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フェリックスの旅

16、

次の日、二人を乗せた地上車はオーディンに戻り、レッケンドルフの自宅の前でフェリックスを降ろした。レッケンドルフ本人はそのまま地上車を自分の会社に走らせた。フェリックスはその地上車を見送ってからレッケンドルフの家の中に入っていった。

「今日、私はここへ戻らない。だから君も私がいない間にお母さんの所へ帰りなさい」

まるでいたずらをした子供に向かって言うような言葉だ。だが、彼ともう会えないならば早めにこの家を出た方がいい。フェリックスは自分に与えられた部屋(ここで一人で寝ることはなかったが)の、クローゼットに入れていた自分のわずかな荷物をダッフルバッグに詰めた。彼から預かった、家の鍵やクレジットカードをキッチンのテーブルに置くと、来た時と同じようにダッフルバッグを肩にかけて外に出た。後ろで扉がバタンと音を立てて閉まる。

すぐに祖父母の家へ行くべきだろうが、嫌なことを後回しにしたい気持ちを自覚せずにいられなかった。あと少し、先に用事を済ませてから帰っても構わないだろう。

ダッフルバッグを下げたまま帝都図書館へ行き、大型の自習室がある棟へ入る。B-2の自習室を覗くと、思ったとおり十数人ほどの学生がいて、何かを議論していた。

「これまで何年にもわたって、民主化運動の運動家たちは陛下に良識あるご裁断をお願い申し上げて来た! それが今回ようやく受け入れられたんだ!」

「なにを初心なことを! 今回の詔勅は運動家たちなんぞ何の関係もない! やつらの手の届かないところでお偉い方たちがすべて決めてしまっている! 我々平民が何をわめこうとそんなことはあの方たちには響かないのさ」

「いや、我々が声を上げ続けて来たからこそ、彼らも無視できなくなったんだ! 陛下もお気づきになったんだ、われわれが誰よりも帝国のために考えて行動しているのだということを! 陛下こそ、平民たちの真の味方だ! 皇帝陛下が平民に親しみをお持ちでいるのはこれまでの陛下の発言からもはっきりしている! だがそれは、彼の周りの老臣たちによって阻まれている! 今こそ、国民に選ばれた議員たちが集まって陛下をお守りし、老臣たちを追い出すべき時なんだ!」

競技的討論であるならば、彼らは自分の主義主張に関係なく討論しているのだろう。だが、討論されていることは、若い皇帝と老いた臣下という偏見に満ちたステレオタイプな対立の構造に成り立っている。フェリックスはこんな討論は聞き苦しい、空論に過ぎないと思った。そこに白い手が伸びてきて、そっとフェリックスの肘を取った。ヒルデが小声で彼に話しかける。

「フェリックス、大変なことになったわね。もうみんな興奮してしまってつかみ合い寸前なの。でも、新しい時代が来るとなったら、ちょっとタガが外れても仕方がないわね」

「ソリビジョンでもそうだったけど、みんな少し冷静になったほうがいいな。まだ何も始まっていない。僕が聞いた中じゃ、あの旧同盟のミンツ氏のコメントが一番理性的だったな。まだ第一歩を踏み出したばかりだという」

「子供でもわかる理屈よね。でも、帝国人にとってこれは500年来の衝撃なのよ。どうするべきか分かっている人はきっといないんだわ」

ヒルデの言葉にフェリックスは首を振った。

「いや、分かっている人たちはいる。我らが皇帝陛下の閣僚の方々だ。彼らが自分たちが何をしているか分からずにやっているはずがないからね」

二人が話している言葉を聞きつけた、近くに立って討論を聞いていた青年がフェリックスに振り向いた。

「へえ、君はあの閣僚たちを信頼しているようだね。まあ、国務尚書に関しては文句はないけど、他の人々ときたら何の資格があって国の重鎮の地位にある? ただ年功序列でブルストの製造機みたいに捻り出されて閣僚になった奴らばかりだ。真にこの帝国を任せることが出来る人々なのか?」

「それが出来るのは自分だと言いたいのか? それでは聞くが、君は昨日までそんなことは露も考えていなかったのではないか? 議会の開催を約束されて、今にも自分が議員に選出されるように錯覚したのかもしれないが、その議会の開催を決定したのは今の閣僚たちだ。彼らが帝国のためを考えていることはこのことを取っても明らかだ」

相手の青年はフェリックスの鋭い指摘にひるまなかった。

「彼らに任せておいたら、立憲君主という立派な体制も骨抜きにされてしまうと言っているんだ。今もまだ残る特権的な階級、国営会社、軍組織、などこの国の利権を握ろうとしている輩に彼らは屈服するだろう。それは若き皇帝陛下お一人が立ち向かうには大きすぎる敵だ」

「ありもしない陰謀をねつ造するのは論旨が薄弱な証拠だ」

自習室の中心で為されていたはずの討論が場外でも起こり、もともと討論していた者たちが不満げにフェリックスたちの方を見た。ヒルデがフェリックスと相手の青年の袖を引っ張って彼らに注意を向けさせる。

討論のリーダー格と思われる青年が、フェリックスに向かって手に持ったペンを振った。

「君は帝国大学の学生じゃないね。少なくとも知らない顔だ。僕たちの討論に不満があるようだったら、そんな隅でこそこそしていないで、真ん中に来て堂々と論戦を張ったらどうだ」

フェリックスはその青年を見た。周りにいる学生たちもあるものは顔をしかめ、あるものは面白いことが起きたとばかりに目を輝かせている。ヒルデがフェリックスの袖をさらに激しく引っ張った。それを見つけた青年が嘲笑う。

「女の子に助けてもらわなくちゃ前に出ることもできないのか?」

「それは彼女に対する侮辱だな。ヒルデはきっと君の論議などは鼻から相手にしないだろうから」

周りからどっと笑いが起こった。笑いの元は主に女学生が多いようだ。フェリックスは一歩前に出て青年の正面に対峙した。

「幼年学校の発表会じゃあるまいし、みんなの真ん前に出て無駄な議論をする気はない」

「なんだと! 僕たちがしていることが無駄だと言うのか!」

「そうだ、議論など無駄なことだ。君たちはいったい何を話し合っているんだ? 誰が立憲君主体制を動議したかなんて討論して意味があるか? 現在の皇帝陛下の一番のお味方は誰かなんて、これ以上無意味な議論は聞いたことがない。競技ディベートの趣旨は分かるが、こんな空論に時間を費やしても君の教授たちは感心しないと思うな」

「言ってくれるね。討論自体が無駄だという訳だ。それでは我々は何をするべきだというんだ? 皇帝陛下はお一人で頑張っていただき、我々平民は黙って大人しくお茶でも飲んでいろっていうのか?」

「もちろん、そんなことは言わない。本当に君たちが皇帝陛下のために自分たちの力を発揮したいというのなら、僕には一つ提案がある」

「へえ、ぜひ聞きたいね」

フェリックスはリーダー格の青年や周りの彼らを囲む学生たちの視線が自分に集まっているのを見た。ヒルデも真剣な目で自分を見ていることに気づく。

「君たちが考える憲法の私案、私擬憲法を作るんだ。そして憲法を起草する審議会にそれを送り付ける。彼らが私擬憲法をどう扱うか分からないが、少なくとも君たち学生が国政に強い関心を持っていることをアピールできる。もしかしたら君たちの憲法を審議会の起草案に反映させることが出来るかもしれない。もちろん、まったく考慮されない恐れもあるが」

「そんなこと…、許されるか?」

そこに別の人物の声が詔勅のコピーが記載された端末を掲げて割り込んだ。

「今回の詔勅にはそれを禁じる言葉はない。むしろ審議会にはひろく世間から有識者を集める、とある。立憲制についてこれ以上議論をすることは許さない、とは書いていない。彼の言う通り私擬憲法を作っても反対する根拠はないはずだ」

「国政にいたずらに干渉しようとした、とかなんとか難癖をつけるんじゃないか?」

女性の甲高い声が反論する。

「もしそうなったらあくまで学生の研究だといえば切り抜けられる。その場合、教授たちの許可が必要だろうけど」

「甘いよ、学生だって検挙の対象になる」

「どうやって私擬憲法なんて作るんだ!? なにを入れるべきだろう?」

「確固たる方針もなしに作るなんて無理だ。一番重要なことをまず考えるんだ!」

わっ、と学生たちが一斉に話し出したので、リーダー格の青年は湧き立つ周りを見渡し、その混乱ぶりに収拾がつかない、と言いたげに両手を上げた。

 

ヒルデとフェリックスは連れだって自習室を出た。討論はお流れになり、学生たちは近くにいるものと小さなグループを作って、私擬憲法を作り出す可能性について意見を交わしている。もしかして、同じような動きが帝国の各地で起きているのではないだろうか。

「あんな討論、暇つぶしにしかならないと思ってたから、ああ言ってくれてよかったわ、フェリックス。だけど自分たちで憲法を作るなんて思いつきもしなかった」

「彼らが本気になってくれたら、本当に帝国の閣僚たちを驚かせることが出来るけど。他の大学や民権運動の集まりでも同じことをしているかもしれないと、今、考えていたんだ」

ヒルデは目を輝かせてフェリックスの顔を仰いだ。

「そうだったら、本当に素晴らしいことだわ。私、他の大学に行っている友達に提案してみる。それこそ、私たちの国を自分たちで作ることが出来る方法だわ」

「うん、偉い人たちに任せっきりにしない、国民みんなが自分たちで考えて作る国だ」

二人は顔を見合わせて笑ったが、やがて黙った。フェリックスがダッフルバッグから本を出した。

「ここに来たのは討論をぶち壊すためってわけじゃなかったんだ。追悼式典から昨日の詔勅発布で、学生がどう感じているか様子が知りたかったのは確かだけど」

「あの追悼式典は素晴らしかったわ。ミッターマイヤー尚書は尊敬に値する人ね」

「…うん」

あやふやに頷いてからフェリックスはつづけた。

「それで、君がいたら借りた本をロイエンタール邸に返してもらおうと思って」

ヒルデは2冊の本を受け取ろうと手を差し出したが、考え直して手をひっこめた。

「フェリックス、祖父に直接会って返して。自分で返しに来てっていう約束だったじゃない。おじいちゃんも式典を見たの。きっとあなたとお話ししたいと思うの」

彼女の言うとおりだった。あの老執事も父をよく知る人物として、この二日の間に起きたことには非常に驚いたことだろう。彼がどう感じたかぜひ話を聞くべきだと思われた。

 

ロイエンタール邸に行くと、裏手のキッチンの脇にある使用人用の食堂で、老執事がソリビジョンのモニタにかじりついていた。手にはスプーンと銀食器磨きの布を持っているが、手が止まっている。孫娘が笑って祖父の元に駆け寄ってその額に接吻した。

「おじいちゃんたら、普段はこの時間にソリビジョンの番組なんて見ないのに、熱中しすぎ。せっかくお客さんを連れて来たのに」

老人は画面の様子を気にしつつも、フェリックスを見て顔をほころばせた。

「お恥ずかしい次第ですが、なにかまた新しい情報が出てくるのではないかと思うと、気が気でございません。しかも、明日の夜にはミッターマイヤー閣下とご主人様、お二方の活躍を中心に、かの獅子帝がご存命であった当時をしのぶ緊急特別番組などが放映されるとか」

現に今、老人が見ていた番組でも、ロイエンタール元帥の映像が流れていて、この20年間彼の姿がまったく公共の場に現れなかったことなど、嘘のようだった。

「そんな番組が? 追悼式典の影響なんでしょうが、急に父にスポットが当たる様になっておかしな感じですね。世間は彼にそんなに興味があるんでしょうか」

「まあ、フェリックス、立憲君主制についての解説か、ロイエンタール元帥の映像か、どっちかが延々流れているわよ。3日前までは元帥は叛逆者で無法者みたいな扱いだったのに、今では悲劇の英雄だと思っているみたい」

これはフェリックスの父二人に対する世間の評価と言う意味では悪い流れではないだろうが、自分のハイネセン留学に影響が出そうな気がした。ミッターマイヤーはそもそもハイネセンでのロイエンタール元帥信仰ぶりを懸念したからこそ、留学を考え直した方が良いのではという判断を下したのだ。ハイネセンだけでなく、帝国全土で同じような風潮であるならば、自分はいったいどこへ行けばいいのか。

老人がフェリックスの考えに同調するかのように言った。

「ご主人様がミッターマイヤー様にあなた様を託されたことも、感動秘話という触れ込みで紹介されておりました。確かに、そのような見方は少々浮ついていると思われたのですが、見たことのないご主人様の映像がかなりたくさん流れまして、わたくしもその映像にそそのかされたような有様で」

「そんな映像を放送局はどこで拾って来たんでしょうね」

「ご主人様はよく報道関係者に追い掛け回されておりましたから、おそらく放送局にはそのような映像が残っておりましたのでしょう」

今頃レッケンドルフもこういう番組を仕事の合間に見ているのではないかと思いながら、フェリックスは老人に聞いた。

「それは軍の広報とか、ニュースなどの報道番組ですか」

「フェリックス様、残念ながらご主人様の私生活をのぞき見したがる人々のことです。ご主人様は有名な歌手の方などとお付き合いしていたこともありましたので。どうもこの熱狂ぶりはそれと同じ風潮のように思われますね」

敬愛すべき父親が漁色家と言う不名誉な評判を得ていたことを思い出し、フェリックスはため息をついた。まったくこの父は息子である彼が父を偉大な人物として見ようとすると、それを覆すようなことを思い出させる。死してなお一筋縄ではいかない相手だった。

ヒルデが祖父をモニタの前から引きはがし、三人でロイエンタール家の気持ちのいい庭が見える居間でお茶にすることにした。

老執事は恐縮気味にフェリックスに言う。

「わたくしどもには贅沢なお部屋ですが、時々このように使わせていただくと、部屋が傷みませんので」

「いいのよ、おじいちゃん。フェリックスにはこのお部屋を使う正当な資格があるんだから、私たちはお相伴なの。いっそのことこの家の部屋を一つずつ使ってもらえるといいわね」

「いったいこのお屋敷には部屋がいくつあるのかな。僕にはあのすばらしい書斎ひとつで十分」

フェリックスは芳醇な香りのお茶を楽しんでから、老執事に本を返しに来たことを告げた。本を取り出しかけて、フェリックスは父が幼いころに母親とやり取りしたらしいあのカードについても思い出した。本と一緒にダッフルバッグからカードを取り出す。

「このカードも本の中に一緒に入っていたんですが、別の場所に保管した方が、本もカードも痛まないと思います。きっと、本の中にこれを入れたのは父なんでしょうけど」

2冊の本の上に、カードをきれいにそろえて乗せて、フェリックスはそう言い、老執事の方を見た。執事はまるでフェリックスの言葉が聞こえなかったかのように、ぼんやりとした表情でそのカードを見ていた。老人は手に持ったカップをそっとテーブルに置いた。

「…そのカードをどこで見つけられましたか」

「もう1冊の、この間返した本の函の中に入れてあったんです。本と一緒に返すつもりが忘れて…。まさかそんなものが挟まっていると思ってなくて、ただタイトルが面白そうだと思って借りたんですが。あの…。このカードは見てはいけないものだったのでしょうか」

老人の様子に心配になってフェリックスは質したが、老執事はテーブルの上で手を組んで優しく首を振った。

「そんなことはございません。そうですか、あなた様が見つけられましたか。私はそれがどこにあるかずっと分からずにおりました。それを…あなた様が…」

「父がこれに触れるなとでも言って、隠したのですか? 子供のころの大事な思い出の品だからということで」

フェリックスの言葉に老執事は顔を上げて、遠くを見るような目をして答えた。

「いいえ、ご主人様ではございません。それを隠されたのはあなた様のお母様です」

 

 

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