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3、

 

朝食を済ませると食べ過ぎの感のある腹を撫でつつ、レッケンドルフの報告を受けた。その頃にはベルゲングリューンも調子を掴んで慌てることなく副官とその日の予定を話し合うことが出来た。そもそもこういったことは自分の艦の艦長だったころに経験があることだ。その後、次の予定までの空き時間に上官の部屋の中を探索した。
何を見つければよいのかも分からず探した。呪いの人形か、いかにも怪しげな魔法の道具か…。ロイエンタールがそういったものを駆使して自ら身体を交換したとは思わない。彼ら二人とも何者かに陥れられたのかもしれぬ。だが、この部屋で見つけたもので気になるようなものといったら、高価なウィスキーの瓶くらいのものだった。他には何もない。少なくとも自分の目で見つけられるものの中では。
その後、艦橋に赴くと参謀長が澄ました表情で彼を待っていた。『ベルゲングリューン』の顔をしたロイエンタールは上官の姿を認めて勢いよく敬礼した。本来ならばこの方面軍で最高位にある彼がこのように素晴らしい敬礼を即座に取ることが出来るのは不思議だった。この方とて、ローエングラム元帥の忠実な部下には違いないのだが。参謀長に倣って艦橋にいる士官たち全員が一斉に敬礼した。
ベルゲングリューンは面映ゆい思いを隠しながら彼らに答礼し、任務に戻るように促した。ベルゲングリューンも部下の士官たちから常日頃敬礼を受けているが、それは参謀長としてであって、総司令官ロイエンタールとして敬礼を受けることに違和感を覚えざるを得なかった。
参謀長にどのようにして声をかけるべきか逡巡していると、先に彼の方から話しかけた。
「こちらの偵察機はまだ先方を認めておりませんが、一両日中に同盟の索敵システムの範囲内に入るでしょう。今の段階では特にこれと言って手を下すべき事柄もございません」
参謀長の瞳は力強く、今は何もすることはないのだからボロを出す前にさっさと部屋へ帰れ、と言っているようだった。
平静を保ちつつ頷いて、彼に言おうと思っていたことを伝えた。
「それであるならば、時間があるうちにやっておきたいことがある。ベルゲングリューン、付き合ってくれるか」
その言葉はすらすらと口をついて出た。周囲には誰も不審がったり、訝ったりするものはいなかった。ただ、司令官と参謀長の話を聞き逃すまいと、耳を澄ましているだけだ。
不遜にも訝しげな表情を浮かべたのは参謀長だった。
「やっておきたいこと? なんでしょうか」
ベルゲングリューンはロイエンタールを促して艦橋から外へ出た。廊下をしばらく共に歩いて行き、周囲に聞く者がいないことを確かめてからロイエンタールが言った。
「何事だ」
そのぶっきらぼうな言葉遣いは『ベルゲングリューン』の音声で聞くと、非常に堪えがたく不躾に聞こえる。それを無視して答えた。
「何か見つけられましたか?」
「何か? 何を見つけると言うんだ?」
「もちろん、我々がなぜこんな目に合っているかという理由です! どのようにすれば元に戻れるかという方法です!」
ベルゲングリューンはロイエンタールを揺さぶりたい衝動を抑えて言った。ロイエンタールは「ああ」、と言ってからくすくすと笑った。
「卿は何か見つけることが出来たのか」
「いいえ。閣下のお部屋をしばらく探し回りましたが、残念ながら、解決の糸口になりそうなものは見つけられませんでした」
「…卿はおれの部屋の中を家探したのか? おれのベッドのマットレスをひっくり返したか? それならおれも卿の部屋を探索すればよかったな」
「子供っぽいことをおっしゃいますな。寝室は昨夜使用されなかったのですから、恐らく関係ありますまい。閣下はこの謎を探らずに午前の間中、いったい全体何をなさっていたのですか」
ロイエンタールは忌々しそうに舌打ちすると、ベルゲングリューンの顔に(もとは彼自身の秀麗な顔だが)指先を突きつけた。
「午前の間中、おれが何をしていたかと聞くのか? おれは本来卿がするべき仕事をしていたのだ! 全部片付けてやったから、いずれ卿の元に届くだろう。必ず卿の手で処理しておけ。おれはもう一度あの書類を見ることは御免被る」
ベルゲングリューンは少々顔を赤らめてロイエンタールの(つまりベルゲングリューン自身のごつごつした)指先を見つめた。
「…申し訳ございません。ですが、閣下もお時間がある時は解決のためにご尽力くださることをお約束ください」
「ああ、なるべくそうすることとしよう。戦が始まるまでにもう書類仕事が回ってこぬようならな。ところで卿はどこへ行くつもりだ。その解決策を探しに行くのか」
「そうしたいのはやまやまですが…」
ベルゲングリューンは立ち止まって上官の姿を眺めた。それはこうなる前の『ベルゲングリューン』そのままのような気がした。直立不動を保たず、腕を組んで休めの姿勢で片足を投げ出すようにして立つという、部下としてはいただけない態度だが、特に不自然な動きは感じられない。恐ろしいことにどことなく優雅ささえ感じる。
「あなたはなぜ、そのように普通にしていられるのです? 身体が入れ替わったことなど、何でもないことのようだ。このようにひどく気苦労を感じている私が愚かなのでしょうが…」
ロイエンタールは眉を上げてベルゲングリューンを見返したが、ふと苦笑した。
「すまないな、ベルゲングリューン。突然司令官の役割をやることになって、卿は相当重圧を感じているのであろうな。おれは卿がこの方面軍の重要人物ではないと言うつもりはないが、恐らく参謀長は司令官よりは気楽な身分だろう。おれがどんなことをしようと、仕事の内容が理解できずに失敗しようと、気に掛けるものはあまりいない。せいぜい、参謀長は今日調子が悪そうだ、と思ってくれるくらいだ」
仕事で失敗した、と言う言葉には少し心配になったが、ロイエンタールは平気な顔をしている。大したことではなかったのだろう。いずれにせよ、今はどうすることもできない。しかし、ロイエンタールの思いやりある言葉に心が軽くなった。その言葉は彼もいくばくかは不自由さを感じているのだと分からせた。
「いえ…。確かに重荷ではないとは申しません。今朝など副官相手に馬鹿なことをいたしました」
「ほう? さっそく何かおかしなことをしでかしたか」
ベルゲングリューンは指を振って大げさにため息をついた。
「朝はしっかり召し上がらなくては身体が持ちませんぞ! 朝食だと言って従卒が持ってきたのが、たったコーヒー一杯だったのを見た時の私の気持ちと言ったら…」
「そうか、卿は朝たくさん食べるのだろう。太るぞ。おれはいつも通りコーヒーだけで済ませたら、腹が減って腹が減って仕方がなかった。昼前に食堂にもう一回行った」
「朝は王侯のように食うと申しますでしょう。閣下のは乞食の朝食ですな。お陰で副官には仰天されるわ、腹ははち切れるわ…」
ロイエンタールは明るい声を立てて笑った。『ベルゲングリューン』の声音ではあったが、紛れもく陽気で彼の愉快さがうかがえた。
その声を聞いて、ずっと圧しかかっていた重苦しさが晴れるようだった。この方が側にいれば何の心配もない…。
「絶対に元に戻りましょうぞ、閣下」
力強く言った言葉にロイエンタールは小さな声で「うん」、と曖昧な微笑みを浮かべて答えた。その自信なさげな微笑みに、思わずベルゲングリューンは励ますように上官の肩に片手を置いて、小さく揺すった。
ロイエンタールの肩がびくっと揺れたのが分かった。
ベルゲングリューンは自分の仕草が馴れ馴れしすぎたことに気づき、同じく微笑みを浮かべて咳払いし、誤魔化した。
「―しかし、今朝閣下がおっしゃったとおり、いくさ場で何を為すべきか、私も多少の経験がないわけではありません。私が気になるのはいざという時、私が自分の…、あなたの身体をきちんと制御できるか、自信が持てないことです」
「いざという時? 例えば…、卿が言うのは乱戦になった時のことか。攻撃され、このトリスタンが被弾することもあるかもしれんと。ありえないとは言わぬが…」
「はい、あってはならぬことながら、いかなる事態も想定して備えるべきです。戦においては相手が如何なヤンであろうと、やすやすと負けるつもりはございません。特にあなたがお側についていらっしゃる以上は」
「頼もしいことだ」
いつもながらの皮肉な言葉を無視して、ベルゲングリューンは続けた。
「しかし、もし全速力で逃げろ、となった時ちゃんとこの足で走れるものか、覚束ない気分です。あなたは私の身体をよく制御されておりますな。私はどうもあなたの身体をちゃんと動かせている気がしません。こう…、常にギクシャクした感覚が付きまとっていて」
「おれも卿の身体は少し重さを感じはするが、それ以外は特に不自由は感じていない。もしかして、その体重や筋肉量の違いが一層、卿の脳を混乱させているのかもしれんな」
「はい、そこで時間があるうちに鍛錬できればと。出来ましたら閣下もご一緒に」
ロイエンタールと共にしばらく過ごせば、彼特有の優雅な動きを体得できるかもしれない。とにかく、手足に感じるギクシャクとした不自然さを少しでも滑らかなものにしたかった。
「なるほどな、よかろう。恐らく明日にはもうそんな暇はあるまい。出来るうちにやるべきことをやっておこうというのは、慎重な卿らしい考え方だ」
言葉の途中で後ろを向くと、ロイエンタールは先に立って司令官専用のトレーニングルームに向かった。
ベルゲングリューンはふと気づいて、「閣下!」と呼びかけた。
ロイエンタールが今度は何だと不審そうに振り向いた。
「どうか、閣下。参謀長は参謀長らしく、司令官を先に歩かせてください。あなたがそのように傍若無人に振る舞われては、私はどうしていいか分からなくなります」
傍若無人と言われて、『ベルゲングリューン』の顔が面白いくらいに歪んだ。どうやら屈辱を感じたらしいが、事実なので言わずにはいられなかった。お互い、どこでボロを出すか分からないのだ。
ふいにロイエンタールが左の胸に右手を当ててお辞儀をし、流れるようなしぐさでその右手を廊下の先に示した。
「それでは閣下、お先にどうぞ」
ベルゲングリューンは上官を心もち睨み付けてから、先に立って歩き出した。『ベルゲングリューン』の小さなくすくす笑いが聞こえた。
このままこの方の好きなようにさせておいては、じきに参謀長は柄にもなく、貴族的な振る舞いを身につけることにしたらしい、と噂が立ってしまうだろう。

更衣室で身軽な運動用のウェアに着替えた。ベルゲングリューンはしみじみと『ロイエンタール』の身体を鏡で見た。これまで上官がトレーニングする様子を見る機会はなかったが、この筋肉は決して見せかけのものではあるまい。かつてレンテンベルク要塞の戦いで、自ら血みどろになって戦斧を振るい、貴族連合の兵らを震え上がらせたと聞いている。
ベルゲングリューンはまず真っ先にランニングマシンで走ってみた。いきなりひっくり返る愚をおこさずにすむよう一番ゆっくりの歩くペースから始める。マシンが心拍数をモニタしつつ、徐々にペースを上げていく。だが、かなりのペースで走っても息切れも疲れもせず、この足はなんと軽いのかと感嘆した。踏みしめる力強い足音を聞きながら、『ロイエンタール』の若々しく強靭な肉体がどこまで耐えられるか、純粋な興味で追い詰めていった。不自然さは細かい作業においてより一層感じるものらしく、マシンの設定を変えようと指先を動かすと、一度ならず失敗した。だが、大きな筋肉の動きにおいては体が温まるとすぐに不自由さは感じなくなった。
心地よい汗を拭いながらベルゲングリューンはマシンから降りた。ロイエンタールはトレーニングルームの壁一面を覆う鏡に向かっており、型通りの動きで模擬戦用の戦斧を持って振るっていた。
ベルゲングリューンを振り返り、にやりと笑う。
「手合わせ願おうか」
答える間もなく、鋭い攻撃が降って来た。咄嗟に飛び退いて素手のまま身構えた。ベルゲングリューンに武器を取らせず、絶え間なく戦斧を振るって攻撃を仕掛けてくる。あのような鋭く華麗な動きは『ベルゲングリューン』の身体は知らない。ロイエンタールは重いはずの筋肉を酷使して、熟練した剣士のみがなしうる剣捌きで攻撃する。ベルゲングリューンは刃をかいくぐって床を転がり、素早く立ち上がると、壁に立てかけた模擬用の戦斧を手に取った。いきなり戦斧が手を狙って来たので、力いっぱい腕を振るってそれを跳ね返した。
途端に両手を衝撃が貫き、戦斧を取り落しそうになった。それまで如何に力任せに戦斧を操っていたか、腕の痛みで痛感した。即座に今までの戦い方はこの肉体では通用しないと判断した。『ロイエンタール』の筋肉は『ベルゲングリューン』の重い攻撃は受けきれない。力任せの攻撃方法を捨て、身体の軽さを生かす敏捷な動きでロイエンタールの鬼神の如き攻撃をかわした。
ロイエンタールとて、こんな無茶な攻撃がいつまでも続くはずがなかった。これまでにまったく馴染みのない身体で戦っているのだ。きっとじきに疲れてしまう、その時まで耐えてかわし続ければ…。
トレーニングルームに二人の激しい息遣いがこだました。それは互いの潜在意識の中に潜り込み、一体となったかのようだった。完璧に調和した同じリズムで息を吐き、心臓は同じ早さで血を送り出した。
今、どちらがロイエンタールで、どちらがベルゲングリューンであるか、二人とも気にすることはなかった。ただ共に力強い2つの肉体がその技量と戦いの知力、体力を限界まで押し上げ互いにぶつかり合った。
その時は思いがけない形で突然やって来た。引っ掛けて吊り上げた二本の戦斧が絡まり、ロイエンタールのもののみならず、ベルゲングリューンの手からも飛んで行った。
二本の模擬戦用の戦斧は天井にぶつかり、本来危険はないはずのいくつかの柔らかい部品が弾けて床に降り注いだ。二人は驚いて腕で頭を庇った。
共にぜいぜいと荒い息を吐いていた。同じように空っぽになった手を見て、そして互いに驚愕に目を見開いて顔を見合わせた。
見開かれた瞳を通して、彼も同じことを感じている、とベルゲングリューンには分かった。激しい攻撃を仕掛け合ったあの瞬間、まるで彼ら二人が一体となったかのようだった。血が湧き立つような一瞬にいったい何が起きたのか。
ベルゲングリューンはその時、トレーニングルームの鏡の中に彼ら二人の姿を見た。トレーニングウェア姿のまったく様子の違う、対峙する二人の男の姿。

緩く拳を握って足先に重心を乗せた剣士の態勢で、『ベルゲングリューン』がゆっくりと手をあげ、大胆にも上官に向かって手を伸ばし、その顔に触れた。鏡の中の『ロイエンタール』は触れて来た手に一瞬びくりとしたが、その手をぐっと握った。
共に熱を持った手と手は汗によって吸い付くように貼りついた。自分たちの存在も忘れ、ただ手の中の熱い手と、同じリズムで呼吸するその息の激しさだけを感じた。
鏡の中の『ベルゲングリューン』がいきなり荒々しい動きで腕を伸ばし、『ロイエンタール』の細い腰を掴んだ。ぐいと引き寄せられて、『ロイエンタール』が部下の方へよろめいた。
二人の腰と腰がぶつかり合い、明らかな性の高まりを感じ、鏡の中の『ロイエンタール』が怯えた表情をして色違いの目を見開いた。その瞳には狂気を潜めた『ベルゲングリューン』の思いつめたような表情が写っていた。
「…あぁ…っ!」
『ロイエンタール』がかすれたか細い声を上げた。
途端に『ベルゲングリューン』が「うわっ」、とおかしな声を上げて『ロイエンタール』を突き飛ばし、二人の間の親密な空気は破られた。
『ベルゲングリューン』は真っ赤になっていた。先ほどの試合のせいばかりではない証拠に、こめかみから首筋に至るまでひどく真っ赤だった。
「おれの声で色っぽい声を出すな! 気色悪い!!」
「な…、何をおっしゃるか! しかも気色悪いですと! これはあなたの声ですぞ!」
ベルゲングリューンは目の前の顔が真っ赤になっているのを見て、自分もまたぐんぐんと頬が火照るのを覚えた。
「おれの声を使用する場合はよくよく気を付けろ!」
「お言葉ですが、閣下! これ以上はないほど気を付けております!」
真っ赤になって指を突きつけ合って喚いた。喚いていれば恥ずかしさや、なにより肉体の高まりを忘れることが出来る。
だが、今起こったことをなかったことにすることは出来なかった。互いに不自然に視線を逸らしたことで、かえってその事実は際立った。

 

​面影を抱きしめて

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