top of page

リンゴの宇宙と子供たち ~2~

鬼のような娘の視線の下で、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥閣下は大きな体を縮めていた。ソファに転がって痛む顎に冷却パックを当てているフェリックスの前に座って頭を下げた。
「すまん」
「いいえ…。まあ、その、すごく痛いですが骨は無事なようだし…」
口が上手く動かないのを自覚しつつ、フェリックスは答えた。
―私が誰と結婚しようと私の勝手でしょ! どうしてパパが私の問題に口出しするのよ! しかもフェリックスとは冗談で結婚の話をしてたのに、冗談をまともにとって私の友達にけがをさせるなんて、パパって最低…!!
レナーテがほとんど理不尽な理論で父親に怒りをぶつけ、そしてフェリックスが見るにほとんど筋が通らない理屈で父親は娘の非難を受け入れ、納得したらしい。なんにせよ、自分が幼馴染のレナーテをもてあそぶつもりなどないことを理解してもらわなくては。
「閣下、僕はレナーテの友人として彼女の幸せを願っています。僕は彼女の良き友達であるつもりです。彼女を辱めたり悲しませたりするようなことは絶対にしません」
「う、うむ、そうか…、お前がそういう気持ちでいてくれるのは嬉しいことだ。そうだな、あのミッターマイヤーの息子が卑劣な真似をするはずがない」
ふと気づいてフェリックスは体を起こしてソファに座り、ビッテンフェルトに向き直った。
「それで思い出しましたが、僕の実父のロイエンタールについて、何か思い出などあったら伺いたいと思っていたんです。何度かご連絡を差し上げていたんですけど、お返事をいただけませんでした。もし、何か思いだされるようなお話があったら、伺えたら嬉しんですが…」
なぜか、ビッテンフェルト閣下の顔にはありありと、―しまった、迂闊だった…! と書いてあった。その表情をレナーテも認めたらしい。まだ険しい目つきをしていたが、にやっと笑って父親に言った。
「パパ、もしかして何か後ろめたいことでもあって、フェリックスを避けていたんじゃないの? それなのにうっかりしてフェリックスと顔を合わせちゃったんだ…」
父親は娘が馬鹿にされたと思い、自分のことなど忘れてフェリックスの前に飛び出して行ったらしい。父親の愛情あふれる、しかし少々間の抜けた行動にレナーテが気持ちを和らげたのがフェリックスには分かった。
しかし、自分と顔を合わせられないような後ろ暗いところがこの猛将にあるとは、信じられない思いだった。これほど娘に対して率直な愛情を注ぐ人が…。だがもちろん、あの頃は権謀術数の時代で、父ロイエンタールに対して密かに陰謀を企てた人々が複数いたとしても不思議ではない。
―だけど、まさか、このビッテンフェルト閣下がそのようなことをされるとは…。
フェリックスの疑惑の表情に気づき、元帥はソファの上でピンと背を伸ばした。
「フェリックス、俺はロイエンタールを貶めるようなことはしておらんぞ。俺はあいつとは戦友だった。あいつが亡き皇帝陛下の元で俺と共に戦っている間は、お前の台詞じゃないが俺はあいつの良き友であったつもりだ。あいつが謀反を起こしくさった時、俺はあいつの艦隊を討った。だが、あいつはそれで俺を恨んだりなどせんかっただろう。あれはお互い正当な戦いだった」
「…閣下、それでしたらなぜ僕を避けるようなことを…? 僕は閣下が父に何か企むような卑劣な方だとは疑ってもいません。でも、それなら…」
うう、とかつての猛将は言葉に詰まって膝の上で娘のものより大きなこぶしを握った。
「俺はあいつに対して後ろ暗いところなどない。だが、お前に対してはもしかして公平だったとはいえんかもしれん」
「あの頃の状況についてワーレン閣下やミュラー閣下にいろいろ伺いました。それで僕は皆さんが感じていたことのいくらかは理解しているつもりです。だから、子供だった僕に父について話すことが出来なかったことについては、もう、気になさらないでください。今、お話しできることだけでも伺えたら、それで僕は大満足なんですから」
ビッテンフェルトは鋭い目つきをフェリックスに投げかけた。
「ミュラーにも? あいつとはもう話したのか。どんなことを言っていた?」
「父がミッターマイヤーの父とよく二人で『海鷲』というクラブで飲んでいて、初めて仲間入りさせてもらった時はうれしかったとか、いろいろ戦略の話をしてくれて勉強になったとか…」
ソファにふんぞり返って腕組みをして、ビッテンフェルトは舌打ちをした。
「もう20年以上たつというのに、双璧に対してはいまだに弟分の気分が抜けないらしいな。あいつらしいこった。他にどんなことを言っていた?」
「後はまあ、僕ももう大人だからということで、父が女性にもてた話とか…」
明らかに元帥がぎくりとしたのを目にとめつつ、フェリックスは答えた。
「何か具体的な話をしていたか?」
「具体的…? あの、人名を上げてとかそういうことですか? 羨ましくて女性にもてる秘訣を聞こうとしたら父に笑われたとか、そういう話です」
ビッテンフェルトは天井を睨み付けて、足を揺すった。何かいらいらするように、「あいつめ、いい気なもんだ…」とつぶやいた。
レナーテが父親が腰掛けているソファのあいているところに座った。大きな体格の二人の人間のせいでソファはいっぱいになり、軋んだ。
「パパ、全部吐いてすっきりした方がいいわよ。なにも卑劣なことをしていないと言うなら、隠すことの方が卑怯だわ」
レナーテは父親の首の後ろに手をまわして、筋肉が盛り上がったそこを優しく揉んだ。雌の若虎が老虎をいたぶっているという図だ。
元帥はじろりと娘を見てから立ち上がった。
「いいか、お前ら。俺が卑劣だとか卑怯だとか、勝手な憶測は許さん。言い訳をするならだな、俺もあの頃はまだ若かったんだ!」
レナーテに指を突き出して、「お前がまだ影も形もないころの話だ!!」と吠えると、足音高く部屋を飛び出して行った。
レナーテとフェリックスが顔を見合わせていると、元帥は手に何かを持って戻って来た。かなり古い形の携帯用端末で、フェリックスもミッターマイヤーの持ち物として見覚えがあることから、軍の支給品らしかった。
ビッテンフェルトは懐から現在使用していると思われる、最新型の端末を取り出すと、その古い端末と繋いだ。しばらくしてから、古い端末を起動して何か操作した。
「ほら、見ろ。こいつは全部お前にやる」
元帥が端末の画面をフェリックスに突き出した。フェリックスが画面をのぞき込むとそこにはいくつかの写真が入っていた。
それはかなり鮮明なロイエンタール元帥の写真だった。あの有名な瞳の色の違いまでは分からないが、軍人らしいすっきりとした佇まいで、ほとんどが私服姿なのがフェリックスにとっては珍しかった。
フェリックスの後ろからレナーテがその写真をのぞき込んで、笑いを含んだ声音で言った。
「やだ、パパ。パパもロイエンタール元帥のファンクラブの一員だったの?」
父親は爆発して両手を振り上げた。
「馬鹿を言うな! 俺はあいつとは同期で亡き陛下の元では共に古参の同輩だった!! これはほんのいたずらのつもりだったんだ! もとはと言えばミュラーのせいだ!!」
「そうだ、ミュラー閣下のことをお聞きになってましたね。お二人でいったい何をしてたんです?」
ビッテンフェルトは薄ら笑いを浮かべている娘の方を気にしつつ、フェリックスとは目を合わさずに説明した。
「あの時もミュラーの奴はこの間、ロイエンタールが女性と歩いているのを見た、すごい美人だったって、そんなような話をしていた。あいつはあの頃、写真が趣味ではまってたからな、写真に撮りたいくらい綺麗なカップルだったとか、訳の分からんことを言ってた」


―撮ってやればよかったではないか。まあ、ロイエンタールが感謝するとは思えんがな。
―そこですよ。きっと、次にお会いするときには別の女性と一緒の写真を撮る羽目になりそうです。
―そりゃいいな、撮るたびに違う女と一緒の写真か。あいつも後生が良くないぜ。
―冗談にもなりませんよ、ビッテンフェルト提督。実際にそういうことになるのではないかと思うと。


フェリックスは父を写した写真のいくつかが、女性と一緒であるのに気付いた。
「あの、まさかとは思いますが、閣下は実際にそれを証明してやろうとしたということでは…」
「だから、冗談だったのだ! ミュラーに見せてびっくりさせたら、それで消去するつもりだった!」
「男って馬鹿ばっかり…。本当に馬鹿…」
レナーテの低いつぶやきが聞こえた。
ビッテンフェルトは腕組みをして開き直ったようにふんぞり返ったので、ソファの背もたれが大きく軋んだ。
「酒の席の笑い話だ。ロイエンタールは別に女と隠れて遊んでいたわけではないからな、その気になってみると簡単にあいつと恋人が一緒のところを見つけられた。息子のお前のために言うと、一定期間は必ず同じ女と一緒でずいぶん誠実に相手をしていたようだった。ところがだ、二股をかけていた様子もないのに、ある日を境にスパッと別の女に切り替わっている。いったいどうやったのだか…」
最後のところはしみじみとした調子になって元帥は羨ましそうな目をした。もう、娘のことは気にしないことにして、フェリックスにすべて打ち明けてしまうことにしたらしい。ビッテンフェルトは思い出話をつづけた。
「だがな、しばらく続けてみて次第に俺はちょっと怖くなった。ロイエンタールは同僚としても友人としても悪い奴じゃない。だが、俺が写真を撮るたびに違う女といる。違う女といる時に俺が写真を撮っているのか、俺が写真を撮るから違う女といるのか…」
「パパ、変なこと言わないでよ。ロイエンタール元帥は女性を一人に決められなかった、―フェリックス、あなたは違うといいわね―、ただそれだけのことでしょ」
ビッテンフェルトは首を振ってため息をついた。
「そうこうするうちに戦がまた始まり、皆忙しくなり…、俺もそんな写真のことは忘れてしまった。最後に写真を撮ったのはフェザーン遷都の直後だ。その時はたまたま奴を見かけて、本当に久しぶりにあいつを写真に撮った。奴は一人だった」
フェリックスはじっとビッテンフェルト元帥の表情が暗いものに変わるのを見つめていた。
「あいつがまた女性と一緒にいるところを撮ってやろう、そしてそれをミュラーに見せて笑ってやり、それでおしまいだ。写真もその場で消去しよう。そう思っていた。だが、俺が見る奴はいつも一人だった。フェザーンにはあいつが気に入るようないい女がいないのかと思った」
生粋のフェザーン娘のレナーテが鼻を鳴らして馬鹿にしたように笑うのを無視して、元帥はつづけた。
「その後、あの騒ぎだ―。あいつがお前の母親を家に入れて、亡き陛下に対して謀反を企てているという疑惑が持ち上がった。あいつは謀反の疑いに対しては抗議したが、お前の母親を自分の女にしていたことを否定しなかった。俺はああそうか、と思った」
唐突に言ったので、若者二人は当時を克明に思い出しているらしい元帥の顔を見返した。
「何に気づいたんですか…?」
「ロイエンタールがずっと一人で歩いていた理由だ。家にお前の母親がいたんだ。外で別の女に会わずに家に帰っていたんだ。だから、俺は写真を撮れなかった理由に気づいて、ああ、そうだったのか、と思った」
レナーテがほうっ、とため息をつくのが聞こえた。

ビッテンフェルトは結局写真を消去しなかった。戦に出てしまえばそんな馬鹿げたお遊びは忘れてしまう。端末の入れ替えで写真の存在すら忘れてしまい、端末はハイネセンの大火で失ったと思った。だがその後フェザーンの官舎に戻り、引き出しにしまい込まれたままであるのを見つけ、自分が勘違いしていたことに気づいた。
「もう、ロイエンタールは死んだ。陛下はいらっしゃらない。昔、あの方の元に集った提督たちのうち、何人がアレク陛下の元にいる? ロイエンタールも俺の古い仲間だった。俺が馬鹿げた真似をしたことは分かっているし、恥ずかしい思い出だということは認める。だが、消すことは出来なかった―」
元帥はフェリックスに手を振ってそっぽを向いた。
「頼む、そいつを持って行ってくれ。あいつに見つかったらと思うとひやひやしたが、お前なら構わん。さすがに俺が馬鹿をやったと誰にも言わないでいてくれるとありがたいがな。お前の父親の写真だ、好きなようにしてくれ」
フェリックスは端末を両手に握って、小さな声で「ありがとうございます」と言った。

 

レナーテがリンゴをスライスする合間にフェリックスに言った。
「パパったら、ロイエンタール元帥に見つかるか、見つからないかのスリルが楽しくてあんな馬鹿なことしたんじゃないかしら。子供よね」
フェリックスはバターを混ぜる手を止めて、ボウルから顔を上げて答えた。
「でも、お蔭で僕は父の写真を手に入れられた。ミッターマイヤーの父も知らないような、母と一緒だった当時の話も聞けたし…」
しかし、今聞いた話はレッケンドルフにも教えることは出来ないだろう。彼と直接話が出来れば別だろうが―。

 

My Worksへ  前へ   次へ

bottom of page