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5、

 

ベルゲングリューンは目覚めた。ひどく夢見が悪かった。自分がロイエンタール上級大将になってしまったという悪趣味な夢だ。そのせいで熟睡した気はしなかったが、身体は一応休まっている。
時計を見てじきにトリスタン内も朝時間を迎えると分かった。今日こそ同盟の奴らと顔を合わせるに違いない。ベッドから起き上がり、ふと、ここは本当に自分の部屋だろうかと辺りを見回した。
あるはずの一角にバスルームがなく、混乱して慄きながら別の扉を開けるとそこにあった。鏡を見ると、ロイエンタール上級大将の寝起きの不機嫌そうな表情に、驚愕の表情が混じり合って、ベルゲングリューンを見つめ返していた。『ロイエンタール』の顔はそんな滑稽な表情でも端正さを保っている。むしろ、気さくで親しみやすそうだ。
ベルゲングリューンは唸った。もちろん、すべて現実にあったことで、夢ではなかったのだ。とたんに前夜、ロイエンタールと交わした出来事についてどっと記憶が戻って低く呻いた。だが、軍人としてのベルゲングリューンの、少しのことには狼狽えたりなどしない実際的な面がよみがえり、トリスタン内のざわめきを感じ取った。早く『ロイエンタール上級大将』に成りきらなくては、それこそ困ったことになる。この軍の命運は彼の肩にかかっているのだ。少なくとも真っ当に見えるように身支度をして、ロイエンタールらしさを身にまとわなくては。
バスルームの巨大な鏡から目を背けてほんの短時間でシャワーを浴びた。頭をタオルでごしごしと手荒く擦って水気を切り、驚くほど肌触りの良い下着とシャツを着てから髭を剃った。ロイエンタールの髭は薄く、じきに手間をかけることなく終わったが、自分と違うこういった面は少し面白いと思った。アフターシェイブの爽やかな香りのするローションを顔にはたいて鏡を見て、ふと、頭髪が四方に乱れていることに気づき、困惑した。
ベルゲングリューン自身の頭髪は主に手入れのしやすさを主眼にした軍人らしい短髪で、理容師には多少櫛目を通せば様になるように注文している。だが、ロイエンタールの少し長めの頭髪は櫛を通すとふんわりとしたものの、すべて目にかかって垂れさがってしまった。ロイエンタールがこんな洗い立てのさらりとした髪で人前に現れたことはないから、かなり手間暇をかけて整えているに違いなかった。
昨日の朝シャワーを浴びた後、適当に頭髪を掻きまわしていると、ロイエンタールが舌打ちをして手ずから髪を整えてくれた。ところがどのように整えてくれたか思い出せなかった。そんなことに注意を払っていなかったのは確かだ。なにせ、昨日の朝は人生を揺るがす大事件に心を奪われていたのだから。
―とにかく、バスルームのどこかにこの頭を固める整髪料の類があるはずだ。
それらしい瓶かボトルは見つけられず、寝室の方にあるのかもしれないと思った。ベッドサイドのキャビネットの中に黒い革張りのいくつかの引き出しを持った箱があった。コロンの瓶や綺麗なカフリンクスがいくつか並んだ引き出しがあり、一番下に避妊具とオイルの入った瓶を見つけた。戦場から戻った兵士たちが最初の機会をとらえて娼館などに行くことは良く知られていることから、帝国軍の装備には必ず避妊具も含まれている。ここにあるのは帝国軍のそっけない無骨なパッケージではなく、なにやら非常に高性能のものらしい能書きが書かれている。オイルのボトルは高級そうなラベルだが説明書きは何もなく、ふたを開けてみると濃厚な香りがして、思わず「うわっ」と声が漏れた。
しかし、ロイエンタールはいつも良い香りを漂わせている。このようなオイルを頭髪に付けているならば良い香りがして当然だ。ベルゲングリューンはそれを手に再びバスルームに戻り、オイルを手に取って頭髪に擦り付けた。櫛を通すとダークブラウンの髪に艶と輝きが現れ、完璧とは言い難いがようやく髪がまとまった。
オイルは底辺に刺激のある香りを保ちつつ、どことなく動物的なむっとする薫りがする。着けてから香水の類に疎いベルゲングリューンも、これはまずいなとさすがに気付いた。戦場にいるロイエンタールがいつこのような香りを必要とするのか不明だが、どうも夜会などで着けるような香りではないかという気がした。しかし、これを着けないならば頭髪はバサバサのままだ。
―頭髪用ならそれほど長時間匂うということもなかろう。他の香水を付ければ帳消しになるかもしれん。
先ほどの黒い箱にあったコロンを浴びるようにつけて、これはいつもロイエンタールが漂わせている香りだとほっとした。頭髪の匂いはもう気にならない。
朝時間のアラームが艦内に鳴り響き、ほぼ同時にビジフォンが鳴った。ベルゲングリューンは急いで軍服の上着を羽織るとビジフォンに出て、朝食をとりつつレッケンドルフの報告を聞くと回答した。
控えめなノックの音がして、朝食のトレイを持った従卒を従えてレッケンドルフがやって来た。
「おはようございます」
「おはよう」
朝食のトレイがデスクに置かれて、ベルゲングリューンはフォークを取り上げた。コーヒーを注いでいた従卒の少年が急にくしゃみをし出した。「も、申し訳ございま…」、と涙目になりながら口を手で押えている。レッケンドルフが「もうよい、行きなさい」と言って従卒を下がらせた。
「あの子は風邪でもひいたか」
「はあ…」
副官は何か言いたげだったが、ベルゲングリューンが朝食を食べ始めたので、気を取り直して報告に取り掛かった。
特に気になるような報告はなかった。朝のうちに再び艦橋に行き、問題がなければ司令官室で少し書類に目を通してほしい。その後、艦橋に戻って、時間があれば艦内を巡察してはどうか…、云々。
ベルゲングリューンが朝食を片付けてコーヒーを飲んでいると、レッケンドルフはようやく決心したように言った。
「閣下、今朝はおぐしがいつもと違いますね」
「む、んんん…。そうか、ぼんやりしておったせいかな…」
内心冷や汗をかいたが、レッケンドルフが安心させるように微笑んだので、副官ならいいかと思った。
「その…。目の前に同盟の奴らがいると思い、柄にもなくどうも慌てていたようだ。シャワーを浴びて直すか」
「それでは時間がかかってしまいますでしょう。よろしければ…。ちょっと失礼」
レッケンドルフはバスルームに行くと、手にスプレーと小さなケースを持って戻って来た。そのケースはベルゲングリューンが捜していたヘアワックスで、どうやらまたやってしまったらしいと気づいた。
レッケンドルフは再び「失礼します」、と言ってから司令官の背後に立ち、スプレーを吹きかけると、胸元から出した櫛で丁寧に頭髪を梳かした。周囲に濃厚なオイルの香りが立ち上った。あまりに強烈に匂うので恥ずかしく、ベルゲングリューンの頬が火照った。レッケンドルフは上官の戸惑いに気づいているかの如く、髪を梳かしながら優しく声をかけた。
「いい香りですね」
ベルゲングリューンはしぶしぶ答えた。
「少し匂いが強すぎるようだ」
「ヘアオイルですからじき香りが飛ぶでしょう。あの、実は…。それよりも、お着けになっているコロンの方が、その、実は、着け過ぎではないかと」
「シャワーを浴びてこよう」
急いで腰を浮かしたが、レッケンドルフが上官の肩を押さえて再び座らせた。
「いえいえ、大丈夫です! このコロンはトップノートが強めですが、こちらもじき飛んでしまうでしょう。ミドルノートになれば艦橋に相応しい香りになるかと思いますので、その頃に向かえばよろしいでしょう」
トップとかミドルとか、何のことだか分からなかったが、レッケンドルフが確信ありげに言うので、副官の言う通りにすることにした。
レッケンドルフはヘアワックスを適量手に取ると、慣れた手つきで上官の頭髪に軽く揉み込み、櫛を通して形を作ると、どこからかドライヤーを引っ張って来て熱風を当てた。
「さあ、終わりです。いつも通りとはいきませんが、たぶんこれなら―」
副官が口の中に何をしまい込んだか不明だが、「まだましだろう」と言いたかったに違いないとベルゲングリューンは思った。
バスルームの鏡で見たロイエンタールは完璧だった。
自分の至らなさにいささかがっかりしてデスクに戻ると、副官は神妙にして端末を手に立っている。
「ありがとう」
にっこりした副官の頭髪は兵士のものと比べれば長く、それをきれいに整えている。自分の頭をこのようにきれいに出来るのならば、他人のものを整えるのもお手のものだろう。
「これからは卿に頼んだ方が良さそうだ」
冗談めかして言ったが、閣下をみっともなくさせてしまうよりはと、半ば本心だった。
「いえいえ、とんでもない。上手くいかない朝もありますよ。そう言っていただけるのは光栄ですが」
「卿はいつも身ぎれいにしているな。その頭は以前からそんな感じか」
「覚えていませんが、ここ数年はこんな感じです」
曖昧な微笑みから察するに、言葉とは裏腹にいつから維持している髪形か、本人はよく覚えているとみた。
「クルーカットにせよなどと言う上官もいただろう。おれが大尉の頃も身だしなみに煩い上官がいたものだ」
だがレッケンドルフはにやりと笑って答えた。
「ええ、確かに。しかし、私は与えられる以上の仕事を十二分にしておりましたから、文句を言わせる隙は与えませんでした。髪の毛で仕事するわけでもなし、クルーカットの方が仕事が捗ると言われたって、そんなたわ言に耳を傾けなどしません」
「生意気な部下だな」
思わず言うとレッケンドルフが照れ臭そうに笑った。
「それに、その上官はかなり頭髪が寂しくていらっしゃいました」
そう付け加えたので、声を放って笑ってしまった。なるほど仕事が出来るのは無論だが、この大人しそうな容貌にこんな反骨心を秘めているとなれば、閣下が面白がって側に置くのも分かる気がする。
レッケンドルフも笑っていたが、ふと、自分の軍服の袖に鼻を近づけて眉をひそめた。
「匂いが付いたか。かまわんから軍服を着替えてこい」
レッケンドルフは静かに首を振って微笑みを返した。
「いい香りです。それに閣下の香りを私が嫌なはずがありません。喜んで着けさせていただきます」
じっと見返すレッケンドルフの視線に何か堪えがたいものを感じて、ベルゲングリューンはコーヒーカップの中身を見ながら、「好きにしろ」とつぶやいた。
「はい。では、ご要望でしたら明日の朝も少し早めに伺っておぐしを整えさせていただきます」
「む…。卿に余計に早起きをさせるようなら…」
「ご遠慮なく。閣下も寝間着のままで気楽にしていただいて結構ですよ。ではこれで失礼して、私は執務室へ戻ります。後ほど、ご確認いただきたい書類などお持ちいたします」
「う、うむ。ご苦労だった」
副官は完璧な敬礼をすると踵を返して戸口から出て行った。ベルゲングリューンは今かわした副官とのやり取りのどこが、彼の背筋をもぞもぞさせ、居心地悪くさせるのか考えながら午前中を過ごした。

ロイエンタール上級大将率いるイゼルローン方面軍は、その将兵らのあずかり知れぬ問題を抱えながらも大過なく宇宙を進んだ。遺漏なく作戦を遂行するため、すべての将兵が持てる力を十分に発揮することを求められた。ベルゲングリューンの目から見るとブラスターよりも端末機器の方が持ち慣れている風情のレッケンドルフですら、上官に従って数々の戦火をくぐり抜けてきているのだ。
その日とうとう、ロイエンタール率いる帝国軍はイゼルローン回廊において同盟軍戦艦の姿を捉えた。
司令官として艦橋に陣取るベルゲングリューンはその敵の戦艦を追うかと問われて、即座に不要、と答えた。すぐそばに立つ参謀長の顔色を窺うまでもなく、哨戒の戦艦などは彼らの敵ではないことは明らかだった。立ち向かうべきはただ一人、ヤン・ウェンリーである。武人としてベルゲングリューンは自分の才覚に相応の自信があるが、それでもあの同盟軍の名将に対等に太刀打ちできるものとは思っていない。だが、今側に立つこの人ならばあるいは…、と思うのだ。上官の才能への心躍るような大きな期待―。ベルゲングリューンにとってその感情を抱くのは二度目の経験であると思い至り、彼の心は痛んだ。それはほんの一年前の出来事だった。だが戦いの興奮の前にその思いはゆっくりと彼の心の裏側に後退し、消え去った。
この戦闘で彼の上官が歴史を変える瞬間に立ち会えるかもしれない。もし、そのための一翼を彼が担えるとしたら、これは最高の栄誉ではあるまいか。
艦橋のスクリーンに巨大な銀色の球体が映っていた。
スクリーンを見つめて静かに立つ『ロイエンタール』は、堂々として、かつ優雅な雰囲気を漂わせていながら、戦いへの興奮をはっきりと現した猛々しい姿を見せている。それらの相反する要素が共存するのを見るのは不思議なほどだった。隣に立つ参謀長『ベルゲングリューン』中将の方が逞しい体格なのに、その彼よりずっと堂々として見える。とはいえ、その参謀長も戦いへの期待に打ち震え、荒々しい目つきをしていた。
その時、『ロイエンタール』の右手が鋭く振り降ろされた。
「撃て!」
永遠に続くほどの長い間何十万ものビームが白熱し、多くの砲台や銃座を破壊した。だが、帝国軍が浴びせた斉射の余韻が過ぎると、イゼルローン要塞は再び元通りの傷一つない姿を現した。
総司令官の姿をしたベルゲングリューンは感嘆して思わず呟いた。
「小揺るぎもしませんな」
参謀長を演じるロイエンタールも周囲には聞こえない小さな声で答えた。
「するわけがない」
ベルゲングリューンはすぐそばにいるロイエンタールも自分と同じことを感じ、考えていることが分かった。彼らの任務はローエングラム元帥の壮大な戦略のうちの陽動を担うものとして、イゼルローン要塞を相手に派手に戦いをぶち上げるのが目的なのだ。対する相手は同盟軍の最高の知将。ヤン・ウェンリーを敵に出来るとは大した名誉だし、この戦いの過程で彼を倒す可能性もあり得るのだ。
とうとう始まってしまったとの不安による震えが、興奮に置き換わるのが分かった。彼はさっと副官に振り向くとルッツ提督への通信を指示した。計画通り、半包囲態勢を取るようにとの命令が総司令官によりためらいもなく告げられた。
ベルゲングリューンは目の端にその命令を認めて微かに頷く参謀長の姿を見た。
戦いは馴染みがあるものだった。更にロイエンタールが『参謀』として側にいるのであれば、その他の日常の些細な齟齬など、心配するほどのことでもない。
―いつか元の身体に戻る…。どうやってかは未だ分からんが、それは絶対だ。だが、それが今でなくともこの戦いをこの方と一緒に戦うのだ。俺はロイエンタール上級大将として戦おう。いつかこの方が元の身体に戻られる時、この方の武勲が更に高まるように、せいぜい同盟のペテン師を相手に戦い抜いてやる…!
胸を張って堂々と立つ、総司令官ロイエンタール上級大将の典雅なる雄姿を、周囲の者は感嘆の想いを隠しもせず仰ぎ見た。参謀長が眩しそうに上官の姿から視線を逸らしたことに気づくものはいなかった。

 

​面影を抱きしめて

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