top of page

フェリックスの旅

17、 

『ボイムラーさん、このカードは見たことがあって?』

エルフリーデ・フォン・コールラウシュは執事に微笑みながら尋ねた。執事が驚いたことに、それはかつて主人が子供のころに書いたカードの束だった。

『お嬢様、いったいそれをどこからお持ちになったのですか? それに、そのカードが何だか、ご存じでいらっしゃいますか』

『ええ、知っています。昔、あの人がそのデスクの引き出しに隠していたのを見つけてしまったの。なぜ、そんなところを見ていたかというと、何かよく切れるものはないかと探していたからなの。ナイフとか』

彼女はくすくすと笑いながら、書斎に据え付けられた大きなデスクを指さす。そのデスクはかつて主人がこの屋敷にいた時からまったく変わっていなかった。今にもその主人が帰宅して、このデスクの前に座ってウイスキーのグラスを傾けるのが見えるようだった。

彼女もまた、同じことを思っているようだった。

『ボイムラーさん、このお屋敷にいるとまるであの人が今にもその扉を開けて入ってきそうね。あのいつもの怖い顔をして私に言うのよ。「ここで何をしている」って。私は「お前には関係ないことだわ」って言うの。そして私はナイフを後ろ手に持ってあの人に接吻するの』

執事は顔色を変えずにいることに苦労した。この婦人と主人の奇妙な関係はいまだに彼には謎に包まれていた。彼の目には二人は互いにどのように相手を扱っていいのか、分からずにいるように見えた。それでいて何か強い引力で二人は繋がっているようであった。

『お嬢様、それは本当にあったことでしょうか?』

老人は思い切って聞いてみた。このようなことを聞くことは使用人の立場から言って不適切だった。だが、彼女は主人について気兼ねなく語り合うことの出来る、かつての主人を知るただ一人の人だった。

『もうお嬢様ではないのよ、ボイムラーさん。でも、そうね、さっき言ったのは本当の事よ。このカードを見つけたと言ったでしょう。カードと一緒にナイフを見つけたばかりのところにあの人が入って来たので、私はカードのことはすっかり忘れてナイフだけ隠してあの人に近づいた。まあ、あの人はナイフなんて別に気にしていなかったけれど。あの人はデスクの上に広げられたカードに気づいた。私はすごく怒られたわ』

デスクに近づくと、その上に手に持っていたカードを置いた。それを広げて見ながら、彼女は呟く。

『ナイフのことで何か言われたら私はきっと平気だっただろうけど、カードのことを言われて不意をつかれた。私はとても慌てた。あの人の秘密にそうとは知らず触れてしまって、あの人を傷つけたことに気づいたの。あの人は真っ青になって私を責めた。私は必死で謝った、そんなつもりじゃなかったの、お願いだから怒らないで…って。あの人をナイフで刺そうとしていたのに』

彼女は俯いたままデスクに寄り掛かり、カードを指で1枚1枚トランプのゲームでもするように広げていく。そして優しい瞳を老執事に向けた。

『あの人は許してくれたの。信じられる? ボイムラーさん』

『ご主人様はあなた様が悪意でそのようなことをされたわけではないと、お分かりになったのですね』

『そうね、ナイフに気を取られた女の言葉だもの。信じたでしょうね』

彼女は遠い目をしたまま微笑む。その目は執事ではなく何か別のものを見ているように思われた。きっと、その時の主人の様子をこの部屋の中に再現しているのだろう。

『あの人がお母様を憎んでいることは知っていました。だから、あの人がこのカードについて説明してくれた時、とても悲しかった。あの人はまるで自分を痛めつけるように1枚、1枚これがどういう時に書かれたカードだったか話してくれたの。子供のころのことなのに、少しも忘れていなかったみたい。私が泣いたらあの人は笑ったわ。もう自分にとってはなんでもないことだとでも言いたげに。でも、そうじゃなかった』

デスクの上で指を走らせて、彼女が『やさしい、かしこい、かわいそうな坊や』とつぶやくのが聞こえた。

『ねえ、ボイムラーさん』

『なんでございましょう』

彼女の声音は泣いていたかのように言葉が震えて、詰まって聞こえた。わざと気づかないふりをして返事をする。彼女は慰められたくないのだと感じたのだ。彼女が本当に慰めてほしい相手はもうこの世界にはいないのだった。

『このカードをこの部屋のどこかに隠しておこうと思うの。ねえ、私が最後に見たあの人はまだ、静かにゆっくりとではあるけど言葉を交わすことが出来た。時々、夢を見るの。私が立ち去った後、あの人は忠実な部下たちに守られてどこかに身を潜める。そこで傷を癒して再び現れる…』

誰の前に現れるとは言わなかった。彼女は書棚の前に立って背表紙を指で辿る。

『私がカードを見つけてから、あの人は何度もこの書斎のどこかに隠しなおした。でも、私はいつも見つけることが出来た。あの人は隠し、私は見つけ出す。今度は私があの人の秘密をどこかに隠して、あの人がいつかここに戻った時、あの時私に託したカードを私がどこに隠したか探し出す…』

エルフリーデ・フォン・コールラウシュは老執事の方へ振り向いた。窓からの光を背にして彼女の顔は暗くなり、よく見えなかった。

『あの人は私がどこに隠したか、見つけられるかしら。見つけたら、何というかしらね…』

彼女が少し首をかしげたのでその頬に光が当たった。その顔は微笑んでいたが、涙を浮かべているように見えた。

 

フェリックスは俯いてカードを眺めていた。これを母が手に取って本の中に隠し、その本を書棚の元あったところに戻すところが目に浮かんだ。そして、その本を手に取った父がついにカードを見つけ、彼女がこんなところに隠したかと微笑むところが想像できた。

「このカードって、ロイエンタール元帥がお母様とやり取りした手紙なのでしょう? おじいちゃん。それは秘密のことだったの?」

孫に向かって老執事が咎めるような視線を向けたので、ヒルデは赤くなった。

「もちろん、私なんかが見るべきではなかっただろうけど。お母様が病気で早くに亡くなって、その悲しい思い出のカードだもの、元帥のとても大切な秘密だったのに」

老人は孫娘からフェリックスの方に視線を移してしばしためらっていたが、心を落ち着けるかのように一口お茶を飲んでから話し出した。

「このことは決して表ざたにはされておりませんでしたが、ご主人様のお母様はお心を病んでおられました。お亡くなりになった時は、オスカー様がご自分のお子様だとご判断できなくなっておりました。あのカードはその亡くなられる1、2年前に書かれたものです」

フェリックスは老人の言葉の意味を確かめるようにその顔を見た。

「ですがあのカードは、『坊や』、つまり自分の息子宛に書かれたものでしたが…」

「奥様のおっしゃる『坊や』は、両方の瞳が青い少年で寄宿学校へお通いになっており、奥様は病気のために『坊や』と引き離され、お会いになることは出来ない、と思っておいででした」

フェリックスは手を上げて自分の瞼をぼんやりと触った。

「両方の目…? 青い?」

「オスカー様のお目は右目が黒く、左目が青い。これは奥様が旦那様を裏切って黒い目の想い人と関係した、その罰だと思われておられました。そのため、オスカー様は赤子のころに奥様に右目をえぐられそうになりました」

ガチャンと茶碗が音を立て、ヒルデが慌ててこぼれたお茶を拭いた。フェリックスはその音にはっとして手にもった茶碗の重さを感じ、それが外側に完全に傾いて中身がこぼれそうになっているのに気付いた。覚束ない手に持った茶碗をテーブルに戻して老人に話を続けるように促す。

「オスカー様が1歳になるかならぬかの頃です。それまで奥様は産後の肥立ちがお悪く、乳母がオスカー様のお世話をして差し上げていました。ところが乳母の見ていない隙をついて奥様は子供部屋にお入りになり、先ほど申し上げましたようなことをなさろうとされました…。幸い、すぐにお側のものが気づいて悲鳴を上げ、大騒ぎになりました。そこに旦那様が飛んできて、ナイフを持ってなおもオスカー様に近づこうとする奥様を、張り倒しておしまいになりました。奥様は次にお目を開けた時には、もう何もお分かりにならないようになってしまわれました」

「自分の息子が誰だか、分からないくらいに?」

「はい、同じお屋敷に住む左右の瞳の色が違う坊やは、悪魔が連れて来た赤ん坊だとお思いでした。お亡くなりになるころには、ご自分の本当の子供は連れ去られて遠くの寄宿学校にいる、そう思い込まれておられました」

「じゃあ、あのカードはその幻の坊やにあてて書いたものなの? でも、それに子供のロイエンタール元帥が自分宛だと勘違いしてお返事を出したの?」

老執事はヒルデの方を悲しい瞳で見つめ、俯くフェリックスへ視線を戻した。

「私たちの誰も気づかずにいたのです。オスカー様がそのようなことをなさっていたとは。それはお母様の幻想だとちゃんとお分かりになっていらっしゃった。それにもかかわらず、その幻想に付き合ってお返事を書いておあげになり、まるで人生相談のようなことをなさっていた。今ここには『坊や』に向けて書かれたカードだけ残してありますが、他にもかの黒い瞳の想い人に向けて書かれたカードもありました。おそらく恋愛小説のようなものから引用されたのだと思われますが、それにも奥様を慰めるようなお返事が書かれていました。私たちが見れば子供が書いたものだとすぐ分かったはずですが、奥様にはお分かりにならなかった…」

「…そんな…!」

膝の上で拳を握って老人の言葉を聞いていたフェリックスは、ヒルデの悲鳴のような言葉に顔を上げた。

「お祖父さん…、父の父親はいったいなにをしていたんですか? 息子がそんなことをしているのに気付かずにいたなんて」

「旦那様はお二人に近づかないようになさっていました。このカードの件が知れるまで、オスカー様に対しては憐れみの混じった愛情をお持ちのようでした。ですが、このことの後には旦那様はオスカー様を恐れられ、ほとんど憎んでおられるかのようになられました。旦那様にとってはそんなことは普通の子供がすることとは思えなかったのでございましょう」

老人は首を振って俯いた。続く言葉は呟くように小さな声だった。

「旦那様は赤ん坊のオスカー様のお目の色が左右で違うことに初めて気づいた時、驚かれましたが、たいへん喜ばれました。このように美しく輝く瞳を見たことがないと。お屋敷にいらっしゃるお客様方にはかわいらしく着飾った赤ん坊のオスカー様をお見せになり、いつも自慢しておられました。奥様がナイフを向けられた後、うわごとですべてを告白されてからは、旦那様はオスカー様から距離をおとりになるようになられました。それでも、カードの件があるまでは旦那様はオスカー様を大事に思っておいででした」

 

―オスカー様とご両親は、いったいなにが掛け違ってこのようになってしまわれたのでしょうか。

ロイエンタール家のすべてを見て来た老執事は、ささやくようにそう言うとフェリックスに問いかけるような目を向けたのだった。

 

 

bottom of page