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14、

かのねずみ男の名前を確かめるためにレンネンカンプ艦隊の名簿を調べると、確かにいた。まるで士官学校卒業アルバムの写真のように若々しく爽やかで、自信に満ちたハンサムな表情だ。実際かなり若い。だが当人を目の前にした時には狡猾さが印象を汚し、ハンサムとも爽やかだとも思わなかった。
ロイエンタールにその写真を指し示すと、「ああ、この男か」とやはり知っていた。
「どうぞ、今後こやつを相手にするときはお気を付けください。思わぬ時に人の足を掬うような男です」
「そう嫌ったものでもない。むしろ、こういう欲得ずくで動く奴は分かりやすい。しかし、レンネンカンプも大した部下を持ったものだ」
二人は居間のソファに並んで腰掛けていた。こうしていると彼が身近にいることにほっとする。膝をくっつけて隣り合って座り、前夜の訪問者との会話について話し合う。その話し合いによりこちらから先手を打って、ルッツやレンネンカンプから参謀長の罷免を要求される前に、幹部以上の将官を中心にした全体会議を招集することで意見が一致した。
会議上ではどのように話しを進めるつもりか、ロイエンタールが聞いた。
「とにかく、告発文には証拠となる裏付けも何もなく、しかも卑怯にも匿名なのです。その点を強調して理路整然と攻めるべきかと思います」
「あくまで理性に訴えると言うことか。『参謀長』の行動に説明できない点があることを突かれたらどのように釈明するか」
「説明できないからと言って、かの処刑された士官と通じていた証拠にはならないはずです。必ずどの行動も説明ができ、その証拠が立てられる者がいたら会ってみたいと言ってやります」
ロイエンタールは苦笑して、「なるほど」と言った。だが、その笑みはどことなく寂しそうで、そう言えばこの間から彼はしばしばこのような表情をするようになった、と思った。
「あくまで理性的に対処して、ヒステリーじみた告発との対比を明らかにするのはいいことだろうな。卿自身で質問に応じるのか」
恥じ入って恐縮の態でベルゲングリューンは頭をかいた。
「そうしたいところですが、『総司令官』の立場を保ちつつ『参謀長』の弁護を上手く論ずることが出来るか、こればかりは自信がありません。レッケンドルフに参謀長の弁護人を務めるように伝えています。彼も『総司令官』のお為ならば、と張り切っていろいろ資料を漁っています」
ロイエンタールは頷いた。相変わらず寂し気な微笑みだったので、ベルゲングリューンは元気づけるように無理に明るく笑った。
「大丈夫です。もともとレンネンカンプ提督の杜撰な陰謀なのですから、すべて綺麗にして見せます。そうしたら、今度こそ腰を落ち着けて元に戻る方法を考えましょう」
その言葉にロイエンタールは驚いたようだった。瞬きを繰り返していたが、
「卿にはすまないと思う」
突然、ぽつりと言った。
このように寂しそうに呟かれては慌ててしまう。ベルゲングリューンは急いで彼の手を取り、「何をおっしゃいますか」、と言った。
「ベルゲングリューン、勘違いしないでほしいがおれもいったいどうやったら元に戻れるか、分からん」
「勿論です」
彼は知っているのではないかと思ったことがないとは言わないが…。ベルゲングリューンは安心させるように握った手を揺すった。
「卿は最初から絶対に元の身体に戻ると言い続けていたな。だがおれは、卿ほど本気で元に戻りたいと思わないで来た。卿と身体を交換する? 面白いではないか、とな。」
「…実は、そのようにお考えなのではないかと思っておりました」
ベルゲングリューンの言葉に、小さく自嘲気味に笑ってロイエンタールが続けた。
「外見はもちろんだが、人格も過去も飽き飽きするような『おれ』と決別して、卿に成りきるのは愉快な経験のような気がした。我ながら呆れるほど暢気なことだ。だが結局、おれは卿をあまり上手に演じ切れていないな。良くも悪くも『おれ』の人格と過去が残って、卿に成りきることを邪魔している」
「あなたの魂がすべて失われるようなことがなくてよかった。外見など、関係ありません。あなたらしさが無くなったら、あなたではなくなってしまう」
「そうだ、おれらしさは残っている。だからこそ、卿のために元に戻りたいと思う」
まぶたの奥がふいに熱くなり、ちかちかと何か眩しいものが目の中に灯った。
「私のために?」
「そうだ」
ロイエンタールはきっぱりと言った。その言葉がどれほどベルゲングリューンの心臓の鼓動を早めたか、気づきもせずに。
「今の卿の苦境を『総司令官』のおれならば解決することが出来ると思う。いや、確実に出来る」
決意の籠った確信ありげな言葉、強い視線だった。その手段は不確かながら今、彼は本当に元に戻ってこの事態を解決したいと思っていることが分かった。
「その方法を私やレッケンドルフに教えてください。そして皆で協力して解決しましょう」
「いや、これはおれでなくては駄目なんだ。卿は本当によくやってくれている。だが、恐らく卿には出来まい。戦の上での策略であればあるいは可能かもしれないが」
彼は自分を信頼してくれていないのかとちらりと考えたが、そうではないことは彼の真摯な態度から分かった。彼の判断の優れていることを自分はよく知っている。自分には無理だと彼が考えるならきっとその通りなのだろう。残念なことではあるが、自分に至らないところがあるのは重々承知している。
「分かりました…。本来の閣下には及びもつかぬ菲才の身ですが、この状態を打破するため精いっぱい努めます」
その言葉にロイエンタールはちょっとショックを受けたようだった。握られていた手を強く握り返して来た。
「そうではない、ベルゲングリューン。卿は一人ではない。被告であるからと言っておれは黙っている気はないぞ。なんとか卿らしさを失わずにおれも戦おう。卿ならどのように抗議するか、教えてくれ」
まるで戦に臨むかのような熱のこもった真剣な言葉だった。
思いがけず愛しさが沸き上がり、彼を力いっぱい抱きしめたくなった。だが、今そんなことをしたら彼に呆れられてしまう。
もう、参謀長は謹慎すべき、などとは考えなかった。むしろ、不当に与えられた侮辱に堂々と抗議し、正論で批判的な声を覆す時なのだ。二人は副官も交えて来るべき会議において、どのように論じるべきかを協議しあった。午後遅くになってからゾンネンフェルスを呼び、全体会議の開催は提督たちにどのように受け止められたか意見を聞いた。それによると、ゾンネンフェルスはもちろんのこと、ロイエンタール艦隊の提督たちもこれでこの騒ぎが収まるはずだ、と歓迎していると告げた。レンネンカンプ艦隊はどちらかというと批判的な意見が多く見受けられるが、ルッツ艦隊は中立の立場で冷静に状況を見極めようとしている、と言う。どうやら司令官の意向がその艦隊の特色として現れているようだった。
要塞全体が参謀長を誹謗しているわけではない。何かおかしいと気づいている者は少なくないのだ。ベルゲングリューンはそのことに力づけられた。明日になれば、すべてが変わるはずだと言う希望が心の中に芽生えた。


夕食の時間になると副官たちは総司令官の部屋を辞した。決戦を目前にしながら糧食を口にするときのような、休憩を必要としているのにもかかわらず、身体も心も落ち着かない状態だった。焦燥感を押さえ込んでベルゲングリューンは自席に座ったまま、参謀長が書類を片付けるのをぼんやりと見つめていた。
ロイエンタールが書類を持って扉に向かおうとして顔を上げ、ベルゲングリューンのその視線に気づいた。
気がつくと、彼を腕に抱いてその唇を強く吸っていた。
足元には書類が散らばっている。彼もきつく抱き付いてくる。『ベルゲングリューン』の腕力の方が強いせいだろうか、彼の抱擁は苦しくなるほどだった。まるでその強さに対抗するように彼の口の中をおもうさま舌で探ると、苦しそうに喉の奥で呻いて前を上下に擦りつけて来た。絡め取り、絡みつく舌は艶めかしく、今すぐ彼の肌に触れたくて気が狂いそうになる。代わりに軍服の上着の裾から彼の尻の双丘を両手でぎゅっと握って、勢いよく彼の股間に股間を押し出して彼の下半身を持ち上げるようにした。
「あぁっ…!」
自ら発したその叫びに、ロイエンタールが驚いたように身体を引き剥がしてぱっと口を手で押さえた。ベルゲングリューンも自分の声音による艶めかしい喘ぎを聞いて、驚いて目を見張った。
突然二人を襲った欲望の奔流に慄いて、互いに目を見合わせた。
やがて、ロイエンタールがため息をついてベルゲングリューンの肩に頬を乗せた。
「卿は…、前回二人でやってから何か調べでもしたのか…?」
「調べる…、いえ…」
ベルゲングリューンの腕の中で、肩に頬を寄せたままロイエンタールは黙っていたが、「そうか」と言ってくすくすと笑った。
「なるほど分かった。卿とて女相手には経験がない訳ではないようだ。先ほどの振る舞いは女にするのと同じことをしたのだな」
その通りだ、とベルゲングリューンの頬は赤くなり、次いで彼を女扱いしたのだと気づいて真っ青になった。
「申し訳ございません…! そんなつもりではなかったのです…」
そう言って、急いで彼を腕から解放しようとしたが、彼はそれを引き留めた。抱き付いたまま、ベルゲングリューンの頬を撫でる。
「謝るようなことではない。本能で動いたのだろう」
依然として晴れない表情に気づき、ロイエンタールはベルゲングリューンの耳朶を唇の間に挟んだ。
「それになかなか良かった。あんな声をおれに出させて―」
謝罪は不要だと言うことはよく分かったが、その言葉でベルゲングリューンの顔は耳までひどく火照った。ロイエンタールは抱き付いて熱い耳元に唇を付けたまま、囁くように話した。
「ベルゲングリューン、あのオイルを少し分けてくれるか」
「あれはもともと閣下のものですから…。瓶ごとお持ちください」
彼が身じろぎして耳の後ろを舐めたので、首筋から電流が走って全身が震えた。
「卿も使うものだから全部持って行っては駄目だ」
「しかし…、入れられる容器があるかどうか分かりません…」
「コップにでも入れようか」
いい香りのするオイルを入れたマグカップを手にした参謀長が廊下を行く光景が思い浮かび、それはずいぶん滑稽に思えた。
「何にお使いですか」
抱きつく彼の髪に唇を付け小さく接吻してから囁くと、彼が背中を撫でながら呟いた。
「あの香りは卿のことを思い出させる。シャワーの後であれを身体に塗ってみよう。本当は卿が塗ってくれると良いが…」
心臓の鼓動がリズムを外して飛び跳ねて、辛うじて「駄目です…」としゃがれた声で言ったが、ひどく弱々しく聞こえた。ロイエンタールは分かっている、と言いたげに頷いた。
「そうだな、明日のことを考えてあまり夢中になってはいけないな。だから、卿がその手で塗ってくれていると想像しながら自分でやろう」
彼の脇腹のベルトの上にベルゲングリューンの手が導かれた。ベルゲングリューンの手の甲を何度も優しく撫でている。
「足には付けない、つるつる滑って転んでは事だ。まず、手でオイルを揉むようにして温めて、首筋から胸にかけてその手を滑らせる」
「閣下…」
「ちゃんとやり方を聞け、後で卿も自分でやるのだから。コロンの類は体温の高い所に付けると良く香るということを覚えておけよ。胸や腹、手首の内側は体温が高い。肩から鎖骨もゆっくり、力を入れずに塗り広げて…」
彼の手がベルゲングリューンの顎を撫で、軍服の襟元に指を差し込んで頸動脈を探り、何度も肌の上を行き来した。
「そして、胸まで手のひらを滑らせる。時々、気まぐれに腹まで降ろしてもいいな。乳首は手のひらで捏ねるようにしてから、親指と人差し指で摘まむと固く根元から立ち上がる。無理につねらずに優しく、こういう風に―」
片腕は背中に回したまま、顔を起こしてベルゲングリューンの目の前で手をひらひらさせて実演して見せた。
「赤くじんわりと熱を持つようになるまで、でも傷めないよう強すぎずに胸をしっかり塗れたら、次は手のひらで臍の回りを数回、円を描く感じで…」
ベルゲングリューンの手を取って、ロイエンタールは軍服の上から腹を撫でさせた。ベルゲングリューンは釣り込まれて、「はい」、と答えた。
「そうしたら、その下まで塗るわけだが、少しオイルを足した方がいいだろうな。どう思う?」
その下にあるものを思って、ベルゲングリューンも自分自身の存在感を強く感じだした。
「そうですね…。滑りがもっと良くなるように…、敏感なところですから…、閣下を傷つけてしまわないように…」
「卿の手なら、少しくらい強くてもなんでもない。むしろ気持ちいいくらいだ。だが、オイルは足した方がやり易いだろうな。しっかり塗らなくては」
「…はい…、隙間なく、全体に…」
手の中にその滑りやすい肉の感触が蘇るようだった。ロイエンタールの唇が耳朶を食み、囁きが耳をくすぐる。
「だが、卿の身体は体毛を処理していないから、毛がオイルを吸収しないようにしなくては。時間が出来たら少し手入れすると良い。装甲服でも蒸れにくくなる」
「そ、そうですか…、そうなんですか…? 閣下は…」
妙なことに彼のものが綺麗なのは当然と思い生まれながらそうなのかと思っていたが、彼にとっては手入れするのが普通の場所らしい。『ベルゲングリューン』が『ロイエンタール』の処理後の肌を確かめようと問題の場所を覗きこむ様子を想像し、その淫らさに熱く硬直した。
ロイエンタールの手がからかうようにベルゲングリューンの手を取った。
「…毛に触れず、こんな風に」
腹の下に導かれ、彼のものを布地の上から撫でさせる。そっと焦らすように手を上下すると彼のため息が耳をくすぐった。ロイエンタールの手が離れた後も、ベルゲングリューンはそのまま彼を優しく撫で続けた。
「そう、裏側もすくい上げて根元まで隙間なく、熱を持って熱くなるまで塗り広げると、先端から溢れてきてオイルと混じってだんだん滑りが良くなってきて…。オイルがとうとう滴るほどになり、それで奥まで濡れてしまうんだ…」
「閣下…」
今ここで、これまでしてきたように前を開いて隙間から手を忍ばせることは簡単だ。そうすればすでに熱くなっている彼に本当にオイルを塗ることが出来る。オイルの香りを身にまとって固いままの彼を自室へ帰らせよう。そして、その香りを嗅ぎつつオイルを塗った男のことを考えながら、彼は自分を慰めるだろう。
だが、彼は深いため息をつくとベルゲングリューンの額に接吻をして、胸から離れて行った。
潤んだような瞳でベルゲングリューンを見ながら、大きく深呼吸した。
「―また明日。オイルは卿に預けておくから自由に使うがいい」
「いえ、大事に取っておいて閣下とご一緒の時にだけ使います。…よくお休みください、閣下」
「卿も。お休み」
ロイエンタールが書類を拾うのを手伝い、拾い終わったころには二人とも身体は落ち着きを取り戻していた。だが、部屋に一人になったら彼を想い出さずにはいられないだろう。彼の側にいては、気持ちが落ち着くことなどということは到底ありえないのだ。

 


イゼルローン要塞に人工の朝日が昇る。
窓から差し込む明るい日差しがゆっくりとベッドにまで伸びる。
ベッドにはくたびれたTシャツを羽織っただけの裸の男が眠っている。
その顔の上にも日が差して、眩しさに男の手が顔を覆う。
両手で顔を覆ったまま、眠りに戻ろうとするが、部屋の中はどんどん明るくなる。
男は大きな欠伸をして、両手で無精髭が伸びた頬を上下に撫でる。
再び眠りに戻ろうとして、男の手がぴたりと止まる。

男は飛び起きた。

 


部屋中を駆け巡って鏡がどこにあるか探した。
二度目に開いた扉の奥に大きな鏡のかかったシャワールームを見つけ、飛び込んだ。
だが、見るまでもなく分かっていた。
彼はハンス・エドアルド・ベルゲングリューン。ロイエンタール上級大将の参謀長で帝国軍の中将。
鏡の中の髭面の男も、まさしく彼だった。


ベルゲングリューンは自分自身を取り戻した。
 

​面影を抱きしめて

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