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15、

ベルゲングリューンは半ばパニックになって、ロイエンタールは何処にいるのかと部屋の中を探した。一瞬、二人のどちらの身体を探すべきか分からず混乱した。だが、もし無事に魂の交換が果たされたのならば、ロイエンタールもまた、彼自身の身体に戻っているはずだ。
―ビジフォンをするか!? いや、今すぐ、お部屋に伺おう…!
Tシャツを脱いでシャワーを急いで浴び、髭を剃ったら失敗して頬を切った。髭が生えてよりこの方、毎日の儀式だったと言うのに、ロイエンタールの手のかからない滑らかな肌に慣れてしまっていたらしい。とは言え、日常の仕草を繰り返すうちに、『ロイエンタール』としての感覚が消えていくのが手に取るように分かった。
手早くシャツを着て、クローゼットにきちんとしまわれた軍服の上着を手に、腕時計を探してデスクの上を見た。
デスクの上には、数葉のメモ用紙が端を揃えて綺麗に置かれていた。今しがたまでこの用紙にメモを取っていた人が、ちょっと席を立ったかのようにペンが脇に置かれている。
ロイエンタールは前夜、このデスクに座って何かメモを取っていたらしい。
早く彼の元に行きたいと焦っていたにもかかわらず、ベルゲングリューンは好奇心に駆られてそのメモ用紙を取り上げた。
『ベルゲングリューンらしく!』
というゴシック文字が目の中にいきなり飛び込んできて、心臓が飛び跳ねた。ご丁寧に二重線で下線が引かれている。
前日、取り決めた内容の復習のような形で想定される質問が記載され、それを参謀長が自ら回答する場合の要旨が書かれている。だが、いくつかは大きな斜めの線で消されており、『ベルゲングリューンらしく!』の言葉はその下に書かれているのだった。回答の仕方が参謀長らしくない、と思ったらしい。
余白に、綺麗にそろった文字で『彼らしさとは?』と追記されている。

―彼らしさとは?
―頑固者だ 知らないならそう言えばいいものを おれが怒るとでも思ったのか

思わず頬が赤くなった。

―おしゃべりではない だが率直に意見する
―上官にも直言する 面白い 嫌がる者もいるだろうが
―雄弁に話すことも出来る 意外にも

彼の私的なメモを読んではいけない、と分かっているのにメモ用紙をデスクの上に戻すことが出来なかった。
彼は自分をどう思っているのだろうという疑問の答えを窺い知ることは、永遠の神秘の扉を開くようなものだ。

―参謀としては 最上級の部類
―知性も理性も よく発達している
―頭が良い男 会話が楽しい
―武器も良く扱える
―艦隊司令官 独立した権限 安心して任せられる
―自分で考えて行動することが出来る男

頬がますます火照って、口元がだらしなく緩みそうになる。まさか、彼がこれほど自分の才覚を認めているとは思ってもみなかったのだ。
しかし、続く言葉を見て気を引き締めた。

―だが

『だが』、との言葉が二重三重に上書きされて、太い文字になっていた。
続きは同じ用紙にはなく、すぐ下に重ねられた用紙にその後の思考の連なりが読み取れた。

―感情的すぎる 感情に支配されやすい
―『キルヒアイス』

亡き上官の名前の下に二重線で波線が引かれていた。

―部下として 彼の死に立ち会えず
―未だにあの死がくすぶっている それがよく分かる 隠しもしない
―友情 いい男だ 人間的な深い絆
―軍人として?

ベルゲングリューンの鼓動は通常より早いリズムを刻み、激しく胸を打った。

―非常に良い補佐役
―今後 良い上官を得ることが出来ると良いが

まさか、彼はベルゲングリューンを別の艦隊の誰かの元へ異動させるつもりなのだろうか。ロイエンタールが望むならば、突然の配置換えにも反対の声など起こらず、即座に手配されるであろう。
ベルゲングリューンはメモ用紙から顔を上げた。クリップがあるのを見つけ、メモ用紙をまとめるとデスクの引き出しの中にしまった。
ロイエンタールの観察は、自分の良い面も悪い面も見つけ出し、容赦なかった。自分は彼の言う通りの男だ。彼にとって自分が良く出来る部下でしかないのであれば、その道を極めてやろう。だが、別の『良い』上官などをあてがってやろうとしたら、徹底的に抗議しよう。
―俺はあの方にとってのみ、最上の部下なのだ。
あの方にとっても、俺のような男が部下である方がいいのだ。あのように気難しい上官についていける奴はそうそういない。俺を手放したらあの方も任務に支障を来して一大事だろうに、それに気づかないのか。
俺が頑固者であることはあの方もよくご存じの通りだ。
ベルゲングリューンはさっきからずっと、ビジフォンの呼び出し音が鳴っていたことに気づいた。
急いでビジフォンに出ると、画面にレッケンドルフ大尉の澄まし顔が映った。
「おはよう。待たせて悪かった。何事だ?」
『おはようございます。まだ身支度をなさっている最中かと思いましたが、緊急のご連絡でしたので』
まさか彼に何かあったのではないかと心臓が轟いたが、平静を装って大尉の言葉を待つ。
『本日開催予定の全体会議ですが、総司令官閣下のご指示により予定を早めて10時からの開始となります』
「1時間も早く…? それで準備に問題はないのか。だが閣下のご指示であれば仕方ない。では、私も9時前に御前に伺う」
心なしか、大尉の澄まし顔が明るく輝き、にこやかさを増した。
『いえ、ベルゲングリューン中将閣下には他の提督方とご一緒に10時に会議場にいらっしゃればよい、との閣下のお言葉です』
「しかし、昨日の取り決めについて前もって今一度閣下にご確認したいが…」
間違いなく彼が『ロイエンタール』の身体に戻っているか確かめる必要があるのだ。
『それも不要、との閣下のご指示です。では後ほど会議場でお待ちしております』
ビジフォンはベルゲングリューンの返事を待たずに切れた。会議の時間を早めて、しかも彼に会いに来るなと言う…。
―本当に閣下は元に戻られたのか? 会議を早めるべき何事かが起こったのか? まさか、レンネンカンプが独断でローエングラム公に連絡を取りなどはするまいが…。
何か戦術上の理由でレンネンカンプ一派の意表を突くため時間を早める必要があるのかもしれない。
ベルゲングリューンはあらゆる可能性と問題に心を激しくかき乱されながら、会議までの時間を過ごすことになった。
それはこれまでの人生で一番長い朝となった。

会議場に各艦隊の提督たちが参集し、廊下は上官に従ってやって来た副官や参謀の姿であふれた。会議には直接関係しない士官も大勢たむろしているように思われた。
ベルゲングリューンは人目に触れないよう、会議の開始間際に行こうかと考えていた。だが堂々としていようと決心し、こういう場合に今までしていたように早めに会議場に向かった。
「ベルゲングリューン中将…! よくぞ参られた」
人混みをかき分けてゾンネンフェルスが近づき握手を求めたので、ベルゲングリューンは驚いて差し出された手を握った。
「よくぞ…? さては俺が現れるかどうか賭けでもあったか」
「閣下の統括なさるイゼルローンで賭ける度胸がある者はおらんだろうが、似たようなものだ。みんな、今日のこの会議で卿の運命が決するだろうと注目しておるんだ。言動には気を付けなされよ」
恐らくゾンネンフェルス自身も賭けられるものなら賭けたかっただろうが、参謀長に対する心配は本物だった。ベルゲングリューンは感謝して答えた。
「卿の忠告はありがたく受け取っておくが、俺は逃げ隠れする気はない。後ろ暗い所などないのだから、いつも通りにするつもりだ」
「卿がそう言うなら…。いずれにせよ閣下のご迷惑にならぬように円満に収まってほしいものだ。私が気になるのはそれだけだ」
神妙な顔で言われて、ベルゲングリューンは何も言えずに頷いた。
会議場に入ると、Uの字型に設えた席のどこが目立たない場所だろうかとまたしても一瞬迷った。閣下のご迷惑にならない席は何処だろう。だが結局これまで通り、まっすぐに上官の席のそばと思われる場所を目指した。
堂々とした態度を貫いていてよかった。従卒が現れて「ベルゲングリューン中将、こちらへどうぞ」、と案内した場所はUの字の一方の頭、すなわち、中央に置かれた議長席のすぐ左手の席に導かれたのだ。参謀長の席の後ろにはロイエンタール艦隊の提督たちが階級順に座った。ちらりと見ると、目が合った者は頷いて見せたり親指を立てて激励したりして、参謀長を無視する者は誰一人としていなかった。
―俺が閣下にご迷惑をかけ続けていることを厚顔無恥だとして不快に思っている者もいると聞いたが…。
恐らく他の艦隊への対抗意識が沸き起こり、参謀長を応援しようと結束したのだろう。それにしてもゾンネンフェルスのようなロイエンタール直属の提督たちが参謀長を支持するよう、他の者たちを説得して回ってくれたに違いなかった。1年前、亡きキルヒアイス提督のもとから突然やって来た新任の参謀長を、古くからロイエンタールに従って来た提督たちは受け入れた。ベルゲングリューンを気に入らない者もいるだろうが、参謀長としてのこれまでの働きを概ね評価してくれているのだと思っていいだろう。
集団の結束を求められる軍隊にいる以上、上官であるロイエンタールだけが彼の真価を評価してくれればいい、などとは思えないのだった。
ベルゲングリューンは先ほどよりよほど落ち着いた気分で会議場を眺めた。Uの字のこちら側にロイエンタール艦隊、向かい側にレンネンカンプ艦隊、Uの字の底に当たる辺りにルッツ艦隊のそれぞれの司令官、提督たちがずらりと席についている。U字は二重になっていて、前列に大将他上級の将官たち、後列にその他の提督たちが着席した。レンネンカンプ提督は腕を組んでどっしりと席についているが明らかに苛立ちが見え、部下の提督たちもなぜこんな固い椅子に座らされているのかと言いたげな、反抗的な面構えをしている。例のねずみ男の参謀長も司令官の側近くに姿を見せている。
ルッツ艦隊の提督たちはどちらかというと面白い見ものでも見に来たような気楽さで、自分たちには無関係だと思っているのだろう。そんな中でルッツ提督の落ち着いた佇まいには安心させられた。
大勢の勇猛果敢な提督たちが居並ぶ様子は壮観と言う他ない。元帥閣下の幕下における綺羅星の如き様相とはまた異なるが、わずかの間ながら自分がこの面々を従えて来たとは信じられないほどだった。
―いや、俺などは単にお飾りだったにすぎん。どのような姿であっても、あの方こそがこの軍の真の要であった。
会議場の扉が開いて、副官レッケンドルフ大尉が現れた。扉の内側に立ち、頭を下げて後に続く人を先に通した。
イゼルローン方面軍総司令官、ロイエンタール上級大将のすらりとした姿が会議場に現れ、万座の者たちはいっせいに立ち上がった。
先ほどまで提督たちの話し声で騒がしかった会議場はしんとして、すべての視線が総司令官へと集中した。
ここ数か月、ロイエンタールを『自分』と『ロイエンタール』の目で朝晩見てきたにもかかわらず、ベルゲングリューンは初めて彼と出会ったかのような衝撃を受けた。
鏡に映ったあれは彼の顔ではなかったのだろうか? これほど心奪う気高く整った白皙の容貌を平静な気持ちで見ていたとは、どこかおかしかったに違いない。
ロイエンタールは感情の見えない静かな視線を会議場に巡らした。人を威圧する色違いの瞳は厳しさを含んで輝き、鋭く見る者を貫いた。レンネンカンプ艦隊にとりわけ多くの時間を割いて視線が注がれていたのは気のせいではあるまい。目が合った提督たちは誰も彼も、夢から覚めたようにはっとし表情がうって変わって引き締まった。
―何故、この司令官に反抗しようとしたりしたのだろう。
突然そのことに気づいたかのようだった。
ロイエンタールは自らの艦隊には軽く視線をさ迷わせただけで、誰とも目を合わせず通り過ぎた。司令官を敬愛して仰ぐ部下の提督たちに、少しは微笑みを見せてはとまでは言わないがせめて目を合わせて欲しい、と上官のそっけなさに心憂えた。
ロイエンタールは参謀長へは見向きもしなかった。万座の提督たちに答礼すると自分の席に着き、手元の資料をパラパラとめくって眺めた。
「皆さん、ご着席ください」
レッケンドルフ大尉の促す声に、突っ立ったまま何故かぼんやりと総司令官に見とれていた提督たちは、ハッとしてブツブツ言いながら席に着いた。レッケンドルフが総司令官の隣に着席し、咳払いして言葉を継いだ。
「不束ながら、わたくしレッケンドルフ大尉が本日の議事進行を務めます。ではまず―」
提督たちがうんざりしたことに、レッケンドルフは要塞内のネットワーク整備担当の技術士官を呼び出し、整備の進捗状況の報告が始まった。レッケンドルフの落ち着いた声は揺らぎなく淡々としている上に、技術士官の説明はあまりに専門的すぎた。単調過ぎるやり取りはこのような事柄に興味のない提督たちの眠気を誘うに十分だった。二人の大将はさすがに睡魔に堪えるような顔はしていないが、明らかに戸惑っている。
これは反抗的な提督たちの気勢を削ごうという作戦ではないか、とは辛うじて察せられたが、いったいロイエンタールはどうするつもりか見当がつかなかった。思えば二人の状況が変わってから一言の会話も視線の交換もなく、彼の考えが前夜と同じものか保証はないのだった。
ちらりと見たロイエンタールの横顔は冷ややかで、鼻梁のなだらかさも長いまつ毛の目を伏せた様子も、あまりに艶やかに整いすぎて人形のようで取り付く島もない。こちらから見えるのは暗い方の瞳だけで、机の上に手を組んで視線はじっと前方に向けている。この人が別の肉体にいてベルゲングリューンの手の下で身悶えたなどと、自分の愚かな夢だったのではないだろうかという気がした。
「それでは次に、総司令官閣下からのご指示によりまして―」
レッケンドルフがそう言ったので、提督たちはいっせいに眠気を払って背筋を伸ばしたが、それは衛生管理の問題が発生し下水処理施設の工事のために明後日断水するという内容だった。それだけであったら提督たちはいい加減にしろと席を蹴って立ったかもしれなかった。大尉が続けて、この機会に要塞を出て演習を行うため各艦隊は早急に計画を立てるようにとの総司令官のお達しを伝えたので、提督たちは奥歯を噛んで耐えた。
ベルゲングリューンがちらりと見ると、レンネンカンプ提督は眉間に深いしわを寄せてカイゼル髭を噛んでいた。ルッツ提督は後列の副官と小声で話し合っている。一方でロイエンタール艦隊の席からはどんな事情にせよ、宇宙に出られることを歓迎する呟きが上がった。
静かだった会議場は一転して、息詰まる要塞内から宇宙へ飛び出す期待の声でざわめいた。
「皆様、総司令官ロイエンタール上級大将閣下からのお話がありますのでご清聴ください」
レッケンドルフ大尉が唐突に告げたので、途端に会議場の全員がぴたりとおしゃべりを止め、総司令官の隙のない佇まいに意識を戻した。
会議場のすべての注目を集めていることなど歯牙にもかけず、ロイエンタールは悠々たる態度で自席から立ち上がった。その瞬間に小さな気流が起きたのだろうか、ロイエンタールのコロンの香りがベルゲングリューンの席まで漂ってきた。
いつもと違う濃厚な香り―。その香りの正体にベルゲングリューンの意識より先に身体が反応した。寝室の暗がりを思わせる、どことなく鼻を刺激する香りの中に熱帯の花の蜜のような甘さ。
―あのオイルの…。
ベルゲングリューンは昨夜、就寝前にオイルを元あった通りにキャビネットの中にしまった。約束通りに一滴も『ロイエンタール』の身体に垂らすことはしなかった。
脳裏にシーツの上に四肢を広げて横たわる、ロイエンタール上級大将その人のほの白い裸身が浮かんだ。悪戯な笑みに満ちた色違いの瞳でベルゲングリューンをじっと見つめながら、両手は艶めかしく蠢いて胸の真っ赤な2つの粒の周りを巡り、腹からその下へとするすると滑って行く。両膝を立てた間に手が掬うようにして入り込み、ぴんとして立ち上がる美しい鋼鉄を掴みしごくと、甘い香りがますます濃厚に立ち上った。
小さく開いた唇から誘うようなあえかな喘ぎすら聞こえた。
余りに真に迫った不純極まりない想像により、股間は固く熱くなり、胸の頂きが疼いて存在感を増し、思わず顔がひどく火照る結果になった。
現実に意識を集中しようとして、ベルゲングリューンは必死で帝国軍軍規を一から暗唱した。身体の前にデスクがなかったら向かい側に座るレンネンカンプ大将の目を剥かせることになったかもしれない。
今すぐそばに座るロイエンタールの姿を視界に入れたら、あの白い肌のどこにオイルを塗ったか禁欲的な軍服を剥いですべて暴いてしまいたくなる。代わりにレンネンカンプ大将のしかめ面を凝視して、肉体の甘い誘惑に堪えた。

 

​面影を抱きしめて

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