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16、

自らの参謀長の懊悩など露知らず、ロイエンタールは会議場の隅から隅まで見回した。
「卿らには過日各司令官から通達があったことと思うが、我らがローエングラム元帥閣下は遠征軍全軍を率いて1月30日、ポレヴィト星域に到着された」
U字型の会議場の中央に問題の宙域の星図のソリビジョンが投影され、提督たちはよく見ようと身を乗り出した。ロイエンタールが星図をポインタで指し示しながら続ける。
「これまで、帝国の軍がこれほど同盟領内に深く攻め入った記録はない。また、閣下が率いられた兵力もかつて類を見ないほど強大なものとなった。報告によれば、ポレヴィト星域からランテマリオ星域にかけて有人惑星は存在しないと言う。恐らく、この宙域が同盟との決戦の場となろう」
フェザーン方面軍から得た同盟領の地理情報はまったく真新しいもので、これがあれば手探りで未知の宇宙を進むようなことなく、最短距離で狙うべき敵の拠点に到達することが出来る。その点を総司令官は説明し、後日各艦隊に同盟領の地理についての必要なデータが提供されるだろう、と述べた。
総司令官の言葉は近日中に再び征旅があるだろうということを匂わせていた。その可能性に会議場はにわかに活気づいた。総司令官が断水に絡めて各艦隊は演習を、と命じた背景にはこのことがあったのだ。
最初に口を開いたのは血気にはやるレンネンカンプ大将ではなく、常の通りに落ち着きを見せつつも戦への期待に身を乗り出したルッツ大将だった。
「総司令官閣下、そうしますと我らも元帥閣下に呼応してイゼルローン要塞を出でて、決戦場に馳せ参じることになりますでしょうか」
会議場は一瞬ざわめいたが、総司令官の言葉を待ってすぐに静まった。ロイエンタールはルッツに頷いて見せてから、周囲の反応を計ろうとするかのように会議場にぐるりと視線を巡らせた。期待に満ちた沈黙が広がる。
「昨日2月8日、同盟と我が軍の戦端が開かれたとの報が入っている」
「おお…! それではすでに今頃は…?」
ルッツ提督が驚きも露わに問うと提督たちの列からも動揺の呟きが漏れ、あからさまに出遅れたかと舌打ちする者もいた。
「ミッターマイヤー上級大将から当方面軍に寄せられた最新の情報によれば、我らが元帥閣下率いる遠征軍は8日12時半に同盟軍の先陣の姿を認めている。1時間以内には両軍が対峙するだろうということだった。その後の経過については未だ不明だ」
提督たちは互いに目配せしあった。たった今、ポレヴィトあるいはランテマリオなる星域において、両軍の熾烈な戦いが繰り広げられているだろうことは想像に難くなかった。
ロイエンタールが副官に「わが軍の兵力の詳細がミッターマイヤーから伝えられていたはずだが」、と言った。その問いに応じて副官により参加する艦艇、将兵等の数値が読み上げられると、その膨大な兵力に提督たちはざわめき収まる気配はなかった。希代の戦略家である元帥閣下の壮大な征旅に参加し損ねた、と悔しがる言葉が遠慮なく囁かれた。
ロイエンタールは再び静かに座を占めると、周囲の動揺を涼しい顔をして眺めた。その泰然自若とした様相にしびれを切らしたか、レンネンカンプ大将がデスクを叩いて立ち上がった。
「これまで数々の戦場を支配されたローエングラム公でさえこのような大兵力を指揮されたことはない。この威容ではすでにわが軍は同盟を下したに違いありませんぞ!」
「報告がないため如何とも断定はできぬが、あるいは本日同盟の運命が決する可能性もあるだろうな」
ロイエンタールの声音には氷のような無感情の筋が通っていたが、表情は穏やかだった。冷静な総司令官に対しレンネンカンプは語調強く詰め寄った。
「彼方で元帥閣下が戦っておられるにもかかわらず、一方で我々はこのようにイゼルローン回廊にのんべんだらりと逼塞しておる。このこと、総司令官閣下はどう思われるのか伺いたい!」
レンネンカンプは人差し指を総司令官に突き付けた。
「我々の務めはイゼルローン回廊及び要塞を同盟の手から守ることだ」
ロイエンタールは糾弾に堪えた様子もなく静かに言った。
「では、総司令官閣下は元帥閣下のご指示がなくては一兵も動かすおつもりはないと申されるのですな。このまま安全この上ない要塞に閉じこもってそれを固守することに専念し、元帥閣下の元へ加勢に駆け付けるような才覚はないと」
ロイエンタールはレンネンカンプの言葉に鋭い視線を浴びせた。さすがに言い過ぎではないかと、レンネンカンプの幕僚たちが司令官を不安そうに見つめる。
ルッツ提督が咳払いをして言葉を挟んだ。
「レンネンカンプ提督、我々がするべきことは勝手に軍を進めることではないのは承知のことだろう」
「それは無論のことだ。誤解しないでもらいたいが我らの勤めについて私は疎かに思っておらん。だが、元帥閣下の率いられる軍がいかに前代未聞の大軍であったとしても、同盟にとってこれは最後の決戦場となるのは必定。そのような決死の軍を相手にするならば、一兵でも多く参加するべきであることは道理であろう。なれば、ここは要塞を出て長躯し同盟軍の隙を狙うべきかと存ずる」
レンネンカンプ提督の雄弁な言葉は一見、道理があるように見えて軽率なこと甚だしいとベルゲングリューンは思った。だが提督たちは心を揺さぶられたようだった。沈着なはずのルッツ提督も例外ではなく、眉をひそめつつも身を乗り出した。
「だが、それでは元帥閣下のお心に背くことになりはしまいか」
「私とて閣下のご命令を軽々しく扱うつもりはない」
会議場の注目を集めていることに自信を深めたか、レンネンカンプ提督は頼もしくルッツ提督に請け負うと言葉を続けた。
「私の考えとしては、閣下の仰せをただ待ち兵を温存して時を無駄にするべきではないと思う。我らイゼルローン方面軍から艦隊を分け、油断した敵の後背を叩く! そのうえで直接閣下にお会いし今後の戦略を親しく伺うのだ」
その案をロイエンタール艦隊の提督たちまで真剣に考慮する様子を見て、大勢の行き着く先への危惧にベルゲングリューンはこれはいかん、と思った。彼方の戦局も顧みずに勝手に兵を分けてのこのこ出かけて行き、直接元帥閣下に今後の方針を問う―。そのようなことを総司令官ロイエンタールに認めさせるつもりなのか。これでは総司令官の指揮権などあってなきが如しだ。
レンネンカンプ提督の参謀長が上官の袖を引いて小声で何か耳に入れた。レンネンカンプは分かっている、と言うように頷いた。
「―それに、我々には元帥閣下にご裁断を仰ぐべきことがあるはず」
レンネンカンプ提督がベルゲングリューンをまともに見て言った。
―目を逸らすまい。
こちらを見下すような視線のレンネンカンプに対し、顎に力を入れて睨み返した。すべてが好意的とは言えぬ万座の視線を痛いほど感じた。
「我々帝国軍には元帥閣下が現在対峙しておられる軍の他にまだ倒すべき敵がある。卿らはそれを忘れているようだな」
それまで黙ってレンネンカンプの言葉を聞いていたロイエンタールが凛とした声で言った。その声は良く響いて張りがあり、会議場の誰一人として無視できぬほど強い意志を感じさせた。
「この要塞から脱出したヤン・ウェンリーが今どこにいるかは誰にもわかっておらぬ。恐らくこのイゼルローンと同盟首都ハイネセンの間のいずこかにいて、息を潜めているに違いない」
「…それは」
レンネンカンプ提督が言いかけて、ロイエンタールに鋭く睨まれて黙りこんだ。ロイエンタールはその視線を好戦的な目つきをした他の提督たちにも投げかけつつ、続けた。
「彼方の我が軍が同盟の決死の軍を打倒したとしても、まだヤン・ウェンリー率いる軍が残っている。これを倒さずに勝利したとは言えまい」
ロイエンタールは副官に合図してイゼルローン要塞から惑星ハイネセン、ランテマリオ星域にまで連なる星図をソリビジョンに次々に投影させた。会議場の中央に、イゼルローンからランテマリオ星域へのルートを克明に示す映像が大きく浮かび上がる。
「イゼルローンを出たヤンが取るものとりあえず同盟軍の救援に向かうとすれば、今月の半ばには戦場に到達するだろう。同盟軍もその計算を当てにして、ヤンの到着まではなんとか戦局を維持しようとするに違いない」
ランテマリオ星域の星図が小さくなり、代わって同盟の首都星、ハイネセンを中心としたバーラト星系の星図が示され、レンネンカンプまでが他の提督同様に身を乗り出した。これまで帝国軍のどの軍であろうと同盟の中心部まで到達した者はなく、その星図を見ることさえ不可能だったのだ。
「我々はその間、ヤンを追うと見せて同盟の首都星があるバーラト星系へ攻め入る。我らが首都を落とし占領すれば同盟の本拠は失われ、戦うまでもなく同盟軍は瓦解する。前方に元帥閣下の軍、後方に我らの軍とくれば、さすがのヤンも進退窮まるに違いない」
ヤンをとうとう追い詰めるところを想像したのか総司令官がにやりとしたので、提督たちもつられてその場に立ち会うことを思って笑った。ヤンを倒す可能性に我を忘れて星図を見つめるレンネンカンプに、ロイエンタールは視線を向けた。
「別働隊として我が艦隊の他にレンネンカンプ艦隊も共に軍を進めることになるだろう。卿にはもっと他の優れた案もあることだろうが…」
皮肉めいてロイエンタールが言うのに、真っ赤になってレンネンカンプ提督は慌てた様子で否定した。
「総司令官閣下と共に軍を進められるとあれば否やはございません。私の拙い思案など捨て置きいただければと存ずる」
胸を叩かんばかりに意気盛んに言ったので、ロイエンタールはその稀な色違いの瞳を細めて頷いた。次いで、ルッツ提督にも視線を向けた。
「ルッツ艦隊にはイゼルローン要塞の守りを預けることになるだろう。フェザーン回廊が開かれたとはいえ、いまだこの地は帝国の要衝だ。こちらの隙をついてヤンが戻って来ることがないとも言えん。沈着な卿の手腕に期待したい」
その言葉を聞いてルッツ提督の表情はきりりとして晴れ渡り、大いなる気概に満ち溢れた。
「お任せください。後詰のアイゼナッハ提督とよく協議して要塞を固守いたします」
冷静なルッツ提督の言葉にもロイエンタールは頷いた。
「これからの我が軍の動きはすぐにも検討する必要がある。まずは各艦隊とも今後のそれぞれの役割に則った演習を行う目的で本日中に計画を立ててもらいたい。艦隊相互に参謀長、提督たちの協議も必要となる。帝国のために諸卿の奮闘を大いに望む」
星図の映像が消えた。総司令官は手元の資料をまとめると席を立った。
二人の大将たちとそれぞれの部下の提督たちも立ち上がったが、すでに心は次の戦場へと移っていた。総司令官への敬礼もおざなりに、急いでそれぞれの艦隊司令官の周りに集まり戦略について話し出したので、会議場は騒然となった。
ふいに、ロイエンタールの声が会議場に響き渡った。
「何事か、レンネンカンプ。その者は何か質問でもあるのか」
ベルゲングリューンも含め、会議場全体から一斉にレンネンカンプ提督の方へ視線が集まった。あのねずみ男の少将がレンネンカンプ提督の袖を掴んで何事かを訴えているのだった。レンネンカンプはうるさそうにそれを振り払おうとしていたが、総司令官に声を掛けられて渋々答えた。
「いえ、なんでもありません。この者には私からよく言って聞かせますので」
「遠慮することはない。ここは皆の意見を聞く場でもある。卿の参謀長として、戦局について聞きたいことがあるのだろう。グリルパルツァー、発言を許可する。存念を言うがいい」
レンネンカンプは明らかに舌打ちしたそうな表情で自身の参謀長を前に押し出した。司令官に背中を小突かれて、会議場の中央に立たされたグリルパルツァー少将はしばし逡巡していたが、心を決めたか意外にもしっかりした声で総司令官に話しかけた。
「お許しいただき恐れ入ります。若輩の身でこのようなことを申し上げるのは不敬の極まりかと存じますが、敢えてお聞きしたく存じます。総司令官閣下の参謀長、ベルゲングリューン中将閣下におかれましては、先日来、疑惑の声が上がっております。そのことについて総司令官閣下は如何になさるおつもりか、伺えればと存じます」
堂々と明瞭な言葉遣いで『疑惑』があると言った。はっきり名指しされたベルゲングリューンは遠慮のない視線が向けられるのを感じた。
総司令官がどう答えるか―。興味津々で彼を見る視線の中、ロイエンタールは驚いた様子も見せずに言った。
「別にどうもせぬ」
ぽかんとして、グリルパルツァーは総司令官の言葉の意味が分からないようだった。口を開いたり閉じたりしていたが、ようやく、しどろもどろに言葉を発した。
「い、いや、しかし…。恐れながら、あのような不届きな訴えが…」
「訴えか。参謀長についてそのような訴状が正式に提出されたとは聞いていないが。レッケンドルフ、卿は受け取っているか」
「存じません、閣下」
当のベルゲングリューンを含め、ロイエンタール艦隊の者も、他の艦隊の提督たちもあっけに取られて総司令官の無感動な白皙の顔を眺めた。
だが、グリルパルツァーは総司令官の無関心さにも負けずに言い募った。
「閣下は内容をご存じだと思います。閣下が手ずから死刑に処されたあの士官とベルゲングリューン中将が通じており、中将は私腹を肥やしていると言う、言語道断な訴えで…」
「グリルパルツァー!!」
思いがけず、ロイエンタールが大きな声で叩きつけるように言ったので、ねずみ男は咄嗟に「はっ!」、と言った。
「卿はおれの参謀長を帝国に対し謀略の疑いありと弾劾するのか!」
今まで静かだったロイエンタールの色違いの瞳が、うって変わって爛々と炎のように輝いているのを見て、グリルパルツァーは真っ青になった。その視線を避けるようにして、辛うじて上目づかいに総司令官を見てひきつったような声を出した。
「い、いえ、私が言うのではないのです…。あの、失礼極まる、不届きな告発文を書いた奴が…」
平手で一打ち、激しい音を立てて総司令官が机を叩いたので、その音にグリルパルツァーが驚いて飛び上ったのが傍目にも分かった。
「卿は今、いみじくも言ったな! そうだ、おれはあの士官を死刑にした。卿ら皆が証人となってあの者の死を見届けた。ならば分かるだろう。軍律を乱し、裏切った者をおれがどうするかを!」
ロイエンタールの手にはいつの間にか、ブラスターが握られていた。死の予感に震えて、グリルパルツァーがますます俯いて縮こまった。
だがロイエンタールはそれを無視して、軍靴の足音高くまっすぐにベルゲングリューンの前に向かって来た。
それまで、グリルパルツァーの雄弁を眉をひそめて聞いていたベルゲングリューンだったが、前に立った総司令官の手にブラスターが握られているのを目にして顔色を失った。

色違いの輝く瞳には凍り付くような炎が燃えていた。鏡の中の『ロイエンタール』の瞳にはそのようなものはなかったと、はたと気づいた。
―彼は確かに彼自身に戻ったのだ…!
上官の厳しい視線にさらされながらも、その気づきはベルゲングリューンの身の内を熱くさせた。
だが、その喜びを顔に出すことは出来ずに努めて冷静に上官を見つめ返した。
ベルゲングリューンの眉間に、ひんやりとしたブラスターの銃口が擬された。
その向こうでロイエンタールの色違いの瞳が一層の輝きを見せて、残忍に光った。
「ベルゲングリューン! 卿はかの者と通じ、私腹を肥やしていたのか!」
「決して! 決してそのようなことは致しませぬ!!」
まっすぐに狙ってくるブラスターの銃口には目もくれず、ただ、上官の氷のような瞳だけを見つめた。その瞳は妥協など知らぬ容赦のなさで、ベルゲングリューンの言葉に偽りがあると知れば、彼は本当に撃つだろうと言うことが分かった。
「まんまとあの者にすべての罪を着せて、死人に口なし、とばかりに卿に有利な話をおれに吹き込んだ! そして信じやすい上官よと嘲笑っていたのであろう!!」
「そのような…!? そんな馬鹿げた話に一片の真実もないことは、閣下もご存じの通りです! 私は―」
「言い逃れするか!!」
ベルゲングリューンの言葉を最後まで聞かずに厳しい声が遮った。温情も私情も感じさせぬ強い声に、これまで二人の間に感じられたあの心の通い合いはいったい何だったのかと虚しささえ感じた。
―くそっ、なんてお人だ…!
「ならば、撃つがいい!!」
ベルゲングリューンは高らかに叫ぶと、狙ってくるブラスターの銃口に額を押し付けるようにして立った。
「これほど心を砕いてお仕えしている者の言葉を信じず、あんな馬鹿げた告発に真実があると思うならば、部下の心を見抜けぬ、そんな愚かな上官はこちらから願い下げだ!」
ベルゲングリューンはブラスターの銃身を握りしめて眉間に押し付けた。ロイエンタールがその手から逃れようとブラスターを引っ張った。
副官が驚愕して上官に近づき、だが迂闊に介入もままならず、珍しくも狼狽えた様子で手を束ねて立ち止まった。明らかな苛立ちと微かな驚きを見せて総司令官がブラスターから手を離そうとしたのに対し、参謀長は上官の手首を掴んで退かせまいとし、しばしブラスターを間に揉み合った。ロイエンタール艦隊の提督たちも二人を引き離そうとして駆け寄ったが、暴発を恐れて手出しも出来ず立ちすくんだ。
ブラスターと上官の手首に手を掛けたまま、ベルゲングリューンが高らかに哄笑した。その笑い声は物音ひとつしない会議場に響き渡った。
「腰抜けでないなら今すぐ撃て!! さあ!!」
その嘲りの笑いに相応しく、目は見開き、歯茎をむき出して歯噛みし、鬼神の形相で上官を荒々しく睨み付けた。
部下から侮辱され、今やロイエンタールの顔色も常の陶器のような乳白色ではなく、怒りのため青白く血の気が引いていた。真珠のような歯を噛みしめて低いうなり声を発すると、渾身の力で両手を使いブラスターをもぎ取った。
素早い動きで参謀長に向かってブラスターの銃口を突きつけ、再び、両者は仇敵同士であるかのように睨み合った。
如何なる物音も聞こえず、ただ二人の人間の荒い息づかいだけが人々の間にこだました。
静寂の中、ブラスターを握ったロイエンタールの手がゆっくりと降ろされた。
「ならば、ベルゲングリューン。今の卿のままでいろ。決しておれを裏切るな」
静かな声で言うと、ロイエンタールは踵を返した。手にした武器は何事もなかったかのように腰のホルスターに収められた。提督たちがおずおずと彼に道を開ける。
軽いめまいを感じながら、ベルゲングリューンは遠ざかるロイエンタールの背中を見つめた。誰もが何も言わずに畏怖するように総司令官を見つめていた。
誰も、副官でさえも、彼に近寄ろうとしなかった。冷たく鋭い氷のような空気を身にまとい、図々しいねずみ男さえ気圧されたように彼が近づく前に後ずさりした。
彼の周囲には誰もいなかった。
ベルゲングリューンは考える間もなく駆け出して、ロイエンタールの前に回り込むとその足元に跪いた。
「何をしている、ベルゲングリューン」
それは低くて落ち着いた、優しい声だった。ベルゲングリューンは床の上からまっすぐに彼の瞳を見上げた。その瞳は孤独の重さに耐えてきた年月の長さを映し出していた。
「閣下、私はあなたが私をお信じになられなくても、あなたを決して裏切りません。そのことだけはお心に留めておいてください」
見下ろしてくるロイエンタールの表情が緊張を保ったままながら、少しほころんだ。
「その言葉、謹んで受け取ろう。だが卿の直言にはいつも苦みが存在するな。おれの至らぬところを容赦なく暴く」
「だからこそ、閣下は私をお側にお置きくださるのかと存じます」
それを聞いて、ロイエンタールは自嘲気味ではあったが初めて軽やかに笑った。
「その通りだ。おれに追従者はいらぬ。そんなつまらん者はオーベルシュタインにでもくれてやる」
追従と問題の高官とのつながりはあまりにも希薄で、その下手な冗談にレッケンドルフが緊張の糸が切れたかのように噴き出した。ロイエンタール艦隊の提督たちも満足げに互いに顔を見合わせて、さざ波のように静かに笑った。
他の艦隊の提督たちはまだ戸惑っている。中でも総司令官が信頼を寄せる参謀長への告発をわざわざ俎上に載せたグリルパルツァーは、周囲の視線に耐えきれぬように血の気の失せた顔を上げられずにいた。同じ艦隊の提督たちも彼の方を見ないようにしている。
ベルゲングリューンがその様子を見ているのに気付き、ロイエンタールはレンネンカンプに声をかけた。
「レンネンカンプ、良い部下を持っているな。戦場での働きが楽しみだ」
「は…。恐れ入ります」
あまり嬉しくもなさそうだったが、顔色が晴れたことから察するに、ひとまずレンネンカンプの面目は保たれたようだった。グリルパルツァーも総司令官の恐ろしい視線から逃れられたことに気づき、ようやく意を決して顔を上げた。ロイエンタールが軽く頷いて見せたので、自信を取り戻したか胸を張って周囲を見渡した。懲りない奴だが油断するまい、とベルゲングリューンはこの男の姓名と顔を心に刻んだ。
総司令官は副官を従え、会議場を後にした。やって来たとき同様、参謀長を振り向きもしなかった。
ベルゲングリューンは提督たちが見ているにも関わらず、緊張が解けて震え始めた両手の中に大きな息を吐いた。再び息を吸い込んで、思わず呼吸を止めた。
すぐそばに立っていたゾンネンフェルスは、参謀長が手で顔を覆ったまま肩を震わせているのに気付いた。声を掛けようとして、当の参謀長がひきつるような声をあげたので、安堵のために泣いているのかと心配したが、違った。
ベルゲングリューンは笑っていた。
手のひらの中は蜜のように甘く、鼻を突くつんとする濃厚な香りが漂っていた。

彼の優しく淫らな手つきが身体中にまざまざと蘇った。

これによりベルゲングリューンは、ロイエンタールがどこにあのオイルを塗ったか、少なくとも一か所については知ることが出来たのである。
 

​面影を抱きしめて

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