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二人の新任艦長 第2部

17、

通信士官が部屋の扉を開けると、室内にいた大尉がちょうど出てくるところだった。彼はにっこり笑って、「いささか取り乱して、壊れたものがあるようだ。直してくれるとありがたい」と言って、さっさと行ってしまった。

通信士官は通信室では様々なドラマが起りうることを知っているから、何も言わなかった。中将に伝えていたら、閣下は大尉の所へ飛んで行ったに違いないが、室内に入って椅子が壊れ、操作盤のボタンが外れているのを見ても、黙っていた。

そのため、その夜、オスカー・フォン・ロイエンタールがその後どのように過ごしたか知るのは、限られた者だけとなった。

 

ロイエンタールは待合室に副長を残していることも忘れ、自分の官舎へ戻った。彼は司令官室へ来た道とは別の経路を通って、司令部の外へ出たから、副長はずいぶん後になるまで艦長がすでに司令官室を退出したことを知らずにいた。

一人になるな、と中将が忠告したことがロイエンタールの頭には残っていた。官舎の自室の隣のミッターマイヤーの部屋のブザーを押す。繰り返し何度も押すが、親友は顔を見せなかった。

―ああ、そうだ、馬鹿だな。ミッターマイヤーはまだ自分の艦に行っているんだ。今、何時だろう。おれも戻った方がいいだろうな。

だが、その時ブザーを押す指が震えているのに気がついた。左手で震える右手を押さえる。だが、震えは身体の奥から起こっていて、手を押さえるだけでは止まらなかった。こんな状態ではミッターマイヤーに会いたくない、という感情がどこからともなく沸き起こる。

いつも元気で明るさを失わない、ミッターマイヤー。両親とも健在で、つつましい暮らしをしている。彼はまともな両親を持っているからと言って誰かを羨んだりしたことはなかった。持ったことがないものはその価値について知らないのだから、羨みようがない。

だが、ミッターマイヤーに対しては、自分は完璧で頼り甲斐のある相手でいたかった。弱り切ったむき出しの激情を抱えた情けない姿を見せて、親友をがっかりさせたくなかった。

― 一人になってはいかん

その言葉だけが彼を官舎の外へ誘い出した。まだ自分の艦で仕事が残っていることなど、思い出しもしなかった。少尉に着任以来、一度もしたことがないことをした。彼はまったく無意識のうちにサボタージュを決行した。

 

いつのまにか、街の中は薄暗闇に包まれて、店のネオンがぼんやりとまたたいていた。食事をすることも忘れて、アルコールを流し込んだ。

いつも酔っぱらっていたあの男への追悼だ。自分もそのうち酒のせいでだめになるかもしれない。

彼は叔母や中将には否定してきたが、自分とあの男に似たところがあるということに気づいていた。自分があいつに似たのかもしれない。嫌なやつだと思うほど、やつの振る舞いが目につき、そのようすが頭にこびりついて離れなくなる。

幸か不幸か、彼には父親の行動の一つ一つが記憶として鮮明に残っていた。それを当の男に見せることが出来たらよかった。まともな人間なら正視出来たものではない。だが、彼自身はそれを壊れた再生機のようにずっと見せられてきたのだった。

また新しいグラスからアルコールを流し込む。もう、酒の味が旨いか不味いかも分からなくなった。だが、頭だけは鮮明に父親の記憶がさまざまに映し出されていた。彼はそれに逆らわず、まるで痛めた傷を我慢できずにいじるように、その記憶に浸った。

―おまえなど生まれなければよかった

心に蓋をして絶対に思い出すまいと拒否していた言葉がよみがえった。彼はきっともう二度と、この言葉を心の奥底にしまったままにして忘れたふりをすることはできなくなるだろう。なぜなら、これから彼が立って歩くためには、この言葉を糧にしてあの男に対する復讐心を燃やしていかなくてはならないからだ。

―そうではなくてはおれは生き続けることもできない

他に食べるものがないのなら、腐りきった肉でも食べなくては生きて行くことはできない。自分には他に何もないのだ。

 

彼はバーのカウンターに突っ伏して、アルコールにまみれた軍服の袖に額を置いていた。

「大尉さん、大尉さん、起きれますか。―弱ったな、寝てしまったようだ」

「なんだ、どうしたんだ彼は。こんなになるまで飲ませるなんて、君らしくないな」

「さっきまで平気な顔をして飲んでいたんですよ。どうもおかしいと思ったら、この通りで。きっと、うちに来る前にもよそでかなり飲んでたんですね」

「少し寝させてやれ、そのうち目が覚めるだろう」

「でも、今日は早じまいの予定なんで…」

「仕方ない、外で地上車でも拾おう。官舎へ連れて行ってやるか」

「お願いします、すみません、大佐」

「今度一杯奢ってくれればいいよ」

 

彼はふわふわと漂う中で、暖かい空気に包まれて眠っていた。身体中が暑く熱を持っていて、手足は重く、関節が痛んだ。彼は痛みを散らそうと寝返りをうった。

だが、この暖かい空気のおかげで多少は気持ちが安らいだ。

何がつらかったのか、ああ、そうだ、あいつは死んでしまったのに、自分は生きている。なぜ生きているのだろう、自分にそんな資格などないのに。

―そんなことを言うなよ、生きる資格がないやつなんているわけがない

誰かが彼に答えて言った。だが、あいつが生きていてこそ、自分も生きることが出来たのだと、さっき分かったのだった。

―そうだとしても、結局一人で生きることを学ばなければ。でも、それはそんなに難しいことじゃないんだ

また誰かが言った。彼は生きることが楽だった時があったかどうか分からない。誰にも彼がつらい思いをしていることなんて分からない。

―それは君が言わないからだろう。つらい時は誰かにそう言ってもいいんだ

言えるわけがない、ミッターマイヤーはきっと心配するだろう、それにあいつに頼りない奴だと思われたくないんだ。

―きっと、そいつの方では何がつらいのか君に教えてほしいと思っているよ。君らはあんなに仲がよさそうじゃないか。あいつが君の悩みを馬鹿にするとは思えないな

あいつは誰も馬鹿にしたりしない、本当にいいやつなんだ

―ならば、言ってみろよ

そう言ってその誰かは彼の額に接吻すると、彼を腕の中にしっかり囲い込んだ。その腕の中は暖かく、さっきから彼を包んでいたのはこの腕だったと気づいた。その腕が彼の関節を撫でると少し痛みがやわらいだ。

いたいんだ、どこもかしこも、いたくてたまらない

そうやってなでているとすこしはらくになる

なぜこんなにいたいんだろう

なにもかもつらくてたまらない

な に も  か   も

―だいじょうぶだ、もうねるんだ

おやすみなさい

 

白いレースのカーテンから光がさしていた。ふかふかとした羽毛布団と肌触りのよいシーツの間から目だけ出すと、ロイエンタールは周囲を伺った。ベッドサイドに小さなテーブルがあり、その上に水のボトルが置いてある。未開封なのを確かめてそれを飲んだ。

良く冷えて上手い水だった。非常に喉が渇いていたことに気付き、ボトルを半分くらい、一気に空けた。

彼は上半身は裸で、下着を一枚着けただけの姿だった。彼は自分の身体を眺めた。知らない部屋で裸で起きたとなれば、自分を疑いたくもなるというものだ。だが、二日酔いの兆候もなく、どこかにあやしい痛みもなく、ただ、すっきりしていた。

近くで扉を開け閉めする音がし、足音が近づいてきた。

部屋の扉が開いて、一人の男が顔をのぞかせた。ロイエンタールはその男を睨みつけた。

相手はその視線に気づかぬ風で言う。

「ああ、起きたか、ちょっと待っていろよ」

そしてどこかへ行くと再び戻ってきた。男はTシャツにジャージのズボンという姿で、ランニングにでも行っていたのかもしれなかった。

ロイエンタールはベッドの上で膝を抱えて相手を睨みつけた。夢を見ていたかと思ったが、この声に聞き覚えがあった。この男はずっと一晩中、彼に話しかけていたに違いなかった。

男はベッドに近付くと、いきなり彼の後頭部をつかみ、引き寄せた。

「イテッ」

ロイエンタールの耳に何かを当てると、それはすぐにピピッと音を立てた。

「これが昨日の夜は見つからなくてな。さっきコンシェルジュで借りてきた」

彼は検温器を見てぶつぶつ言った。

「平熱かな、昨日は急に熱が出たみたいでびっくりした。まったく泡を食った」

そしてにやりとしてロイエンタールに検温器の表示を見せた。

― 98°F(98グラート 華氏ファーレンハイト

ロイエンタールは自分の連隊長をさらに睨みつけた。まったく、なぜこの男が自分と一緒にいるのか、さっぱりわからなかった。

しかも、この良く知らない男に自分は思っていることをすべてぶちまけてしまったに違いなかった。熱があったうえに酔っぱらっていたようだが、なぜか、この男とずっと会話をしていたことを覚えていた。

アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト大佐は相手の様子をたいして気にする風でもなく、検温器をしまうと、部屋を去り際に言った。

「そっちにシャワー、トイレ。君の服はクローゼットにかけてあるが、今日は休みだし、そこに出した俺の服を着るといいよ。朝は気持ちよく過ごしたいからぜひそれを着てくれ。30分後に外の部屋に来れば、朝食が出来てる」

大佐が部屋を出ていくと、彼は裸足で部屋を探検した。そこここの扉を開けて、大佐の言う通り、広々としたバスルームやクローゼットを見つけた。

クローゼットには軍服の上下とシャツがかかっていて、さぞ酒臭いかと思いきや、洗いたての清潔さで首をひねった。服にはクリーニングの袋がかかっていた。昨夜、大佐がわざわざクリーニングに出してくれたのだろうか? 夜中にやっているクリーニング屋などあるのだろうか?

大佐が用意してくれた服は真新しいもので、もしかして一度も袖を通したことがないものかもしれなかった。

バスルームで熱いシャワーを浴びて、こわばった手足を解放した。熱のせいでかいた汗が身体から流れ落ち、ほっとした。

彼の父親は莫大な資産を所有し、彼自身もかなりの個人財産を持っていたが、士官学校に入り、任官して以来、贅沢な暮しなどはしたことがなかった。ミッターマイヤーなどのように生活費を切り詰めてこそいなかったが、たまに休暇で高級ホテルに気軽に泊まるくらいで、普段は他の士官と同様の暮らしをしていた。その時付き合っている女の方がいい部屋に住んでいることが多いくらいであった。

―大佐ともなると結構いい部屋に住むものだな。あるいはあの男は贅沢好きなのかな

大佐が貴族とはいえ貧窮した家庭の出だという噂をどこかで聞いたことがあった。その反動で大佐の俸給を贅沢につぎ込んでいるのかもしれない。

ロイエンタールとしては現在その恩恵にあずかっているので文句はなかった。

彼の上官が用意した服は先ほど大佐が着ていたようなTシャツとジャージだった。彼はこういう服を普段着にしたことがないので、これから運動するような格好で朝食を食べることに戸惑ったが、部屋の主人の要求には答えなくてはなるまい。

 

 

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