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4、

イゼルローン要塞に近づいていた。
まだ偵察機は敵を見つけてはいないが、それも時間の問題だ。ベルゲングリューンは時間をおいて数回、副官を伴い艦橋を訪れたが、そのたびに「異常なし」を告げられた。現在の自分と上官の抜き差しならない状況を考えると、言い知れない焦りを感じた。上官にはああ言ったが、本来の総司令官の代わりに戦うなど、ひどい冒涜行為だ。しかも並の司令官ではない、帝国の名将、ロイエンタール上級大将の戦いなのだ。
夕食の時間になると、いてもたってもいられず司令官室を飛び出した。ロイエンタールとなんとしても話し合わなければならない。それにもしかして何かの拍子に突然、元に戻ることがないとも限らない。曲がり角でいきなり互いにぶつかってその拍子で…とか。その時に備えて二人は常に側にいるべきなのだ。そもそもこの状態になったのは二人が同じ部屋で眠っている時だった。また同じ状況を作り出せば、同じように何らかの力が働いて元に戻るかもしれない。
それはいささか楽観的だと我ながら思ったが、とにかくどんな馬鹿げた方法であっても、元に戻るために努力しなくてはならないのだった。
―俺の勘違いでなければあの方はあまりに気楽にこの状況を考えていらっしゃる。二人の身体が入れ替わったことなどまるで大したことではないかのように。
その時、ベルゲングリューンは廊下で立ち話をしている士官たちの話し声を耳にした。
「―もう少し参謀長のお話を聞いていたかったんだが、時間になってしまったんでな」
「まだおいでだったら、ぜひ私もお話を伺いたいものだ。ベルゲングリューン中将の武勇伝が聞けるとは楽しみだ」
「とても面白い話を聞かせてくださったよ。噂とは違ってずっと気さくな方だな」
その時、総司令官がこちらへやって来るのに気付いて、二人の士官は慌てて敬礼をした。
ベルゲングリューンは答礼してから、士官たちに問いかけた。
「参謀長は食堂で食事中か」
「はっ、そうであります」
「まだしばらくは食事をしていそうか」
「はっ、小官が立ち去りました時はまだ半ばまで召し上がっておられませんでしたから、まだおいでかと存じます」
ベルゲングリューンは頷いて、ひどく驚き恐縮している士官たちを解放した。
―俺が気さくだと…!?
ベルゲングリューンが友人たちからそのように評されたことはかつてない。親友のビューローなどむしろ、もっと気楽になれ、などと言うくらいだ。それは自覚している彼の性格でもあった。ロイエンタールはいったい何をやっているのだろう?
―しかも、気さくに武勇伝を語るなど、閣下のご性格としても似つかわしくないものだ。
ロイエンタールはもしや、トリスタン内の士官たちの士気を高めようと、そのようなことをしているのだろうか。総司令官という高位にあっては士官たちと気軽に話すことも難しい。この機会に普段、出来ないことをしようとしているのかもしれない。
―きっとそうだ。我々の敵はかの魔術師だ。今のうちにあらゆる布石を惜しまず、俺の姿でも出来ることをなさろうと努力を…。
総司令官の姿が士官食堂の戸口に現れるとそこかしこから驚きの声が上がり、騒がしかった室内に恐ろしいほどの静寂が満ちた。士官たちがナイフやフォークを放り出して、一斉に立ち上がって敬礼したので、ベルゲングリューンは内心『またやってしまった…!』とドッと冷や汗をかいた。ぐっと内心の思いを押し隠して答礼した。
「邪魔をした、かまわず食事に戻ってくれ」
士官たちは着席したが、居心地悪そうにしている。
―恐らく参謀長は司令官よりは気楽な身分だろう。
そう言ったロイエンタールの言葉を思い出す。確かにロイエンタールが今まで士官たちの食堂に自ら足を運んだことはなかった。司令官たる者、自分の旗艦だからと言って気軽に方々うろつくことは許されていないのだ。ベルゲングリューンとてそれは分かっていたはずだが、焦燥感に駆られて迂闊な行動をとってしまった。
食堂の奥に、眉間に微かな苛立ちを漂わせてこちらをじっと見つめる参謀長の姿があった。
「俺はそろそろ失礼する。卿らはゆっくり食事をしてくれ」
参謀長は朗らかにそう言って席を立った。周りの士官たちはにこやかに「ありがとうございます!」と返事をして、敬礼した。ロイエンタールは苦笑して答礼しながら、ベルゲングリューンの方へやって来た。
その表情ははっきりと不快を示していた。
「このようなところで、お一人で何をなさっておられる」
参謀長は声をひそめもせずに総司令官を叱責した。
「卿を探していた。卿の武勇伝を話していたそうだが、せっかくの話を聞き逃して残念だ」
彼の叱責にはむっとした。そのせいで、ロイエンタールらしい言葉を探して口を突いて出た言葉は、ぶっきらぼうになった。上官に向かって言うべき言葉遣いではない。だが、苛立ちを隠さずにこんな言葉を言えることに背徳感に似た快感を覚えた。
「私をお探しだったと? 何か重要なお話でもありましたでしょうか」
「少なくとも卿の武勇伝を聞くよりは重要な話だ」
「ほう…? 司令官閣下が自ら私を探しに来るほどの重大事ですか」
後ろで手を組み、直立不動で食堂の戸口に立ってこちらを見る目は、憎たらしいほどにこやかだ。
食堂にいる士官たちは何事か起こったかと息をひそめて参謀長と司令官の様子を伺っている。このままでは士官たちを不安がらせることになると気づいた。ここは何か言うべきだろうと、声を上げた。
「食事中に騒がせたな。明日にも我々は同盟の奴らと出会うだろう。今のうちにしっかり食事をして英気を養ってくれ」
言わずもがなのこととは思ったが、総司令官の言葉は激励として受け入れられたことを士官たちの表情は物語っていた。
参謀長になされたものよりも格式ばった敬礼が交換され、司令官は内心ほうほうの態で食堂を退出した。
ベルゲングリューンは先頭に立って、黙って司令官室に向かった。ロイエンタールは明らかに現在の状況を楽しんでいる、との疑惑は先ほどの食堂での様子を見て確信に変わった。
司令官室に入った途端、ロイエンタールがため息をついた。
「卿はいったい何をしているんだ。護衛も連れずに一人で艦内をうろつくな。慎重な卿らしくもない」
「そのことについては考えが至らず、申し訳なかったと思います。しかし、閣下こそ何をしておいでなのか、伺いたいと存じます。あまり好き放題なさって、『私』らしくない行動をとらないでください。後で私が困ります」
「卿とて士官たちと話くらいするだろう」
「しないとは申しませんが、大事な戦の前に浮かれて、しゃべりまくるようなことはしません…!」
ロイエンタールが腕組みして大きなため息をついた。
「大いなる戦への期待に興奮した参謀長が、士気を鼓舞しようと昔話に興じると言うことはありえんことでもないさ」
「そもそも、あなたに私の昔話を話すことが出来るわけがありませんでしょう…! 元に戻ってから私に閣下のお喋りの尻拭いをさせるおつもりですか…! この状況をあなたは全く分かっておられない…!」
どさりとソファに腰を下ろすと、ベルゲングリューンは頭を抱えた。手の中にさらりとした髪の毛が感じられ、思わず知らずそれを握りしめた。
「元に戻ることなどできるのだろうか…?」
その小さな呟きはベルゲングリューンの背筋を凍らせた。頭髪を乱したまま顔を上げると、ぼんやりした表情の『ベルゲングリューン』が彼を見下ろしていた。
「そのような魂の抜けた顔をなさいますな。きっと元に戻れます。戻ります」
ロイエンタールは隣に腰掛けて、微かに首を振った。座った互いの膝がコツンとぶつかった。
「魂の抜けたような…か。どのようにして卿とおれの魂は交換したのだろうな。とても自力で何とかなることとは思えない。それならば、なんとか今の状況に慣れるしかあるまいが」
二人は黙って並んで座っていた。上官の身体の暖かさが感じられるようにベルゲングリューンは思った。
戸惑いを振り払い、隣に座った彼の膝に手を置き、強く揺すった。
「なんと閣下らしくもない、戦いもせずに敗北を受け入れるのですか?」
ロイエンタールが驚いたように目を上げて、そして苦笑した。
「まるで抵抗し続ければ元に戻ると思っているみたいだな」
確かに子供じみた考えだが、基本的には間違っていないと思った。だいたい、本来の自分を取り戻したい、と思うことは当たり前の要求ではないか?
「どうするべきか、はっきり分かっているわけではないんです。ですが、今の状況に甘んじていいはずがないと思うのです。座して受け入れるのではなく、あらゆる方法を探って、抗って、なんとか解決に導かなければ…」
『ベルゲングリューン』の目がじっと見つめ返した。ふと、手の中のごつごつした膝の感触に気づき、手を離した。それは岩を握っているかのようにがっしりとして、衣服の上からでもひどく熱を持って感じられた。このように相手の身体の熱を感じると言うことは、反対に『ロイエンタール』の手は少し体温が低いのだろう。互いに戦斧を振るったあの時、激しい運動のお陰でどちらの身体も同じくらい熱くなっていた。あの時感じた一体感、どちらの魂がどちらの肉体の持ち主とも分かちがたい、あの瞬間が恋しくなった。
ベルゲングリューンは考えつつ、のろのろと言った。
「あの時、戦斧を振るいながら…。まるで閣下と私の身体が一つになったような…、ぴったりと波長が合って熱くなって…。もしかして、あの時と同様に身体が完全に一致するような状況になれば…、互いに魂が流れ込みやすくなるのかも…」
馬鹿げたことを言っていると気づいて、ベルゲングリューンは笑って首を振った。
「我ながらおかしなことを言っておりますな。バイオリズムが一致したというのでしょうか。あの時は閣下と私、どっちでもいいようなそんな感覚でした。頭がふわふわして、カーッと身体中が熱くなって…」
「…卿の言うように、我々の身体が体温や呼吸、鼓動まで、完全に重なり合う状況を再び作り出せば、魂が本来の自分の場所へ戻りやすくなるか?」
そう言うロイエンタールの表情は神妙そうにしているが、なぜか、今にも笑い出しそうだった。
「あるいは、かもしれませんな」
「ではやってみよう」
突然、ベルゲングリューンの両肩は強く引っ張られた。驚いて顔を上げると『ベルゲングリューン』のいかつい顔が目前に迫った。
そして、唇を唇でふさがれた。
目は大きく見開いたまま何も見えず、脳みそは急速回転をし出した。
都合よく忘れていたのだ。あの戦斧を振るいあったあの時、互いの熱が最高潮に達した時、ぶつかり合った肉体がどちらも興奮に固くなり、熱く高まっていたことを。
強い力で唇に吸い付かれ、温かい感触と共に舌が唇を割り、口内に侵入してきた。
「むー!」
吸い付いている口を引きはがそうとして、噛りつかれて心臓が飛び跳ねた。痛みの中にまぎれもなく欲望の高まりを感じて、先ほどまでの冷えはどこへやら、指先まで熱くなった。どっと汗が吹き出し、それこそあの時と同じ、震えが背筋を走り、身体の中心が痛くなった。
どちらが誰だと気にすることもなかった。自分が感じるもの、彼が感じるもの、ただ二人がいると言うだけのこと。再び手の中に彼の身体を感じたが、指先は震えて神経が尖り、はっきりと感じ取れない。軍服の布地に汗ばんだ手のひらを走らせ、擦り付けるようにしてがっちりとした両腕にしがみついた。
突然、自由になった口で浅い呼吸を繰り返していることに気づいた。
目の前に『ベルゲングリューン』の顔があり、ぎょっとした。その瞳は荒々しく光り、明らかな欲望に潤んでいたので、急いで視線を逸らした。
「…そんな顔をするな。今までおれがそんな淫らな顔を晒していたかと思うとぞっとする。だが、目をつむれば互いの顔などどうでもよいことだ」
『ベルゲングリューン』の声音でつぶやかれたその声こそ、耳をふさぎたくなるほど淫らで、だが、本来の持ち主はそんな声で誰かに話しかけたことなどない。声音は『ベルゲングリューン』のものかもしれないが、話しているのは確かに彼なのだと思った。
彼の片方の手がベルゲングリューンの胸を滑り降り、腹を巡ってベルトの上に降りた。その『ロイエンタール』の筋肉に覆われた平らな腹の下は、誤魔化しようがないほど興奮ではち切れんばかりになっていた。彼の手はそこを目指している。
「駄目です! いい加減にしてください!!」
強くドンと彼の胸を押して、ベルゲングリューンはソファから飛び上った。
押しやられて、ロイエンタールもすぐに立ち上がって、何かを言おうと口を開いた。
「さあさあ、明日にも同盟のやつらと鉢合わせるに違いない、こんな時に馬鹿げたいたずらをしている場合ではありません! さあ、部屋に戻ってください!!」
彼がまた何か言おうとして口を開いたので、ベルゲングリューンはぐいぐいと肩を押し出して戸口へ向かわせた。
「ベル―」
「さあ、行ってください! そして、ゆっくり休んでください! 司令官席に座るのは私かもしれないが、本当にこの軍を導くのはあなたなんですぞ! 睡眠不足になどなったら大変だ!」
ロイエンタールの顔を見ずに戸口から押し出し、最後まで何も言わせずにしっかり扉を閉めた。ベルゲングリューンは扉に寄り掛かって大きくため息をついた。彼が何を言おうとしていたか、知るのが怖かった。

​面影を抱きしめて

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