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21、

出発の準備は慌ただしく、しかし整然と進められた。レンネンカンプ提督のごとく、ハイネセン侵攻がならず悔しがった者は多かったが、更に大きな戦場に向かうことになるのは明らかだったのでそれもすぐに忘れ去られた。総司令官が怠惰であったせいだとは誰も言わなかった。それはイゼルローン方面軍の士気を一度も揺るがせず、持続することに成功した証拠だった。
ようやく戦いに赴いて訓練の成果を発揮出来る、とベルゲングリューンも喜んだ。だが、このイゼルローン要塞で彼とこれほど親しく一緒に過ごすことが出来たことを思うと、とうとう要塞を後にするのは少し寂しい。そして、準備に追われる二人の話題に上ったのは、やはり彼らの人生を変えた出来事だった。
「イゼルローン回廊の未知の力が我々に悪さをしたのでしょうか」
「そうとしか思えんな。他人と成り代わりたいと強く願うだけで叶うのなら、オーディンだろうがどこだろうが、とっくにそうなっている」
ロイエンタールのウィスキーを飲みながら、二人は総司令官の私室のソファに寄り添って座っていた。ベルゲングリューンは頷いたが、少し時間が経ってからその言葉の不自然さに気づいた。
―他人と成り代わりたいと強く願う?
「閣下でも子供の頃、誰かに憧れたりされたのですか?」
グラスを明かりにかざしていたロイエンタールは、酔いに囚われたかのようにゆっくり答えた。
「お前だって子供時分に誰それと立場を交換してみたい、と思ったことがあるだろう」
ベルゲングリューンは少し考えてからためらいがちに、「ええ、そうですね」と答えた。
彼の気持ちを傷つけたくなかった。そんな風に考えたことなどあっただろうか。誰かに憧れて将来、その人物のようになろうと思ったことはある。だが、他人に成り代わることを本気で望んだだろうか? 子供の頃に何か嫌な目にあったとしたら、そういうことを望むかもしれない。
「大人に変身して嫌な奴をやっつけてやる、とかそういうことを考えたり…。どこでもいじめっ子はいるものですね」
ベルゲングリューンの考えた子供の頃の苦労と言えば、学校でいじめられたり、教師に厳しくされたり、親しい友達と別れたり、そんなことだった。
彼は急に目が覚めたようにベルゲングリューンを見返した。
色違いの瞳に映る小さな恐怖の色に気づき、言い知れぬ不安に心臓が轟いた。彼の顔色は見る間に悪酔いしたかのように血の気が引いていった。
「閣下、大丈夫ですか?」
「何でもない。ちょっとトイレに行く」
グラスを置き、立ち上がった様子におかしなところはなかった。だが、バスルームの扉が閉まった途端、彼が胃の中身を吐き出す音が聞こえた。
トイレを流す音に続き、シンクに激しくバシャバシャと水を飛び散らす音。
悪酔いして介抱されるなど誇り高い彼が喜ばないことは分かっている。だが彼の様子はベルゲングリューンの不安を掻き立てた。ソファから立ちあがりしばし逡巡したが、意を決してウィスキーを新たに注いだグラスを手にバスルームに入った。彼は青白い顔を濡らしたまま目をつむり、流しの縁に手を掛けてじっと俯いていた。ベルゲングリューンはバスタオルで彼の顔を優しく拭いてからその手にグラスを持たせた。
グラスの中身がウィスキーであるのを認めて、ロイエンタールは顔をしかめた。
「飲むのではなく、口の中をすすぐんです。少しすっきりするでしょう」
頷いて生のままのウィスキーを口に含み、すすいでから吐き出す。数度繰り返してグラスの中を空っぽにした。
小さく吐息をついて落ち着いたらしいロイエンタールの手を引いて、ソファに連れ戻した。ソファの背もたれに頭を預けて、彼はベルゲングリューンの手を握ったまま目をつむった。
「明日も早くから準備がありますからこれで…」
吐いた後では疲れて一人になりたいだろうと、ベルゲングリューンは自室に戻ろうと立ち上がった。だが、彼は握ったままの手をぎゅっと胸元に引き寄せた。
「ハンス…」
そう言ってベルゲングリューンの手を両手に持って、親指で手のひらを揉んだりさすったりしている。目は上げないがその唇は何か言いたげに少し開いていた。
「…閣下が眠られるまでお側にいましょうか」
その言葉に彼が頷いた。
さすがに顔色がまだよくない彼と抱き合うつもりはなかった。しかし、彼は生まれたままの姿になってベッドに入ると、当然のようにベルゲングリューンに手を伸ばして来た。くすぐるように彼の手に弄ばれて、たちまち勢いづいた欲望を抑えることは不可能だった。彼の腰を引き寄せアルコールが香る彼の唇を奪う。彼も即座にベルゲングリューンの唇に答えた。
吐いたせいで酔いの影響が薄まったのだろうか、胸の赤い粒を強く捻り潰すとすぐに喘ぎが唇から洩れた。彼の花蕊を手に取るととうにそれは嵩を増しており、互いのものを擦り合わせるとたちまち二人の手の中は滑りやすくなった。
彼の唇が顎や首筋、耳を甘噛みして、その間にも激しくベルゲングリューンの手の中に腰を突き動かしてくる。二人の手が互いの身体の間にあるせいでぴったりと近づくことが出来ない。そのもどかしさを解消するかのように彼が太腿に脚を絡めて腰を突き出し、胸は反るようにして白い喉元を晒した。
差し出された胸は火照って、白い肌に浮かび上がった赤い粒を何度もしゃぶると声を限りに喘ぐのだ。
―ああ、きっと外にいる衛兵にもこの可愛い淫らな声が聞こえてしまうに違いない。
だが、むしろ世界中の者に聞かせたいと思った。これこそ、彼が理性も理屈も冷静さもかなぐり捨てて、ベルゲングリューンと共にいることだけ考えている証拠なのだ。
彼の絡みつく脚の間に手を入れてあの場所に触れてみたが、その魅惑を秘めた場所は今夜は固く締まっていた。彼の欲望の高まり具合から言ってものんびり解している余裕はなさそうだ。それならばと、彼の反応を頼りにベルゲングリューンは身体の隅々まで愛していった。
彼が一番敏感に感じる場所を探してその滑らかな肌を探索することは純粋な喜びだ。しかも彼もまた、ベルゲングリューンの鋼鉄を愛おしそうに撫で擦り、接吻をしては綺麗に舐めてくれる。二人は互いのものを口に入れて刺激し合った。彼がそうしたいと言わなければベルゲングリューンには思いもよらない方法だった。彼は下になってベルゲングリューンの鋼鉄を口に受け入れたがったが、そうしたら彼の綺麗な口の奥、喉まで突き入れてしまうのは必須だ。ところが、彼を胸の上に乗せてはみたものの、彼の方が巧みに鋼鉄を刺激するので結局は同じことだった。無我夢中でベルゲングリューンは天に向けて腰を何度も突きあげ、彼の喉の奥に自分を注ぎ込んだ。彼の方も真っ赤にはち切れんばかりになって、ベルゲングリューンが意識を向けるのを待っていた。めまいがするような興奮の中、必死で彼の花蕊を手に取って刺激し、彼も腰を激しく動かしてついに叫んで果てた。

夜半に手負いの獣のような唸り声がして、その不穏な様子はベルゲングリューンを目覚めさせた。隣に眠る彼が何か呟きながら歯ぎしりをしている。中途半端な眠りから目覚めた脳は完全に覚醒出来ず、彼をなだめようと手を伸ばしたが身体が動かなかった。

ベルゲングリューンがもがく気配に彼が飛び起きた。
「閣下…?」
ベルゲングリューンはしっかりした声で話しかけたつもりだったが、出てきた言葉は眠りの中の猛獣のような単なる唸り声だった。その声に気づいたのか、彼はベルゲングリューンの肩に手を置いた。常夜灯の灯りでぼんやりと起き上がった彼の横顔が見える。
意識がはっきりしてきたベルゲングリューンはその手を撫でようとして途中で止めた。彼の横顔の厳しさは自分が起きていることを彼に気づかせてはいけない、と思わせた。
ふいに、抱き合う前に彼が吐いたことを思い出す。忙しかったせいで体調を崩して悪酔いしたのだろう…。いいや、違う。その前に子供の頃の話をしていたのだった。
―子供の頃の辛い出来事
―誰かに成り代わりたいと強く願う
―願うだけで叶うなら、とっくにそうなっている
あの話のせいだったのか? だが、その後彼はまるでそんなことなどすっかり忘れたように行為に熱中した。あるいは熱中し過ぎたくらいに…。
思わず身じろぎすると彼の手が肩を優しく撫でたので、ベルゲングリューンは心を落ち着け眠ったふりをした。
彼は一人で起きていたいのだと分かった。

翌日には要塞を離れるという晩、総司令官は自らの部下の提督たちを私室に呼び晩餐を共にした。これから宇宙に出ればしばらく彼らと食事をする機会も限られてくる。参謀長と副官も交えた宴席は出席者が皆、気心の知れた仲であるため非常にリラックスした雰囲気だった。常であればめったに酔いを見せないロイエンタールがテーブルに突っ伏してしまったのも、彼らに心を許している証拠と思われた。ベルゲングリューンが彼の上半身を抱え、副官やディッタースドルフが足を持って手伝って、ぐっすり眠ってしまった上官を寝室に連れて行った。
寝室の扉を閉めるとディッタースドルフが戸口の前で顔をしかめた。
「なんだかお痩せになったようだな。連日の準備でお疲れなのではないか? お食事はちゃんととっておられるか」
「はい。この頃は朝、コーヒー以外にもブロートとサラダなどをお召し上がりになります。ですが、この頃は日中よく頭痛がされるようで、仮眠を取られることが増えましたのが心配です」
副官の言葉にディッタースドルフが目を細めて鋭くベルゲングリューンを見た。
「頭痛を? 仮眠を取られた後はお元気になられるのだな? 閣下は夜中もお仕事をされているのではあるまいな」
「閣下のお仕事が迅速かつ正確なのはご存じでしょう。残業などなさる必要がないほどです。私がお渡しする以外に夜中に何かお勉強でもなさっていれば別ですが」
レッケンドルフも光る鋭い目つきでベルゲングリューンを見た。ベルゲングリューンは二人が何か言い出すつもりではないかと内心冷や汗をかいた。その時扉の向こうで、「ハンス…、ハンス…!」と呼ぶ彼の声がして、ベルゲングリューンは我知らず頬に血が上った。
「お呼びだ、参謀長殿。明日はもう宇宙に出るのだから今夜はちゃんとお休みください、とお伝えしてくれ」
副官もディッタースドルフの言葉の後に続けて言った。
「一晩でもぐっすり眠ることが出来れば頭痛など起こされないはずです。十分な睡眠時間をお取りになるよう、くれぐれも閣下にお伝えください」
じっと見つめる副官とにやにやと笑っている僚友の視線を背に感じつつ、ベルゲングリューンは寝室に入った。
ベッドからは唸り声と呟きが聞こえ、ベルゲングリューンは慌てて彼のそばへ行った。途端にロイエンタールが「あっ」、と叫んで飛び起きた。ベッドのわきにいるベルゲングリューンを見上げて彼は明らかにぎょっとした。
「おれは…何か言っていたか?」
「いいえ…。ですが、私をお呼びでしたので…」
「そうだったか…?」
そう言ってため息をついたので、彼の額をそっと手で撫でると汗で湿っていた。柔らかい髪をかき上げて彼の頭を撫でると、肩にそっと寄りかかって来た。寄り添うことで慰めを得ようとする彼を嬉しく思いながら、この安らいだ雰囲気を壊すまいと小声で言った。
「ここ数日私たちが…した後もずっと起きていらっしゃいませんか? 今夜は身体を横にしてちゃんと寝てください」
彼はしばらく黙っていたが、やはり小さな声で答えた。
「お前がぐっすり眠っているのを見ていたいから起きているんだ…。お前は気にしないでいい」
嬉しがらせを言う口調だったが、それは思った通り彼が眠っていないことを示している。やすやすと喜ぶわけにいかなかった。
「寝不足では宇宙酔いに掛かりやすくなることはご存じでしょう。閣下ほどの方が宇宙酔いなど名折れですぞ」
「おれの名はどうなろうと構わんさ。何かあってもお前がいるから」
「頼っていただけるのは嬉しく存じますが、ちゃんと眠っていただく方が何倍も安心です」
低い声でフフフ、と笑う声がして彼があまり本気で聞いていないと分かった。彼の手がそろりそろりとズボンの前に近づく。どうやら何か感づいているらしい僚友たちを表に残したまま彼と抱き合い、あの魅惑的な声を聞かせようというのか。
そして今夜もベルゲングリューンが眠りこけている横で一晩中起きているつもりだろうか。
―眠ると良くない夢を見るから、眠りたくないのか…?
彼をもっと攻めたてて疲れ果てさせれば、ぐっすり眠ってしまうのではないか。一度試みたが、このことに関してはずっと彼の方がうわ手で、かえってベルゲングリューンの方が疲労困憊していつの間にか眠ってしまった。それに、それは根本的な解決方法ではない。一度は熟睡できるとしても、彼をそうさせる原因から断たなくてはいずれまた同じことを繰り返すに違いない。決して眠るまいとしているその意志の強さから、よほど嫌な夢を見るようだ。きっと以前にも同じことが起こり、悪夢が続くことを恐れているに違いないと思った。
ベルゲングリューンの存在に慰めを見出しているらしいのはわずかに良い兆候と言えたが、このままでは本質的には何も変わらない。だが、彼が自分の問題にベルゲングリューンの介入を求めていないというのに、いったい何が出来るというのだ…?

翌日、新たな戦場へ向けて総司令官ロイエンタール上級大将は参謀長他、多くの部下を従えて自らの旗艦トリスタンに搭乗した。
スクリーンに映る銀色の巨大なイゼルローン要塞はゆっくりと遠ざかって行った。要塞の孤高の姿を目にして、誰もが自然と敬礼を捧げた。かつて敵の手にあったが激戦の後自分たちの手で取り戻したその要塞は、しばし彼らの疲れを癒し憩いの場となった。その腕の中から飛び立つことは、戦いへの期待と興奮は当然のこととして、僅かに哀惜の念も伴っていた。
総司令官の表情は無感動なままで敬礼も捧げようとはしなかったが、司令官席から立ち上がって、しばらくじっと眺めていた。
不安と緊張の中、各艦隊はイゼルローン回廊を進んだ。航行可能な通路内を各艦の連絡を保ちながら、まるで初期の宇宙時代のように慎重に通過した。
まだイゼルローン回廊の不安定な環境の影響下にあるとはいえ、最も危険な地点を過ぎた時には誰もがほっとした。いつ何時緊急事態になるとも分からず、総司令官も艦橋に詰めていたがその日ようやく、席を立つことが出来た。
総司令官の頬はやつれて見え、出発時よりさらに青ざめていた。ベルゲングリューンも疲労が蓄積していたが、心身の休息を十分にとっていない彼の比ではない。ようやく私室で彼を休ませることが出来るとほっとしていた。
上官がそれでも雄々しくしっかりした足取りで環境を去る後ろ姿を、心配そうにレッケンドルフが見つめていた。ベルゲングリューンは同盟軍の姿を認めたか、元帥閣下からの至急の連絡がない限り、総司令官の眠りを妨げないよう副官に命じた。緊急の連絡もまずベルゲングリューンに連絡するように付け加えると、レッケンドルフは顔をしかめていたがしぶしぶ了承した。
総司令官の私室に入って行くと、彼は大事にとっておいたワインの栓を開けていた。
「もうそれほど何本も残っていないのだが、今日はこれを開けても構わんだろう」
2つ並べられたワイングラスは彼がベルゲングリューンを待っていたことを示していた。
「私もいただいていいのですか?」
「当然だろう、イゼルローン回廊を無事脱したことを他に誰と祝う?」
彼は自分を待っていてくれる、そばにいることを望んでくれる、それならばもっと彼に近づきたいと思うことは無理な願いではあるまい…。
ワインはこれまで知っていたものとは別格の美味さで、ベルゲングリューンが絶賛すると彼は控えめに微笑んだ。これほどの銘品を一緒に飲みたいと用意してくれた彼の心が嬉しかった。回廊通過中に取った配給の冷たい食事とは違い、ちょっとしたコース料理が出てきて、最後にはチーズと果物まで提供された。恐縮するベルゲングリューンに彼は、「恐らくこの征旅で最後の贅沢だろうから遠慮するな」と苦笑した。この先、軍事基地以外に文明に近いものは敵地にしかないのだと思い至り、ベルゲングリューンは遠慮なくご馳走に与った。
彼らの行く手に待つものが常に勝利とは限らない。この改まった晩餐の様子から察するに、兵士の習いの常として彼もまた覚悟を決めているのかもしれない。それはベルゲングリューンの決意とも重なり合っていた。
食後のコーヒーもこれまた給湯室のマシンから抽出されるものとは段違いの美味さだった。その最後の一口を惜しげもなく飲みほしてから、彼の目を見つめて言った。
「閣下。これから先、我々を待ち受けているのは勝利であると確信しています。しかし戦においては何があるか予見することは出来ません。だから、今夜は悔いのないようにあなたの望みを叶えて差し上げたいと思います。そのために私は出来る限りのことをします」
彼はコーヒーカップを手にしたまま、あっけにとられたように目を見張った。そして、ベルゲングリューンが驚いたことに真っ赤になったと思ったら、声を殺して笑い出した。
「…閣下…!」
「ああ、すまん、ハンス。お前はどうしてそういつも…」
こうも笑われては自信を無くすところだが、ベルゲングリューンは恥ずかしさを堪えて怒ったふりをして腕組みした。だが、笑い続ける彼の頬はいつまでも真っ赤で、どうやらベルゲングリューンと目を合わせることが出来ないらしい。彼も気恥ずかしいのだと気づいた。
彼は急に笑いを収めると、席を立って背を向けた。
「ハンス、自分の部屋へ帰れ」
彼の機嫌を損ねたかと青くなりかけたベルゲングリューンに、彼はちょっと振り向いて小さく微笑んだ。
「1時間後に来い」
彼の後ろ姿が寝室に消えると、自分から言い出したにもかかわらず、ベルゲングリューンの頭の中は真っ白になった。どうやって総司令官室を出たのか、とにかく宙を飛ぶようにして自室に戻った。

 

​面影を抱きしめて

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