
希望と栄光の国 ~3
弓が忙しく上下し、高らかな音をたてる。バイオリンが最後のフレーズを力強く奏でると、メックリンガーは弓をさっと上げた。ミッターマイヤーはにこにこして拍手をした。隣の部屋からも熱心な拍手が聞こえる。
それに対してメックリンガーは少しおどけてお辞儀をした。
「え~、貴方がたが卒業後も母校のことをお忘れでないことを知って、大変心温まる思いではありますが…。いったいこの歌が何の関係があるか、教えていただけないでしょうか」
アスマン校長が控えめながら、いらだちが見える声で言った。
ミッターマイヤーは拍手していた手を止めた。「そうだよ、いったいなんだったんだ」
ロイエンタールは文字の羅列が記された紙を示して言う。
「この文字は音名だ」
「えっ、これのどこが…」
「ミッターマイヤー、音名を順に言えるか」
ミッターマイヤーは眉をひそめながら答える。
「それぐらい知っている。え~と、
C(ド)、D(レ)、E(ミ)、F(ファ)、G(ソ)、A(ラ)、H(シ)、C(ド)~」
ミッターマイヤーは音階に音名を乗せて歌った。少し音が外れているがいい声だ。
ロイエンタールは紙を指さしながら説明した。
「音楽教師が持っていたのだからな、D(レ)、G(ソ)、A(ラ)というのは音名のことかなと思った。シャープ記号だけでなく、フラットやナチュラルの記号があったらすぐ分かっただろうが、そこまで親切ではないようだ」
「ではこの数字は?」
「これが良く分からなかったのだが…。A1というのがA(ラ)の音そのものを指すかと思ったが、そうすると0の意味が良く分からない。それで、たとえば2列目の真ん中の0だが…」
G23#4D140A2#21G4A1
「うん」
「0の前に音名はDしかなく、すぐ140と続き、次にAに変わる。この140はDの仲間と捉えた。つまり全部D1、D4、D0だ。D0はD(レ)の音そのもの、D1はDに1音加わってE(ミ)、D4はDに4音加わってA(ラ)だ」
ロイエンタールは胸元からペンを取り出した。「分かりやすいように書こう」と言って、目の前の用紙の余白に、文字の羅列をアルファベットを書き足して書いた。
G2 G3# G4 D1 D4 D0 A2# A2 A1 G4 A1
そしてその下に、あてはまる音名を書きだしていった。「Gの音に2音加わると、H…、」
H C# D E A D C# C H A H
そして、ロイエンタールは相変わらず固い調子で、この音名を同じ長さで音階にして歌った。どこかで聞いた音階だ。
「これに音符を足すと、我らが士官学校校歌のメロディーになる」
ミッターマイヤーは唸って、腕組みをして首を振った。
「まったく、なんでおまえがそのことに気付いたか、そっちの方が不思議だ。しかし、なんだって、最初から普通の音名を使わないんだ? Dに4つ加わってAになるとか、訳が分からん。最初からAと書いてくれればいいのに」
「すぐに分かってほしくない事情があったのだろう」
「それについては私が少し補足できるかな」
メックリンガーがバイオリンを構えたまま、ゆるゆると何かを奏でながら言う。
「バイオリンの弦は卿の側から見て、順にE(エー)線、A(アー)線、D(デー)線、G(ゲー)線という。それぞれ指を押さえずに引いた音がその音になるのだ」
メックリンガーはD線に人差し指から順に、ポン、ポン、と音を立てて、中指、薬指、小指とゆっくり弦に指を置いた。
ミッターマイヤーは「ああ!」と言って頷いた。
「人差し指から小指まで4本だな」
メックリンガーは相手に見やすいように指を大きく動かしながら説明する。
「そう、人差し指を1の指、中指を2の指…、と言うんだが、それぞれの指を置いて行くと、音階になる。ゼロは開放弦、つまり指を押さないで出る音を指す。この場合、D(レ)のことだね。そして、1の指から順に…
E(ミ)、F(ファ)、G(ソ)、A(ラ)
となるというわけだ。このD線の上でAを弾く時の指は4の指だ。D線の上でA(ラ)と弾くと、A線で開放弦で弾くより柔らかい音色になる。どちらで弾くかは弾きやすさとか、演奏者の好みもあるがね。
しかし、これはバイオリンを知る者はすぐ分からなくてはならなかったな。卿は音楽を嗜むのだね」
と、最後はロイエンタールに聞いた。
「幼年学校に入るまではピアノを習っていたからな。学校では芸術科目は常に音楽を選択した。しかし、おれは単に理論を覚えていただけで、嗜むなどと言うほどのことはない」
メックリンガーはうれしそうに「卿もピアノを弾くのか」と言った。
ロイエンタールは手を振って苦笑すると、もう一度紙を取り上げた。
「しかし、卿に聞きたいのだが、この歌にはこんなにシャープが付いていただろうか」
D32342G4#32341
G23#4D140A2#21G4A1
D12#34G4D30G3210
「いやいや、そんなはずはない。この指示通りに弾いたら調子っぱずれになってしまう。2行目のG3、つまりC(ド)のシャープだけが本物だな」
メックリンガーがバイオリンで弾いて見せながら言う。ずいぶん楽しそうだ。
ミッターマイヤーが指を振って言った。
「これがなんだか簡単に知られたくなかったんだろう? 実は、シャープが付いているところが何かの暗号になっているとかな」
ロイエンタールがミッターマイヤーに振り向いて軽い口調で言った。
「何の暗号だ? ミッターマイヤー」
「ほら、この音楽教師は何だか横領したんだろう。っと、すまんな、メックリンガー」
メックリンガーはバイオリンを弾きながら、上の空で「いやいや」と言う。
「まあ、横領したように目されている。で、その証拠の品とか、横領したブツをだな、どこかに隠して、それを取り出すためにはこのパスワードが必要なんだ」
「パスワード?」
「そう、シャープが付いてる箇所のG4、3、A2、2。なんだか簡単そうに見えるが、意味のない文字列だから知らなきゃ分からないだろう」
「ミッターマイヤー提督は想像力が豊かだな」
「結構ありうると思うけどなあ」
バイオリンが華やかなメロディーを奏でる中で双璧がにぎやかにしゃべっていると、控えめなノックの音がした。
メックリンガーの副官が顔をのぞかせた。
「あのう…、恐れ入りますが、ただいま総参謀長閣下から内線で、『統帥本部次長はとうとう元帥閣下に辞表を提出して、音楽家としてのキャリアを再出発させるおつもりか』と…」
ミッターマイヤーが舌打ちして立ちあがった。
「皮肉のつもりか、オーベルシュタインめ!」
副官がますます俯き加減になり、言葉を続ける。
「それから、ミッターマイヤー閣下と、ロイエンタール閣下あてにお二方の副官や幕僚長の方々から、閣下がたがこちらにおいでではないかと言う、問い合わせが…」
ミッターマイヤーは疾風の早さで部屋を飛び出した。
「いかん、軍議の予定だった! 卿ら、俺はこれで失礼する!」
ロイエンタールは悠々とソファから腰を上げて、アスマン校長に握手の手を差し出した。
「同僚の非礼はご容赦を。先生はもうお帰りになりますか。我々のささやかな発見がお役にたつといいのですが」
校長は額の汗をぬぐうとロイエンタールの握手に答えた。
「いや、どうでしょうな。レクラム君は殺されたせいで行方不明だったことは明らかですから、なにか殺人者に関係あることかもしれませんね。しかしこのことは憲兵に連絡して、彼らに任せた方がよさそうですな」
「ごもっともです。我々などの手に負えるものではありませんよ。私から憲兵総監のケスラー提督に申し伝えておきましょうか」
校長はびっくりしたように両手を振った。
「いやいや、とんでもない。総監閣下のお手を煩わせるようなことは…。どうぞお気づかいなく」
「そうですか、まあ、先生にお任せします。それでは私もこれで失礼します」
上機嫌でバイオリンをケースにしまっているメックリンガーに挨拶をすると、ロイエンタールは悠揚迫らぬ態度で部屋を辞去した。