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フェリックスの旅

9、

ダッフルバッグを肩から掛け、フェリックスはオーディンの夜の街を歩いた。祖父に従ってこの街の方々を歩き回ったが、どこに行けばいいか分からないとき気軽に立ち寄れる場所は、図書館よりほかに知らなかった。旧王朝以来の大きな図書館がオーディン帝国大学の近くにある。学生のみならず多くの市民がその快適な閲覧室を利用している。図書館なら静かだし、考え事をして冷静になるのに最適だろう。

夜10時まで開館している図書館はまだこの時間、多くの人が出入りしていた。閲覧室のデスクの一つに腰を落ち着けて、フェリックスは持ってきた本を読み始めた。

フェリックスは気づかなかったが、いくつかある学習室の小さなブースのひとつに、ヒルデガルド・ボイムラーがいた。彼女は帝国大学入学を目指すある女学生の勉強を見ていた。ブースのドアにある窓からフェリックスに似た姿が通り過ぎるのを見て、彼女ははっとして立ち上がりかけた。だが、今は授業中であるし、彼に会う心の準備が出来ていなかった。1時間後に授業が終わって、一緒に帰る予定の女学生をブースに残して、彼女はフェリックスを探しに閲覧室を覗きに行った。だが、彼の姿はすでになかった。だめもとで司書に彼を見なかったか聞いてみた。

「ダークブラウンの髪できれいな青い瞳の、背の高い、まだ20代で若いけど学生っぽくない落ちついた感じの、しかもハンサムな男性ね。その男性が私の見た彼ならいたわよ、確かに」

30代とおぼしき女性の司書はにっこりして答えた。

「あの子があなたの彼なら羨ましいわね。でも残念ね、ついさっき出て行ってしまったわ。本を何冊か貸出して後姿をうっとり見送ったから確かよ」

ヒルデは彼がよくこの図書館に来るか詳しく聞こうとしたが、女学生に呼ばれて思いとどまった。自分でフェリックスと付き合うべきでない、と決めたはずだ。これ以上、彼のことを考えても仕方がない。

だがきっと、次にこの図書館に来る時も彼の姿を探してしまうだろう、という確信があった。

 

エミール・フォン・レッケンドルフは寝入りばなを端末の呼び出し音で起こされた。会社に何かあったかと反射的に端末を取り上げ、そこに現れた発信者の名前に驚く。

「レッケンドルフです。どうしたんだね、こんな時間に」

「すみません、夜分遅く。あの、少しお願いがあるんですが」

青年の声の向こうで音楽が鳴り響き、ガラスが割れるような音がした。彼の映像は送信されていない。音声状況が悪化して一時聞こえなくなった。この青年はオーディンの祖父母のうちで幸せな家族に囲まれて、休暇を過ごしているはずではなかったか。

「もしもし!? 君はどこにいるんだ、そんな騒がしいところで何をしている。そこは大丈夫なのか」

「イルメンガルト街と言うところのバーなんですが、喧嘩が始まったようで。あの、お願いがあるのですが」

「イルメンガルト街!? なぜそんなところに…。いや、いい、いったい何のお願いだね」

再び大きなガラスが割れる音と何かの爆発音が響いて、端末の通信が途切れた。レッケンドルフは茫然と端末を手に立ち尽くしていたが、大慌てでパジャマの上にジャケットを羽織り、鍵のついたロッカーからブラスターを取り出すと、裸足に靴を履いて部屋を飛び出そうとした。どこに行くつもりか自分でもよく分かっていなかったが、とりあえずイルメンガルト街を目指そうとした。

その時再び端末に着信があった。

「君か!? フェリックス君!? 大丈夫なのか!?」

「そうです。通信が切れてしまったようですみません。あの、お願いがあるのですが」

レッケンドルフは心配させられたせいもあって、青年が繰り返す言葉にいらいらと答えた。

「早く言いたまえ。何のお願いだ」

「今夜、泊めていただいてもいいですか。ホテルに泊まろうとしたら、今週は何かイベントが多いとかでどこもいっぱいなんです。高級ホテルなら空きがあるようだけど、そんなところに泊まるわけにもいかないし…」

君の祖父母の家はどうしたんだ―。だが、とにかくイルメンガルト街のようなよそ者には少々危ない地区から出すべきだと思い、フェリックスの願いを聞き入れた。

「君、この時間は地下鉄を使ってはいかん。地上車に乗って来なさい。大きな通りに出れば無人のがたくさん走っているから―」

「分かってますよ。それではこれから寄らせていただきます。泊めていただいてありがとうございます」

「お礼はいいから早く来なさい」

 

翌朝、いささか睡眠不足の重い頭を抱えてレッケンドルフが食堂に現れると、すでにフェリックスがそこにいた。フードサービスの朝食をテーブルに並べて、ポットに入ったコーヒーをレッケンドルフのために注いだ。レッケンドルフはため息をついて、青年が卵料理を選り分けて、甲斐甲斐しくパンを乗せた皿を寄越すのを押しとどめた。

「いいから君も食べなさい。それで、どうして夜中に電話を寄越すようなことになったか、そろそろ教えてもらえるかな」

それを話すのを避けたいがために、あれこれ朝食の世話を焼いていたらしいのははっきりしていた。フェリックスが俯いてパンをちぎりながら、母親と喧嘩をしたこと、しばらく家族から離れて手ごろなホテルにでも泊まろうとしたが、軒並み断られて果たせなかったことを話す。

「本当に馬鹿みたいだ。いい年して家出しようとしたくせに、ホテルに泊まれず右往左往するなんて。しかも、あなたにご迷惑をかけることになったし…」

レッケンドルフは青年が恥ずかしそうにするので何とか笑いをこらえた。だが、フェリックスは考え込んで鬱々とした表情をしている。母親との喧嘩などよくあることだろうが、青年がそのことを深刻にとらえているらしいことが気になった。

「では、まあ、お母さんに謝って、今日は家に帰りなさい。じっくり考えたいというなら、私が帰るまでゆっくりしてからでも構わないから…」

フェリックスは少々ふてくされた様子で答えた。

「謝るのはあっちの方です。あの、ご迷惑でしょうが、しばらく泊めていただけると助かるのですが。もちろん、その分の支払いをします。ビジネスホテルくらいの値段でよければ…」

「金の事なんか気にするな。泊まりたいというなら構わないが…」

いずれにせよ祖父母の家へ帰った方がいいのでは―。レッケンドルフが提案しようとする気配を察したのか、青年は急いで口を開いた。

「ありがとうございます。お邪魔しないようにしますので。もう出かけられる時間じゃないですか? 引き留めてしまってすみません」

フェリックスは立ち上がって空いた皿を片付け始めた。空になったコーヒーカップを持っていたレッケンドルフは、青年が差し出す手にぼんやりとそれを渡した。

おそらく家へ帰れと説教されたくないのだろう。やっていることは子供じみているが、彼は子供ではない。喧嘩の結果、今後親と難しいことになってもそれは自分の責任だ。レッケンドルフはため息をつきつつ、青年が一人になりたいのだと慮っていつもより30分早く家を出ていった。

その日は金曜日で、常であれば休み前の追い込みで忙しくなる日だった。残業することもありえたが、夏の休暇シーズンに入ったせいか、さほどせわしない雰囲気はない。寝不足の日に比較的のんびりしながら仕事を進められたのは幸いだった。7時ごろに仕事を終えると、念のため自宅へ電話をかけてみる。呼び出し音が続き、どうやら青年は家へ帰ったのではないかと、安心するとともにいささか残念にも思った。

―いくつになっても親と喧嘩などいい気分ではない。むしろ、大人になってからの喧嘩の方が根は深いかもしれんな。仲直りをしたのならいいが。

仕事が早めに終わったことを祝して、自宅への途中の道でお気に入りのレストランに立ち寄って夕食を済ませた。時には送迎付きで高級レストランでの会食をすることもあったが、自分だけのためであればこのような家庭的なレストランでの食事の方が好きだった。青年は今頃、料理上手で有名な母の手料理をありがたく食べていることだろう。

ところが、彼が10時近くになって自宅に戻ってみると居間に明かりがついていた。慌ててドアを開けて中に入ると、フェリックスが居間のソファで寛いでソリビジョンの画面を見ていた。画面にはロイエンタール元帥が閲兵式に出席した時の映像が映し出されている。

「お帰りなさい。遅かったですね、残業ですか?」

「…食事をしてきたのだ。君は夕飯を食べたか? 7時ごろに電話をしたが誰も出なかったので、君は家に帰ったかと思ったが」

「7時ごろなら外出していました。外出先で食事をして9時前に戻って来たんです。これ、勝手に見させてもらってました」

家に戻らなかったことには答えず、フェリックスが画面を指さして言うのにレッケンドルフは首を振った。

「好きなだけ見てもらって構わんが…。君にはその資格が誰よりもあるからな」

フェリックスはそれには何も言わず、画面を見つめ続けている。その閲兵式の映像はあの『乾杯』の映像の次に、ロイエンタール元帥を長く映しているものだった。映像は今、かの獅子帝が兵士たちに向かって手を振っているところだ。次に隣に立つ故オーベルシュタイン元帥を映し出し、その陰気な顔を通り過ぎて、ミッターマイヤー元帥の凛々しい表情を映し出した。オーベルシュタイン元帥より長い時間その雄姿を映し出すと、隣に佇むロイエンタール元帥の姿に移った。

これは世間でもよく知られた映像だ。当然、数年前までは、ニュースなどでこの映像が使われるときは、ミッターマイヤー元帥の姿を映したところで映像が途切れていた。青年が見るのはそのもとになった映像で、この後ロイエンタール元帥が皇帝陛下に代わって(演説などを好まない彼らしく、いささか投げやりな調子だったが)出征する軍への激励のあいさつを述べ、再び延々と兵士たちが行進していく映像が続く。

フェリックスに好きなだけ父親の姿を見てもらおうと、レッケンドルフは静かに居間を出て行った。画面を見続けるフェリックスの方はそれに気づいていないようだった。

しばらくレッケンドルフは自分の部屋でウイスキーを傾けつつ、小説などを読んで過ごした。同じ行を何度も読んでいることに気づき、集中できないなら寝てしまおうとウイスキーのグラスを空にしてから椅子から立ち上がった。気づけばすでに12時を過ぎている。ぼんやりして2時間ほど時間を過ごしたようで、集中できないのも当然だった。

キッチンで水のボトルを開けて飲んでいると、居間に明かりが見えた。レッケンドルフはボトルを持ったまま、居間を覗きに行った。まだフェリックスがソファに座っていて、先ほどとは違う映像をじっと見ていた。ソファに座る人物の様子を見ている自分の姿が、先日フェリックスがしていたのと同じだと、レッケンドルフは知らなかった。あの時のレッケンドルフと同様に、フェリックスは一心に自分の遺伝上の、彼をこの世に生みだした元となった父親の姿を見ていた。その横顔は無表情に近かったが、眉のあたりが少し顰められていて、厳しい顔つきに見えた。

レッケンドルフが近づくと、彼はこちらを横目でちらりと見た。そのまなざしはまさしく彼の父親と同じもので、元副官は背中が総毛立つのを覚えた。だが、彼がこちらに向けた右目は青い。それだけが息子と父親を分けるしるしと思われた。

「もうそろそろ寝なさい」

父親じみたその言葉にフェリックスは少し口角を上げて微かな笑みで答えたようだったが、すぐにそれは消えた。その微笑み方も彼の父親とよく似ていた。心にわだかまる暗闇の前では、まるで楽しいことなど一瞬にして陰ってしまうかのように、彼の父親はその束の間の微笑みを浮かべた。その雲間に少しだけ日の光がのぞくような儚い笑みは、元副官をしばしば魅了したものだった。

レッケンドルフは黙ってソファに近づき、左側のソファの肘掛けに腰掛けた。こちらから見ると、その瞳の色も同じ、表情の陰り具合も寸分違わぬ、ただ少し彼が知るかの人より若い。

「寝ないのか」

「―僕にかまわず休んでください」

フェリックスはかすれて小さな声で答えた。その言葉も、咳払いをした声も、画面に映る映像の人物のものと非常に似ているように思われた。

―いや、私はもうあの方の声は本当には覚えていない。覚えているのはおぼろげな印象だけ。時々映像で確認してようやく思い出す。だが、私はもっといろいろ知っていた。あの方も大きな声で笑われた、荒れた声で部下を叱責することもあった。お優しい声で若い従卒に声をかけられた。だが、すべてが消えてしまった。

彼は手を伸ばしてそっとフェリックスの額を撫でた。フェリックスは気づかないかのように前を向いたまま、眉をしかめている。その頭を胸に引き寄せ、その額に唇を押し付ける。まるで高熱があるかのように彼の額は熱く、少し汗をかいて湿っていた。額に押し付けた唇を徐々にその目の横に滑らせると、青い瞳が閉じられた。瞼に優しく接吻するとその皮膚がぴくっと動いたのが唇に感じられた。彼の額を抱えたまま、もう一方の手は顎に添えて少しこちらを向かせる。左の口の端に唇を寄せ、さらに柔らかな下唇に吸い付いた。

青年の唇が吸い付くものに反応するようにうっすらと開き、レッケンドルフはそこに自分の舌を滑り込ませる。しっかりと両方の頬を手で支えてこちらへ向かせ、その生暖かいぬめった感触のする口の中を探索した。

青年はされるがままに、ただそこに座って男の両手に、唇に、自分を預けていた。

レッケンドルフは少し離れて青年の口に向かってささやく。

「しばらく君と一緒にいてもいいか」

フェリックスは閉じていた目を開き、ふたつの青い瞳をレッケンドルフに見せた。物憂げに手を上げて口の端に滲んだ唾液を手の甲で拭いた。

「―どうぞ、お好きなように」

そういうと再び瞼を閉じて青い瞳を隠した。

 

 

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