関わりあうものたち
3、
士官クラブ『海鷲』で食事をとって腹を満たしたミッターマイヤーは、ようやくラウンジのソファにくつろぐ気になった。
どこかへ電話をしに行ったロイエンタールを待ちながら、メックリンガーとウイスキーをゆっくり傾ける。目の前のローテーブルにはロイエンタールの美術品の箱が無造作に置かれてあった。
「あいつあれほど言ったのに、こんなところに置いて行ってしまったな」
メックリンガーはため息をついた。
「まあ、仕方がない。美術品と言ってもその価値を決めるのは持ち主だからな。同じ美術品愛好家でもルネッサンス期の作品が好きな者にでもこれを与えてみたまえ、ゴミ扱いにするから」
「でも、俺は価値はともかくこの作家の意図するところは面白いと思ったぞ。美術品鑑賞と言うのはもっと受動的なものだと思っていた。美術品を見ることで生まれる感動というのは思ったよりも躍動的なのだな」
「そう、それこそ鑑賞者に激情を掻き立てる場合だってあるのだ」
美術品を見てそれほど強い感情を覚えるには俺は何かが足りない、と言おうとしたミッターマイヤーだったが、そこにロイエンタールが戻って来た。
「うちの執事に聞いてみたら、やはりクラッセン男爵は確かに一時親父と親交があったらしい。執事の記憶では、美術品やアンティークの家具の蒐集家だったようだ」
メックリンガーがウイスキーのグラスを傾けつつ頷いた。
「ではやはりその人物からお父上に贈られたものかもしれぬな」
「いいや、ポーカーの借金のかたに譲られでもしたというほうがそれらしい。その証拠に金庫に預けっぱなしだったからな」
口調は冗談めかしていたが、ロイエンタールの表情は苦々しさに満ちていた。そのことにメックリンガーは気付いたか否か、僚友の穏やかな表情からはミッターマイヤーには分からなかった。
「それに夫婦和合の祝いの品などと言われてもピンとこないな。ことに贈られた相手がおれの両親のような…」
そのまま押し黙った。
今度こそメックリンガーもその場に漂う重い空気に気付いたに違いなかった。気を引き立てるようにロイエンタールに声をかける。
「しかし卿のお陰で失われた名品がよみがえったわけだ。昨今この帝都でも現代美術の意義が見直されてきていてね、この作品に光が当たることはうれしいことだ」
ロイエンタールも気を取り直して僚友に答える。
「卿はこういったジャンルの美術はやらないのか。さっき館長が美術界に戻ってくれないかとか、なんとか言っていたな」
「インスタレーションは鑑賞するのは面白いが、私には理知的すぎると考えてしまってね。芸術家としては私は保守的なのかもしれんな」
「メックリンガーは芸術に関しては激情家らしいぞ」
無邪気な様子でミッターマイヤーがからかったので、メックリンガーは苦笑して首を振った。
自分のウイスキーのグラスから目をあげてロイエンタールは僚友をじっと見た。
「戦場での卿の計略などからみると、卿は非常に知性に富んだ理知的な人物だと思える。それが理知的な芸術は嫌いとは面白い」
「嫌いというわけではない。芸術に関して言えば、私は感情を激しく揺さぶるものを作り出したいと常々思っている。もし、あの分野で私が感情を刺激する作品を創作できるのなら、とっくにそうしている。だが、あれは私のためのジャンルではないというだけのことだ」
メックリンガーはその時ロイエンタールが彼に向けた目がなにやら意味深だと思った。
「芸術家はその作品で誰の感情を揺さぶるのか? 芸術家自身か、鑑賞者か」
「それは難しい問いだな。だが、私は自分が感動してこそ、見る者に感動を与えることが出来ると思っている」
ミッターマイヤーがあくびをしながら親友に聞いた。
「それでおまえはこれをどうするんだ。これの所有者は2つの石のうち、どっちかを捨てなきゃいけないんだぞ」
ロイエンタールはメックリンガーを見て、いたずらっぽくほくそ笑んだ。ミッターマイヤーの方に向き直って質問に答える。
「まずこれを片手に一つずつ持って」
「うん」
「酔っぱらって」
「やな予感がしてきた」
「その後、地上車に乗る」
「そして?」
「そして、どちらかを車内に忘れてくる」
二人の掛け合いにメックリンガーが噴き出した。
「お願いだからそれだけはやめてくれ。両方とも忘れてきそうだ。どちらかの石と別れる時は、この作品にふさわしい別れ方をしてくれ」
「運任せというのも一つの方法だとは思うがな」
三人はにぎやかに笑った。ロイエンタールは笑いを納めるとミッターマイヤーの方に箱を押し出した。
「おまえにやる」
「やるじゃねーよ。もらえるわけないだろ、鑑定だってしなくちゃならないし」
ミッターマイヤーが箱を押し戻した。
「結婚祝いの品らしいからな。おまえの所ならそうそう別れたりしないだろう、たぶん。そういう所にもらわれるならこの作品も本望だろう」
「たぶんじゃない。いや、そもそもその目的とも限らんのだろう。おまえが持って、毎年どっちを捨てるか自分で悩んでくれ。俺も年に一度、これの作者の代わりにおまえがどうするか決めたか聞きたいな」
メックリンガーは二人のやり取りを黙って聞いていたが、顎を指先で撫でながら呟いた。
「卿ら二人で一つずつ所有するというのはどうだね」
「えっ」
二人は僚友の方に同時に振り返った。これほど顔立ちも性格も違うのに同じような表情をして彼の方を見ている。メックリンガーは苦笑して続けた。
「いや、今ふと思いついただけだが我ながらこれはいい案だ。親友同士の卿らなら数年後には音信不通になる、ということは決してないだろう。二人でどちらか一方を選んで所有し、年に1回どちらを捨てるか相談する、というのはなかなか面白くないかね」
親友二人は顔を見合わせて、そしてあらためて箱の中身の2つの石を見た。自分はどちらの石を手元に置きたいか、というのもどちらを捨てるかを決めるのと同じように難しいと感じた。二人は箱を覗き込んでなぜか声をひそめて言う。
「これはつまり、俺が持ちたくない方を捨てるってことにならないか」
「だが、おまえが欲しくない方をおれが望むのなら、おれにとってはおまえが持っている方が捨てたい方だ」
「ややこしいこと言うなよ」
楽しくなって来たメックリンガーが笑いながらロイエンタールに聞いた。
「そういえば卿の意見を聞いていないな。卿はこの2つの石についてどう思う」
ロイエンタールは美術品について感想を言う時もためらいがなかった。
「レプリカの方はこの作品の作家の名声が付加価値としてある。氷河から拾って来た方には歴史が刻んだ重みが感じられる。だが、氷河の方は言ってみればただの石ころだ。一方でレプリカの方はしょせん作りものだ」
「ではどちらを捨てる?」
ロイエンタールはウイスキーのグラスを持ったまま、腕組みをした。
「やはり難しいな。捨てるとなったらどちらかに価値を認めんことになる。どちらにも価値があるように感じるが、同時にどちらも大した持ちものではないと思わせる」
その時突然、彼らの後ろから声が降って来た。
「なんだそれは? 昔、俺の小学校の担任が持ってた、火山岩の文鎮みたいだなあ」
その声の主は断りもせずに、石の一つを手に取った。
「おっ、結構重いな。あれだ! 殺人事件の武器だ! ほら密室殺人で、実は凶器が文鎮で…」
「何を訳の分からんことを言っているんだ、ビッテンフェルト。それは美術品だ。今すぐこの箱に戻すんだ」
少し大きな声で言うと、メックリンガーは石を手に持って眺めるビッテンフェルトに箱を突きだした。
「もう一つあるな」
「さ、わ、る、なっ!」
メックリンガーは野蛮人の手から石を取り戻すと、そのまま箱を膝の上に抱え込んだ。
ビッテンフェルトは彼には構わず、ソファの空いている席(それはたまたまメックリンガーの隣だったが)に座る。
「おまえらなんだ? なにやら覗き込んで健康な男らしく女の子の写真でも見てるかと思いきや、わけわからん石を見てるだと?」
隣から睨みつけるメックリンガーには構わずそんなことを言う。ミッターマイヤーは彼の傍若無人振りがおかしく、メックリンガーをからかう気持ちも手伝って、僚友に説明した。
「俺とロイエンタールでこの2つの石のうち、どちらを誰が持つか決めていたんだ」
「どっちをどっちが持つか? 同じものだろう、どっちでもいいのではないか?」
「この石には実は見た目以上の価値があってな、どちらもそれぞれ別の価値を持っているんだ」
メックリンガーは闖入者にいらつきながらも、ミッターマイヤーの説明は簡潔にして要を得ていると感心した。
―さすがはミッターマイヤーだ。どちらを捨てるべきか、悩むのはまさにそのためなのだからな。
ビッテンフェルトもまた、それ以上何の詳しい説明は必要ないようだった。
「ふーん、それで卿らは決めかねているのか」
「ほら、どうせなら価値がある方をロイエンタールに持ってほしいし、かと言って自分も持つなら好きな方を持ちたいし…と、いざ選ぶとなると意外に難しいんだ」
「なら、俺が解決策を教えてやる。二人とも、相手に持ってほしい方を選ぶんだ」
今夜は僚友の意外な面を見つけることが出来る夜らしい。ミッターマイヤーは感心した。
「卿は結構いいこと言うなぁ。でも、俺もロイエンタールも同じものを選ぶかもしれんぞ」
「俺には同じに見えるが、この石はそれぞれ別の意味があって、それはおまえらには分かっているんだな」
ミッターマイヤーとロイエンタールは頷いた。
「では、俺はおまえらが別々の石を選ぶ方に賭ける」
メックリンガーが割って入った。
「これは賭けではないぞ。だが、卿の案はもっともだ。もし同じものを選んでしまったら、あらためて考えよう」
ミッターマイヤーが親友を見ると、ロイエンタールは肩をすくめて眉をあげた。バカバカしいが、他に案もないから言う通りにしてみるという顔だ。
―どちらがいいか自分たちではなかなか決められないし。だが、ロイエンタールに持ってほしい方ならすぐ決められる。
「じゃあ、そうするか」
「よしっ、じゃあな、卿らはこのテーブルをはさんで両側に立つんだ」
なぜかビッテンフェルトが嬉々として二人に指示を出す。
「で、真ん中にこの石を置く…、と。よくわからんが、どっちがどっちか、おまえら本当に分かってるのか」
2つの石はさすがに組成が違うせいか、表面の質感が違う。そのため二人は石を見分けられるようになっていたが、念のため手にとって重さを確認した。ミッターマイヤーから見て右が天然の石、左がレプリカだ。
目隠しをさせたいと騒ぐビッテンフェルトに大げさだとメックリンガーが反論して、二人は目を瞑ることに落ち着いた。そしてビッテンフェルトの合図で、同時に相手に持ってほしい方を指さす。
ビッテンフェルトの声が大きいせいで、周りにいた海鷲の客たちが集まって来た。事情を聞いて誰もが大げさだと思いながらも、面白そうにしている。メックリンガーが見ていると二人が同じものを指すか、違うものを指すか賭けが始まった。
―息の合った親友同士だから、同じものを選ぶか。あるいは、嗜好も性格も違う二人は別々のものを選ぶか
「よし、いくぞ、3の合図で指させよ。いち、にの、さん!!」
目を瞑った二人が勢い良く、同時に指を突き出した。
わっ!! と笑い声と共に感心した声が上がった。
「見事に違った!!」
ミッターマイヤーがゆっくり目を開けると、ロイエンタールは左を指さしていた。自分は右を指さしている。
ロイエンタールが左の石、つまりレプリカの方をミッターマイヤーに渡す。
「これには現実的な価値があるからな。これが何だかフラウに説明しやすいだろうし、緊急時に役に立つかと思ってな」
ロイエンタールはエヴァについて何か勘違いしている、と思いつつも、親友がそう判断した理由は彼の女性一般に対する態度から何となく分かった。ミッターマイヤーも右の天然の石の方をロイエンタールに渡す。
「おまえがこちらの石について話した時、より思い入れがあるような気がした。それに、おまえは名声などには興味がないからな」
ロイエンタールはにやりと片頬だけあげて笑うと、受け取った石をそのまま軍服のポケットに突っ込もうとした。
「入らないか」
しきりに感心して拍手をしていたメックリンガーがその様子を見てハンカチを渡す。
「これに包んで持って帰るといい。そのままでは汚れるし、ポケットが破れるぞ」
「まあ、しょせん石だからな」
だが、たんなる石を手に入れたにしてはうれしそうだ。これは何の変哲もないただの石だが、ロイエンタールにとって今、別の価値を与えられたのだとメックリンガーは思った。
―親友が選んだお気に入りの石…か
不思議と子供の頃の友人たちに対する郷愁を感じたメックリンガーだったが、その思いを振り払うように二人に忠告する。
「卿ら、この作品のルールを忘れないでくれ。二人で毎年、年に一度はどちらを捨てるか相談すること」
ミッターマイヤーの石はブロンズのため重いので、箱をもらうことになった。箱にしまいながら笑って言う。
「卿にその年の相談の結果を報告しようか」
「そうだな、教えてもらえるとうれしいね」
ハンカチに包んだ石を膝に置いたロイエンタールがメックリンガーに、今日はずいぶん世話になったから何か礼がしたいと言った。
「いやいや、私も十分楽しませてもらったし、卿らとこうやって飲めてそれで十分だ」
それまで3人が石について話していた時には我関せずだったビッテンフェルトが、何を思ったか急に口をはさんだ。
「おい、ロイエンタール。芸術家提督に礼と言ったらあれだろう、おまえ、絵のモデルになってやれ」
ロイエンタールが何か言うより早く、メックリンガーがかみついた。
「当たり前のように言うな。私はそんな取引のようなことはしない。モデルになってほしいなら駆け引きなしにそう頼む」
「モデルと言ってもただ座っていればいいのだろう。おれは別にかまわんが」
えっ、と言って同時に3人がロイエンタールに振り向く。ミッターマイヤーが目を剥いて、笑うべきか呆れるべきか悩んだような中途半端な表情で言う。
「おまえ、本気か?」
「まあ、酒でも飲む方が簡単だがな。礼をするからには相手が望むやり方で礼をするべきだろう。それにメックリンガーが本当に絵を描くのかおれは知りたいんだ」
「おまえ、好奇心は猫をも殺すって言葉、知ってるか?」
しゃべっている親友二人をぼんやりと見つつ、メックリンガーは言う。
「私は本当に絵を描くよ。それにモデルはそのためのプロがいる。やりたくない相手に無理に頼むようなことはしない」
ロイエンタールは肩をすくめた。
「別に描いてほしいわけじゃない。酒の方がいいならおれはそれでかまわん」
「…卿が本気でモデルになってくれるのなら、私は大歓迎だ。ぜひお願いしたい」
そこまで言って慌ててメックリンガーは付け加えた。
「いつでも卿の都合のいいときにモデルになってくれるので構わん。素人に無理はさせられんからな」
ロイエンタールは「よかろう」と言って頷いた。密かに片頬だけでにやりと笑ったのには、親友は気付かなかった。
「うれしいよ」
メックリンガーは表面上はぼんやりとした表情をして、思いがけない展開に呆然となっているかのように見えた。だが実はロイエンタールを見ながら頭の中で目まぐるしくデッサンを取っていた。すでに彼の頭の中は様々な絵のアイデアで一杯になっていたのだ。
ビッテンフェルトがうれしそうにロイエンタールの肩を叩いた。
「おまえ、ヌードだ、ヌード! ぜひヌードを描いてもらえよ!!」
「ビッテンフェルト…。卿にはデリカシーというものはないのか」
僚友たちの冷たい視線にめげずにビッテンフェルトはヌード! と叫び続けた。
提督たちの笑い声が響いて、海鷲の夜はふける―。
注意:「関わりあうものたち」で言及している美術品について