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8、

 

決して目を開かなかった。もっとも、明かりはつけずにいたから寝室内は薄暗かった。だが、目を開けて思いがけず真実を目にし、この魔法の刻が壊れるのを恐れた。いつの間にか衣類ははぎ取られ、手の感触から互いに一糸まとわぬ姿になっていると分かった。頭の中を空っぽにして、相手の動き、息遣いだけに注意を向けた。互いの声を都合よく入れ替えて聞き、それは難しいことではなかった。
あまりに巧みな手によって、優しく時に強い力で包まれて、何度も弾けそうになった。本来の自分だったらこうやすやすと喘いだりしない。その声は淫らに甘く、下半身から脳髄まで痺れさせた。こんなことは間違っている、それは分かっている。だが、今、自分は『ロイエンタール』なのだ。
「あ…! うう…、ああ!」
叫ぶたびに彼の唸り声が聞こえた。彼はそんな蕩けるような喘ぎを聞きたくないのだ。唸る以外は激しく息を継ぐ音が聞こえるだけ。
だがやがて、彼が『ベルゲングリューン』の声音で話し出した。
日夜、上官のことを想っていたこと、このように自分の手によって乱れる様子を目の前に出来て素晴らしいといった内容だった。
耳に入って来た言葉に仰天して、「何を…! 何を言って…!」と叫んだ。何とか意識を集中して反論しようとした。
だが、『ベルゲングリューン』の声は揶揄するように、言葉では否定しても身体は正直に悦んでいると言った。
「そんな…! や、あぁ…!」
否定の言葉は途中で蕩けるような喘ぎに変わった。
巧みな手が胸の先端を捻り上げて、強い痺れが中心まで響いた。今までこんな小さな部位がこれほど敏感だとは、知らなかった。これは『彼』の身体なのだから、彼はどこを刺激すれば快感を得られるか、よく知っているのだ。後から思えば、同じように『ベルゲングリューン』の身体の一番敏感なところを攻撃すればよかったのだろう。だが、その瞬間はそんなことは思いもよらず、ただ彼の手が及ぼす効果に身もだえした。

いずれにせよ、『ベルゲングリューン』の身体は単純な悦びより他に知らない。

それなのに、この身体は今まであるとも知らなかった部位にどくどくと血を送り込み、そこは勝手に蠢き、彼が欲しいと疼かせるのだ。
未知の感覚に慄いていると再び声がして、きっと、自分で自分を慰めていたはずだと囁いた。あらゆる敏感な場所に触れて、どの場所を一番触ったか白状するようにと攻めたてた。
「していない…! そんなこと…! してない…」
その言葉に低い声が楽しげに笑った。
突然引き起こされて、ベッドの柔らかなマットレスに膝をついてバランスを崩し、彼の胸に倒れ込んだ。頭を押さえつけられて屈み込むと口元に濡れて熱いものが押し付けられた。
「やめ…!」
だが開いた口は熱いものの侵入を許した。苦しさに喉の奥で悲鳴を上げたが、それはかえって悦んでいるように聞こえた。
息苦しさと高まる情欲に頭は朦朧としていた。
鼓動に合わせて中心は震え、声を上げるたびに体液が流れ出して太腿を汚した。押し込まれたものも急に大きさが変化したと思うと口いっぱいに液体が溢れ、苦い味が広がった。
苦しいのか、辛いのか、それとも悦んでいるのか。
だが、これこそ『彼』に対してしたいと望んでいたことではなかったか。常に優雅で洗練された『彼』の穢れなき身体を組み敷き支配して、もっと欲しいと、こんなにも疼かせ求めさせるのだ。
そんな自分勝手な望みは彼をこんなに苦しませ怖がらせる結果になると、自ら体験することになるとは。自分の欲望のために『彼』を利用した。今その過ちの報いを受けているのだ。
―いいや、違う、違うのだ! 俺は彼を敬い、優しく慈しんで…。
―綺麗ごとをぬかすな…! これこそお前が望んでいたことだろう! 彼はそんな穢れたお前の本心を見抜いているんだ。
―彼はそんな酷い人ではない…! 俺の本当の心を彼は…。

この甘い疼きは穢れた心が生んだ麻薬のようなものに違いなかった。

目じりを太い指で拭われて初めて泣いていたと気づいた。苦しかった口は解放され、大きな温かい手が頬を柔らかに覆って、額にコツンと彼の額が当たった。
二人の温かい息遣いが、同じリズムを刻む鼓動と共に混じり合った。
軽々と抱き起されて、ベッドのヘッドボードに二人して枕を背にして横たわった。胸に頭を引き寄せられ、彼の腕にすっぽりと包まれた。
頭上から激しい息遣いが降って来たが、その手はただ頭を撫で、さらりとした髪を梳いている。汗で湿った身体が彼の胸とぴったりとくっつき、脚は彼の両脚の間にすっぽりと収まり、まるでストーブに身体を押し付けているかのよう。
二人の呼吸は彼の手が頭を撫でるリズムに合わせて、ゆっくりと平常に戻って行った。
鼓動が落ち着くと、やおら胸から降ろされて向かい合わせになった。彼の両手に胸の尖った頂点を親指で潰されて、身体が驚くほどビクンと揺れた。この痺れるような感覚が恐ろしく、思わず彼の手を握った。彼は手を握られたままの状態でゆっくりと下に降ろした。彼に彼の中心を握らされて、その熱い感触に目が眩んでいると、今度は彼がこちらに手を伸ばして来た。
向かい合った二人の甘い喘ぎ声と野太い呻き声が互いの口の中に吹き込まれた。硬直したものを握り擦りあって、高まる刺激に耐えきれず、齧らんばかりに彼の唇を貪った。ぼんやりと、縋りつく身体を、脚が脚に絡みつくのを感じた。
それは突然の「ああ!」、という混じり合う二つの叫びによって終わるまで続いた。

乱れたシーツの中で二人の男が寝転がっている。
細身の青年の方はほの白い腕も足も広げて、ぼんやりと天井を見上げている。
まるで意識がないかのように、目は半ばつむっている。
年かさの男は、青年の胸の上に頬を乗せている。
男が上目遣いにじっと見ているのに、青年は気づかない。
男の手が我が物顔に青年の胸から腹を撫でる。
腋の下にもぐりこむようにして、頬を青年の胸に何度かすり寄せる。
太い指が臍の周りの柔らかい皮膚をくるくると回る。
それでも気づかない。
男の眉間の間に徐々に苛立ちが見え始める。
茫然自失としたままの青年の意識を呼び起こそうと、男が口を開く。

「何も起こらなかったな」
ベルゲングリューンははっとして胸に抱いていた身体から離れた。ロイエンタールの言葉で、急に自分たちのいましがたの行為がはっきり蘇った。
こういった行為によって彼らの身体が一体となり、魂の交換が行われるかもしれないとの予測をしていた。だが結局、それは間違っていたということだろうか。
―そんなこと、すっかり忘れていた。それどころか、自分の欲望のことばかり考えていた。
『ベルゲングリューン』の声音は、ベルゲングリューンが漠然と考えていたことを、これこそがお前の望みだと暴露した。穢れた望みを抱いたまま、『ロイエンタール』の声を自分の欲望を高めるために利用した。
―なんてことだ、自分のことだけ考えて。
ベルゲングリューンはよろよろと立ち上がると、バスルームへ直行した。ベッドに横たわる人を振り向きもしなかった。彼が身じろぎして起き上がり、衣擦れの音が聞こえた。こちらの後姿を見ているに違いないと思ったが、彼の怒りを見るのが怖くて振り返ることは出来なかった。
だが、バスルームの扉に手を掛けたところで、彼を敬い重んじる気持ちが歩みを押しとどめた。彼を支配し組み敷きたいとの思いは、彼を大事に慈しみたいとの思いと表裏一体なのだ。あのような熱に浮かされた異常な状態であっても、彼を貶め、辱めたかったわけではない。あの頭を撫でる優しい手つきこそがまるで自分の思いを形にしたかのように…。
それならば、どのような状況であろうと、上官より先に安楽を求めようというのは、しかもあのような乱雑なベッドに彼一人を残して来たのは正しいことではなかったと思い至った。
ベルゲングリューンは深呼吸しようとして失敗し、結局平静とは言いかねる心理状態のまま、ロイエンタールの元に戻った。途中で素っ裸なのに気付いて、散らばっている衣類の中からシャツを見つけ出し羽織った。
「申し訳ございませんでした…、その、不躾な…、あまりに…」
ベルゲングリューンは寝室の戸口より先に立ち入る勇気がなく、そこから暗い室内に向かってもごもごと言った。ベッドの上からはしばらく何の音もしなかったが、やがて『ベルゲングリューン』の低い声が彼の言葉を伝えた。
「…こういった場合に謝ることこそ不躾ではないか? 完全なる合意の元になされたのだと思ったのだがな。だが、まあいいさ」
マットレスの軋む音がして暗がりからベルゲングリューンの身体が現れた。その表情には何も映し出されていなかった。一糸も纏わぬまま、裸体を晒して眩しい明かりの元に現れた自分自身の姿に、ベルゲングリューンは視線を逸らした。
「上官と部下ごっこも楽しかったが、そのように身構えられては興ざめだ。しかも、あのオイルの使用方法をまだ実演していなかったのに」
嘲るような口調で言うと、ベルゲングリューンの脇を通り過ぎ、散らばった服を拾い上げながら、ロイエンタールは裸で部屋を横切った。
「シャワーを先に使うぞ。ベッドを片付けて少し休むがいい。まだしばらくゆっくりできるだろう」
自分の欲望のために上官の休息の時間を奪ってしまったのだと気づいて、ベルゲングリューンは上官の後ろ姿を見た。
「閣下もどうかお休みに…」
さっと振り返ってこちらを見た視線は、嵐のような荒々しさと冷ややかさを含んでいた。
「ああ、そのつもりだ。だが、ここでではない」
吐き捨てるように言われて、謝罪の後で彼と同衾するほど図々しいと思われたかと衝撃を受けた。
「そんなつもりでは…」
「それならば結構」
バスルームの扉がガチャリと閉まった。

 

​面影を抱きしめて

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