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フェリックスの旅

18、

自分ではない幻に愛情を注ぐ母親のために心を砕き、だが、その行為は父親を自分から遠ざけた―。

フェリックスは父が感じたであろう、荒涼とした虚しさに身震いした。映像で見た父のあの鮮やかな左右の瞳が常に深い翳りを帯びていた、その理由を知った気がした。父が感じた苦い悲しみが胸に流れ込み、祖父母に対する憎しみがフェリックスの体内を文字通り熱くさせた。

だがその時、「完璧ではなかった」と言ったレッケンドルフの言葉がよみがえった。祖父母もまた過ちの多い一組の人間だったというに過ぎない。その結果が自分の父を苦しめることになったとしても、フェリックスにはその父を慰めるすべはないのだった。だがふいに、カードを本の中に隠した軽やかな白い手がフェリックスの目の前に現れた。

「このことをすべて母は知って…。父がすべて話したのでしょうか?」

「もちろん、オスカー様がお話になりましたのでしょう。ただ、どの程度詳しくご存じだったか…。そもそもオスカー様ご自身にしてからが、わたくしが見たことと違ったことをご記憶だったかもしれません。しかし、おおよそのことはお分かりのようでした」

フェリックスはカードを手に取って改めて眺めた。秘密にしていたカードを母が持っていたという事実は、父が母に自分の苦しみを分かち与えた証拠のような気がした。二人はお互いを理解しあっていたのだろうか。だが、何かが掛け違って母は自分を連れて父から離れて行った…。

ふと、フェリックスは気づいて老執事に尋ねた。

「…僕の聞き違いかもしれないですが、母はこれを父から託されたと言っていたんですね? それは二人がフェザーンで対立する前の話ですか?」

「いいえ、ハイネセンでお亡くなりになられる時、オスカー様はお手元にこれをお持ちだったようです。それをあの方にお渡しになったとのことです」

突然、フェリックスは立ち上がってテーブルに覆いかぶさるようにして、老執事に迫った。

「…いったい母は、いつこの屋敷に現れたんですか…!?」

なぜフェリックスが突然、混乱したように問いかけたか分からず、戸惑いながら老人は答えた。

「あの方はご主人様がお亡くなりになられてから、10年ほどしてこちらへおいでになられました。その後、しばらくしてまた立ち去られました」

「10年…?」

老執事は一言詫びてから立ち上がって部屋を出ていき、しばらくしてまた戻って来た。手に持ったものをフェリックスに示す。

「こちらに年代が記されてございます。まさに、この屋敷においでの時にお撮りしたものです」

それは大判の2D写真で、一人の女性の立ち姿を写したものだった。白っぽい裾の長いドレスをまとい、まっすぐ立ってこちらを見ている。両手は緩く体の前で組んで小さな花束を持ち、クリーム色の光を放つ髪をきれいに整え、滑らかな顔は品の良さを感じさせた。はっきりとした目鼻立ちをしており、笑顔ではなかったがその視線は柔らかく、決して厳しいものではなかった。どことなく、書斎のマントルピースの上にある、祖母の面立ちに似通ったところがあった。

その写真の下のところに日付が記載されており、『新帝国暦14年』とあった。14年…! それでは、フェザーンのミッターマイヤー家に現れてから、その後、このオーディンに来たことになる。

フェリックスは手の中の写真にじっと瞬きもせずに視線を注いでいた。その青い瞳は老人が胸騒ぎを覚えるほど強く輝いていた。

「母はこの前年にフェザーンに僕を訪ねて来たようです。間が悪くて会うことは出来ませんでしたが…」

その口調は気軽さを装っていたが、フェリックスの頬はまるで苦笑するかのように歪み、ぴくりと震えた。青年の手は震えてはいなかったが、老人にはフェリックスが湧き立つ内面を辛うじて抑え込んでいることが分かった。

「フェザーンからその後、この屋敷に来てそしてカードを隠した。すべての義務を終えた母はきれいさっぱり身軽になって、ようやく僕と縁を切ることが出来たということでしょうか」

「そのような…。フェリックス様、そうではありません…!」

皮肉と冷笑に彩られたフェリックスの言葉に老人は顔色を変え、しわだらけの手を揉みしだいてフェリックスの方へ身を乗り出した。

「フェリックス様…! お母様はあなた様にお会いできず大変悲しんでおられました。ですが、あなた様にはすでにミッターマイヤー様というご両親がいらっしゃる。ご夫妻があなた様を大事になさっておいでであるのを知って、あなた様をご夫妻から遠ざけるようなことはしたくないと、オスカー様のようにふた親の愛情を受けられぬことがないようにしたいとおっしゃったのです…!」

「そんなこと、僕が知るもんか! だって、僕には母がもう一人必要だったんだ…!!」

フェリックスは叫び、顔を覆って写真の上に頭を垂れた。抑えきれない感情がすべて指の間から溢れ出るようだった。

「分かっています…! 僕は贅沢だって…! ミッターマイヤー家の父さんと母さん以上の両親はいない。あの人たちの子供でいてこんな幸せな人間はいない。だけど、僕は父と母が欲しかった…! あの人たちは僕を捨てたとずっと思っていた! 父も母も僕を放って勝手に死んでしまったと思ってた…!」

急にヒルデが立ち上がっておびえたように祖父と青年を交互に見下ろした。老人もまた立ち上がって震えるフェリックスの肩に両手を置き、そっと撫でさすった。

「エルフリーデ様はもちろん、あなた様をお手元にお置きになりたかったでしょう。オスカー様もお側にいることがかなえば、きっとあなた様を慈しみなされたでしょう。ですが、それはお二人にはかないませんでした。お側においでにならなかったことは、決して、あなた様を欲しておいでではなかったということではございません」

老人の乾いた暖かい手の下でくぐもった声が答えた。

「でも、母は生きていたんだ、一緒に暮らしたってよかったはずだ…」

「あの方のお気持ちをすべて代弁することは出来ませんが、おそらく、オスカー様を最も身近に感じられる場所に、あなた様をとどめてお置きになりたかったのではないでしょうか。そのためにどのような結果になるか、後々ご自分がどのようにお思いになるか、あなた様もどのようにお考えになるか、あなた様を置いて立ち去った時はそこまでお考えになれなかったのでしょう…。あの方もオスカー様を失われたばかりだった…」

「―母も完璧ではなかった…」

「そうだったかもしれませんね…。あの方は思えばあの頃、今のあなた様よりお若かった。そのような若い女性が…」

口元を震える手で押さえたヒルデの方を見て、老人が微笑む。

「その時もっともあなた様によいと思われる選択をなされた。そして、それは確かに良い結果を生んだと、わたくしは思っております。あなた様をオスカー様も、エルフリーデ様も、ミッターマイヤーご夫妻も誇りに思っておいでだと、わたくしは確信しております」

 

エルフリーデ・フォン・コールラウシュはある日突然、ロイエンタール邸から姿を消した。あとから思えば、この屋敷に来た当初からいずれまた姿を消すつもりだったのだ。

彼女は老執事に主寝室のクローゼットを開けさせて、かつて気に入っていたドレスを見つけ出した。それは月日が経っていたにもかかわらず色あせもせずつややかに輝き、昔と変わらずほっそりとした彼女にぴったりだった。それを着た彼女をご主人様に見せたいと、老執事は思った。

そのドレス姿を彼女は執事に写真に撮らせた。

『フェリックスと言うそうよ。可愛らしい名前ね』

『とてもよいお名前ですね』

『でも、私が呼んでいた名前と違う』

『なんとお呼びでいらっしゃいましたか』

返事はなかった。

彼女は映し出された写真をちらりと見てからペンを取ると、写真の裏にその言葉を記した。

―私のあかちゃん

 

薔薇の花壇から蜂が立ち去り、夕闇が迫るころ、エヴァンゼリン・ミッターマイヤーが庭仕事から顔を上げると、そこに一人息子が立っていた。彼女にとってまさしく授かりものであるその息子は、血こそ繋がっていないが、赤ん坊のころから歳月を共に過ごし、彼女のすべてを分け与えて来た存在だった。

フェリックスははにかんだような、ふてくされたような顔をして母親を見ていた。エヴァンゼリンが泥にまみれた手袋を外そうともがいていると、それに構わずにフェリックスは近づき母を抱きしめた。

「ごめんなさい」

息子の小さな声にエヴァンゼリンはほっと溜息をついて答えた。

「お帰り」

 

コーヒーと母の手作りの甘いお菓子を間に、フェリックスは母とここ数日のさまざまなことを話した。追悼式典でいかに父さんが素晴らしかったか。自分たちは一緒にフェザーンにいなくて本当によかったのだろうか。ロイエンタール元帥は一筋縄ではいかない人だが、自分の父親として誇りに思う…。でも、きっといつまでもすべてを知ることが出来ない人だ…。僕は全帝国でも有数のロイエンタール元帥をよく知る人間になった…。

フェリックスは老執事により明かされた実母についての事実も話した。母親の写真をエヴァンゼリンに見せると彼女は、あっ、と言って息を飲んだ。

「この女性よ、やっぱり、それではあの人は…」

エルフリーデ・フォン・コールラウシュがフェザーンに現れた後、オーディンにやって来て、また立ち去ったらしいことを知り、エヴァンゼリンは悲しみと戸惑いの混じる複雑な表情をした。

あの後彼女が無事であったことに対してエヴァンゼリンは安堵した。だが、やはり彼女は何も語らずに再びどこかに行ってしまい、とうとうその消息は今もって分かっていないのだ。

エヴァンゼリンはじっと写真の裏に記された短い言葉を見つめ続けていた。

やがてふと思い出したように母はロイエンタール元帥についてフェリックスに話した。

「あの方は私に対していつも一歩引いたような控えめな態度を取られた。あの方はウォルフの親友だけど、私にとっても友達という訳ではなかったのね。でも、おかしな話だけど、ウォルフを通じて私はあの方を弟のように感じていたの。お年はずっと上だったのに」

びっくりした息子の顔を見て母はクスリと笑った。

「ウォルフに対してもあの方は弟みたいな態度を取られることがあった。二人にそう言ったらかえって納得したかもしれないわ。だって親友だったのだもの。外見はあの方はウォルフよりずっと老成して見えて、ウォルフの方は少年みたい。でも、あの方のウォルフへの接し方は弟みたいだった」

「じゃあ、母さんを義理のお姉さんみたいに感じて、それで控えめだったのかな」

ころころと母は笑って首を振った。

「どうかしらね。だから私はあの方に奥様が出来たらその方を通して、あの方と親しくなれるのではないかと思っていたの。ウォルフもそんな夢を見ていたみたい。私たちとあの方と奥様、お互いの子供たち…。でも、実際にはあなただけが私たちの手元に残った」

「じゃあ、僕は甥っ子みたいなものかな…」

エヴァンゼリンは息子の肩を抱いて引き寄せ頬に接吻すると、ダークブラウンの髪に向かってほほ笑んだ。

「いいえ、あなたは私たち4人の子供。たくさん親がいて大変ね、フェリックス」

―僕はどの親も愛している。4人ともいてよかったと思うよ。

だが、言葉にするのは気恥ずかしく、ただ母の肩に自分の腕を回して抱きしめた。

 

 

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