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二人の新任艦長 第2部

18、

部屋を出るとさらに広いリビングルームになっており、大きな窓からさわやかな風がカーテンを揺らして通っていた。高い天井のその部屋の片隅にキッチンとテーブルがあり、そこに芳醇な香りを漂わせたコーヒーポットが置いてあった。すぐ隣に紙袋がある。

大佐は窓際のソファに胡坐をかいて座って、端末を覗き込みながら食事をしていた。

「そこの棚にカップがある。袋の中身は君のものだから、食べていいよ」

どこからともなく音楽が流れていた。ロイエンタールが見ていると、大佐は鼻歌を歌いながら、両手でなければ持てないような大きなカップをソファの前のテーブルに置き、そこにクロワッサンを浸して食べていた。しかも、ちぎらずに丸ごと…!

大きなカップには茶色い飲み物が入っており、コーヒーというよりはミルクの成分が多そうに見えた。そこには何か白い丸い物も浮いていた。

大佐はロイエンタールの視線に気づくとにやりとして言った。

「これ、俺の休日の朝の楽しみ。マシュマロ入りカフェ・ラテとクロワッサン。このクロワッサンがすごくうまくて、休みの朝は必ずランニングがてらパン屋に寄って買って帰るんだ。早く食べろ、焼きたてなんだから」

ロイエンタールは観念した。ともかく旨そうなコーヒーに心を慰めて、それをカップになみなみと注いだ。

袋からクロワッサンを取り出すと、パリパリと外側の皮がこぼれおちた。彼の手のひら大のそれは、確かに旨そうな香りを漂わせていた。ぽろぽろと崩れ落ちるパンくずには心を鬼にして気付かないふりをし、一口大にちぎった。そして口に運ぶ。

しっかりとした生地からうまみが染み出して、口の中に広がった。コーヒーを飲もうとしたが、手には油じみたパン屑がついている。ナフキンの気配はどこにもなかった。

彼は大佐がこちらを見ていないのを確かめて、指をなめた。

彼らはそうして、朝食の時間を過ごした。ロイエンタールはコーヒーを飲み、クロワッサンをちぎる以外は、ぼんやりとして過ごした。

大佐は時々鼻歌を歌い、端末にかがみこんではそれを読み、胡坐をかいた姿でちぎりもしないパンをカフェ・ラテに浸して食べた。まったく行儀の悪いことだが、大佐自身は非常に満足げだったので、やはり彼が文句を言う筋ではないと思い、黙っていた。

広いリビングには大佐が座る大きなソファとローテーブルがあり、その前にソリビジョンテレビの巨大なモニタがあった。その脇にある縦長の箱が先ほどからなにやら音楽を奏でているオーディオセットだろう。

奥にもう一つ部屋があるのが見え、そこが大佐の私室に違いなかった。ベッドと端末が乗ったデスクが見える。その部屋も広々として明るく、居心地がよさそうだった。

彼が部屋を眺めているのに部屋の主人は気付いたようだった。大佐はクロワッサンを食べ終わると満足げに丸くなって、カフェ・ラテが入ったボウルを両手に抱え込んだ。

「この部屋、いい部屋だろう。広くて明るい、最上階だから静かだし、ちょっと寂しくなったら下へ降りればすぐ繁華街だ。どうやってこの部屋を手に入れたか知りたいか?」

別にどうでもいいと思い黙っていたが、大佐は相手に構わず話し続けた。

「ファーレンハイト少佐はある日、公園で困っている女性を助けました。助けてあげた後も、彼女は一人ぼっちで寂しそうにしているので、その日非番だった少佐は一日彼女につきあってあげました。その彼女は…」

大佐はロイエンタールの方をたしなめるように見て、指を振った。

「世間の人が憶測するように若い燕を囲う、有閑マダムなどではなく、身寄りのすべてを亡くした孤独な老女だったのです。彼女は不治の病におびえていました。少佐は彼女を可哀そうに思って、死の床まで付き添ってあげました」

大佐はそこまで言って、黙り込んだ。ロイエンタールはその表情がさっと陰ったのを見て、大佐が人に見せる飄々とした様子はただのカモフラージュにすぎないと分かった。とにかく、誰にでも秘密はあるものだ。

大佐は普通の調子に戻って話し続けた。

「俺は任官以来、ずっと靴箱みたいな官舎の部屋でその日の食事も切り詰めて暮らしていた。オーディンの家族に1マルクでも多く仕送りをしなくてはならない。それまで一度も飲みに出たことさえなかった。毎日余裕も楽しみもなくて、ほとほと嫌になっていた。彼女が金持ちだって知っていたんだ。優しくしたら夕食でも恵んでくれるかもしれないってね。落ちたもんだ」

大佐はコーヒーのボウルを置くと、ソファの肘掛けに寄り掛かって寝そべった。頭の後ろに手を組んで、天井を見上げた。

二人とも自分たちが軍人で上官と部下の立場であることを口に出さなかった。なぜか、今その立場を思い出すことは憚られた。お互い、非常に個人的な部分に踏み込んでしまったからかもしれない。大佐はまるで同輩の友達にするかのようにロイエンタールに話しかけた。

「ところが彼女はまったく突然、死んでしまった。俺は自分のあさましい振る舞いが恥ずかしくなった。彼女は病気で苦しんでいたのに、自分は彼女に寄り掛かって楽をしようとした。どうせなら彼女を楽しませて、彼女の最後の時間を安逸にしてあげるべきだった。でも、もう死んでしまった」

彼は寝そべったまま、しばらく黙っていたが、組んでいた手をほどいて、片手を振った。

「彼女はこの部屋とちょっとした資産を俺に残してくれた。贖罪のような気がして俺はそれ以来、この部屋に住んでいる。だが、この部屋にいると彼女がそんな俺に分け与えてくれた優しさを感じるようになった。だから、自分をいじめるのはやめて、ときどき少しだけ贅沢をすることを自分に許した」

再び頭の後ろに手を組んだので、大佐の表情は見えなかった。静かに音楽が流れ、窓からレースカーテンを揺らす風が入ってくる。大佐はその静けさを破らぬようにそっと言う。

「君も自分をいじめるのはやめて、少し楽をするといいよ。だれにも明日何が起こるかわからない。だから、今苦しくても明日には何でもなくなるかもしれない。だとしたら、今日を少しでも楽しく暮らした方がいいだろう。自分で自分を苦しめたって無駄なことだ」

「…あんたがつらい思いをしたのは分かる。だが、誰もがあんたと同じようにする必要はないだろう。楽をするのが嫌いな者もいるんだ」

ロイエンタールは駄々っ子じみていると思いつつも、そう反論した。

「君は楽をするのが嫌いではない、そうすることが怖いんだ。楽をして自分をさらけ出すより、箍をはめてはめまくって、隙をなくして感情が表に漏れ出ないようにする。そうすれば心が傷つくこともない」

ロイエンタールは反論しようとしたが、大佐は急に立ち上がって、キッチンに近付いた。何をするかと睨みつけていたが、大佐は新しいカップにコーヒーを注ぐと、冷蔵庫からミルクを出して少し入れた。そして、カップを持ってリビングの向こうの部屋に立ち去りながら言った。

「俺は少し仕事をしなくてはならないんでね。後は勝手にやってくれ。好きなだけいてくれていいよ」

ちょっとカップをサイドボートに置くと、何かを取ってロイエンタールに投げた。ロイエンタールが受け取ると、それはカードだった。

「この部屋のカードキイだ。それがないと、ゲストは部屋から出られない。部屋を出るとき承認を受ける必要があるんだ。そのまま持って出てくれればいい」

「後で返す」

「好きにしたらいいさ」

そして大佐は言いたいだけ言って行ってしまった。ロイエンタールは怒る気にもなれず、そのまま座ってコーヒーを飲んだ。旨いコーヒーだった。

 

ファーレンハイトは自分のデスクの端末を立ち上げるとあくびをした。仕事をしなくてはならないのは本当だった。熱を出した美青年が転がり込んだせいで、昨夜するはずだった仕事がなにも片付いていない。

しかも看病をしていたせいで2~3時間しか寝ていない。別に感謝してほしいわけではないから黙っていたが、あのまま彼のそばに一緒にいては、さらに言う必要のないことまで言ってしまいそうだった。

―箍をはめ過ぎ、か。人にはよく言うよ、それは俺自身のことだって言ってやったら、彼も気楽に思えたかもしれないな。あんな昔話をする気はなかったのに。でも、彼も昨夜俺にいろいろ打ち明けてしまったのだから、お互い様だ。

ファーレンハイトは同期の友人が当地を離れる前に告白したことを思い出した。かの瞳の色の違う青年に恋をして、ベッドに連れ込むまでは上手くいったが、相手は自分のことなど毛ほども気にかけていなかったと。

「彼は酔っぱらっていつもと違っていた。私でも彼に近付いていいのだと思わせた。だが、すべて錯覚だったのだ。彼はとにかく私を利用しただけだった」

失恋した男ほど見苦しいものはないと思いつつも、少し気の毒になってファーレンハイトは言ったものだ。

「それでも、卿の相手をしてやってもいいくらいには好意を持っていたんだろう。それで良しとするしかないのではないか」

ベーリンガーは鼻で笑った。

「まったく、彼が私などを相手にしてくれるだけで恩の字というわけだ。最中には彼にも情熱的なところがあると思った。だが、その情熱は私に向けられたものではなく、私は彼が恵んでくれたおこぼれに預かったにすぎん。彼は誰にも心を開け渡したりしない、何もかも計算ずくなんだ」

哀れなベーリンガー、彼はあの若者の熱気に当てられて、それを冷酷さと見誤った。といって、ファーレンハイトにもあの若者の本質が分かったわけではなかった。彼が見た目以上に傷つき、それを癒す術を知らないことだけが分かっていた。

―それでいいのかもな。誰も他人のことを全部知ることはできない。知ってしまったら怖くて人間の相手など出来ないだろう。彼が見せてくれた面だけで判断するしかないんだ。

デスクに乗っている鏡面仕上げになった時計をちょっとずらすと、文字盤にその若者が映った。まだコーヒーカップを手に持って、ぼんやりとしていた。それはいい兆候に思われた。彼はぼんやりとして朝を過ごすタイプに思えなかったからだ。

ファーレンハイトは先ほど朝食を食べていた時の若者の様子を思い浮かべてくすっと笑った。彼はまるで野良猫が人を警戒するようにこちらを伺いながら、パンくずを散らかさないよう苦心しつつ、上品にクロワッサンをほおばっていた。どんな猫か想像がつく。血統書つきの高級猫で、たまたま彼の部屋に迷いこんで来たのだ。

やがて若者は立ち上がり、部屋を出て行った。ガタガタとクローゼットを開けているらしい音が響き、しばらくして軍服姿の大尉が現れた。彼はこちらの様子をうかがってためらっているようだったが、黙って部屋を出て行った。

表の扉が閉まる音がして、ファーレンハイトは少しがっかりするのと同時にほっとした。

―同じ職場にいるからな、俺は彼の上官でもある。また、二人で話すこともあるだろう

彼は物想いを振り払って端末に向かった。

 

 

 

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