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騒がしい夜~3~

ファーレンハイトが額に手をやって俯く。その肩が震えて、どうやら笑っているようだ。どっと周りの客たちからも笑いが巻き起こった。

「ゼルマ! 見え透いてるぜ、あんたこの兄さんの手が握りたいだけだろ!」

「でも、ゼルマなら負かしちまうかもな!」

自分が話題になっている間も別に気にする様子もなく食事をしていたロイエンタールだったが、さすがにゼルマの挑戦に眉をあげた。

「腕相撲?」

ゼルマはにっこりして、腕をまくりながら答える。

「そう、あたしは結構強いの。その辺のやつなら負かしちまう。あんたはほんとに細いけど、軍人なら毎日鍛えてるだろうから、きっとあたしに土つけることが出来るだろ」

ロイエンタールはゼルマのがっしりした肩と太い腕を見る。確かに並の男には太刀打ちできなさそうな力強さを感じる。

ファーレンハイトが二人を見比べて戸惑ったように言う。

「ほんとにやんのかよ」

「やるよっ!」

ゼルマが叫んで、ロイエンタールは肩をすくめた。

さあさあ、と言ってゼルマはイェニーが座っているテーブルをあけさせた。店の真ん中のテーブルだからみんなから見やすいというわけだ。

「フーゴ、ジャッジをしてよ」

ゼルマに呼ばれて、奥にいた坊主頭の大柄な男がため息をつきつつ立ち上がる。

「仕方ないな。あんたさんもいいですか」

男に聞かれて、ロイエンタールは頷いてジャケットを脱いだ。ジャケットに隠れて見えなかった白いシャツの下に、筋肉がついたしっかりとした肩や胸、二の腕が現れる。イェニーと一緒にうっとりして見つめそうになって、ファーレンハイトはハッとする。

「おい、マジでやんのかよ、止めとけって」

その言葉遣いにロイエンタールは眉をあげてファーレンハイトを見たが、「やめておけとはどういうことか」と言ってテーブルに肘をついた。

ゼルマも腕を出してロイエンタールの手をガシッと握り、肘をつく。フーゴが二人の手を押さえて、「準備いいか」と聞く。店内の客が伸びあがって二人の握りあった手を見る。

フーゴが二人を交互に見、おもむろにパッと手を離した「ゴー!!」

ロイエンタールがガクッとゼルマに一瞬押されそうになった。左手でテーブルの端を力いっぱい押さえて顔を真っ赤にしている。さすがに女性がそこまで強いと思っていなかったのだ。だが、盛り返して危ういところで押し返す。

ゼルマも真っ赤な顔で必死の形相だ。いくら細くとも男相手に真ん中の最初に手を握り合った位置からたいして傾いていないとはすごい力だ。

「おお~、ゼルマが…」

「…兄さんも結構…」

「がんばれっ」

客たちはどちらを応援しているか知らないが、接戦になっていることに意外そうだ。ゼルマはこれまで何人もの力自慢の若者を倒して来たのだ。

ファーレンハイトが二人を交互に見ながらハラハラしていると、じょじょにゼルマの腕が押されてきた。客たちが「ああ~」と言う間にもどんどん倒され、ぎりぎりまでゼルマは踏ん張ったが、とうとうガツッ、と大きな音を立ててテーブルに手を押さえこまれた。

「兄さん勝った!」

客は大喜びだ。ビールのマグをテーブルでガンガン叩いて勝者を祝福した。ロイエンタールは苦笑して、どうだ? というようにファーレンハイトを横目で見る。

ゼルマが手を振っている。右手の甲が赤くなっているのを見て、ロイエンタールが彼女に声をかけた。

「悪かったな。本当に強いので余裕がなくて力いっぱい押し返してしまった。テーブルで甲を打ったのだな」

ゼルマは声を掛けられて赤くなった。まだ手を振りながら答える。

「いや、あたしこそ馬鹿なこと言って悪かったね。最初はあたしも結構いけると思ったけど、力が続かなかった。あんたの方が持久力があったって感じだね」

「大した分析力だ」

そういってロイエンタールがにやりとしたので、ゼルマはブラウスの端から見える首や胸まで赤くなった。その様子にみなうれしくなって笑いだす。また誰かが口笛を吹いた。

だが、その賑わいを切り裂くように聞こえた2発の銃声と女の悲鳴―。

 

店内は一瞬にして凍りついた。

イェニーがへたるように床に座り込む。

「今の聞いた? 聞いた?」

「近くだ!」

その時また銃声がして、店内はしんと静まり返った。

ファーレンハイトがジャケットの下からブラスターを出して言う。

「みんな、ここから動くな。様子を見てくる。安全が確認されるまで店から出てはならん」

ロイエンタールも腰のホルスターに手をやりつつあとに続こうとした。

「いや、卿はこの店にいろ。俺はこのあたりをよく知っているから動けるが、卿はそうもいかんからな。場合によっては憲兵を呼ぶ」

「承知しました」

ファーレンハイトが大佐として彼に命令したことが分かったので、ロイエンタールも部下としてその言葉に従った。実際、彼にはこの周辺について土地勘がないから、上官の言葉通りに従わざるを得ない。

「俺がご一緒します、大佐」

フーゴが言って敬礼したのに対しファーレンハイトが頷き、二人して店を出て行った。

ロイエンタールがその後ろ姿を見送っているところにゼルマが声をかけた。

「フーゴは大佐の部下でね、軍曹だよ。あの人がいるからあたしもこの界隈で安心してこんな店を開ける。お陰で近頃はこの店の周辺はわりと安心して暮らせるようになったんだけどね、時々こういうことがある」

「フーゴがゼルマをこの街に連れて来てくれたのさ。俺達も感謝だな、お陰でいつでも旨い飯が食える」

ロイエンタールがゼルマを見る。

「…どこの出身なのだ?」

「オーディン。小公子と同じ下町育ちさ」

 

「あたしを見て分かるだろ。あの街じゃこんな真っ黒の髪や浅黒い肌のやつはいない。父親は同盟から連れてこられたんだ。捕虜だか何だか…。収容所にいるときあたしの母親と会ったんだろうね。で、あたしが生まれて母さんは仕事を探してオーディンまで出てきた。裏町でいろんな仕事をしてたね。あたしも学校にも行かないでこんな小さい時から食堂で働いてた。

あたしがフーゴと会う直前、小公子は母さんと兄貴と一緒に引っ越してきたんだ。洗いざらしのシャツと穴のあいた靴はいてね。でも、フラウはいかにもその辺の女とは違ってきれいでね。子供たちにも何とかやりくりして、生地が薄くて継ぎだらけでも、せめて洗いたてのきれいなシャツを着させてあげてたよ。

小公子は今じゃずいぶん立派になったけど、あの頃はほんとにちいさくて、可愛い子だったね。どことなくみんなと雰囲気が違うっていうんでからかって王子だの、姫だのといってたけど、実は結構な悪ガキだったね。いつの間にかガキどものリーダーみたいになっちまった。それでみんな敬意をこめて『小公子』って呼ぶようになったのさ。

『小公子』っておとぎ話、知ってるだろ」

ロイエンタールはブラスターを手に持ったまま、周囲に警戒網を張りつつゼルマに答える。

「…おれが知っている話と同じものならばそれはおとぎ話ではない。子供向けの小説か何かだと思うが」

「そうかい? まあ、つまり、あの話と一緒で、あたしらの小公子アディもある日突然、伯爵のお使いとかいう人が来て、あの子を連れて行っちまって、その日から幼年学校というとこへ行って、あたしらの街から足を洗っちまった」

「伯爵? 兄がいるといったな。そいつはどうしたんだ」

「兄貴の方はもうその時いっぱしのワルでね、フラウだけはあいつを信じてたし、あいつもフラウと弟は大事にしてたけど、あの街じゃ銀行強盗になるか、街の顔役の若いのになるか、さもなきゃ兵隊になるしかないのさ。それであいつは若いのになって、小公子が連れて行かれた時は刑務所に入ってた」

店の外は多くの人が走りまわる音がしていた。客たちは不安そうに互いを見合わせていたが、ゼルマの話に引き込まれてもいた。

ロイエンタールは呟く。

「だが、大佐は伯爵ではない。貴族出身なのは確かだろうが…」

「そう、あのころあの街の小学校に熱心な若い先生がやってきて、小公子が出来がいいんでなんとか街から救いだそうとしてた。いくら頭が良くたってあそこじゃ這い上がるのは難しいんだ。フラウはその先生にほんとの出自を話したんだろうね。それでフラウの旦那さんが実はほんとの貴族の跡取りで、二人は駆け落ちしたらしいって話でね。とにかく、小公子は先生のお陰で伯爵と連絡が取れて、貴族の身内だって証明してもらって、立派な学校へ行くことが出来た。

でも、1年くらいしたら小公子はフラウのとこに戻ってきちゃってね。フラウがあたしに話してくれた話だと、伯爵家というのは借金だらけで跡を継ぐにも金がかかるし、伯爵家の跡取りと認められるにもいろいろ金がかかるらしいって。それで、貴族だっていう証明とその跡取りになる資格があるっていう証明とかだけもらって、幼年学校は退学したんだと」

黙って聞いていた客の一人が言う。

「跡取りになる資格がある証明? なんだそりゃ」

「たぶん、それがありゃ、あとで跡取りの地位を請求できるってことでねーかな、ねえ、兄さん」

ロイエンタールは話しかけられて首を振る。

「おそらくそのように思われるが、おれも爵位もちの貴族については不案内だ。だが、大佐はその貴族身分の証明のお陰で道が開けたというのだな」

「もともと頭は良かったし、中退しても幼年学校に行ったっていうのは結構な箔になるらしいね。士官学校に入る時は幼年学校の卒業生と一緒で無試験だったって」

事情通らしい客の一人が腕組みをして言う。

「中退つったってきっと、いろいろ援助してくれた人がいたんだろう。そうじゃなきゃ、やめるのも士官学校に入るのもそう簡単にはいかないはずだぜ」

そして金をしめす符牒を手で示したので、客たちはみな唸った。

ロイエンタールは大佐が以前明かした仕送りにまつわる話を思い出していた。

その時、店の窓の外に一人の憲兵が現れ、店を覗き込むとドアを開けて入って来た。

その憲兵はロイエンタールに向かって敬礼する。

「ロイエンタール少佐でありますか」

「そうだ」

頷くのへ憲兵は続ける。

「ファーレンハイト大佐からご伝言です。発砲事件については我ら憲兵隊が調査中です。大佐は現在我らの隊長にご協力いただいているところです。小官と同僚がこの周辺を警戒しますので、ロイエンタール少佐はどうぞ先にお帰りくださいとのことです」

「そうか、了解した。だが、私はしばらくここで大佐を待つ。卿は卿の職務を遂行してくれ」

「承知しました。では、失礼します」

憲兵は敬礼すると、再び外へ出た。同僚らしき憲兵と話しながらどこかへ歩いて行く。

ロイエンタールは彼を見つめる客たちに振り向いた。

「…ということだ。おそらく今夜は皆しばらく帰らずにこの店にいた方がいいだろう」

「まだ外は危ないと思うかい? …ロイエンタール少佐」

ゼルマがわざと名前を呼んだので、ロイエンタールは眉をあげて彼女を見る。

「これだけ憲兵がうろついていたら危ないことはないだろうがな。だが、様子が分からぬうちは出歩かない方が良かろう」

「よしっ、ビールだ、ビール飲むぞ、ゼルマ!」

客の一人が叫んで、みながわっと騒いだ。その様子に気づかぬ風に、ロイエンタールは窓際に立って外を見ていた。

 

 

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