Season of Mackerel Sky
フェリックスの旅
5、
タキシード・スーツに蝶タイのフェリックスが地上車を降り立ち、ロイエンタール邸の裏口の戸を叩くと、老執事が出てきてにっこりした。
「よくいらっしゃいました。今夜は表からお入りいただいてよかったのですよ。よろしければ今からでも表にお回りください」
地上車に再び乗って正面玄関にフェリックスが現れると、すでに回り込んでいた老執事が扉を開けてお辞儀をした。父親のものによく似たダークブラウンの髪をきちんと整え、フェザーンからいざと言うときのために持ってきたスーツを着用している。誂えものの上品な色合いのジャケットは、肩が余るなどと言うことはなく彼の細身だがしっかりした骨格にぴったりと合っている。なんとなく、晴れの衣装を親に見てもらった時のような気分になる。
所在なげに立っていると、ヒルデがステンドグラスを背に階段を下りてきた。真っ赤な頬は上気して、白い肌に赤みの強いピンクの生地のドレスが映えていた。
ヒルデは足をひいて宮廷風のお辞儀をすると「こんばんは」と言った。
「こんばんは。とても似合っているね。ぴったりあうドレスが見つかってよかった」
「ありがとう。あなたも素敵ね。軍服じゃないのは残念だけど」
フェリックスは腕を差し出してヒルデを見る。
「本気で言ってるの、それ」
ヒルデはますます赤くなって首を振った。
「ごめんなさい。馬鹿なこと言って。緊張してるし、すごく気分がふわふわしてるの。パーティーで変なこと言ったら足を蹴飛ばして」
老執事に見送られて地上車でチャリティーパーティーの会場になっているホテルへ向かう。ヒルデはその間、ずっと興奮したようすで座っていた。その彼女が上ずった声で、今夜のパーティーの主催者とフェリックスのかかわりについて聞く。彼女の緊張をほぐそうとフェリックスは話した。
「大学に在学中に友人とちょっとしたビジネスを始めて、フェザーンでは小規模だけど結構うまくいってね。オーディンでも都市限定になるけど同じビジネスをできないものかと思っていたら、R-ジンテーゼの存在を知ったんだ。現地ではR-ジンテーゼが全部取り仕切るということで提携を始めた。やはり、地元のことは地元の企業がよく知っているから」
「学生なのにすごいことしてるのね」
「フェザーンじゃ僕なんかよりすごいのがいるよ。生粋のフェザーンっ子の商魂たくましいことと言ったら、子供でも侮れないから」
「それでその会社の人がパーティーに招待してくれたの?」
「パーティーはビジネスパートナーだった友人が強引に招待券を手に入れてくれた。僕は一応、休職中だし、先方は僕がこっちにいると知らなかったからね」
友人のブロイルは『パーティーでプレゼンの約束を取り付けてこい』と言ったが、パーティーの性格から、仕事の話は出来ないと分かっていた。招待状のお礼を言いがてら、探りを入れるために取引でかかわりのあったR-ジンテーゼの担当者に連絡してみると、相手は喜んで社長との面談の日を別に設けるので、パーティーには楽しむだけのつもりで来てください、と言ってくれた。
「R-ジンテーゼの社長さんとはじゃあ、お仕事でよく知っていたの?」
「いやあ、そうでもない。僕らみたいな規模の小さいビジネスに比べたら、あちらは大企業だからね。それでもR-ジンテーゼもまだ来年創立20周年だし、社長も30歳くらいで小さい事務所から事業を起こしたらしい。数回文書でやり取りした感触だと、なかなか率直な人柄らしくて、僕たちの仕事にも興味を持ってくれているみたいだね」
パーティー会場はすでに賑わいを見せていた。着飾った男女の群れが続々とホテルの大きな広間に集まっている。9時になったら社長のあいさつがあるようだが、それまではバッフェスタイルの料理を好きなように食べて、飲んでいればいい。チャリティーオークションの目玉は有名女優のなにか持ち物らしく、そのことがパーティー客の話題になっていた。その女優はオーディンでは知られた人物で、当人もパーティーに来るらしいと知ったヒルデがさらに興奮していた。フェザーンとオーディンの両方の芸能界で活躍できる芸能人は少ないから、フェリックスにはどんな人物か分からない。
二人がおいしそうな料理を皿にとって食べながら、パーティー客の品定めをしていると、突然フェリックスの名を呼ぶ女性の声がした。
声がする方を見ると、マールバッハ家の又従妹のエーディトだった。髪をぴったり撫でつけた冷たい風貌をした男の腕にぶら下がっている。
「フェリックス、あなたもこちらのパーティーに出るなんて言ってなかったじゃないの。それならあなたと一緒に来たのに」
そんなことを言っておきながら、連れの男は自分の婚約者だと紹介した。
「つい3日前に急きょ、参加することに決まったものでね。君の婚約者からパートナーを奪うつもりはないよ」
「それはどうも」
婚約者の男はエーディトからフェリックスの名を聞いていたらしく、彼が自己紹介するとうなずいて握手に答えた。
エーディトはちらりと興味をひかれた風にヒルデの方を見る。
「あなたのお連れのお嬢さんは…? あなたのドレス、かわいらしい色合いね」
「ありがとうございます。私、フェリックスのお友達のヒルデガルド・ボイムラーです」
フェリックスが紹介するより先に自分で名乗ると、エーディトの方に握手の手を差し出した。エーディトはちら、とその手を見ると眉をひそめたが、黙ってさっとヒルデの手を取ると軽く握ってすぐ離した。ヒルデの笑顔が少し陰った。
フェリックスが取り繕うようにヒルデのひじを取る。
「今回のオーディン滞在中に彼女に会ったんだ。せっかくの夏休みだから楽しんでほしいと思って、パーティーに付き合ってもらったんだよ」
「まあ、そうなの。このパーティーは女学生さんの夏休みの課題かしら?」
ヒルデが鼻を上向けて言い放った。
「今、オーディン帝国大学の経済学部の3回生です。夏休みの間は勉強しません。学期中に十分勉学に励みましたから」
帝国の最高学府のうちでも選りすぐりのエリートと言われる学部の名が出て、エーディトは黙り込んだ。フェリックスはびっくりした。
「帝国大学の経済学部だったのか? それはまだ聞いてなかったよ。経済学なら僕と同じじゃないか」
「だって、言いにくかったのよ。経済学はフェザーンの方がレベルは上だし、どう考えてもあなたのほうが優秀なんだもの」
「それじゃあ、今度のR-ジンテーゼのプレゼンでも僕の手伝いをしてもらおうかな」
「アルバイト料は別途もらいます」
「世知辛いなあ」
エーディトと婚約者は鼻白んだように二人を見ていたが、エーディトが「それではパーティーを楽しんでね」と言って離れて行った。
エーディトが小声のつもりで婚約者に言う声が聞こえた。
「平民の女の子ってずうずうしいわね。しかも恥知らずにも大学に通っているんですってよ。ねえ、経済学ってなに? フェリックスも趣味が悪いわね」
「国務尚書の息子でなかったら少し考えてしまうね」
ヒルデとフェリックスは顔を見合わせて苦笑した。ヒルデは通りがかった給仕からシャンパンのグラスを受け取って、勢いよく飲み干した。それを見て、フェリックスは笑いを収めた。
「ヒルデ、従妹がひどいこと言ってごめん」
「いいの。あなたは同じこと思ってないってわかってたし、私の味方になって、私の話に合わせてくれたでしょ。でも一人だったらきっとすごく頭に来たと思う」
「彼女はお祖母さんの方の親戚なんだけど、伯爵家の血筋で貴族だということを誇りにしているんだ。フェザーンにいると、爵位なんてあまり意味がないんだけど、こっちではそうでもないみたいだね」
「あの方の家は伯爵家の格式を保っているのね。今じゃそういう貴族の家は少ないから、余計に誇りを持つんでしょうね」
「たぶん、そうだろうな。エーディトの兄の方は爵位なんていらないと言って、フェザーンで僕と同じ大学に通ってたんだ。彼も友人と一緒に事業を興してる。向上心があるやつなんだ」
ヒルデはくすりと笑ってフェリックスを見た。
「それはあなたの影響があるのではないの? これからの時代を考えると、あの方の家にとってあなたは恩人みたいね」
「まさか」
二人が話していると、すぐ後ろでパーンとグラスが割れる音がした。
「申し訳ございません、失礼いたしました!」
「いや、私がよそ見をしていたせいだ。大丈夫…」
どうやら中年の紳士と若い男性がぶつかって、紳士はグラスを落としてしまったらしい。フェリックスとヒルデは振り返って、その様子を見るともなしに見た。若者が紳士に向かって必死に謝っている。だが紳士はその様子に気づかぬ風に若者に手を振ってその場を離れ、フェリックスの方に近づく。
その目はまっすぐフェリックスを見つめて、思いつめたような表情をしていた。紳士は40代の後半か50代前半くらいで、すらりとした体格をして姿勢が良く、上品な顔立ちの人物だった。それが瞬きもせずに彼の方を見つめているので、フェリックスは戸惑った。
紳士は震える手を差し伸べて、何か言おうとするように口を開いたが、はっとしてその目が左右に揺れた。表情が一瞬にして思いつめたものから動揺したものに変わった。
「卿は…、誰だ…。あの方によく似ているが、瞳が両方とも青い…」
フェリックスはオーディンにいる以上、唐突にこういう出会いがあることを覚悟しなくてはならないのだと気づいた。フェザーンでは彼が何者か知らない人はいない。だが、ここでは彼自身より彼の実の父親の方が知られているようだ。彼は少し用心して答えた。
「あなたの方こそ、どなたですか。いきなり誰だと言われて、名乗るわけにはいきません」
明らかにようやく二十代半ば程度と見える青年から不躾にもそのように言われて、紳士はむっとしたようだった。一瞬にして動揺を収めて胸を張って答えた。
「私はこのR-ジンテーゼの代表のエミール・フォン・レッケンドルフだ」
小さなステージ上で、R-ジンテーゼの最高経営責任者、かつてのロイエンタール元帥の副官、エミール・フォン・レッケンドルフがマイクをもってパーティー客にあいさつをしていた。
「―皆様のおかげをもちまして、わが社は来年創立20周年を迎えます。これからもなお一層、皆様のお役に立てるよう、社員一同努めてまいりたいと存じます。さて、退屈な挨拶はこのくらいにしておきましょう。皆様お待ちかね、今夜のゲストをご紹介いたします」
バンドが派手な音楽を鳴らしてステージに有名女優が現れ、客が熱狂的な拍手と口笛を送る。レッケンドルフも拍手をして彼女を出迎えた。女優がマイクを受け取って微笑みながら挨拶をし、チャリティーオークションの始まりを告げた。
ヒルデももしかして彼女の素敵なハンドバックを競り落せるかもしれない、とオークション参加者の番号札を握りしめて身構えている。フェリックスは周囲の熱狂ぶりを見て競りに勝つのは難しそうだと思いつつ、舞台の様子を眺めていた。
「私は卿のお父上の副官を務めていた。まさか、そのご子息と知らずに取り引きをしていたとは」
「僕はあなたに名乗ったことがあると思うのですが…。僕の素性をご存じではなかったのですか」
「F・ミッターマイヤーなどと言う名前はよくある名前だ。それに詳細は部下に任せっきりだった。言っておくが、卿の構想に見所があると思ったからこそ、提携に賛同したのだ。だが、すべてを自分で見るわけにはいかないのでね」
今度、新しい企画についてプレゼンをしてくれるそうだね、楽しみにしているよ、と言ってレッケンドルフは部下を引き連れてステージへ向かって行ったのだった。
ステージ上のレッケンドルフはそつなく女優を引き立てつつ、オークションを進行している。しかも、巧みな話術で観客を盛り上げ時々笑いが起こった。社長自らそのようなことをするとは面白い人物だ。おそらく、元帥に仕えていたという当時、そつのない機転が利く、有能な副官だったのではないかと容易に想像がついた。
「あの人、元帥が亡くなった後、退役して会社を興したのね。しかも、皇帝のおひざ元ではなくてこのオーディンで」
ヒルデが小声でささやいたので、フェリックスは頷いた。そうだ、彼はまだ退役するような年齢ではなかっただろう。おそらく、元帥とほぼ同じくらいの年齢だったのではないだろうか。
オークションはパーティー客の大きな拍手で幕を閉じた。フェリックスはレッケンドルフにあいさつに行くべきか迷ったが、相手は同様に考えた客たちに囲まれている。数日後に会えるのだから、今夜はもう構わないだろう。ヒルデはオークションで出品物を競り落すことは出来なかったが、女優にサインを貰い、しかもドレスを褒められたので、大満足と言う態だ。
ホテルを出る客たちの混雑をやり過ごして、無人タクシーに乗り、ロイエンタール邸にヒルデを送り届ける帰途についた。
「いつの間にか、緊張はほぐれたみたいだね」
楽しげな表情のヒルデにフェリックスはからかった。
「あら! だって、お料理もシャンパンもおいしいし、しかも、あなたのお従妹さんが意地悪だからカーッとなって緊張なんて忘れたわ」
フェリックスは顔をしかめた。
「本当にごめん。彼女の兄に一言注意してらうようにするよ」
ヒルデは両手を振って慌てたように答えた。
「いいえ、そんなことしないで。私も言うべきじゃなかったわね。別に気にしていないし、そんなことをしてお互い気分悪くなることないわ」
「そう…?」
釈然としない表情のフェリックスの手をヒルデはポンポンと叩いた。
「そうよ。オーディンにいるとよくあることだし、ああいう人は直すことは出来ないの。自分で気づいて変えない以上。でも、自分で変えることが出来る人は増えている気がする。あの人のお兄さんという人のようにね」
「そうだね…。こういうことは一気には変わらない。時間がかかるんだろうな」
「皇帝陛下のお側にいても、あなたは貴族ではないのね」
フェリックスはヒルデの手を取って握りしめた。少しヒルデの手がビクッとしたが、そのまま手を取られたままだ。
「僕はただのミッターマイヤーだ」
「ただの、ということはないわ。あなたは…とにかくいろいろなものを持っている人だと思うわ。才能とか、家族…、一緒にいる人たちとか…」
「君もいろいろなものを持ってるね。おじいさん思いで、楽しく過ごすコツを知っていて、料理が上手で…。それにきれいだ」
彼女の両手を自分の両手で包むと、引き寄せてその唇にそっと接吻した。彼が離れると、うっとりと目をつむっていたヒルデの表情が、徐々に泣きそうなものに変わっていった。
フェリックスは訳も分からず、「ごめん」と謝った。
ヒルデが涙のたまった目をこすったので、マスカラが少し落ちた。
「そうよ、ひどいわ。あなたはじきにオーディンからいなくなってしまうのに。私、あなたに気持ちを動かさないように必死だったのに。ひどい」
「…軽率だった。ごめん」
「謝られるともっとみじめになる。一緒にいる間だけでも楽しくしたっていいのに」
フェリックスはなんといっていいかわからず、シートに沈み込んだ。自分が何かを間違えたことは分かっていたが、それではどうすればよかったか、分からなかった。
地上車がロイエンタール邸の前に止まり、フェリックスは降りようとしたが、ヒルデが引き留めた。
「だめ、ここにいて。まっすぐ帰って。私もすぐに家に入る。今夜はありがとう。あんなこと言ってごめんなさいね…。だって、私の子供のころの初恋の人はあの絵のロイエンタール元帥だったの。だから…」
そのまま、ヒルデはドアを開けて地上車を飛び出して行った。フェリックスはさっき、接吻したことをとがめられたことより、今の言葉の方がショックだ、と思った。