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理性の眠り ~2~

その日、ミュラーは宇宙に出た。通常任務の一環ではあるが、自分自身の艦に乗って宇宙に出ればある程度は地上の憂さは忘れられる。
艦に乗り込んでからずっと副長が何か問いたげにしていたが、思い切ったようにミュラーに声をかけた。
「艦長、今度元帥になられるというかのローエングラム上級大将が、この宙域を管区にすると言う噂をどう思われますか」
「…どうかな。噂は噂だ。あまり信頼できる内容とも思えないが」
副長は艦長の気のない返事にもめげずに答えた。
「噂だとしても、この広い帝国の版図の中から何の根拠もなしにこの宙域の名が挙がるとは思えません。ある程度真実味があるのでは」
「卿はそれを望んでいるようだな」
ミュラーが副長の熱意が現れた顔を見ると、相手は躊躇いがちに周囲に目をやった。どこにペルニーのスパイがいるか分からない。ここは自分の艦の中でさえ、遠慮せねばならないような艦隊なのだ。
「ローエングラム伯がこの宙域を管轄するとしても、間接的なものだろう。とすればペルニー少将が引き続き司令官として勤めることは想像に難くない」
「そうでしょうか…。艦長はペルニー少将が残られることを望んでおいでなのでしょうな」
昨日までのミュラーであれば、顔色も変えずに即座に「その通りだ」と答えられたはずだ。だが、艦長の真意を探ろうとする副長の熱心な視線の前で、ミュラーは言葉に詰まった。
―皆、ペルニーの専横にはうんざりしている。優れた人物が今にペルニーを叩きだしてくれるだろうという希望が欲しいのだ。ローエングラム伯はすでにこの地を見ているということが出来たら…。
しかし、それは今のミュラーにとって危険な行為だ。
昨夜、男はミュラーを解放するとペルニーを探る手口について問いただした。とはいえ、男はすでに事の大まかな内容を理解していた。
「卿は夜な夜なペルニーに同行してあのバーに行っているが、あそこでは何が行われているというんだ?」
ミュラーはベッドに起き上がって、下半身をブランケットで隠しながら答えた。
「バーの奥に部屋があって、ペルニー少将はいつも交渉相手とはその奥の部屋で話し合う。その部屋での様子を盗聴することが出来ないかといろいろやっているがうまくいかない。どうも厳重な防御措置がなされているようだ」
「それはますます臭いな。バーの裏でごそごそやっていたのもそのためか。盗聴が出来んのなら、卿が一緒にその部屋に入って実見するのが一番だろう。後々の証拠としても目撃者の存在は重要だ」
「俺はまだ一緒にその部屋に入るだけの信頼を得られていない」
男はスツールの上で足を組んで鼻で笑った。ミュラーがこれまでに聞いたことがないほど辛辣で、ところがおかしな話だが、それでありながら優雅に聞こえた。
「卿は演技が下手だ。恐らくペルニーは卿が耐えに耐えて、苦渋の末に悪事も見ぬふりをしているところを見て嘲笑っていることだろう。だが、それは信頼の意味ではなく、卿には何もできないだろうと高を括っているに過ぎないという訳だ」
ベッドの上に半裸の状態で可能な限りの威厳をもってミュラーは答えた。
「下手だろうがなんだろうが、俺は俺のやり方しか知らない。地道な方法が一番の早道だ」
「おれもそのバーに連れていけ」
男は当然のように強い口調で言った。この男にはどこか命令し慣れた人間の、人を逸らせないところがある。その時、男の横顔にサッと窓の外からの地上車の明かりが当たった。ほんの一瞬、細面で額の高い、滑らかな頬の整った顔立ちが見えた。
「行ったところであんたに何が出来る。ペルニー少将を警戒させて、俺の半年の努力を無駄にするつもりか」
「その地道な努力では埒が明かん。卿の手伝いをしてやろうと言っただろう。少々大胆な手口を使ったところであの男には何とも感じんだろう。おれはやるからには卿の努力も無駄にはさせん」
男の声には自信が感じられたが、ミュラーはそれに危惧を覚えた。この男の力量がどれだけのものか不明なのだ。
ミュラーは目の前のスツールに座る男をベッドから見上げた。
「いや。悪いが遠慮してもらおう。どうしてもあんたが俺を助けたいと言うなら、俺が集めた証拠をあの方の元へお届けしてくれ」
男は身を乗り出し、ミュラーの方に手を差し伸べた。その手の指先が偶然のようにミュラーの顎に触れた。それはひんやりとしており、ミュラーの顎を羽で撫でるように撫でた。
「おれに預けていいのか? 本当にあの方の手に渡ると信じているのか? 卿の虎の子の証拠を預けることが出来るくらい信頼しているなら、おれをバーに連れていくことくらい、簡単なことだろう」
ミュラーは内心、男の頭の回転の早さに呆れるとともに、確かに男の言うとおりだと思った。一方で信じて、他方では疑うことは出来ない。この男を信じるか、信じないか、道は一つしかない。
それでは信じるのか? あの方から命じられたという言葉が本当であるならば…。
まるで女の手のようにすんなりとした指先がミュラーの鼻筋を撫でた。ミュラーはその手を顔から払った。払われて男の手がベッドのマットレスの上に降り、ミュラーの胡坐の前に辿り着いた。
「…どうする?」
胡坐の前の男の手が気になり、何を言おうとしていたか忘れた。その手は徐々に彼の下半身に近づいているようだった。
「おれを信じるか? ミュラー大佐」
「…あんたを…?」
手がブランケットの下に潜りこんで、探るように指を蠢かせたので、ブランケットが持ち上がった。それを見ていたミュラーの視線は、顎に添えられた男の手により、男の目の高さまで上げられた。
男の大きくて切れ長の目が、ミュラーの砂色の瞳とかち合った。
男の目は瞬きもせずにミュラーの視線を捕えた。ブランケットの下の手がミュラーの中心をそっと覆った。その中心の肉は寝静まっていたはずが男の手の中でぴくりと小さく跳ねた。
男の囁くような小さな、しかしまるで糖蜜のように滑らかな声が言った。
「ミュラー、おれを連れて行け。卿の望み通りにしてやる」


突然の警報によりミュラーの白昼夢は破られた。
「正体不明の宇宙船が3隻、こちらへ接近しています!」
副長が厳しい声で指示を出した。
「所属とこの宙域に来た目的を問え。それから直ちに信号を出せ。追跡の準備!」
艦内は緊張に包まれたが、やがて身元不明の艦から応答があった。リッテンハイム侯爵の使いの者が帝国軍の巡航艦に乗って、駆逐艦2隻をお供にペルニー少将に会いに来たというのだ。先方の艦が発する信号も即座に照会され、まさしく正規の帝国軍戦艦だと知れた。通信が入っていると言うのでミュラーは受信を命じた。
思いがけないことにモニタには准将の軍服姿が現れたので、ミュラーはさっと敬礼した。
『卿がミュラー大佐か。出迎えご苦労。私はリッテンハイム侯爵の命により当地へ参った、シュミッツ准将だ』
出迎え? ペルニーはこの来客のことを知っていたのだろうか。ミュラーは不審げな副長の視線を無視して平静になろうと努めた。
「ようこそ当地へ。基地までご案内しますがよろしいですか」
『うむ、頼もう』
あちらから何か注文されないうちに通信を切ると、基地と周辺宙域に新来の巡航艦と駆逐艦の存在を知らせた。
「艦長、ご存じだったのですか? 今のリッテンハイム侯爵の使いとやらが来ることを」
「…いいや。リッテンハイム侯爵の使いが何の用だろうな…」
ミュラーは苦々しさを押し隠すことが出来なかった。ペルニーが分かっていて彼に言わなかったのだとしたら、何か裏があるのかもしれない。単にペルニーの司令官としての粗忽さの表れかもしれないが。
それよりも、今この時期にリッテンハイム侯爵からペルニーに何を言ってきたかが問題だ。それはローエングラム伯の元帥昇進とこの宙域を管区とするらしい、と言う噂と無関係とは思えなかった。
ミュラーは護衛のために周辺の部下の艦と連絡を取らせながら、考えを巡らせた。先ほどの通信に現れたシュミッツ准将がミュラーの記憶を刺激していた。
―あのシュミッツと言う准将にどこかの戦場で会ったことがあるのだろうか。
あるいはいずれかの任地ですれ違っただけの人物かもしれないが、妙に心に残った。
副長がまだこちらをうかがっている気がする。艦長の様子がいつもと違うと思っているのかもしれない。それはミュラー自身が感じていることだった。ローエングラム伯に命じられてこの地に来たというあの男が、彼の心に新たな希望を植え付けたのだ。
ようやく、新しい風が吹くだろうという希望を。
モニタを注視している振りをして椅子に座りなおした。デスクの下でミュラーは股間に重みを感じていた。新たな希望には感情のさざ波が付きまとっていた。ペルニーに一人で対抗していた時には固く閉じていた心に不協和音が鳴り響いていた。


「あのバーで何をするつもりだ? ペルニーはよそ者を容易に近づけない。あの部屋は忍び込もうにも厳重に守られている」
ミュラーは男の手に気づかないふりをした。股間に血が集まって来た。それこそ男が無自覚にミュラーの陰茎を撫でまわしているなどあり得ない。頬にかかる男の息は温かく爽やかな香りがした。聞いた話では貴族は香り玉を口内に含む風習があるそうだが。
「忍び込んだりしない。堂々とやるさ。だがまずは不審に思われずにバーに入るために、卿の協力が必要だ」
男の手に力がこもった。今やその手ははっきりとミュラーの肉を優しく撫でている。無視することなど不可能だった。男の親指がその肉の先端に近づいて周囲の襞を丸くなぞったので、ミュラーは喘いで飛びあがった。
「…来たいと言うなら来ればいい…! 好きにしろ…!」
急いでブランケットを腰に巻き付けて膝で防御すると、ベッドの上を壁際まで後退した。
男の手の下でミュラーは完全に固くなっていた。
今夜会ったばかりの、しかも彼を屈辱的に扱う何者とも分からぬ男に興奮させられるなど、これ以上の侮辱があるだろうか。

だが、男は彼を惹きつける。この基地で忍従を強いられたミュラーの押し込まれた精神。乾ききったその心を潤し、解放を約束する爛熟した雰囲気、薫り。
男は暗闇の中で小さく笑った。その忍び笑いはミュラーの背筋を這い上がり、ますます彼は固く立ち上がった。
「それではそうしよう。…おれが今何を考えているか分かるか?」
「…知るか」
「ベッドで男を籠絡するとはなかなか効果のある方法だな」
ミュラーを撫でていた方の手を顔の前に持ってくると、人差し指を一本立てて男は言った。
「出て行ってくれ…! あんたの協力など不要だ…!!」
ブランケットを握りしめて、ミュラーは喘ぐように言った。男は余裕を思わせる忍び笑いをこぼしながら立ち上がり、「それではまたな」と言って部屋を出て行った。
基地へ帰還する艦の中でミュラーはあの男の名前すら知らずにいることに気づいた。いきなり睾丸を握りしめられたとあっては、まっとうな初対面の挨拶など出来るはずもない。
『またな』と言ったからには、再びあの男は現れるのだろう。ミュラーはそれを期待するべきか忌避するべきか分からなかった。

 

基地に戻ったミュラーはペルニーに来客との会合の同席を命じられた。にこやかに来客を迎えたペルニーにシュミッツ准将は恭しくリッテンハイム侯爵からの書状を差し出した。
ペルニーは直ちに書状の中身を確認すると喜んで手を叩いた。
「この書状にもあるが、やはり、この宙域があのローエングラム伯の管区になるかもしれぬと言う噂は本当だったのだな」
「はい。その点について侯爵閣下は、ローエングラムなどに好きなようにはさせぬゆえ、安堵するようにと、ペルニー閣下にお伝えするように特に小官にお申し付けになられました」
「さすがはリッテンハイム侯爵の細やかなお気配り。ありがたいことだ。ここにも今後もこの基地の司令官として私の地位の安泰をお約束してくださっている」
ペルニーはリッテンハイム侯爵への返事を整える間、基地でゆっくりオーディンからの長旅の疲れを癒すようにと使者に数日の滞在を許可した。美辞麗句のお礼状と、いつも以上に豪華な贈り物を揃えるには時間がかかるのだろう。
「どうだ、ミュラー大佐。これで卿もしばらくは私の元で安心して任務に励むことが出来るな。いずれ卿の昇進もリッテンハイム侯爵にお願いせねばな」
ペルニーが司令官室の戸口に立ってこちらを見守っていたミュラーに声をかけた。その言葉にシュミッツ准将がたった今、陪席の人物に気づいたというかのように、顔を上げてちらりとミュラーを見た。
上級者二人の視線を浴びて、ミュラーは背後に組んだ拳をぎゅっと握りしめた。
「閣下のお心配りまことに恐れ入ります。基地内に流れる噂に皆、浮足立っておりましたが、閣下が引き続きこの地を治められると聞いて安堵するでしょう」
「そうか、そうか。頼りない口先ばかりの孺子の管轄になるのではと、皆心配になるのも無理もない」
シュミッツ准将がにっこりして言った。
「このような要衝の地には、経験豊かな歴戦の将の存在こそ不可欠でございますな」
ペルニーはそれを聞いて大口を開けて愉快そうに笑った。
「リッテンハイム侯爵にはそのことをよくお分かりで何よりだ。そうだ、卿も今夜、一緒に私の行きつけのバーに来るとよい。リッテンハイム侯爵のご様子や近頃のオーディンについて、いろいろ話を聞きたい」
そう言うと、ついでのようにミュラーも同席するようにと付け加えた。

 

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