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永遠の少年たち ~2~

パン種を寝かせるために布に包んでいると、ビジフォンの呼び出し音が鳴った。
エヴァンゼリンは「はい、はい」と言って額の汗をぬぐい、エプロンから粉をはたいてビジフォンを取った。
『あ、母さん?』
「まあ、フェリックス、どうしたの?」
画面には息子のはにかんだ笑顔が映って母親を驚かせた。だが、本当は息子が連絡をくれるのではないかと思い、密かに待っていたのだ。
『うん、今さっき寄宿舎に着いたから、一応連絡しておこうかと思って。母さん、パンかお菓子でも作っていたの?』
青い瞳を輝かせて微笑むフェリックスの表情が、ウォルフが妻をからかおうとする時のものとそっくりだったので、エヴァンゼリンは笑った。
「あら、なぜ分かったの? あなたにお菓子を作って送ってあげようと思って」
『よしてよ、今日学校に着いたばっかりで、母さんがカバンに入れてくれたお菓子もまだ食べてもいないのに』
「そうね…」
がっかりした風情の母親にフェリックスが笑いかけた。
『母さん、おでこに白い粉が斑になって付いてるよ。国務尚書が見たらびっくりするよ』
この頃、父親がいないところでフェリックスはウォルフを『国務尚書』と呼ぶようになった。それはよその男の子たちが両親を名前で呼んだり、他人行儀な言い方をしたりするのと同じ意味だとエヴァンゼリンは思っている。
ウォルフは一度など、フェリックスがあまりにいい子なので、あの子には反抗期がないようだが大丈夫だろうか、と心配していた。それはエヴァンゼリンも気になっていた。だが、恐らく、フェリックスの反抗は親を無視したり、ふてくされたりするのではなく別の形で現れているのではないだろうか。
去年の春、フェリックスは突然両親に相談もなく、士官学校ではなくギムナジウムに通うと宣言した。奨学金取得を目指して試験勉強に猛然と励んで、入学試験では上位の成績だったと担任の教官が教えてくれた。もちろん、返済不要の1年分の奨学金を得た。
フェリックスの背後で人のざわめきや賑やかな足音が聞こえた。
『母さん? それじゃあ切るよ。ちょっと連絡したかっただけだから』
「分かったわ。ありがとうね、連絡をくれて。お父さんにもあなたが無事に学校に着いたって伝えておくわ」
『んー、いいよ言わなくても。じゃあね』
最後は慌てたように通信が切れた。他の生徒たちに学校について早々、家に連絡したと知られたくないのだろう。
ビジフォンを置くと、途端にしんと静かになってしまった。さっきまでは部屋の空気に大きな穴が空いたような気がしていたのに、今度は音まで落ち着きを失ったようだった。
エヴァンゼリンはため息をついた。しばらくは仕方がない。きっと徐々にフェリックスの不在に慣れていくのだろう。そしてようやく慣れたと思ったら、あの子が休暇で戻ってきて、そしてまた学校に行ってしまう。
いつか、あの子の心配をせずにすむ時があるのかしら? おそらく、ウォルフの母の様子から察するに、ずっと心配しどおしなのではないだろうか。いつかはこんな焦燥感を感じなくなるならいいのだが。

 

 

オスカーと級友は、物陰から実業学校生の集団が待ち伏せているのを見守っていた。
「あんなに仲間を連れている」
日が差さない壁際で寒さに震えながら、マルティンがささやいた。「はなからまっとうに勝負するつもりなんてなかったんだ」
踏み固められた雪の上に膝をついたオスカーが小声で答えた。
「これはおれの所為だからな。君らは付き合わなくてもいいんだぜ」
「君もルーディも仲間だ。あいつらが奪ったノートは僕ら全員にとって大事なものだ。だから、君と実業学校の奴らの戦いは僕らにとっても関係なくはないんだ」
その言葉に、オスカーは面映ゆそうな表情をして「そうか」、と言った。
「でもおれは、あいつら全員と真正面から戦う気はないぜ」
「へえ、どうする? 何か作戦があるのか?」
マルティンの言葉に相手は静かな瞳を敵に向けつつ続けた。
「ありったけ、兵を集めるんだ。さっき、ここへ来るときソリビジョンの映画館前にうちの学校の奴らがたむろしているのを見ただろ。あいつらを連れてくるんだ」
「あいつらよそのクラスだよ。僕らに加勢するかな」
「敵は悪逆な実業学校生で、上級生だ。そいつらを相手に戦うんだって言えばいい」
「劣勢だな…。よしっ、まかせろ」
まだ柔らかい雪が積もっているところを、密やかに音を立てずに踏みしめて、マルティンが走って行った。

 

置いたばかりのビジフォンが再びなって、今度こそエヴァンゼリンはびっくりした。
「まあ、どうしたのウォルフ、何かありましたの?」
『なんだ、そんなに驚くことかい?』
少し不貞腐れたようなはにかんだ表情の国務尚書の顔が画面に映った。それは先ほどの息子の表情とよく似ていた。
「いいえ、ただ珍しいと思って。お顔が見れて嬉しいわ、ウォルフ」
ウォルフが笑った。本当に機嫌が悪いわけではないのだ。ウォルフが妻にだけ見せる、子供っぽいところだ。息子が今の父親の様子を見たらなんというだろう。
『なんだい?』
「いいえ、何でもありませんわ。つい今さっき、フェリックスから学校に着いたって連絡がありましたの。お父さんには言わなくていいなんて言ってましたけど」
『ああ、そうか。ちゃんとお母さんに連絡したんだな。君が心配しているんじゃないかと思ってたから、良かった』
「フェリックスは優しい子ですわ」
『分かってるよ』
ウォルフがビジフォンに向かってほほ笑んだ。それにしても、ウォルフは執務中なのではないだろうか。日中にこうやって妻にビジフォンをかけてくるのは仕事熱心な国務尚書にしては珍しいことだった。
まるで妻の疑念に答えるかのようにウォルフが言った。
『実は、ギムナジウムの校長からご親切にもご子息が無事学校に着いた、と連絡があってね。ありがたいことに』
ウォルフがため息をついた。
「まあ…」
ウォルフにとっても、フェリックスにとっても特別待遇は本意ではない。フェリックスの入学に際して、ウォルフはわざわざその旨、学校側に念を押した。だが、相手が皇帝に次ぐ権威を持つと言われる国務尚書では、学校側が過敏になっても仕方がない。
『まあ、あいつが学校に上手くなじんでくれれば、馬鹿げた対応もなくなるだろう。すべてはあいつ次第だ』
「幼年学校ではあの子をあからさまに贔屓する先生がいましたわね。また、同級生の子たちにからかわれるようなことにならなければいいですけど…」
ウォルフは頷いたが、あまり心配している風でもない。フェリックスが教師の贔屓などをありがたがる子供ではないことを知っているのだ。
『ところでエヴァ、昼はちょっと外に出て一緒に食べないか?』
「あら…」
エヴァンゼリンはちらりとパン種を寝かせたままのキッチンに振り返った。他にも作りたいお菓子がある。だが―。
「そうね、たまにはお外であなたとお食事しましょうか。どちらに行きますの?」
明るい声でそう言うと、ウォルフもにっこりしたので外出に賛成してよかったと思った。
『ほら、キルヒベルクホテルに出来た新しいレストランが気になるとこの間、言っていただろう。そこを試してみようかと思ってすでに予約をしてある』
「あらまあ、ありがとう。でもウォルフ、あなたゆっくりお食事するお時間はあって? お仕事は大丈夫なの?」
『厳しいね。フラウ・ミッターマイヤー。少しくらいは大丈夫だよ』
ホテルのロビーで待ち合わせることにして、ビジフォンを切った。エヴァンゼリンはパン種を冷蔵庫に入れると急いで寝室に向かった。最近お気に入りのワンピースに着替え、控えめな化粧をする。ハンドバッグの中身を確認してから寝室を出た。ふと、夫婦の寝室の向かい側にあるフェリックスの部屋の前で立ち止まる。扉を開いて部屋の中を覗くと、そこは息子が出かけた時のままになっていた。クローゼットは閉じ、机の上は綺麗に片付けられているが、息子が帰ってくれば何事もなかったかのように、今まで通りの生活に戻るだろう。
壁に貼られたポスターや本棚に並ぶ本を見れば、息子がまだ子供らしい生活を送っていることが分かる。いずれ、そういったものに見向きもしなくなる日が来るかもしれない。だが、今はまだエヴァンゼリンの小さな男の子のままだ。今はまだ、母の手の届くところにいる。
エヴァンゼリンは目の奥がつんとするのをこらえた。
「あの子が学校に行っている間にカーペットをきれいにしようかしら」
息子の不在などはよくある、日常的なことにすぎないかのようにわざと声に出して言った。エヴァンゼリンは部屋を出る時、またいつでも覗けるように扉を開け放したままにした。そして時計を確認して、ウォルフとの約束に間に合うように、急ぎ足で出かけて行った。

 

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