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理性の眠り ~1~

辛うじて正気を保ちつつバーの外へ出た。もうこれ以上、自分を偽って行くことが出来そうにない。
「ローエングラムの大名跡を継いだあの孺子がなんと元帥になるそうだな。上層部では大反発で議論百出だそうだ。大いに荒れて欲しいところだな。そうすればこの辺境にまで目が行き届かん」
「しいっ、めったなことはおっしゃらぬ方が」
「ミュラーのことなら気にするな。あいつは何も言わん。大人しいが使い出のある奴でな、重宝しておる。ミュラー、ローエングラムとかいう孺子のことを知っているか?」
ミュラーはグラスから顔を上げて上官を見た。
「はい。存じております」
「生意気な孺子がのさばるせいで昇進したくとも上がつかえて困るだろう、ええ?」
「若くして元帥になられるからには、それにふさわしい功績をあげられてのことだと思います」
ペルニー少将は眉をひそめた。いつも通り、耳に心地よい台詞を言わないミュラーが気に食わないのだろう。そのまま、彼を無視して連れを促して奥の部屋へ行ってしまった。ミュラーはその隙にバーから立ち去ったのだった。
バーの裏の薄暗い路地に潜んで、ミュラーは懐を探った。手の中に収まるほどのカード状の機器を取り出し、そこからさらに小さなイヤホンを引き出すと耳に差し込む。イヤホンからは雑音のみが聞こえ、またしても失敗かと落胆した。
もうこんなことを半年も続けている。ペルニーの不正の証を立てるにはまだ証拠が足りない。何か、決定的なものを暴き出さなくては、ペルニーの後援者の大貴族が握りつぶしてしまう。
そして、自分、ナイトハルト・ミュラーは永遠に辺境の宇宙の片隅で縮こまっていることになる。
「おい、その手元にあるものは何だ」
ミュラーはぎょっとして暗がりを見た。そこにはいつの間にか男が立っていた。自分の考えとイヤホンから聞こえる音声に気を取られて、不審者が近づくのに気付かなかったとは。
「…あんたには関係ないものだ」
「関係ないかどうかは卿が何を持っているかによるな。見せてみろ」
「赤の他人のあんたには何の価値もないものだ。俺にかまうな」
暗がりから低く滑らかな声が答えた。
「卿はおれを知っているのか? 知らぬのに赤の他人かどうか分かるまい、ミュラー大佐」
ミュラーは目の前の男に警戒しつつ、大通りの方へ視線を向けた。なるほど、この男は自分を知っている。何が目的か?
大通りから地上車の明かりが差し、一瞬男の姿を浮かび上がらせた。黒い外套を肩から羽織り、その下にはジャケットと艶のあるネッククロス、白い細面の頬がちらりと見えた。その姿は大した脅威とは思えなかった。
ミュラーは大通りへ向かって飛び出した。虚をつかれたらしい男がはっとして手を差し伸ばす。
「待て! ミュラー!!」
不審な人物から危うく逃げおおせたと思う間もなく、ミュラーはいきなり前に現れた大きな影に頭を殴られ、気を失った。

 

「―お信じになるのですか、この男を」
「信じねばなるまい。卿はこの男が集めたものを見て、信じるべきではないと思うのか」
「これらすべて、自分の利益のために使うつもりかもしれません」

暗い声が言う。
「おれは信じようと思う」

滑らかな低い声が答えた。
「…それはひとえにあの方がお信じになるからですか。閣下のお気持ちは―」
「おれ自身の気持ちとしては疑っている。だが、信じてみるのも面白いと思う」
陰気な声が「面白いではすみませぬ…!」とたしなめるように答えた。
いきなりミュラーの頭は強い力で掴まれた。
「気をつけろ、貴様がこの方を傷つけ裏切るようなことがあれば容赦はせんぞ。ひとおもいに死なせてほしいと思うような目に会わせてやる」
ミュラーは我知らず呻いた。ギリギリと締め付けるこめかみの痛みに瞼の裏で稲妻が光った。
ちかちかと光る暗闇の中にあの滑らかで低い声が静かに笑うのが聞こえた。

 

ミュラーが陰気な声の男に理不尽にも痛めつけられる夢から目覚めると、そこは自分の官舎の寝室だった。簡易キッチンと小さなデスク、スチール枠のベッドの殺風景な狭い部屋に、見知らぬ男がいた。部屋の中は真っ暗で、端末が照射する明かりに浮かび上がるその背中は、先ほどの路地裏で出会った男のシルエットに似ていた。
男はミュラーのデスクに座って、彼の端末をいじっていた。男が次々にファイルを開き、中身を確認していることに気づき、ミュラーはさっと血の気が引くのを覚えた。起き上がろうとしてベッドの枠に縛りつけられた手首に気づいた。ベッドが浮くほどの力でガタガタと音を立てて引っ張ったが動かない。
しかも、下半身に何も衣類を着ていなかった。
屈辱的な姿勢から、ミュラーはこちらへ背を向けている男を睨み付けた。
「ようやく起きたか。まともに話がしたかったのでな、悪いが縛らせてもらった」
男は椅子をまわしてこちらへ振り返り、腕を組んでミュラーを見下ろした。ミュラーは膝を折り曲げて男の目に暴かれた下半身を隠そうとした。だが、その動きがみっともなく見えることに気づき、途中で止めた。
彼の投げ出された両足を見下ろして、男は低い声で笑った。
「後で卿の協力を得られると分かったら下着を返そう。もし腕が自由になっても裸ではさすがに逃げられんだろう」
男は立ち上がると左手の拘束を外した。途端にミュラーは左手で男の胸ぐらをつかみ、足を勢いよく蹴り出した。男の油断を狙ったはずだったが、相手も反撃があることを予想していたらしい。掴まれた胸ぐらはそのままに反対にミュラーの喉輪を押さえつけてベッドに押さえ込み、いきなりミュラーの睾丸を握った。
内臓を吐き出すようなミュラーの叫びが部屋にこだました。
「いい度胸だ。動きも機敏だな。しかし、焦りのせいか正確な判断力が及ばぬようだ」
さらに握った手に力を入れたので、ミュラーはさらに呻いて男から手を離した。
「…離せっ…」
「大人しくいい子で話をするか」
ミュラーは暗くなる目をしばたたいてこれ以上叫び声をあげまいと、息を止めて頷いた。
暗闇の中で男の細面の頬に窓から射す街灯の光がうっすらと当たった。睾丸からそっと手が離れたが、その手を遠ざけようとはしなかった。ミュラーをベッドに縫いとめたまま、男はミュラーの顔を覗きこんだ。
男の右手はミュラーの顔の横に、左手は両足の間に置かれた。股間のすぐ近くに男の手がある気配に不安を感じながらも、ミュラーはようやく大きく息を継いだ。
男が低い小さな声で言った。
「卿の端末の中身を見せてもらった。ペルニーが商人どもと結託して軍部を騙した手口をよくあそこまで調べ上げたものだ」
ミュラーは喉が詰まるのを覚えつつ、無駄だと知りながらも空とぼけた。
「…何のことだか、分からん」
「分からんか? パスワードにある人の名前を使っただろう。暴いたのがおれでよかったな。ペルニーの手先が知ったら即座に卿は銃口の先に立たされただろう。もちろん、現在世間が思っているように卿はペルニーの仲間と思われたままでな」
ミュラーは横を向いた。その視線は男が彼の顔のそばに置いている腕で遮られた。
「どんなパスワードを使ったか、教えてやろうか」
「…あんたは何者なんだ。俺の端末を暴いて、ペルニー少将の前に引き出すつもりか? あの男からいくらもらう約束をしたか知らんが、報酬はもらえぬ確率が高い。せいぜい取り立てに精を出すことだな」
「―卿はペルニー少将の悪事の証拠を集めてどうするつもりだ。この星において司令官としてのあの男の権力は絶対だ。しかも後ろ盾にリッテンハイム侯爵がいる。容易には暴くことは出来まい」
ミュラーは半ば自棄になって吐き出すように答えた。
「もっと、リッテンハイム侯爵でさえどうにもできぬ確たる証拠を掴むところまで行くはずだった…! だが、貴様がすべて知っていて、ペルニー少将におれを引き渡すと言うならば、逃げも隠れもしない。こんな馬鹿げた真似をせずにさっさと終わらせてくれ」
「卿の手助けをしてやろうか」
暗闇の中に重い沈黙が降りた。男はミュラーの上から起き上がった。
「卿が隠したデータのパスワード。それはある若い人物の名前だ。かつて卿はフェザーンに駐在していた時、ある人物の任務を助けた。その任務の性質上、卿と親しく行動出来なかったことをその人物は残念に思われた」
ミュラーは寝転がった姿勢のまま、男を見上げた。彼がかつてフェザーンにいたことは調べればすぐに分かることだ。だが、彼が密かにかの若き英雄の活躍に心を躍らせ、希望の糧としていることをなぜ、この男は知っているのか。
「―あんたはその人物と親しいのか」
「おれに卿と会うように命じられたのはまさしくそのお方だ」
ミュラーは首を振った。
「そのようなことがあるはずがない。あのような高位の人物が俺のことなどをご存じのはずが…」
「信じられぬかもしれんが、あの方の目は卿の元にも届いているのだ」
男は懐を探って何か銀色のほんの4センチ四方の四角いケースを取り出した。
「男が戦場に赴くとき、その恋人の持ち物を懐に忍ばせて無事帰還の守りとすることもあるようだな。今回の任務に先立ち、おれはこのようなものをあの方にいただいた」
男がケースの蓋を開けてミュラーに向かって差し出すようにした。何かがその中にわだかまっているようだが部屋の中は暗く、何も見えない。それに気づいた男がベッドサイドの小さなランプの明かりをつけた。
ケースの中には柔らかな房のようなものが入っていた。緩くカールを描くそれは、もっと明るい光の下であれば金色に輝いて見えたはずだ。
ミュラーはそれが思うとおりのものか、確信が持てずにいた。あまりに暗く、また、あまりに思いがけないことだった。
「おれたちが今、名を上げることをためらう人物について、この黄金に輝く獅子のたてがみの如き頭髪のお陰でけしからん名で呼ぶ者もあるようだ。しかし、あの方の見かけは愚かな者どもに対する格好の隠れ蓑となっているようだな」
「―金髪の孺子」
「その孺子には鋭い爪と牙があることに誰も気づいておらぬ」
金髪の一房を見て、男が確かにあの人物とつながりがあると信じたわけではなかった。そんなものはどこかの娼婦の金髪を頂戴したというほうがあり得る話だ。だが、男があの人物について語る言葉には隠しきれない賞賛の色と憧憬のようなものがうかがえた。
男はミュラーの敵ではないかもしれないが、少なくともペルニーの味方ではないことは確かだった。

 

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