Season of Mackerel Sky
フェリックスの旅
11、
夕飯をフードサービスから取り寄せたレッケンドルフが書斎にフェリックスを呼びに行くと、青年はまだ年表を読んでいた。それぞれの特記事項、脚注に至るまで丹念に読んでいたようだ。食事中も上の空だったが、レッケンドルフは彼の好きにさせておいた。彼としても、自分のライフワークをこれほど熱心に読んでくれる読者がいるのは嬉しいことだった。しかもそれは、彼の敬愛する上官の実の息子なのだ。
翌日月曜に出社するレッケンドルフは早めに就寝したが、夜中過ぎにフェリックスがやってきて彼のベッドにもぐりこんだ。青年はレッケンドルフの背中側に寄り添い、胸の前に手を回した。シャワーを浴びたばかりらしく、フェリックスはしっとりとした肌をしていた。レッケンドルフはその腕を撫でつつ、少し寝ぼけた声ながら青年に聞いた。
「…したい?」
背中にフェリックスの頬が擦り付けられるのをレッケンドルフは感じた。
「いえ、あなたを疲れさせてしまうから。もし、大丈夫だったら朝に…」
そんなことを言われたら眠ることなどできない―。だが、寝もやらず抱き合った昨日の疲れのせいか、レッケンドルフは再び眠りにつくことが出来た。
レッケンドルフが意外に思ったことに、翌朝、彼が目覚めた時には青年はすでに起きていて、朝食の用意をしていた。少し拍子抜けしたが、本当に朝から彼と戯れなどしたら、その日は仕事などできないだろう。
「もう少しあの記録を見せていただきたいと思って。いいですか」
「ああ、もちろん、好きなだけ読んでくれ。そんなに熟読してくれて嬉しいよ。記録年表など、読んでいて退屈ではないかね」
「時々あなたの言葉が挟み込んであって、あなたの視点で当時のことを見ることが出来ますね。それが面白いので読み進めやすいです。あなたは文章が上手なんですね」
「そんな大したことは書いていないけど、楽しんでもらえて光栄だね」
レッケンドルフは赤くなって誇らしげに笑った。仕事上でオーディン経済界の長老に見所がある、と褒められた時よりずっと素晴らしいと思った。
玄関先で、出勤するレッケンドルフに接吻して「いってらっしゃい」と見送ると、フェリックスは年表の読み進めに戻った。年表は初めの方は『1章』と銘打って、オスカー・フォン・ロイエンタールの誕生から士官学校までの簡単な来歴が載っていた。その後は軍での戦歴が順を追って記され、レッケンドルフがロイエンタールの副官になったところで、『2章』になった。そこからは月日を明記して詳細な記録になっていく。昼頃には獅子帝が即位されたころの年表まで読み進め、それぞれの特記事項も複雑なものになっていった。
記憶に刻もうとするようにじっくり読み進めていたフェリックスが気づくと、すでに夕方近くになっていた。彼は慌ててデータをしまい、財布を持って外出した。世話になっていながらなにもしないのは心苦しいと思い、朝食の支度などをしてきたが、今夜は料理でもしようと思い立ったのだ。ふと、母がどうしているか気になったが、あえてその気持ちを押し殺し気づかないふりをした。自分が料理をするのももとはと言えば彼女の影響だったが…。
旧帝国騎士出身の中年のやもめらしく、レッケンドルフ家の冷蔵庫の中身はビールやチーズくらいしかなかった。近所にチェーン店のスーパーを見つけ、そこで野菜やパンを買い込む。ミルクのパックを買うか買うまいか悩んでいると隣に人影が立ち、顔を上げるとそこにヒルデガルド・ボイムラーがいた。
「やあ、君! びっくりした。買い物?」
ヒルデは上目づかいにフェリックスを見ていたが、うなずいて答えた。
「ミルクはこっちのメーカーの方が新鮮よ。オーディン近郊の牧場から仕入れてて安心だし、おいしいの」
「へえ、じゃあこれにしよう」
「夕飯の買い物? 何を作るの」
ヒルデ自身も食材を乗せたカートを押して、フェリックスと並んで陳列棚の間を歩く。少し気恥ずかしさを感じながらフェリックスは答えた。
「具だくさんのスープとオムレツでも作ろうかと思って。暑いから夏バテしないように栄養があるものがいいだろう。それでいてスープならさっと食べられるし」
「あなた健康志向? 野菜がいっぱいでヘルシーね」
「これから鶏肉を買うよ」
ヒルデは肉を買うならスーパーでなく、通りを行った老舗の肉屋で買う方がいいと薦めた。フェリックスは礼を言って会計の列に並んだ。ヒルデはまだ買い物の途中らしく、カートを買い物客の邪魔にならないよう、会計の列から遠ざけてためらっていたが、ようやく口を開いた。
「フェリックス、あなた先週、帝国大学の近くの帝都図書館にいた?」
フェリックスは周りの列に並ぶ人々の視線を感じつつ、驚きを隠せずにヒルデを見た。
「いたよ、なぜ知ってるの? もしかして君もいた?」
ヒルデは頷いて続けた。
「私、週に3回くらいはあそこで勉強したり、友達と会ったりしてるの。まだ夏休み中だけど、大学に戻ってる友人たちもけっこういるの。勉強はまだしないけど、頭の体操のために討論会を木曜日にやってるの」
「へえ、真面目だなあ…」
皮肉でなく感心したフェリックスの言葉に、ヒルデは苦笑した。
「みんな3回生だから、もう将来を見据えて鍛えてるつもりなの。でも、結構くだらないことも議論してる。もし、興味があったら来てみて。B-2っていう自習室にいるから」
ヒルデはそれだけ言って、缶詰とジャムの陳列棚の向こうにカートを押していってしまった。フェリックスはしばらくその後ろ姿を眺めていたが、後ろに並んだ客に注意されて会計に進んだ。
その夜、レッケンドルフがいそいそと家の扉を開けると、夕飯のいいにおいがした。今日の夕方、仕事場から夕飯を外で食べるかどうか聞こうとフェリックスに連絡を入れたら、「今作っていますから、おなかをすかせて帰ってきてください」と言われたのだ。誰かが夕飯の支度をして彼を待っているなど、それこそ別れた妻がこの家にいた時以来だった。
彼が作っていると聞いて、料理上手の母親の影響がどれほど及んでいるのか、期待と不安に襲われたが、どんなものでも完食するつもりで帰って来た。だがレッケンドルフが食卓に見たのは、誇らしげに金色に輝くオムレツと、ぐつぐつ火にかけられてとてつもなく良い匂いを漂わせているスープだった。
「君は古来の言葉通りにすることを心得ているな」
鶏肉ひとかけ、豆粒一つ残さず食べて、満足したレッケンドルフが言った。
「古来の?」
「男の胃袋をつかめとか、なんとかいうだろう」
戸惑ったようなフェリックスの表情にレッケンドルフが気づき、二人の間に沈黙が落ちた。男の心をつかむには胃袋をつかめ―。真っ赤になったフェリックスの顔を見て、自分が今何を言ったかレッケンドルフは遅まきながら思い至った。レッケンドルフは咳払いをして低い声で言う。
「まさか、私がただ若い美形を攻略したいがために、君の父上の話題を餌にこの家に閉じ込めていると思っていないだろうな」
「いえ、あの…。僕をき、気に入ってくれているんだとは思いますが…」
「たとえばかつて閣下に劣情を抱いていた破廉恥な副官が、息子の君をその身代わりだと思っているとか」
自分の席を立って隣の椅子に座ったレッケンドルフの腕の中でもじもじしながら、フェリックスは答える。
「…それについては本当にどうなんですか」
「本当にそうだったら、君に閣下の話なんてできないような気がする。前にも言ったとおり、私は閣下の誰よりも忠実な副官でありたかった。その副官は閣下のお側に四六時中ついて回り、その時閣下がお付き合いしていた女性の誰よりも閣下と長時間ご一緒し、その日お起きになった時刻から、コーヒーを召し上がった回数、食事の内容までも把握していた」
「…恋人以上ですね」
「そのような立場と閣下のご信頼に甘えてご本人に関係を迫るなど、私には出来ないことだった。副官と言う地位を何よりも大切に考えていたのだから」
「父は幸せだな…」
フェリックスのつぶやきにその耳元に唇を寄せて元副官は答える。
「君が幸せであれば、私には閣下も幸せに感じてくれているように思える。君は閣下のために毎日、楽しく充実した暮らしを送ってほしいな」
その言葉はまるで、レッケンドルフが見ていないところでフェリックスにこれからどう生きて欲しいかを伝えているようだった。そうだ、8月にはオーディンを離れる、ここで新たに知った人々と遠く離れていく―。
フェリックスは何も考えたくなかった。6月にフェザーンを発った時にはあらゆる変化を歓迎していた。これからどのような新しい人生が巻き起こるか、行く先を楽しみにしていた。だが、今の彼の心理はそうではない。そのことにフェリックスは恐れを抱いた。
しかし、自分の道はもう敷かれていてそれはハイネセンへ続いている。おそらく、祖父母のため以外に今後、めったなことではオーディンに来ることはなくなるだろう。
―まるで別れの言葉のようですね。あなたはもう二度と、僕に会わないつもりですか。
その言葉は口には出さず、ただレッケンドルフの唇に自分の唇を押し付けるだけにした。
二人は彼らのお気に入りの場所となったソファに並んで座り、レッケンドルフがおどけて名付けたいつもの『ロイエンタール元帥傑作集』を一緒にしばらく鑑賞した。レッケンドルフはフェリックスの記憶に刻み付けようとするかのように、映像のそれぞれの場面に注釈を加えた。まるで昔からそのような仕事をしてきたとでもいうかのように、その言葉は的確で、父親の置かれた状況を当時の軍隊を知らぬフェリックスにも容易に理解させることが出来た。
その後、フェリックスに促されてレッケンドルフは書斎の端末の前に座った。フェリックスも彼の隣に椅子を引っ張ってきて座る。
「僕が生まれた時の状況について、もう少し、情報を加えるべきだと思うんです。それに僕の生年月日が記載されていないですね」
新帝国暦1年のある衝撃的な出来事をフェリックスが指さしている。レッケンドルフははっとして気づいた。
「…フェリックス、君は」
「父は僕が生まれることを望んでいなかった。先帝陛下にもそのように言っている」
「父上は佞臣に妬まれ、陥れられたのだ」
「そうだとしても、父が言った言葉に偽りはないように思えます」
レッケンドルフはため息をついて首を振った。
「ここにあるのはしょせん、表面的な言葉でしかない。閣下はご自分について語ろうとはなされぬ方だった。私はあの方の真意を探ろうとしたが、それは結局わからずじまいだった。だが、フェリックス、まだ見ぬ息子について愛情を示すことが出来るかどうか、父親になることなど考えたこともない青年にあまり多くを求めないでほしい」
「しかも、相手の女は自分と皇帝の間に不和の種をまこうとしたんですからね」
フェリックスのゆがんだ顔は皮肉さと冷笑をたたえて、父親とそっくりに見えた。
「閣下も完璧ではなかったのだ、フェリックス。君の父上もまた、ただの経験のない若者で完璧ではなかったということを忘れないでほしい」
「あんなに父がどれだけ素晴らしい、卓越した存在だったか言っておきながら?」
レッケンドルフはそれに答えず、新帝国暦2年の年表を呼び出し、フェリックスに生まれた月日を聞く。その答えを聞いて、当てはまる場所に新たな記述を入れた。
―新帝国暦2年5月2日 ロイエンタール元帥の息子、のちのフェリックス・ミッターマイヤー誕生。母はエルフリーデ・フォン・コールラウシュ。母親の収監先の病院にて。
特記事項として、別のシートを立ち上げ詳細を入力する。
―エルフリーデ・フォン・コールラウシュは息子を連れて立ち去り、同年12月16日、ロイエンタール元帥の元に再び現れるまで、以後行方知れずとなる(12月16日の項目を参照)。
12月16日の項目は20年前にレッケンドルフが詳細に記載していた。ロイエンタール元帥の最期の場面に彼女と赤ん坊が現れたことを、従卒のランベルツから直接聞いた内容や、自分の見聞をもとに記載している。
―閣下はランベルツに赤ん坊を抱いていてやるようにと命じられた。
「ランベルツは私にもその時、話してくれた。君の母親はミッターマイヤー元帥がきたら、彼に赤ん坊を預けてほしいと言ったと。彼女の言葉から、それがロイエンタール閣下のお望みでもあるのだとランベルツは思ったようだった」
レッケンドルフはフェリックスに今言ったとおりのことを、すでに20年前に特記事項に入力しており、さらに一文を追加した。
―以後、彼女の行方は杳としてしれない。
「もしかして一度、フェザーンのミッターマイヤー家に現れたかもしれないんです」
驚くレッケンドルフに、青年はエヴァンゼリンの告白の内容を伝えた。レッケンドルフはその内容をどの年代に記載するべきか迷ったが、ひとまず、12月16日のエルフリーデ・フォン・コールラウシュの特記事項に追加した。何度か、文章を練りなおしつつ簡潔に記載していく。
「君、その女性は君の母上その人だったと思うかい」
「分かりません…。僕は実の母親は僕を捨てたように感じていた、そのことに気づいたんです。そう気づくことすら怖くて、彼女は最初からいないもののように思い込もうとしていた。実際それは難しいことではなかった。ミッターマイヤー家のエヴァンゼリン母はこれ以上ない、素敵な母親です。それが僕に会おうとしてただなんて、僕は…」
目の中が熱くなり、フェリックスは気持ちを落ち着けたくて息継ぎをしたが、それは震えて深呼吸にはならなかった。
「どちらの母親がいいかなんて選ぶようなことはしたくない。だから、聞いたらなるほどと納得するような事情を、実の母が持っていたんだと信じたい」
レッケンドルフは青年の頭を腕の中に囲ってそのダークブラウンの髪にささやいた。
「人間はその時その時で精いっぱいの判断をしていくだけだ。さっきも言っただろう…。君の母親も、父親も完璧ではなかった。あとになってああすればよかったのではないか…、そう思うことばかりなのだ」
「それはあなたの経験談…?」
「そうだね…。親だなんていっても情けないものだよ。閣下にもご自分の判断が正しかったか、間違っていたかぜひ、見届けていただきたかったな。一人の親として痛切に思うよ」
そのままじっと、二人で画面を見続けた。
―新帝国暦2年12月16日 帝国標準時16時51分
新領土総督府の執務室にて、オスカー・フォン・ロイエンタール死去。享年33歳。
ロイエンタール元帥は、その最期に至るまでロイエンタール元帥以外の何者でもなかった。