Season of Mackerel Sky
理性の眠り ~3~
ミュラーにはどのようにしてあの男を呼びつけるか、見当がつかなかった。だが退勤後、ネオンサインがまたたく繁華街をバーに向かって行くと、背後に彼と歩調を合わせて歩く者の気配を感じた。バーがある路地の入口で立ち止まって振り返ると、男がやって来た。
「行くぞ」
まるで男が先導するかのようにミュラーに声をかけた。ミュラーは肩をすくめて男が主導権を握るに任せた。ペルニーが引き続きこの地を支配すると言う、昼間聞いた話に彼の心は乱れていた。結局リッテンハイム侯爵の力は強く、こんなことは悪あがきにすぎず、どうにもならないのではないかと言う気がした。
バーに入ると、男はさっさと奥に行こうとしたが、従業員に「当店は会員制となっております」と咎められた。従業員はくるりと振り向いた男に切れ長の目で鼻先から見下ろされて、店の暗い照明の下でも明らかに動揺した。
「君、いいんだ。彼はペルニー少将閣下もご存じだ」
ミュラーの言葉に従業員はほっとしたように、「失礼しました。閣下はいつものお席にいらっしゃいます」と告げた。
店内に入って早々に、なぜ従業員があれほど動揺したかの意味が分かった。男が歩くとすれ違ったものは皆振り返ってその姿を追った。あの男の視線にあれほど惹きつけられた自分はどこかおかしいのでは感じていたが、自分だけが特別ではないと分かった。
男はいくつものグラスをトレイに乗せて運ぶ従業員とすれ違った。その従業員は日焼けした裸の分厚い胸にカラーと蝶ネクタイだけを着けて、ぴったりして股間を誇示するようなショートパンツをはいていた。
「…なるほど、そういう店か」
男は面白そうにソファに座った客の男たちが、若い半裸の男を膝に乗せて、その引き締まった尻を撫でながら酒を飲む様子を見ていた。
「…そういう店だ」
男は頷いてミュラーに振り返った。
「おれはカウンターで少し飲む。卿はペルニーの席に行ってやつのご機嫌でも取っていろ」
「…どうするつもりだ」
「様子を見てペルニーに挨拶に行く」
男は行ってしまった。カウンターに腰掛けるその姿をいくつもの視線がじっと見つめていた。
ペルニーがいつも座るお気に入りのボックス席に行くと、シュミッツ准将もいた。ペルニーはすでにきこしめしておりミュラーがやって来るのに大声で声をかけた。
「おい、ミュラー、卿と一緒にやって来たあのすごい美形は誰だ。この街では見たことがない」
「彼はたまたま私の先に立って歩いていただけで、知り合いではありません。私も彼が誰だか知らないのです」
実際、この言葉にひとかけらの嘘もない。
「何か話しかけられていただろう」
「この店のお勧めを聞かれただけです」
真っ赤な顔のシュミッツがグラスの中身をまわしながらやはり大声で言った。
「ミュラー大佐、気が利かんな。せっかくあちらから話しかけられておきながら、閣下のお席に連れてこんとは」
「シュミッツ、こいつは堅物でな。どんな上玉の男だろうが女だろうがいらんと言っている。上官に情人の世話もさせんとは詰まらん話ではないか」
「なんと、それは無粋な話ではないですか。せっかくの閣下のお心遣いを断るとは」
こんな話に付き合うなどばかばかしい限りだが、ペルニーの心に自分に対する疑惑を植え付けられてはかなわない。
「今はこの基地での任務に集中したいと思っているまでです。いずれ閣下にお世話をお願いしたいと思います」
シュミッツはミュラーの肩を激しく叩きながら、酒臭い息を吹きかけんばかりに顔を近づけた。
「よし、それではな、あの別嬪を連れてこい。閣下がぜひうまい酒をご馳走したいと仰せだと申せ。そうですなっ、閣下!」
ペルニーはご機嫌で笑った。
「そうだ、連れてこい。ミュラー、首尾よく連れて来たらいい女を紹介してやるぞ」
どうせその女はペルニーのスパイだろう。だが、シュミッツのお陰であの男を自然にペルニーに近づける口実が出来た。
ミュラーがカウンターにやって来ると、男は眉を上げて「なんだ、卿一人では場が持たんのか?」と言った。
「ペルニーがあんたと知り合いになりたいと言っている。チャンスだ、早く行ってくれ」
「来いと言われてすぐに行くのは気が向かんな」
ミュラーは呆れた。
「あんたはその為にここに来たんだろう」
「おれが来たのは卿を助けるためだ。あんな下品な男とお知り合いになるためじゃない」
「その下品な男とお知り合いになることが俺を助けることになるんだ」
男がくるりとスツールをまわしてミュラーを正面から見た。薄暗い照明の下で、初めてはっきりと男の顔を見た。細面の左右対称の顔立ち、滑らかな頬、高い額に掛かる前髪はさらりとして長め。薄い唇が微笑みを形作って、白い真珠のような歯並びが見えた。
「では、卿のために行こう。気が向かんことを敢えて卿のためにするのだから、あとでご褒美を貰いたいものだな」
男は颯爽と立ち上がるとためらいも見せずにミュラーを置いてペルニーの席へ行った。やって来る男の姿を見て、ペルニーがよだれを流さんばかりになっている。シュミッツも男を間近に見てぽかんと口を開けていた。
ミュラーは嫌気がさしてカウンターに座ると額を覆った。
それからの30分ほど、カウンターから男とペルニーが『お知り合い』になる様子を眺めて過ごした。ペルニーは男の手を取って最初から拝まんばかりだった。男は取られた手を振り払いもせず、どちらかと言うと愛想のない表情で、ペルニーの隣に座っている。男のつれない様子にもかかわらずペルニーの目は一時も男から離れることはなかった。
やがて、カウンター席からもペルニーの様子が変わったのが分かった。
席に戻る口実にペルニーの気に入りのウィスキーを用意させ、それを手ずから持って行った。
「閣下、ご注文のウィスキーを一杯、どうぞ」
「…んん? お、おう、すまんなミュラー」
男はペルニーとシュミッツに挟まれて座っていた。その手はペルニーのズボンの股間の合わせから中に隠れていた。そこは異様なまでに膨らんでいる。やって来たミュラーに男は白けたような視線を浴びせた。
―簡単すぎる。
そう言っているように見えた。
男が顔を寄せてペルニーの猪首に近づけ、唇がペルニーの顎に触れた。
「もっと欲しいか?」
「…んん、ああ、そうだな…。君は私にもっとくれるのかな…」
「あんたがおれに何をくれるかによるな」
向こう側に座るシュミッツが男の尻を撫でたので、男がその手を叩いた。シュミッツは男の手を取ってその手のひらを舐めだした。
「ここは騒がしいし、お世辞にも居心地がいいとは言えないな」
ペルニーのズボンの合わせから、男が何かを掴み引き出そうとする。中から出てくるものを想像してミュラーは視線を逸らした。
肉の擦れる忙しない音がして、ペルニーが途切れなく呻きだした。
「もっと欲しいか?」
男が再び聞いた。
ミュラーは心理的に疲労困憊して自らの官舎に戻った。懐にはバーの奥の院で繰り広げられた痴態の様子が録音された録音機が隠されていた。その痴態と痴態の合間にペルニーは同席した当地の大商人たちと勝手気ままな取り決めを交わした。精を吐き出す片手間に当地の市民を搾取し、軍需品をかすめ取るとは軍部も舐められたものだ。
「録音した内容を精査せねばならんな。卿が集めたデータと照らし合わせて、あそこにいた商人どもの動きを割り出すことが出来るだろう」
ミュラーの踵の後について部屋の扉をくぐりながら男が淡々と言った。この男はなぜこんなにも落ち着いているのか。
あの部屋にああもやすやすと入り込めたのは、この男のお陰に違いなかった。人は性的に支配したと思う相手を無害なものだと思い込むものらしい。
ミュラーは後ろ手に強い力で大きな音を立てて扉を閉めた。明かりもつけずに立ち尽くし、自分がひどく穢れたような気がしていた。
「あんなもの、精査などする必要もあるものか…! 奴らはすっかり安心しきって無防備にべらべらと話していた。あれほどはっきりした証拠もない」
「余程あの部屋は安全だと思い込んでいるのだろう。初回からこうも上手くいくとは思わなかったな」
「あんたのお得意の手口なんだろう、ベッドで男を籠絡するのが。早々に問題を片付けて結構だな」
「卿は何やら不満があるようだな」
男はミュラーの頬を手のひらで軽く叩いた。ほんのそよ風のようなものだったが、その軽い愛撫がミュラーの気に触った。必要以上に強い力で男の手を払った。
眉をひそめて男がミュラーの正面に立ってその顔を覗きこんだ。薄暗がりに浮かぶ、なぜそれほど苛立つのか全く理解できない、と言いたげな怪訝な表情。
ミュラーは男の胸を両手で押し除けて視界から遠ざけようとした。
「卿がずっとあの部屋に入れずにいたのを、おれが一夜でやってしまったから、それが気に入らないのか?」
「別に、そんなことじゃない」
ミュラーは男の視線を避けて背を向けた。男がなおも彼の肩に手を置いて、「おい」、と言った。
「俺にかまうな! だいたい、あんな娼婦まがいのことを平気でするなど、自尊心のある男のすることじゃない…! あそこまでする必要があったか…!?」
「卿を助けると言っただろう。あれこそがペルニーの守りの最も脆弱なところだった。そこを狙って一番効果的な方法で攻めたというだけのことだ。おれの自尊心の心配はやめろ」
あくまで冷静な男の言葉に突然、ミュラーの血流が逆落としに激しい勢いで流れた。部屋の中は暗いのに、目の中に閃光が走った。男の上着の胸を両手で掴み、勢いをつけてベッドに投げ倒した。
男が倒れ込んでスチール枠のベッドは大きく軋しみ、壁にぶつかり音を立てた。
起き上がろうとする男の肩を押さえ込み、その右腕を掴んで頭上に上げる、男は逆らえずにベッドに伸び上った。左手を伸ばして起き上がろうとしたが、その腕も掴んで、男の腹の上に膝を置いた。男がまるで猛獣のような唸り声を上げた。
「あんたの自尊心のありかを教えてやる」