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フェリックスの旅

8、

再び、フェリックスは祖父母の家で母を手伝って買い物に出たり、祖父と一緒に庭園めぐりをしたりして過ごした。合間にはいとこたちと遠出をしたりした。もともと計画していた通りのオーディンでの休暇に戻ったのだ。母とはしょっちゅう一緒に出掛けた。フェザーンでは大学に入ってからはあまり母と一緒に外出することはなかったが、もうすぐその母と遠く離れて暮らすことになる。母がさみしがるのではないか、と言う思いから、ことさら一緒に出掛けたがる母の願いを聞き入れていた。

フェリックスが我ながら不思議に思うのは、自分が父と離れることはあまり気にしていないらしいことだ。もし、父が自分に会いたかったら父は母よりそれを簡単に実現することが出来る。昔のミッターマイヤー元帥の旗艦、人狼に飛び乗ってハイネセンまで飛んできたら面白いだろう。現実的にはありえないことだが、可能性はあるのだ。

父とはあれ以来、一度も話していない。先日、母がフェザーンへの超高速通信で父と話をしに行ったとき、例によって一緒に連れていかれた。母が楽しそうにオーディンでのあれこれを父に話している間、フェリックスは母の後ろでだんまりを決め込んだ。父の方も別に彼と話したそうでもなかった。

おそらく、父は息子がハイネセンに行くべきでない、という考えを捨てきれずにいるのだ。だが、フェリックスの望みを政治的な理由で阻むようなことをしたくないため、今は何も言うことが出来ないのだろう。父の公正さを認めないわけにはないが、だからと言ってこちらから折れる気はなかった。

フェリックスはハイネセンへ行き、彼の地で旧同盟の歴史が育んだ民主主義と資本主義による経済機構を学ぶ。彼には分かっていた。経済について学ぶならフェザーンよりもいい場所はない。レッケンドルフが言うとおり、起業して実践することで学ぶことも多い。だが、彼はハイネセンへ行きたかった。それは子供のころ、父から聞いた騎士の物語の舞台だったから。子供のころのフェリックスが夢を見た、気高い騎士の終焉の地だったから。そして彼は、かつてその星に赤ん坊の自分と騎士が共にいて、その騎士が確かに生き、そして彼の目の前で斃れたのだとはっきり知ったのだった。

 

ある日の午後にいとこたちと出かけ、祖父母の家に戻ると、母が家じゅうの掃除をしているらしい物音が聞こえた。祖父母が掃除をするときは年代物の掃除ロボットが家じゅうを掃除して回る。祖母はこのロボットを『ウォルフィー』と名付けて修理しながら何年も使い続けていた。だが、この掃除ロボットはかなりガタがきていて、時々掃除した後をついて行かないと、椅子の足にひっかかっていつまでもとどまったり、ごみを取りこぼしたりするのだ。オーディン滞在中は母が祖母に代わって掃除を引き受けており、掃除ロボがガタガタといいながら仕事をする後ろから、母は箒と雑巾を持ってついて回っていた。最新式の掃除ロボットを買ったらいいのに、と思うが、この『ウォルフィー』は父が祖母のために買ったものらしく、そのせいで捨てることが出来ないらしい。

「それに、もうあの子は何年もうちの掃除をしているから、この家の中のことをよく知っているのよ」

今、母と『ウォルフィー』は2階の掃除をしているらしい。自分の部屋まで行ったかな、と思いつつ、フェリックスは2階へ階段を上がって行った。2階に上がると、ちょうど『ウォルフィー』が自分の部屋を出て、隣室を掃除しようと廊下を行くところだった。だが、その後ろについているはずの母は姿が見えなかった。

「母さん? 帰ったよ。いるんだろ」

母はフェリックスの部屋にいて、彼のデスクの前の椅子に座って何かを読んでいた。その顔色はひどく悪く、母が着ているブラウスよりも真っ白だった。

「母さん!? どうしたの?」

「フェリックス、あなたずっとあの人と文通をしていたの?」

母の声は震えて小さかった。フェリックスは何を言われたか分からず、母の真っ青な顔を見る。母は少し苛立ったように手の中のものをフェリックスに突き付けた。

「これ、あなたは幼年学校であの人と会ったの?」

震える母の手には花柄の縁取りをしたあのカードが握られていた。フェリックスは戸惑って母が何を勘違いしているか理解できずにいた。

「僕が? 誰と? 幼年学校で会ったって? ロイエンタール元帥が?」

「ロイエン…? 何を言っているの、フェリックス? あなたの話よ」

「僕の方こそ、母さんが何を言っているか分からないよ。そのカードはロイエンタール元帥がお母さんとやり取りしたカードだ。あのロイエンタール邸で偶然見つけて、後であちらに返そうと思ってたんだ。母さん、僕の引き出しを開けたの?」

母は息子の持ち物を掻き回したという疑惑を向けられたことには気づかなかった。

「ロイエンタール元帥とあの方のお母様? 本当に? フェリックス?」

「そうだよ、そんなことで嘘つかないよ。だいたい、ロイエンタール元帥の字と僕の字は違うだろう。僕が誰と文通してたって?」

「あなたが子供の時の字とよく似てるわ。あなたは丁寧できれいな字を書いたわ。近頃はずいぶん乱暴に書くけど…」

フェリックスは腕組みをして座り込んでいる母を見下ろした。息子のいらだちにようやく気づいたエヴァンゼリンが、大きなため息をついて答える。

「フェリックス、ごめんなさい。ロイエンタール元帥が書かれたものだとは思わなくて、一足飛びに結論に飛びついてしまったみたいね。私の勘違い。もう気にしないで」

そういうと、雑巾と箒を取り上げて部屋を出て行こうとした。それを遮ってフェリックスは母のブラウスの袖をつかんだ。

「ねえ、母さん、僕が誰と文通していると思ったの。まだ答えを聞いてないよ」

「…いいの、私の勘違いだから、忘れてね」

「母さん!」

エヴァンゼリンは息子を見上げて手の中の雑巾を引き絞った。だが、とうとう観念して答えた。

「あなたの本当のお母様。あの人が秘密であなたに会いに行ったのだと思ったの」

思いがけない母の言葉にフェリックスは何も考えることが出来なかった。『本当の』母親…? あの人…?

「母さん、僕の生みの母親に会ったことがあるの?」

エヴァンゼリンは立ったばかりの椅子にまた座った。しばらく手の中の雑巾を右に左にひねっていたが、ようやく話し出した。

「あなだが幼年学校の1年生のころに、うちに女の人が来たの。私は庭仕事か何かをしていた。ふと、若い綺麗な女の人が道路から庭の中をのぞき込んでいるのに気付いたの。…あの頃、あなたのお父さんは国務尚書になられたことを覚えている?」

「…そういえば、そうだね。僕がまだ10歳くらいのころに国務尚書の任にとうとう就いたんだったね。皇太后陛下がそういうことをおっしゃっておいでだったのを覚えている」

エヴァンゼリンはうつむいたまま頷いた。

「あの頃ウォルフは本当に忙しかったのでしょうね。いつも夜は遅くて、朝は早く出かけてしまう。同じ家にいるのに顔を合わせるのはほんの30分くらいということはよくあったわ。私、辛かった。昔、軍務で宇宙に出ていた時なんて何か月も顔も見れず、話しもできなかったのに、ずっと待っていることが出来た。なのに、同じ家に住んでいながら、同じように出来なかった。あなたはおうちにいないし、毎日1日一人で家の中にいなくてはならないことがつらかった」

エヴァンゼリンはうつむいていた顔を上げて息子を見た。

「毎日、次にウォルフに会うときにはそのことを言わなきゃ、と考えていた。でも、実際にあの人が帰ってきて、疲れてはいてもほがらかな顔をしているのを見ると、私の考えなんてバカげたことのように思ってしまう。ウォルフ自身は毎日生き生きとしてお勤めに出ていたの。いろいろ難しいことがあっても、きっとお仕事は充実していたのね。でも、その時の私はいつも不安でいらいらしていて、自分は駄目なんだ、毎日うまくいかない、といったことばかり考えていたの。もう…、離婚するべきじゃないかしらって」

「まさか、そんなこと、本当に?」

フェリックスは絶句した。母は柔らかい微笑みを浮かべてはいるが、再びうつむいてしまった。

「あの頃は私、何も見えていなかったの。そういうときに、裏門の前に綺麗な若い女性が立っていて、それで少し感情的になってその人に問いただしたの」

 

『あなたはどなた? 何か御用ですか』

少しこわばった笑顔のエヴァンゼリンが庭仕事の手を休めて、泥に汚れた手袋を脱ぎつつ聞いた。若い女性は門の外から決して中に入ろうとはせず、家の中をのぞき込むように首を伸ばした。

『お宅のお子さんは? 学校ですか?』

『うちの子? 何故そんなことをお聞きになるの? フェリックスに何かありましたの? あなたはどなた?』

その女性はどことなく、以前会ったことがある人のように思えた。緊張したような表情をしていたが、フェリックスの名を聞いてさらに口角がひきつったのをエヴァンゼリンは見た。

『フェリックス…。フェリックスというのですね。可愛い、素敵な名前ね』

『あなた何故、うちの子のことをお聞きになるの? いったい何をしにいらしたのか、おっしゃってくださらない?』

『お子さんに何かあったわけではありません。心配させてごめんなさい。ただ、お顔を見られたらと思っただけ』

そういうその女性の口調は軽いものだったが、目が真剣なものだったので、エヴァンゼリンは怖くなった。

『あの子はここにはいません。お帰りになって、警備兵を呼びますよ』

『いないってどういうことです? あなた方はあの子をどこへやってしまったの? 自分の子ではないから人にやってしまったの?』

『なんですって!? 何をおっしゃっているの? フェリックスは私たちの子です。誰にも渡しません! あの子は学校です。幼年学校の1年生で普段は寄宿舎にいるんです』

『寄宿舎…!』

若い女性は笑い出した。それは唐突な笑い方で、しかもプツリと笑いが途切れると急に顔を覆って泣き出した。もしこれがフェリックスとはかかわりのないことであったら、なぜそのように泣くのかとエヴァンゼリンは女性の身を心配しただろうが、その時は違った。彼女は国務尚書邸付きの警備兵を呼ぼうと、若い女性を視界に収めたまま徐々に後ずさり、最後には走って家の中に駆け込んだ。

『…フラウ…! 待って、フラウ・ミッターマイヤー!』

女性が呼ぶのが聞こえたが、エヴァンゼリンにはその女性が自分の素性を知っていることでなおさら薄気味悪く感じた。何度か女性が呼ぶ声が聞こえ、ドアをたたく音がした。エヴァンゼリンはビジフォンを取り上げると警備の詰所に直通電話をかけ、家の裏口に不審な人物がいることを告げた。

警備兵は監視用モニタで若い女性がずっと裏門の外にいるのを見ていたが、しばらくするとエヴァンゼリンと話し出したので、問題ないと思っていたらしい。急報を受けて裏門の前まで出て行ったが、すでに女性は立ち去った後だった。エヴァンゼリンがあまりに怖がるので幼年学校にも連絡を入れ、警戒するように伝える。その騒ぎは国務尚書が早退するまで続いた。

ミッターマイヤーが帰宅するころには、エヴァンゼリンは不審者が息子を襲うのではないか、と言うこととはまた別の恐怖にとらわれていた。彼女は気づいたのだ。あの若い女性がフェリックスとよく似た面立ちをしていたことを。もしかして、彼女は姿を隠した実の母親だったのではないか。そう考えると、あの短い邂逅の間、彼女が言った言葉に合点がいく。

それなのに、ようやく姿を現した彼女を追い払ってしまったのではないか…?

エヴァンゼリンの疑念を聞いたミッターマイヤーは各空港、宇宙港、関門を厳重に取り締まる手配をした。だが、それらしき人物を捕まえることは出来なかった。まるでこの地上から消えてしまったかのように、あらゆる痕跡が途絶えてしまったのだ。ミッターマイヤーはその女性にはおそらく庇護者がいたのだろうと言って、女性の身を心配するエヴァンゼリンを慰めた。実際そうでもなければ、こうも手掛かりがないことを理解しがたい。

そもそもこの女性が、本当にフェリックスの実の母親かということすら、はっきりさせることは出来なかった。防犯カメラに収められた映像ではこの女性が誰なのか判別できなかったのだった。

 

どこかで掃除ロボットがガタガタと音を立てている。二人は急に日が陰って薄暗くなった部屋の中で、まるで次に何が起こるか待つかのように黙っていた。

フェリックスは口を開きかけて喉が詰まり、咳払いをした。

「なぜ…、そんなことがあったのに、誰も僕に何も言わなかったの? 少しも知らなかった」

「あなたを混乱させたくなかったの。本当にあなたのお母様だったか分からなかったし、しかも、結局どこかへ行ってしまった。私のせいで…」

母さんのせいで…。だが、母を責めることが出来るわけがない。母の方こそ、その時ひどく驚き、混乱していたに違いない。しかし、本当にその女性が自分の実の母親だったとしたら? ずいぶん時間が経っていたが、それでも自分に会うためにミッターマイヤー邸を訪れたのだとしたら? なぜ、誰も何も教えてくれなかったのだろう。もし、母親が訪ねてきたことがあるというその事実を知っていたら、自分は…。自分は…。

「ごめんなさい。フェリックス。あなたのお母様に会えたかもしれないのに…」

エヴァンゼリンは立ち上がり、フェリックスの頬に手を添えてその顔を覗き込んだ。フェリックスはその手をそっとはずして、一歩後ろに下がった。

「…母さんはその人が僕の実の母親だと思ってるんだね。僕に言わないことを決めたのは、父さん?」

「そうよ。そして私もそれに賛成したの。今ならあなたに話すことが出来るけれど、あの時あなたはまだ子供だった。動揺して悲しませるようなことはしたくなかったの。わたしも、ウォルフも」

「…僕がどう思うかなんて、言ってみないと分からないじゃないか。僕を信用して、言ってくれたらよかったんだ」

「フェリックス、そんなことできないわ。出来ない…。出来なかったの」

フェリックスは手を差し伸べる母には気づかず、後ろを向いて階段を下りて行った。そして、夕飯の時間に祖母が呼びに来るまで、ミッターマイヤー家の庭に置かれたベンチに座って、バラの花壇を見ながら過ごした。

それでは、彼の母親という人はこの宇宙のどこか、彼の知らないところでずっと生きて暮らしていたらしい。父の言葉の端々からその人はもうこの世にいないのではないか、と父が考え、自分もそうではないかとずっと考えていた。あるいは、実際に今ではそうなってしまったかもしれない。

しかし、自分が子供のころ訪ねて来たというその女性が本当に彼の母親だったとしたら、それまでいったいどこにいたのだろう。自分をロイエンタール元帥の親友であるミッターマイヤー元帥に預けてしまったことを後悔して、自分に会いたいと願っていたとしたら…? いや、それならば、なぜもっと早く彼の元に来ることが出来なかったのか。きっと優しいミッターマイヤー夫妻は自分と母親を自然な形で合わせてくれたに違いない。もしかして、あのフェザーンのミッターマイヤー家を出て、本当の母親と一緒に暮らすことになったかもしれない。

だが、そうはならなかった。フェリックスが不在中のタイミングの悪さのせいか、エヴァンゼリンの精神が不安定だったせいなのか。とにかくその女性は身分を明かして、どうしても子供と会わせろとごねることもなく、あっさりと姿を消した。

夕飯の席でもフェリックスは黙ったまま食事をした。母が何度か彼に話しかけようとしているのに気付いたが、話しやすくなるように水を向ける気はなかった。祖父母が顔を見合わせて何か言いたげにしているのにも気づいた。だが、フェリックスはそれを無視し続けた。

食事の後で自分の部屋に行き、ダッフルバッグに着替えや本を詰め込む。財布の中身を確認してからジャケットを羽織ると、荷物をもって1階に降りて行った。偶然のようにして祖父が居間から現れた。祖父は孫が荷物を持っているのを見ると、「出かけるのか」と聞いた。

「ちょっと数日友人のところに行ってくる。何かあったら端末に連絡をくれればいいから」

祖父は腕組みをして孫を見上げた。このようなしぐさをする時、祖父はその息子と実によく似ていた。

「何があったか知らんが、お母さんにちゃんと挨拶していけよ。こそこそ出ていくなんぞ男らしくない。ウォルフガング・ミッターマイヤーの息子なら堂々と出て行け」

フェリックスは少しうつむいて静かに笑った。

「ところが、僕はロイエンタール元帥の子供らしいんだ。だから、父さんのように立派には振る舞えない」

「ロイエンタール元帥も立派な人物だったがな。あの方も今のおまえを見たら感心しないと思うだろう」

フェリックスの焦燥を助けるようにそこにエヴァンゼリンが現れた。廊下にいる二人を見て、はたと立ち止まる。フェリックスは大きく息を継いで声をかけた。

「母さん、しばらく友達のところに行ってくる。何かあったら端末を持っているから、連絡をくれればいいから」

祖父に行ったのと同じことを早口で繰り返した。エヴァンゼリンは戸惑ったようにフェリックスを見上げる。

「だって、あなた、こちらにあなたを泊めてくれるようなお友達がいるの…?」

「そんなの、母さんが心配する必要ない。とにかく、行ってくるから」

祖父が揶揄するように大きな声で孫の後姿に声をかけた。

「あの女の子のところだろう。男が若い無力な女の子に迷惑かけちゃいかん」

「お父様…」

エヴァンゼリンがたしなめる声を聴きながら、ドアを開け外に出た。月明かりがまぶしい夜だった。

 

 

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