Season of Mackerel Sky
フェリックスの旅
19、
8月のその日、慌ただしくフェザーンへ戻る準備が進められた。それはもともとの予定通りだったが、もっと滞在するべきだったとフェリックスもエヴァンゼリンも思った。だが、フェザーンに一人残る父をいつまでも待たせたくなかった。二人ともオーディンとフェザーンの二つに引き裂かれる思いで、別れの準備を進めた。
宇宙港へ向かう前日には祖父母と涙ながらに別れを済ませた。当日、祖父母は半ば二人が数日滞在を伸ばすことを期待しつつも、実際家のミッターマイヤー家らしく、二人を宇宙港に見送りに来た。宇宙港の搭乗ゲート前にはロイエンタール家の老執事とヒルデもやってきていた。
ヒルデが嬉々としてフェリックスに、各大学が連携して私擬憲法を作る動きが本格化してきた、と伝えた。
「学生だけでなくて教授たちもその動きに賛同しているの。私、もしかして私擬憲法作成の委員会に参加できるかもしれない。そうなったら、みんなでフェザーンに行くことになるかも」
フェリックスはそれを聞いて喜んだ。自分が少しだけオーディンの学生たちのためになることを提案できた気がしたのだ。ヒルデは朗らかに言葉をつづけた。
「いずれにしても私、来年インターンとしてフェザーンに行くつもりなの」
「本当に? どこの企業へ行くつもり?」
ヒルデははにかみつつ答える。
「いくつか希望のところから返事をもらってるの。どこにするべきか9月になったら決める。でも、フェザーンに行くことはもう決めてるから。私擬憲法のこともあるけど、その後そのまま就職するか、まだそこまでは決められないけど」
頷いてフェリックスはヒルデの肩を叩いた。
「焦ることないよ。目を見開いていればチャンスはいつでもある。見逃さないようにね」
「了解。元帥」
ヒルデはおどけて敬礼したが、すぐ押し黙った。
「元気でね。フェリックス。もう会うこともないかもしれないけど」
「そんなことないよ。いずれ、僕はフェザーンに戻るし、オーディンのロイエンタール邸にも行く。将来のことは分からないけど」
それは十年後か、二十年後か―。だが、もしかして2年後かもしれない。若さによる楽観主義によりヒルデは笑顔を取り戻し、フェリックスの頬に接吻した。
「元気でね」
「君も元気で」
老執事とも固い握手を交わし、祖父母と抱き合って再び涙を流して別れを告げる。老人たちとこそ、もしかしてもう会う機会を得られないかもしれない。だが、フェリックスとエヴァンゼリンは精いっぱいの笑顔を浮かべて、後ろ向きに歩きながら、彼らに手を振ってフェザーン行き搭乗ゲートへと向かって行った。
フェザーン行きの宇宙船の搭乗時刻まではまだしばらく時間がある。いろいろの手続きに手間取るかもしれないと早めにやって来た二人だったが、意外なほどとんとん拍子に進み時間が空いた。コーヒーでも飲んで待っていようか、と言っていた時だった。フェリックスの肩越しにエヴァンゼリンは誰かに気づいたようだった。
「あの方、知っているお顔だわ。どなただったか…。あなたのお知り合いではない?」
フェリックスは振り返ってその人物に気づき目を剥いた。確かに自分の知り合いだった。
「こんにちは、フラウ・ミッターマイヤー。私はかつて故ロイエンタール元帥の副官を務めておりました、レッケンドルフと申します」
レッケンドルフは差し出されたエヴァンゼリンの手に接吻した。彼女は握手するつもりだったのだが。エヴァンゼリンの手から顔を上げると、フェリックスに向かってほほ笑む。
「ご子息のフェリックス君とはオーディン滞在中に、私の仕事のことでお会いする機会がありました。今日フェザーンに立たれると聞いて、お見送りに参りました」
「まあ、まあ、ご丁寧にありがとうございます。息子もお世話になったようで恐縮です。ロイエンタール元帥の副官の方だったのですね。道理でお顔に見覚えがありました」
フェリックスは母のあいさつを遮った。
「なぜ、搭乗ゲートの中にいるんですか。あなたもどこか行かれるんじゃないですよね」
「残念ながら。しかし、私にはいろいろ特権を行使する機会があって、それを今活用しているところなのだ」
「特権?」
「この宇宙港のVIP向けラウンジはわが社が管理している」
レッケンドルフは二人をそのラウンジに案内し、エヴァンゼリンに飲み物や軽食を勧めゆったり寛がせたところに、ご子息とビジネスについて話があると言って、フェリックスを別室に連れ出した。
二人きりになったところで、接吻しようと腕を伸ばしたレッケンドルフをフェリックスは遮った。レッケンドルフは苦笑してフェリックスの頬を撫でる。
「つれないな」
「だって、すぐそこに母がいるんですよ。それに僕はもうあなたに会わないと決めたんです」
身をよじってレッケンドルフの抱擁から逃れようとするが、どうしてもその腕から逃れることが出来なかった。二人ともあまりに手をバタバタさせているので、しまいにはフェリックスは笑い出した。
「まったく何をしているのだか、分からない。いったい、どうしてこんなところにまで…」
青年をしっかり腕の中に閉じ込めてから、そのこめかみに唇をつけてレッケンドルフは答えた。
「もちろん君に別れの挨拶をしたかったのでね。渡したいものもあったし」
期待と恐れの半々の表情を示したフェリックスに、レッケンドルフは首を振る。
「君の母親が10メートル先にいて、じき宇宙船に搭乗するという状況では、残念だが私には荷が重い。接吻だけで我慢してくれ」
フェリックスの指がレッケンドルフのシャツの襟首に忍び込んだ。
「では、たっぷりしてください」
10分後、唇の他に母親から見えない場所にたっぷり接吻を施され、ため息をついたフェリックスはレッケンドルフの腕から離れて身づくろいした。
「だめだ。これ以上はどうしてもつらくなる。僕はもうあなたから離れています。何か渡したいものがあるというお話でしたね」
喉元からウエストまで、フェリックスによってほぼ全部はずされたシャツのボタンをはめ直し、ハンカチで口元を拭うと、レッケンドルフはカバンの中から目当ての荷物を取り出した。
「これはフラウに。旅の無聊をお慰めするためにお渡ししてくれ。こっちはミッターマイヤー閣下と、ランベルツ君に。もしかして余計なお世話と思われるかもしれないが…」
母宛てには有名老舗菓子舗の包装紙から、菓子の包みであることは明らかだった。父とランベルツ兄にとは…?
「あのロイエンタール元帥傑作集の映像のコピーだよ。もし、ご興味がおありだったら閣下にお渡ししてくれ。二人分のコピーを作ったからランベルツ君も」
「きっと喜ぶと思いますよ。びっくりするだろうな。二人ともこういうものを持っていないから」
フェリックスは自分宛にも餞別の品があるものと思って、他にカバンから何が出てくるかと待っていた。だが、カバンの中には他にはなにもないようだった。
不思議そうな表情をした青年の手を取って、レッケンドルフは自分の両手で握りしめた。
「君はあの時私に言っただろう。ロイエンタール閣下の伝記を書くべきだと。実は君が家を出て次の日から書き始めた。もちろん、まだたいして進んでいないのだが、面白いくらいに言葉が湧いて出てきてね。楽しく書き進めているよ」
「本当に? ああ、ぜひどんな風だか読ませてくださいよ!」
目を輝かせたフェリックスにレッケンドルフは頷いて答えた。
「もちろん、一番に読んでもらえるよう、出来上がったら直接君に渡しに行く」
可愛らしい笑顔を浮かべたフェリックスが、自分の言った言葉を理解できずにぼんやりとしているのを見て、レッケンドルフは焦れて言い直した。
「君がいるハイネセンに、閣下の伝記の本が出来上がったら、直接渡しに行くと言っているんだ」
「…えっ、でも…。ハイネセンへ? どうやって…」
「私は今の仕事を辞める。先日、社の役員たちとも話し合った。今すぐという訳にはいかないが、2、3年の間には。それまでに閣下の伝記を書き上げ形にして、ハイネセンにいる君に渡す」
ぼんやりしたままのフェリックスの手を握って揺すりながら、レッケンドルフは苦笑して続ける。
「君にはすまないが、あちらにいる娘に会いに行くのが一番の目的だがね。もし、娘が私と会いたいと言ってくれればだが…」
「もちろん、会いたいと言いますよ。こんな素晴らしいお父さんがいるのに会わないと言う訳ないですよ」
レッケンドルフが予想した通り、娘の話題についてフェリックスはすぐに反応した。自分自身の父親との関わりの問題が心にあるから、レッケンドルフと娘の父娘関係も気になるのだろう。彼の敬愛する上官の息子は苦労知らずの若者などではなく、情が深く思いやりのある心を持っているのだ。
「でも、会社を辞めるだなんて…。あんなに成功しているのに」
「自分が損するような辞め方はしないよ。それよりも、これからのことを思って久しぶりに心が浮き立っているんだ。閣下の伝記を早く書き上げたいし、それを本にして出版するために出版社を探さなくてはね。娘や君に会うために、あの旧同盟の星々へ向かうなど、素晴らしい旅になるだろう。君には皇帝陛下に伝記を献上するための繋ぎを取ってもらおうかな」
「僕を利用するために会いに来ようというんですね」
フェリックスがおどけて言ったのが分かっていたが、レッケンドルフは彼の肩に腕を回して抱きしめ、真面目に答えた。
「ただ君に会いたいがために行くんだ。君に会って私の本をどう思うか、今から君の意見を聞くのが楽しみだ」
「僕も…、楽しみにしています。でも、時々本がどのくらい進んだか、連絡をください。それに、あなたがどうやって過ごしているかも」
「そうするよ」
この青年が学業と学校の仲間たち、ハイネセンの人々の間にいて自分を忘れずにいるかどうか、レッケンドルフには何の確証もなかった。だが、フェリックスは自分の父親のことは忘れまい。それであれば、その父の伝記を書こうという自分を簡単には忘れないだろう。だから、自分は必ず伝記を書き上げる。立派なそれを手にしたとき、フェリックスの顔がこの上なく輝き、自分は彼の中に父親の素晴らしい伝記を書いた者としての地位を獲得する。それが今の自分の最大の望みなのだ。
顔を上げてフェリックスが微笑みを見せながら、腕を広げて彼の方へ身を投げかけた。
「ああ、すごく楽しみだ。早くハイネセンに行きたくなってきた。あちらであなたに会えるなんてとってもわくわくする」
青年の笑顔はレッケンドルフがオーディンで彼に会ってから初めて見る、これ以上はないほど明るく、あけっぴろげなものだった。レッケンドルフも今は笑って、青年の柔らかな唇を受け入れた。この先どうなるか分からないことで心を悩ますまい。フェリックスは彼を待っていてくれるだろう。その先のことはその時だ。
笑顔のフェリックスがエヴァンゼリンの元に戻り、レッケンドルフも交えてコーヒーを飲みながら搭乗までの時を過ごした。楽しそうにレッケンドルフに話しかける息子について、母親がどう思ったにせよ何も言わなかった。ただ、しばらくして腕時計を見て、「フェリックス、そろそろ行った方がよくないかしら?」と息子に注意を促しただけだった。
レッケンドルフが聞きつけて、彼女に言う。
「まだ大丈夫ですよ。もう少しして準備が整ったらあちらから呼びに来るでしょう」
浮かれたフェリックスもさすがにレッケンドルフのその言い方を不思議に思った。
「呼びに来るってどういうことです。宇宙旅客機がそんなサービスをするなんて、聞いたことがない。こっちに来るときはもう大変だったのに」
その時、静かながらも規律的な足音が聞こえて来た。その足音はフェリックスとエヴァンゼリンの席の後ろで立ち止まり、カチッとかかとを合わせた。
「レッケンドルフ少佐、お待たせして申し訳ございません。それではこちらの方々がミッターマイヤー閣下の奥方様とご子息ですね」
レッケンドルフが鷹揚な微笑みを浮かべてゆったりと立ち上がると、やって来た人物に向かってかつての副官時代もかくや、と思わせるきれいな敬礼を返した。
「その通りだ、ブフナー中尉。言うまでもないことだろうが、こちらの方々は私にとってたいへん大事な方々だ。どうか旅の間、ご不快のないよう気を配ってほしい」
ブフナー中尉と呼ばれた若い軍人はそつのない微笑みをあっけにとられているミッターマイヤー母子に向け、レッケンドルフに対しては重々しい態度で頷いた。
「もちろんです。任務と言うばかりではなく、尊敬するミッターマイヤー閣下のご家族は私にとっても大事な方です。安全にオーディンまでお送りすることをお約束します」
「それはなにより。では、フラウ・ミッターマイヤー、フェリックス君―」
二人に向き直ってレッケンドルフは握手の手を差し伸べた。
「どうかよい旅を。こちらの中尉があなた方の旅の安全の責任を取ってくれます。幸い、彼の能力については私が保証できます。それではお元気で」
戸惑うエヴァンゼリンの手に接吻し、フェリックスとはまっとうに握手すると、もう一度中尉に頷いて見せてからラウンジを出て行った。フェリックスに対してレッケンドルフが軍人らしさを見せたことは一度もなかったのに、最後の最後で高官付きの折り目正しい副官だったところを垣間見せて去っていった。
「あの…、どういうことでしょう。私たちちゃんと自分で宇宙船の切符を取って、何の問題もありませんのに」
不安げな母の言葉にフェリックスは顔をしかめた。
「レッケンドルフさんがあなたの身元を保証してくれたようだけど、いったいどういうことか説明してください。僕たち、いつから軍人のボディーガードがつくようになったんですか。父に何かあったんじゃないでしょうね」
ハッとエヴァンゼリンが息を飲んだので、ブフナー中尉は慌てて手を振った。
「大丈夫です。閣下はつつがなくお二人のお戻りをお待ちです。私は今朝、直接閣下と今回の任務について超高速通信でお話したばかりです。これはむしろ、かの高貴な方のたってのご希望なのです」
母子は顔を見合わせて、中尉の言葉を待った。中尉は少し困ったように微笑むと、言葉を選んでフェリックスに話しかけた。
「フェリックスさん、あなたの親しいご友人はあなたが傍若無人な者どもに煩わされることなく、無事に戻られることをお望みです。オーディンでは今、あなたは大変な注目の的になっているんですよ」