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19、

ベルゲングリューンは目を開けた。暗闇の中でここが故郷の厩舎ではないことを確かめる。ところが手のひらに夢の中と同じ温かい感触がしてぎょっとした。
枕に頬を乗せて静かな寝息を立てて寝る姿は夜着を纏わぬ素裸で、ほんのりと暗闇にその白い肌が浮かび上がっていた。まぶたを閉じてあの鋭い眼光が見えないせいか、柔らかな髪を額に垂らした細面の顏は昼間見るより少し若いように思えた。
そっと額の髪をすくい、穏やかな寝顔を眺めた。
―俺の可愛い仔猫ちゃん。
いきなりそんな甘ったるい言葉が心に浮かび上がり、何故だろうと首をかしげる。だが、途端に半時間前の自分の愚かな真似を思い出し、言葉にならぬ叫び声をあげて飛び起きた。
その勢いでベッドが激しく揺れ、ロイエンタールが身じろぎしてうっすらと目を開いた。
「…酔いが醒めたか…? いいから寝ろ。眠い」
細く開いた目をしかめて、ベッドのそばの床に跪くベルゲングリューンに寝起きのかすれた声をかけた。ベルゲングリューンはあまりの申し訳なさに顔を覆ってしまった。
「か、閣下…、その…先ほどは」
衣擦れの音がして、彼の深いため息が聞こえた。
「あのようにすっかり酔ったお前の姿を見るのは珍しい。何をしたか憶えているのか」
「は…」
酔っても記憶を失わない自分が恨めしかった。なんと愚かな真似をしたか。しかもこれほど大切に思っている彼に、素面であればするはずがない酷いことをするとは我ながら許せなかった。
「人格が変わるほど楽しい酒で結構だな。しかし、普段、抑制し過ぎている反動だとしたら良くない傾向だ」
「無体を致しまして、非常に申し訳なく…」
ベッドから抜け出したロイエンタールは上半身に何もつけず、軽い生地のズボンを履いているだけだ。そのズボンの足で跪くベルゲングリューンの前に立った。顔を覆った手の間からは両脚を肩幅に開いて立つ彼の細長い足指が見えた。
「酔っぱらった挙句おれにあのようなことを仕掛けて、殺されなかったことをありがたく思えよ」
「はい…」
肩の上に彼の手が置かれ、ベルゲングリューンは思わずびくりと身体を震わした。その手は素肌に温かく感じ、ふと、ズボンのベルトは外れ、上はランニングシャツ一枚になっていることに気づいた。

―酔っぱらって昏倒した俺をこの方が介抱してくれたのだ。
ベルゲングリューンは顔をあげて、常夜灯に薄っすらと照らされた彼を見た。前髪が乱れて額に垂れて滑らかな頬の上の瞳は優しかった。激しい後悔と恥ずかしさに襲われ、申し訳なさに彼の足元の床に額を付けた。
小さく舌打ちしてロイエンタールはベルゲングリューンの肩を揺すった。
「いい加減にしろ…! 昼間のような真似はもうやめろ。おれの従者か何かのようにひれ伏すな」
「あれは…、そんな気持ちでしたのではないのです。それから、本当に申し訳ございませんでした。もう二度としませぬゆえ…」
「二度としない?」
「閣下のお身体にいたずらに手を掛けるようなことは…」
床のカーペットに額をこすりつけるベルゲングリューンの前に彼が座り込んだ。ベルゲングリューンの頭の上にずっしりと温かな裸の上半身が覆いかぶさる。その身体からほんのりと甘く刺激的な香りが立ち上って思わず喘いだ。
「閣下…!」
だが、覆いかぶさる彼はその喘ぎに気づかないようだった。
「おれは深酒して正体を失うような軟弱な精神の男は嫌いだ。それを忘れるなよ」
冷たく鋭い刃のような言葉が頭の上で響いた。その響きはベルゲングリューンを芯から凍らせるのに十分だった。彼の太腿に額を置き、「決して今後、酔っぱらって閣下にご迷惑をかけるようなことは致しませぬ…!」、と語気強く言った。
「酔ったってかまわん。だが、酒の力を借りて普段出来ぬことをしようなどとするな。それくらいなら日ごろから傍若無人に振る舞った方がましだ」
きつい言葉はベルゲングリューンの神経に突き刺さったが、彼の言う通りだった。特に寝室内における非常に繊細な事柄を、酔った勢いで試みようなどと考えてはいけないと気を引き締めた。
「今後、閣下のお許しなく、お心に染まぬことはいたしません」
拳を握って決意も新たに宣言すると、思いがけないことに彼の小さな笑い声が聞こえた。
「それで、お前はあいつらから何を聞いたのだ? 肝心の場所をどう使用するか教えてもらったのか?」
ベルゲングリューンの背中に頭を乗せて問うたので、笑いが彼の横隔膜を震わせるのを感じた。その鈴の音のような響きが背骨を通して身体中に伝わった。
からかわれていると分かっていたが、同僚たちを悪く言いたくなかった。彼らとて自分同様にべろんべろんに酔っぱらっていたのだ。酔った席でイゼルローン要塞に女性がいない件について、下世話な話をしたくなったことを責められない。
「思えばこれまでもそういった類の話を耳にしておりました。もともとあまり馴染みがないせいか、よく分かっていなかったようです。しかし、先ほど―その、閣下の…を…を…」
何度か言葉を発しようとして出来ず、頭の上で聞こえる笑いを無視して続けた。
「…を…を見まして…、突然それまで聞いてきた内容と現実が結びつき、その真実を理解するに至りました次第です」
「おれを欲しいか、ハンス」
突然名前を呼ばれて、心臓が口から転げ出しそうになった。
「…あなたを…?」
ベルゲングリューンは背中を撫でる二つの手の存在に気づいた。くすくす笑いながら彼の手が肩甲骨の間から背筋を優しい線を描いてなだらかに降りていく。手が腰の上に到達すると隙間からズボンの履き口の中へするりと入った。がっちりした尻の肉を探るように揉まれて、ベルゲングリューンはぎょっとした。
「何をなされますか!!」
いくら仰天したからと言っても、飛び起きて彼に頭突きを食らわせるわけにはいかない。床の上にべたりと腹を伏せて彼の手から逃れようとした。平たくなったベルゲングリューンの背中の上に彼は完全に乗り上げて、ズボンからシャツを引っ張り出し、尻の近くの背中のくぼみに音高く接吻した。
「やっ、やめてください…!」
徐々にズボンを引き下ろし、現れた尻のあわいを彼は舐めた。半分下着が脱げて、ベルゲングリューンの尻が夜気に晒された。とうとう筋肉質な尻肉を彼の唇が食み、その感触による衝撃が脳髄まで貫いた。
ベルゲングリューンは「うひゃっ」、と叫ぶとまるで背負い投げをするかのように彼の腰に手を掛けた。
気がつくと、彼を床の下に組み敷いてまん丸に目を見開いて見上げてくる瞳を見つめていた。
その瞳はゆっくりと細められ、控えめながらベルゲングリューンに微笑みかけた。
あんなひどいことをしたのに彼はこうやって笑いかけてくれる。この微笑みがベルゲングリューンにとってどれほど艶やかに輝いて見えるか、分かっているのだろうか。
「…閣下…」
後頭部に手が置かれて、言いかけた言葉は近づく唇に途中で阻まれた。
柔らかくて濡れた感触が唇から脳髄へ伝わり、ベルゲングリューンの全身を襲った。これこそ彼の本当の唇。しなやかで繊細な皮膚はそれまで知っていたものとは違う、未知の感触だった。温かくてほのかに甘い優しい味わいに、もっと欲しいと貪らずにはいられなかった。
笑いながら彼に唇を少し齧られて、ベルゲングリューンは無我夢中の陶酔を破られた。
「はっきり聞かないと駄目なようだな。ハンス、お前は入れて欲しいのか、どうなのだ?」
「入れて…、何を」
ロイエンタールの視線が鋭くなり、「一から説明しなくてはならないのか?」と低い声で言った。慌ててベルゲングリューンは激しく首を振った。
「つまり、私のあの場所に閣下のが入り込むと…。あの、それは、閣下がお望みなら、たぶん…」
「たぶんか」
「いえ…! 閣下のご期待に沿えるよう、誠心誠意頑張ります」
ロイエンタールは厳しい表情をしようとしたようだがかなわず、ブハっと噴き出した。
「そんなに気負う必要があるのか。逆はどうだ」
逆…。彼の中に自分が…? 酔った目で見た彼の赤い蕾が鮮明によみがえり、下半身が一気に熱くなって思わず息を飲んだ。
「さっきはおれをあんなにしたくせにためらうのか? おかしなことを言わなければ、お前を受け入れても良かったのに…」
上にいるベルゲングリューンの肩を彼の手が撫で、するりと腕を滑り降りて手を取った。カーペットを擦りながら彼の膝が開き、太腿の間に手が導かれた。片腕で身体を支えて彼の上にいるベルゲングリューンは、薄い夜着の布越しに彼の花蕊をかすめて、その下の秘所の辺りに指が触れて叫びたいような気持になった。
「酔っ払いの乱暴な指で好き勝手に弄られたら、怪我をするかもしれない…」
その言葉にベルゲングリューンは急いで手を引こうとしたが、ロイエンタールはそれを押さえた。
「乱暴にしなければいいんだ。もともと入れるための場所ではないのだから…。リラックスさせてゆっくり解せばいい」
戸惑いがはっきり顔に現れていたのだろう、小さく笑って、「酔っていない、いつものお前のやり方なら問題ない」と保証した。
彼は手をついて立ち上がりベッドへ戻った。ベッド脇のキャビネットを探り、先日来ベルゲングリューンを惑わしているあのオイルの瓶を取り出した。それを後ろ手に差し出して来たので瓶を受け取った。
薄明りの中でベルゲングリューンを見上げて、彼はベッドの上に脚を組んで腰掛けた。
「それを指1本に滴るくらいたっぷりとって、おれのアナルにゆっくり抜き差しながら緊張を解す。1本で余裕が出てきたら指を二本に増やす、というように、指以上の太さのもの―、つまりお前のペニスが入るようになるまで徐々に解していくんだ」
内容に比して淡々と言われた彼の言葉は、分かりすぎるくらいに直接的だった。
「その…、聞いた話では、もともとが、その、出すための部位ですから、入れられる方はかなり痛いと」
「まあ、そうだな。初めてだとしたらすぐに解れるわけではない。だがまあ、大丈夫だ」
彼の大丈夫、はベルゲングリューンにとっても大丈夫とは限らないとだいぶ前に学んだのだ。彼の言葉は割り引いて考えた方がいい。
「でも、私ばかり良い思いをして、あなたに無理を強いるようなことはしたくありません」
真面目に言った言葉なのに、彼はちょっと面白そうな表情をした。彼はこの手のことに関していろいろ知っているらしいし、自分はずいぶん馬鹿げた反応をしているのもしれない。しかし、彼の希望を阻むことになろうとも、自分の快楽を優先して彼が自虐的な行為に及ぶのを見過ごす訳にはいかない。
ベルゲングリューンは手の中のオイルを見て、ふと気づいて言った。
「先ほどは…、その、このオイルの香りがずっとしていて…。これは私が最後に見た時よりだいぶ減っています。そうだ、会議の時も昼間だと言うのにこれを身体に着けていらっしゃいましたな」
悪戯そうな微笑みを浮かべて、ロイエンタールは黙って頷いた。
「気づいたか、やはり」
「もちろん気づきましたとも。あなたときたらあのような時に…」
「お前こそいやらしい目つきでおれを見てた。衆人環視の中で軍服をはぎ取られるかと思った」
明らかにうっとりとした声音で言われて、ベルゲングリューンは音高く唾を飲み込んだ。気を取り直して言葉をつづける。
「え~、それに、さっきあなたのその、例の場所をですな…」
「アナル」
「穴…をですな、不躾ながら指で触りました時、とっても柔らかくて、ええその、すぐ、入り込めそうでしたが」
今思えば、彼の身体はとろとろとどこもかしこも蕩けそうに甘く、すべすべとしていた。あの赤い蕾もすぐに指一本飲み込んでしまったではないか。
「私が来た時、閣下はバスローブを羽織っていらした。シャワーを浴びていらした…」
頬が熱を持って火照るのを覚えた。内心の興奮を抑えるように、両手のこぶしをきつく握る。量の減ったオイル、彼の身体中がすべすべして、いい匂いが高らかに香った…。
導かれる答えは一つしかなかった。
「閣下はオイルを身体に塗っていらした。胸やあの場所さえも、愚かな私が勘違いをするほど柔らかかった…。固く入り込めない場所のようにはとても思えぬほど…」
これはすべて自分のためなのだろうか…? だが、それを言葉にするのは怖かった。そうではない、馬鹿げた勘違いだと笑われたら…。
彼はまっすぐベルゲングリューンを見上げた。
「お前を待っていたんだ」
低くて優しい声だった。
「閣下…」
思わず胸に彼の頭を抱きしめた。柔らかな髪がふわりと顎で遊ぶ。胸にぴたりと寄り添う彼の温かさに酔い、手の内に感じるしっかりとした身体を全身で味わいながら、ダークブラウンの髪に向かってもごもごと言う。
「それなのに身勝手にも言語道断な行為に及び、閣下を酷い目に合わせようとした…。思えばずっと閣下を落胆させ申し上げているに違いないのに、それなのに、閣下は私を待っていたとおっしゃって下さる…」
「いい加減にしろ、ハンス。閣下、閣下と言うな。それにお前がおれを落胆させたとはどういう意味だ? お前は他に何をしたと言うんだ」
二の腕をつねられて「あたた」、と言いながら彼の顔をのぞき込んだ。
「会議場で閣下がなさったことこそ、閣下にしか出来ないとお考えだったことではありませんか。私には到底同じようには出来ない。それどころか、私のやり方では閣下の総司令官としての権威に傷をつけるようなことになったでしょう。さぞ、私の至らなさにがっかりなさったと思います」
「がっかりなどしていない。おれとお前では違うということをはっきり理解したというだけだ」
その説明に納得していないベルゲングリューンの思いが顔に出ていたのだろう。彼は怒ったように続けた。
「お前が『総司令官』である以上はお前のやり方で進めるしかなかった。むしろその方が皆の信頼を勝ち得ていたかもしれぬ。おれの方法は皆を問答無用で従わせる結果になった。単純にどちらがより優れていると言えるものでもない」
ベルゲングリューンの胸を突き放すと、彼はベッドの上掛けをめくり上げた。枕に背中を預けて居心地よくすると、ベッドのそばに立ったままのベルゲングリューンを見上げた。
「他にはなんだ。お前の心に引っ掛かっていることを全部言ってしまえ。さあ、吐け」
「…怒りませんか?」
「おれがどうするか決めるのはおれだ。いいから吐け」
ロイエンタールは何故か短気を起こす寸前のように見えた。これで『もう怒っていらっしゃいます』、などと言ったら殺されるかもしれない。
ベルゲングリューンはためらって彼をいらいらさせるより、すべて打ち明けてしまった方がましだと思った。
「どうして我々があのような不思議な目にあったのか、考えていたのです。あなたが何もご存じないのは疑うべくもありませんが、『あなた』の意志がこの問題のキーワードのような気がします」
「…何故そう思う」
「何故ならあなたはあの時、私のために元に戻りたいとおっしゃった。それまで真剣に元に戻ることを考えていなかったあなたが、私のために本気になってくれたと分かり、私はとても嬉しかったのです。そうしたら翌朝、我々は元に戻っていた」
黙って視線をベルゲングリューンからそらし、ロイエンタールは正面をじっと見つめていた。やがて、少し皮肉めいた、彼特有の片頬をあげる笑みを浮かべて言った。
「お前の言う通り、おれの意志が問題だったのかもしれないな。それについておれにも思い当たることがある。だがその前にハンス、そんなところに従者みたく突っ立っていないで、隣に入れ。冷えて風邪をひいても介抱してやらんぞ」
憎まれ口が嬉しくて、ベルゲングリューンは喜んで上掛けをめくって彼の隣に滑り込んだ。並んで枕に背を預けて座ったベルゲングリューンの太腿を上掛けの上から叩くと、ロイエンタールは先ほど放り出されたオイルの瓶を手に取った。
「お前はこの征旅に何故このようなものをおれが持参したと思う。自慰に使うためか? それともその辺の男を手当たり次第に引き込んでセックスするためか? え?」
ベルゲングリューンはどきりとして、その可能性に思い当たらなかった迂闊さに気づいた。彼はこのようなことにとても詳しい。漁色家と言われる彼にはかつて無数の経験豊富な恋人がいて、彼に様々なことを教えたに違いない。きっと、この艦隊にも…。
「…きっと私などよりあなたに相応しい誰かが、この戦の間もおそばにいて、そのオイルを…」
「ばかハンス! お前はどうして…」
再び彼に耳を引っ張られて、「いててて!」と悲鳴を上げた。息子を叱る時の母親のように耳を引っ張る癖がついては困る。ベルゲングリューンは耳を労わりながら抗議した。
「何をなさいます!」
「唐変木を相手にしては、おれも馬鹿をやらざるを得なくなる。どんな戦場でこのようなものが必要になると言うんだ」
ロイエンタールは膝を抱えてブツブツと言った。
「我がトリスタンの中は広いとはいえ、他から隔絶された密室のようなものだ。そのようなところで鼻を突き合わせていれば少しはピンとくるかと思いきや、唐変木と言うのは殴られでもせねば分からぬらしい。だんだん敵は近づいてくる。急がねばならぬ。今夜こそ思い知らせてやろうと、唐変木を部屋に引き留めた」
「…あの、それは…」
「こういう輩は多少強引だがまず身体を手に入れて、その後じっくり分からせてやるのがいいと、オイルもしっかり準備したわけだ。ところが、だ」
「…閣下…!」
忌々しげに膝を叩いてロイエンタールは鼻で笑った。
「こいつの身体をおれのものにしてやろう、と強く決心したのがまずかったのか? イゼルローンの神か悪魔は何を勘違いしたのか。おれの深層心理はお前の身体を乗っ取りたいと思っていただと?」
「閣下!」
噴き出す感情はあまりに強く、緊張は笑いとなって弾けた。彼の肩を掴んで揺すらずにいられなかった。
ようやく、彼はほろ苦い笑みを浮かべてベルゲングリューンをまっすぐに見つめ返した。
「お前のような男におれは成り代わりたかったのか? お前を深く知るためにはいい方法だったのかもな。一体になりたいという望みが叶ったわけだ」
腹の奥底が熱くなり身体の震えを止めるには彼を抱きしめるよりなかった。彼の腕もまた胸を伝って背中まで回り、ベルゲングリューンの身体をしっかり抱きしめた。彼の顎に手を添えてそっと持ち上げると、きつく目をつむって綺麗な形の唇は小さく震えていた。
唇を唇でふさげば彼の震えも止まるかもしれないと思った。だが、どちらも息遣いまでもが走るようで、互いにしがみつくようにきつく抱き合うしかなかった。
「目を開けてください…、あなたをちゃんと見たいから」
ベルゲングリューンはまともに息も付けずに、何故か急に不安定になってしまった声にかまわず言った。ロイエンタールはまだ震えている唇をきゅっと締めて何も言わずに首を振った。
何か予感のようなものを感じて、ベッドサイドの操作盤で部屋の灯りを煌々と灯した。
ああ、やっぱり。彼の頬は真っ赤だった。それはもちろん酔いのせいではない。率直な感情を表すことを良しとしない、彼に似合わぬ告白のせいだ。
いや、彼もベルゲングリューンと同じように幸福に酔っているに違いなかった。
「閣下…、この唐変木はあなたのそばにいるだけで十分だったのです。あなたが私を見てくれることなど、期待すらしていなかった…」
「…おれは野心のない男など嫌いだ…」
「私の野心はあなたのそばにずっといることです」
「つまらん望みだな…」
互いに縋りつき、抱き合うだけでそれ以上の手管は必要なかった。彼の息遣いと鼓動を感じながら、何度も唇を合わせ、笑いながら額をこすり合わせて再び抱き合った。次第に高まる身体をまるで初めて触れるもののように、接吻したり、頬ずりしたりしただけで二人とも果ててしまった。それだけで不思議なほどに満たされて、二人は手足を絡めて眠った。

ベルゲングリューンはどれほど疲れていてもいつも同じ時間に起きてしまう。その日も朝時間のチャイムが鳴る前に目が覚めた。絡みつく彼の腕をそっと外してベッドを出て、シャワーを浴びた。ベッドを抜け出す前に彼の額に接吻したら、彼が微笑んだような気がした。その瞬間を心の中で反芻しながら着替える。通路で誰にも会わないうちに帰らなくては。
起床時の癖で、しばらく自分のものとして馴染んだ総司令官のデスクに向かってしまった。ふと、思うところがあってロッカーの鍵を探すと、自分が使っていたのと同じ場所に保管してあった。その鍵を使ってロッカーの扉を開けた。
そこに帝国軍支給のブラスターが保管されていた。
最新の型式で、ベルゲングリューンの手に馴染んだものより重量が軽い。きちんと教育を受けた兵士は、エネルギーパックとブラスターを一緒のロッカーに保管するようなことはしない。ブラスターの内部も空だった。綺麗に掃除し油を差したそれは、前夜ロイエンタールが熟練した動作で手入れしたことを物語っていた。
「おれは毎朝、エネルギーパックを装填してからブラスターを身に着ける。士官学校を出てから一度も欠かしたことがない」
「もちろんですとも」
振り向いて、戸口に寄り掛かって立つロイエンタールに答えた。気だるそうなその表情はベルゲングリューンの欲情を掻き立てた。
だが、彼は戯れる気分ではなさそうだった。
「ハンス、もうブラスターの銃口の前に立つようなことはするなよ」
「それはお約束できかねますな。あなたを狙う銃口があればいつでも私はその前に立ちますし…」
「おれゆえになどなおさらだ。約束しろ」
「気を付けます」
彼は首を振るとバスルームへ向かった。その途中、遠ざかりながら言った。
「フォルキィって誰だ」
「フォルキィ!? いったいどこからそんな名前が出てくるんですか」
驚いて問うと、ロイエンタールは明らかにむっとして地を這うような声で答えた。
「酔っぱらったお前が寝言でその名前を呟いていたんだ。お前の恋人か?」
「恋人!?」
思わず噴き出したが、彼の表情がますます剣呑になって来たので、慌てて答える。
「ミッターマイヤー閣下のもとでお仕えしている、ビューローのことです。フォルカー・アクセル・フォン・ビューロー。私の幼馴染と言う奴でして、時々子供の頃の愛称が口を突いてでてしまって、お恥ずかしい」
「幼馴染? そしてお前の…」
「友人です。奴には妻子もおりますし、恋人などと…!」
虚心に笑ったが彼の表情は晴れない。眉をひそめたまま背を向け、再びバスルームに向かった。
「愛称で呼ぶほど仲がいいんだな。親友か…」
その呟きがあまりに寂しそうに聞こえて、思わずベルゲングリューンは彼に駆け寄った。
「あいつなんぞ腐れ縁です! 故郷の地主の息子で、喧嘩が弱くていつも私が助けてやってたんですよ…」
「お前のフォルキィはお前を何と呼ぶんだ? ―私生活では」
「へ、ヘンゼルなんぞと子供っぽい…」
「愛称で呼び合う仲か。いい友人を持って結構だな、『ベルゲングリューン』」
ハンスと呼んでくれていたのに呼び名が変わってしまった。何やら不穏な雰囲気を感じて、ベルゲングリューンは彼の肩を背後から抱いた。
「単なる子供のころからの慣れと言うやつで、深い意味はないんです。閣下! いや、そ、その、私があなたをお名前で呼ぶのはどうも不謹慎な気がしまして…」
「ベッドで軍の階級を持ち込む方が不謹慎だ」
「閣下! ああ、いや…。そんなつもりはないんです。呼び名など関係ない、あなた本人が…。私がどれだけあなたのことを…」
抱きしめるロイエンタールの肩が震えて、ベルゲングリューンは彼が笑っていると気づいた。
「閣下! 笑うとはあんまりな…!」
「ハンス、おれのことはお前の好きなように呼べ。お前はお前でしかありえない。一夜にして急に変わるはずなどないんだ」
上機嫌で笑うと、茫然とするベルゲングリューンの頬に接吻して、彼はバスルームに入って行った。

 

​面影を抱きしめて

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