二人の新任艦長
17、
バタバタと足音がして自動ドアが開く音がし、振り向くとマクダレーネ・ヤンセンがそこに立っていた。後ろにおじの船長の姿がちらりと見えたが、ドアが閉まってしまい、見えなくなった。彼女の顔には大きな冷却パックが張り付けられていたが、その上からでも左の頬が腫れているのが分かった。片眼を開けにくそうにしている。ミッターマイヤーのテキストにはそのことについて注意を促すような言葉は何もなかったので、ロイエンタールはしばし、あっけにとられて彼女を見た。
「ミッターマイヤーから連絡がきた。なにか話しておくべきことがあるようだが…?」
「私、結婚してるの」
ロイエンタールは片方の眉を吊り上げて、相手に部屋に一つしかない椅子をすすめた。
「あなたが言うべきことは他にもあるようだが。ひとまずこれについて説明していただけると助かる」
彼はデスクの引き出しから偽のIDカードを取り出すと、彼女の前の小さなテーブルに放った。カードは乾いた音を立ててテーブルの上を彼女の方に向かって滑った。
「これは軍のIDカードに似ているが、データが出てこないし、何かの信号を発信しているようだ。おれの知識ではそれ以上のことは分らんが、親切ですり替えたとは言い難いな」
医師はポケットから似たカードを取り出すと彼に差し出す。もともと彼が持っていたIDカードだった。
「レイにすり替えるように言われてそうした。それが何になるかは分からない。もとのカードはどうするか聞いたら、いらないから捨てろって言われたけど、それはあなたが困ると思って」
「こんなものはいつでも換えがきく。再発行の手続きをしなくてはならないのが手間だが」
彼女はカードを手に持ったまま、データを立ち上げた。IDの所有者の個人データと共に立体映像が投影される。イゼルローン要塞に転属になった時に撮影した映像だから新しいものだ。所有者の特徴をはっきり表示するため、遠くからの全体像を移した後、目の特徴を強調するように顔のアップを映し、そして映像は平面的な顔写真になって落ち着いた。彼の目の辺りをタッチすると、また3Dになって、映像を繰り返す。
「やめろ、うっとうしい」
「ばれなければ、ずっと持っていようかと思ってた」
彼は無言で右手を突きだした。彼女はしぶしぶカードを彼に渡す。
「何のために使われるかも知らずにすり替えて、不正な行為と分かっていながら、唯々諾々と従っていたわけか」
「…他にもあなたの端末をのぞいたりした。知識がないからなにか隠されたデータがあっても、私は見つけられないといったけど、なんでもいいから、あることについて探って私が分かったことを報告しろと言われた。やり方は私が出来ることをやれって」
「あることとは?」
「あなたがどう考えているか…、つまり、あなたのお父様の事業を引き継ぐことについて」
ロイエンタールは完全に虚を突かれた。まったく思ってもみないことだった。
「なんだそれは、親父の事業などと、どこから出た話だ」
「あなたのお父様が病院にいらしたことを話したでしょう。お父様のご病気は篤く、完全に事業から手を引かれようとしている。会長の座も退かれた。今はすべてのことをお妹さんの旦那様がみていらっしゃる。これは臨時の措置で、当然、息子さんが帰ってきて、すべての事業の跡を継ぐまでのことだと、関係者たちは考えているの」
「その関係者の中にはあのレイ将軍も入っているのか」
「彼の娘…、私には義理の娘のようなものだけど、私より一つ上で…。彼女の婚約者が取締役の一人なので、レイとしては婿の将来について考えるところがあるようね」
婿は自分の将来について、かなり明確な野心を持っているようだったが、老いぼれて引退したはずの老会長の息子が軍を退役して戻ってくるかもしれない、という可能性が浮上した。そのころレイは、自分自身が取締役を務める軍需企業の輸送船団が、はるばるヴァルブルク方面へ向かう計画を、軍務省から極秘に知らされた。ヴァルブルクへはロイエンタールが転任することがすでに世間に公開されていたから、レイは輸送計画に強引に視察をねじ込んだ。
「娘のために、婿の将来を安泰にしてやるんだ、なんて言って。一人では情報を探るのにも苦労をするから私を連れていくと言っていたけど、自分では何もする気なんてなかったのよ。現役の時の気分を味わいたいから喜んで宇宙船に乗り込んだけど、後は私に全部やらせるつもりで」
情報を探るのはヴァルブルクに着いてからのはずだったが、まったく幸運なことに輸送船団には当のロイエンタールがいた。計画は急きょ変更になり、この航行の最中に探ることになったのだった。
「おれが親父の事業の跡を引き継いで、レイの婿の将来を台無しにする可能性をか…? 馬鹿げた話だ。ありもしない推測だけで、はるばる宇宙まで来て、自分の妻を差し出しまでしたか」
彼の言葉の最後のところは無視して医師は続けた。
「ありもしないことなのかしら? そういう話が出たということは、あなたは知らなくてもお父様にはそのつもりがあるんだということではない? それに、そのための勉強をしているってことは、あなたもお父様の跡を継ぎたい希望があるんでしょう」
「…何の勉強だと?」
「経営の勉強。私あなたの端末にその手の書籍がたくさんあるのを見て、まあ、レイの野望もこれまでだと思うとおかしくって、おかしくって…。あなたがとても勉強熱心だと伝えたら、すごく怒って今に見ていろ、なんてすごんでみせて馬鹿みたい」
「…経営の勉強だと?」
彼らしくもなくオウム返しに繰り返すので、医師はようやくロイエンタールの反応に気がついた。
「違うの?」
「…あんたが言うように、何もかも馬鹿げているが、説明してやる。軍隊も金庫から使い放題に金を使っていては早晩食うに困ることになる。経済に関して無知でいることは危険なことだ。この船団のバイアースドルフ少将のように副官に任せっぱなしの将官も多いようだが、おれは基本だけでも学べるときに学んでおこうと考えた。まずは手っ取り早く、一般的な書籍から読んでみようと知人から書籍を取り寄せた」
「それが端末に入っていた書籍?」
医師は勘違いの可能性に気付き、腫れている方の頬を手で押さえて黙りこくった。
「しかし、結構役に立つスパイをお持ちのようで、レイ将軍は結構なご身分だな」
厭味が込められた台詞にマクダレーネは手を下して両手を揉みしだいた。首を振りながら絞り出すように言う。
「好きでやってたわけじゃない」
「その割にはかなり熱心な活躍ぶりだと思ったがな」
「あの人の言うとおりにあなたのことを探ろうなんて、馬鹿なことをしたと思ってる。でも、最初は大したことじゃないと思ってた。また殴られるのが怖かった。そして人からどうしたのか、なんて聞かれるより、言われたとおりにしてた方が面倒がないからって」
あの男は手を上げるのか、ロイエンタールはそう問いかけようとしてやめた。その証拠は目の前に明らかにある。医師として仕事の面では十分自立した精神を持った女が、家では殴られるのを恐れて理不尽な言いつけに従う…。おそらく何度も暴力を振るわれただろうことは察しがついた。そしてついにはまっとうな判断力を遮断して、事の善悪より身の安全を図るようになっても不思議ではないのだろう。
みじめな様子でうつむくマクダレーネは彼が馬鹿にしたように鼻を鳴らして笑ったので、ぎょっとして顔を上げた。
「同情を引くにしてももう少しまともなことを言うべきだな。どうやらおれは身に覚えのないことで痛くもない腹を探られたようだが、あんたの茶番に付き合わされてこの始末だ」
「茶番ですって、私があなたを探ったことを茶番だと言いたいの」
「そうだな」
彼は右手をあげて彼女の腫れた頬を冷却パックの上からそっと押さえた。
「夫のいる身で、その気もないのに会ったばかりの男を誘惑して、さぞかし悲劇の主人公気取りだったろうな。おかげでこちらは不倫の片棒を担がされた」
マクダレーネはロイエンタールの手を勢いよく払うと、椅子を蹴って立ち上がった。彼は彼女が震えて真っ赤になりながらまっすぐ彼に向かっているのを見おろして、怒っている表情がきれいだとは大した女だと思った。
「あなたって…ひどい男だわ、そのことに関しては知っていようが知るまいが、あなただって共犯者なんだから。あなたを探ったりしたことはよくないことだった。それは謝る。でも、他のことでは非難されるようなことはないわ。あなただって楽しんだじゃない…!」
「その通りだ」
彼の表情の上に冷笑が漂っているのを見て、マクダレーネは急にすべてを理解して叫んだ。
「少しは私のこと気にしてくれてると思ってた…! でもあなたには私なんて何でもなかったんだ!!」
彼女の右手が空を切って、彼の左の頬を音高くひっぱたいた。ロイエンタールは勢いで少し横を向いたが冷笑は変わらないままだった。
「私だって、あなたなんかと寝るべきではないってわかってた…! でもあなたはあの時、おじさんのオペレータ室であんな風に立って、私を見て…。でも、船を離れてしまったら宇宙で離ればなれでもう二度と会えないのは分かってる。あなたが欲しくて焦燥感で爆発しそうだった。レイが知ったらまた殴られるだろうけど、一瞬に賭ける価値はあるって…! あなたが答えてくれたように思ったのはただの錯覚だったってわかりそうなものなのに!!」
ロイエンタールは殴られた方の頬が少し熱を持っているのに気付いた。女の細腕とはいえ恨みのこもった渾身の力だったのだ。彼はまったく平静な様子で言った。
「もう自分の部屋に行った方がいいだろう。おじ上も心配しているようだ。その頬についておじ上にも説明が必要だろうからな」
マクダレーネは荒い息をようやく継ぐと、彼の方を探るように見る。
「レイに言われたことも、私とあなたとのことも、もうすべて終わりだって言いたいの」
「そうだ」ロイエンタールは一瞬だけ彼女の方を見たが、ついに冷笑を納めて目をそらした。
「茶番は終わりだ」