくないかい」

「陛下は余計なお世話だと言いますよ。現に、今年も侍従たちのアシスタントをして参加しようかと思っていたところ、僕にそのようなことをおっしゃいました。大人しいからと言って女々しいところなんてないんです。それは獅子帝のお血筋の現れだと僕らは思っています」

「僕ら?」

「陛下の学友たち、獅子の泉の子供たち」

レッケンドルフなどが心配するまでもなく、フェリックスには彼の若者だけの世界があって、ハイネセンでもきっとそれを見つけていくだろう。自分はそこに当てはまる場所がないように思える。だが、レッケンドルフは落ち込むつもりはないのだった。彼は行く手に何があるか、予測できないことを知っていたし、彼自身、少し考えていることがあった。

 

フェリックスはアレク陛下の話でいろいろ触発されたようだった。ベッドに入ってから、突然レッケンドルフに言った。

「レッケンドルフさん、陛下のために父の…、ロイエンタール元帥の伝記を書いてください。あなたは実のところこの20年、そのための準備をしてきたようなものですからね。もう、すぐにでも書き始められますよ。あの年表のままでもいいかもしれないけど、あれは将来、学者たちのために取っておく方がいいかな。一般向けには文章の方がいい」

「今、陛下のためと言ってなかったかい。一般向けって、普通に出版するということか」

「最初は私家版として陛下にお贈りしてもいいかもしれないけど」

レッケンドルフは思いがけない言葉に押し黙った。彼はずっと一人で誰に見せるあてもなくこの作業をしていた。そもそも20年目の名誉回復がなされるまで、ロイエンタール元帥の名は口に載せることすら不可能に近いことだったのだ。自分の記録が日の目を見て、ロイエンタール元帥が再び世に現れることがありえようとは。

「それは…、閣下のことを多くの人に知ってもらえたら、とてもうれしいね」

「僕は真っ先に買いますよ。自分で買ってみんなに配って回りますよ」

「君には必ず私から一冊送るよ」

まだ、実現するともわからぬことを二人は約束した。だが、レッケンドルフにはその本の献辞にはフェリックスの名を載せるだろう、と言うことがすでに分かっていた。

 

 

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