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​面影を抱きしめて

2、

 

ローエングラム元帥の壮大なる作戦の一翼を担うロイエンタール上級大将とその部下は、このイゼルローン要塞攻略の遂行のため、昼夜を惜しんで策を練った。無事帝都を飛び立ちイゼルローンへ向かった時には、一大艦隊が司令官の指先一つで自在に動くようになっていた。その代わり、参謀長ベルゲングリューン中将以下幕僚たちは、出征前にしてすでにだいぶ疲れ切っていた。そのためイゼルローン要塞に到達するまでに体力と気力を回復するよう、彼らの上官は厳命した。命令したロイエンタールとて同様で、本当はすぐにも休まなくてはならないのに、ベルゲングリューンを相手に遅くまで最後の確認を行っていたのだ。そしてロイエンタールはあくびをし出したベルゲングリューンをソファに追い立てた。抗議するベルゲングリューンに、自分もベッドでちゃんと寝るからとなだめて、結局デスクの上で腕を枕に寝込んでしまったのだった。
ロイエンタールは部下より先に目覚めた。デスクの前にいたはずが、ソファに寝ころんで艦の天井を見上げていた。何かが彼を目覚めさせて、この異様な事態にいち早く気づくことになった。
今、『ロイエンタール』の顔をしたベルゲングリューンはソファに座り、ロイエンタールは『ベルゲングリューン』の顔でデスクの自分の席に腰掛けて、互いを直視することを避けていた。二人とも相手の容貌に自分のものであるべき顔かたちを見つけることにうんざりしていた。
「ソファにいた私に閣下が乗り移り(?)、デスクの前にいた閣下に私が乗り移った(??)ようですな。何がどうしてこうなったのか…。とにかく何とかして元に戻らねば。我々は今、重要な任務を負ってイゼルローンに向かっています。このままでは作戦の遂行すら危うくなります」
ベルゲングリューンは自分の口からロイエンタール上級大将の声が漏れることを何とかして無視しようとした。顔をしかめたり首を傾げたりしながら話すがそれで変わるはずもない。
「卿の言葉はいつもながら的確だな。だが、どうやって元に戻る? どのようにして今の姿になったのかすら分からんのに」
ロイエンタールは目の前で繰り広げられる百面相を見て、顔をしかめながら言った。
「確かに分かりません…。しかし、何か方法があるはずです。何か理由があってこうなったはずです。そうではなくては、人は皆、ある日突然意味もなく自分が自分でなくなってしまうことになる」
おかしなものだが、『ロイエンタール』の声は非常に説得力があった。自分としては平板に淡々と話しているだけのつもりなのに、不思議と感情に訴えるものがあった。いつしかベルゲングリューンは自分の声に聞き入っていた。
「理由? 方法か…? この宇宙の中で何か魔法の輪を踏んだのか、それともトリスタンのこの部屋に何か秘密があるのか」
二人は思わず部屋の中を見渡した。洗練と優雅さが調和した、調度品や家具にロイエンタールらしさが表れているとはいえ、それは何の変哲もない、どこにでもある風景だった。
「だが、先ほど卿が言ったように我々の目の前に戦が控えている。その魔法を探している暇があるとは思えん」
「それはそうですが、それでも…」
デスクの向こうから『ベルゲングリューン』の顔でロイエンタールが鼻先から部下を見下ろした。ベルゲングリューンは自分の平凡な顔も、その気になればこれほど傲慢に見えるのだと知った。
「卿はおれの参謀長だ。戦の経験も豊富で戦場においておれの代わりを務めるに足らんと言うことはない。ベルゲングリューン、いいか、卿は今からロイエンタールとして振る舞え」
「しかし…! そのようなことが容易く出来るはずが…!」
腕を組んで顎を上げてロイエンタールは軽侮の表情を浮かべた。それがロイエンタールの顔であったらさぞや恐ろしくも美しい表情であったろう。しかし、『ベルゲングリューン』の顔に現れたそれは、憎たらしい、引っぱたいてやりたいような我ながら生意気な表情だった。『ベルゲングリューン』の肉体の中身がロイエンタールだと知らなかったら、実際に叱責したかもしれない。
「卿は常に参謀の地位にあったわけではあるまい。歴戦の戦士であり、艦隊を率いての実戦の経験も豊富だ。卿がおれの参謀長になった時に見た、卿の経歴は偽りのものだったのか?」
「無論、偽りなどございません!」
侮辱の言葉にベルゲングリューンは胸を張って叫んだ。それを聞いてロイエンタールの表情はふっと緩んだ。
「ベルゲングリューン、おれはこれでも卿の能力を買っているのだ。何をためらうのだ? それにおれは卿の参謀長だ。参謀長は司令官の側を片時も離れず、彼が逡巡する時には適切な助言をすることになっている。卿が迷う時にはおれがすぐ側にいて励まそう。だから、いくさ場で心配するようなことは何もない。そうだろう?」
優しく温かい言葉だった。
確かにロイエンタールの言う通りだった。なぜ不安を感じなどしたのだろう。この人が側にいるのならば何も心配はないのだ。
ベルゲングリューンはロイエンタールの言葉一つでこうも励まされることを不思議に思いながら、感謝の言葉を述べようと口を開きかけた。
その時、明るいアラーム音が鳴り響いた。オーディンの朝時間を告げる、全艦放送のアラームだ。イゼルローン要塞攻略を担う、帝国軍三個艦隊約3万6000隻の将兵が一斉に迎える朝だ。
ロイエンタールのデスクにあるビジフォンから軽い呼び出し音が鳴った。ロイエンタールがビジフォンに答えようと手を伸ばして、咄嗟にひっこめた。
「レッケンドルフだ! 朝の報告に来る! ベルゲングリューン、このビジフォンに出ろ」
「えっ、えっ」
両手を浮かせてベルゲングリューンはソファから中腰になった。呼び出し音は鳴り続けている。
いらいらした声でロイエンタールはデスクから立ち上がった。
「レッケンドルフが報告に来てもいいかと尋ねるビジフォンだ。早く答えろ」

ロイエンタール上級大将の副官、レッケンドルフ大尉が扉を開くと、上官はすでに仕事中らしくデスクの前に腰掛けており、その前には直立不動の参謀長がいた。その姿を見て副官が意外に思ったとしても顔には出さなかった。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはよう」
三者三様に朝の挨拶をする。レッケンドルフはおもむろに端末を掲げて『ロイエンタール』を見た。
「朝食はまだお済みではないようですので、後ほど時間をおいてから参上仕りますが。それともお召し上がりになられる間、ご報告もうしあげましょうか」
『ロイエンタール』がためらいがちに口を開く前に、参謀長が声を張り上げた。
「それでは私はこれで失礼いたします。朝早くよりお邪魔いたしまして申し訳ございませんでした。レッケンドルフ大尉、閣下はだいぶお疲れのようだから、気を付けて差し上げるとよいだろう」
レッケンドルフ大尉は眉を上げて「承知しました」、と答えた。『ベルゲングリューン』は頷いてから勢いよく上官に敬礼すると、かかとを鳴らして回れ右をし、さっさと部屋を出ていこうとした。
「…待て…! べッ…ベルゲングリューン!」
びっくりするような大声で『ロイエンタール』が呼びかけたので、レッケンドルフは目を見張って上官の方へ振り返った。『ロイエンタール』は何度か咳払いをしてから言った。
「卿も朝食はまだだろう。さっきの話の続きをしながら一緒に食べま…食おう」
ゆっくりと上官に向きなおってから、やおら『ベルゲングリューン』が答えた。
「ありがとうございます。しかし、閣下もお忙しいでしょうから、朝食の間くらいは仕事を忘れてゆっくりお召し上がりください。では小官はこれで」
『ロイエンタール』が口を開けたり締めたりしている間に、参謀長は再度とってつけたように綺麗な敬礼をしてからきびきびと扉を出て行った。
ベルゲングリューンは表情を変えぬことに苦労した。眉のあたりがぴくぴくと小刻みに動いたが、自分では止められなかった。
―片時も離れぬとおっしゃったではありませんか! 上官から朝食をともにせよと言われて、断る部下がどこにいますか!
「閣下、ベルゲングリューン中将のおっしゃるとおりです。いずれ時をおかず、イゼルローン要塞の索敵システムの範囲内に入ります。まずはしっかり朝食を召し上がってください」
「う…うむ、卿の言う通りにしよう」
ベルゲングリューンは辛うじてそれだけ言うと、副官が上官の朝食を用意するようにと連絡をするのを見ていた。レッケンドルフは連絡し終わると上官に向き直ってにっこり笑った。そのまま何かを待つように端末を手に立っている。
―何を待っているんだ? 朝食前に閣下はいつも副官と何をしているのだろう。
ベルゲングリューンは必死で脳みその中を探し回って、今まで閣下と副官が二人でいる時どのような様子だったか思い出そうとした。閣下はこの副官をたいそう信頼してお側に置いているようである。ご自身と同じように帝国騎士出身の上品な面立ちのこの若者のそつのない仕事ぶりについて、何かおっしゃっていたことがあったようだがその内容を覚えていない。いずれにせよ、朝、レッケンドルフがロイエンタールに報告に上がることなど、話題に上ったことなどなかったはずだ。
ベルゲングリューンは半ば投げやりな気分で最初に思い付いたことを副官に問いかけた。
「卿はよく休めたか?」
副官の若者はぱっと表情を輝かせて、小さく頭を下げた。
「はい、ありがとうございます。昨夜は急に熱など出してしまい、申し訳ございませんでした。すっかり元気を取り戻しました」
ベルゲングリューンは副官が体調不良だったことなどちっとも知らなかった。どうやら、正しい言葉を発することが出来たらしい。少しほっとして言葉をつづけた。
「元気になったのならよかった。卿はおれにとってなくてはならぬ存在だからな」
「恐れ入ります。そのようにおっしゃっていただけるとは、汗顔の至りです」
ベルゲングリューンは副官の喜色があまりに激しいので少々不安になった。副官は閣下にとって任務遂行のためになくてはならない存在のはずだ。それで間違っていないはずだ。
副官はにこにこしてロイエンタールの前に立っている。他に何か言うことがないだろうかと、ベルゲングリューンは記憶を探りまわった。
―何か…、何か言うべきことがあるのでは…。このような時、閣下はどんな話をなさる? やはり無理だ…! 何故あの方の言葉を信じたりなどしたのか! あの方になり替わることなど到底出来はせぬのにそれをあの方は…。
その時従卒の少年が朝食のトレイを持って部屋に入ってきて、副官がそちらを振り向いたので、ベルゲングリューンはほっと息をついた。
トレイには湯気の立つコーヒーの入ったカップが置かれていた。食堂で見かける様な、割れない欠けない実用一辺倒の白くて無骨なマグカップではなく、綺麗な紺色の色調の絵柄の描かれた、透き通るような地肌の薄いコーヒーカップとソーサーだった。
ベルゲングリューンはじっとそのコーヒーカップを見つめた。そして、側に立つ副官と、トレイを持って副官同様何かを待つ風情の従卒を見た。
ベルゲングリューンは口を開きかけた。コーヒーはいい薫りで彼の鼻孔をくすぐった。
―これだけ…?
閣下は普段から朝食は召し上がらないのだろうか? いや、コーヒー一杯だけでお済ませになるのだろうか? それともこの作戦中だけのことだろうか? 上官が朝何を食べるか、もっと注意しているべきだった。
「閣下…? 何かご不審な点でもございましたでしょうか?」
不安そうに身じろぎしている従卒の少年を見下ろして、レッケンドルフが問いかけた。ベルゲングリューンはほんの子供のころから朝食を欠かしたことなどなかった。これから一日、すきっ腹で過ごすことに不安を感じた。
「いや…、今朝はどうも腹が減っているようだ。何か腹にたまるものを持ってきてくれるか」
途端に副官も従卒も仰天したような表情を浮かべたので、
―しまった…! 閣下は朝は召し上がらない方だったのか!
と心に叫び、どっと背中に汗が噴き出した。
「今すぐお持ちします! ブロートにゆで卵、チーズやブルストもお付けしましょうか?」
嬉しそうに従卒の少年が言ったので、ベルゲングリューンの鼓動は通常の早さに戻った。
「あ、ああ、そうしてくれるか」
「はい!」
嬉々として従卒が部屋を出て行ったので、どうやら重大な間違いを犯したのではなさそうだとほっとした。副官がにこにこしていることからも、自分が間違ったことを言っていないことは察せられた。閣下は痩せていらっしゃるが、いくらなんでも霞を食べて生きているわけではないだろう。
従卒が立ち去って部屋の中に静寂が戻った。ベルゲングリューンは温かいコーヒーを口に含み、ほっと一息ついた。
だが、副官はまだそこに立っていた。
―あ…! そうか!!
コーヒーのお陰か、突如として何を言うべきか思いついた。
「ご苦労だった。レッケンドルフ。食事が終わったらすぐに呼ぶ。下がってよい」
「は! 承知しました。どうぞごゆっくりお召し上がりください。総司令官が朝食をお取りになる間くらい、艦隊も保ちましょう」
それはベルゲングリューンの耳にはずいぶん浮ついた言葉に聞こえたが、閣下は普段から副官にこういう生意気な言葉遣いをお許しになるのかもしれない。浮ついた若者としては文句のつけようのないしっかりした敬礼をしてから、レッケンドルフは弾むような足取りで部屋を退出した。
扉が閉まった途端にベルゲングリューンはコーヒーカップを両手に持ち、がっくりと頭を垂れた。そして大きく嘆息した。

 

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