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リンゴの宇宙と子供たち ~1~

フェリックス・ミッターマイヤーがオーディンから戻って後、彼の生活はほとんど嵐の中に飛び込んでいくようだった。皇帝より親善大使としての信任状を賜り、そのための打ち合わせと研修会、同時にハイネセン留学のための準備に忙殺された。
周辺では彼に与えられた任務と境遇についてさまざまな不協和音が鳴り響いていたが、そのような雑音にかまっている暇もなかった。
だが、彼はさらに、今すぐしなくてはならないことがあった。

 

ミュラー元帥閣下
お久しぶりです。フェリックス・ミッターマイヤーです。
お忙しいところ誠に恐縮ですが、閣下のお時間を少々頂戴できますでしょうか。不躾ながら明日の朝8時ごろ、ご自宅まで伺わせていただければ大変ありがたく存じます。
時間を指定させていただき申し訳ございません。閣下が明日の10時以降はご不在であると秘書官から伺いました。手短にすることをお約束します。

 

ミュラーはもちろんのこと、獅子の泉の元帥たちは、フェリックス・ミッターマイヤーの訪問の栄誉に浴した。そして、その訪問の理由について知ると、青年のために恥じ入った。

 

ビッテンフェルト閣下
先日、お伺いさせていただきたい旨、ご連絡を差し上げましたが、お返事をいただけませんでした。ご面倒ですが、ぜひ、閣下とお会いしてお話を伺いたいのです。伺いたいお話の内容は僕の父、すなわち、オスカー・フォン・ロイエンタールについてです。
もし、閣下が父について覚えておいでの事柄などがありましたら、お話しいただければ大変うれしく存じます。
お返事がいただけない場合は、フロイライン・ビッテンフェルトに相談します。

 

オスカー・フォン・ロイエンタールについての思い出を、その息子に話す…!
それは彼らが意識するとしないとにかかわらず、避けてきたことだった。彼らは決してロイエンタールを忘れたわけではなかった。だが、彼の思い出は亡き皇帝陛下と密接につながっており、彼を思い出すことは彼らの獅子帝を思い出すこととほとんど一緒だった。
獅子帝を失って20年以上が過ぎようとしていた。だがその長い年月の間、喪失の苦しみを克服した振りをしていたに過ぎなかったことに、彼らは気づいたのだった。
「お父上について卿に何も話さずにいてすまなかった。卿がまだ子供だった頃、我らはみな、前を向いて歩くことに必死だった。卿のためにも立ち止まってあの頃を振り返るべきだったのだ」
ワーレン閣下は真摯な面持ちでフェリックスに言った。
彼らも、フェリックスも気づいていた。彼がまだ子供だった頃は、ロイエンタールの存在を認めることは、かの獅子帝が新領土統治について過ちを犯したということを認めるようなものだった。獅子帝が亡くなって数年の頃は、皇帝を神聖視する風潮が強かった。また、ロイエンタールの叛乱の記憶も新しく、皇帝の股肱の提督としての功績より謀反人としての事実に目が向けられがちだったのだ。
それらのことが今、改めて明らかになり、フェリックスも元帥たちも自分たちが何も分かっていなかったことに気づいた。

 

皇太后ヒルデガルドもまた、フェリックスに頭を下げて謝罪し、彼を慌てさせた。
「陛下…! どうかそんなことはやめてください…!」
「いいえ、フェリックス。わたくしはあなたに謝らなくてはなりません。わたくしはあの頃、あなたのお父様がいつか皇帝陛下に背くのではないかという不安にさいなまれていました」
皇太后の告白はフェリックスの呼吸を詰まらせ、無言にさせた。
彼は尊敬するこの高貴な婦人に対して、自分が憎しみを覚えることがあるとは想像すらしていなかった。
フェリックスの青い瞳がその父親のものと同じように強く輝いているのを見て、皇太后は息を飲んだ。だが、すでに摂政として十数年を経た彼女は、若者の当然予想された怒りに対して怯まなかった。
「今のわたくしであったら、それを防ぐためにあらゆる手を尽くしたでしょう。ですが、あのころのわたくしは何も知らない小娘でしかありませんでした。皇帝陛下のためにならわたくしは何でもするつもりでした。しかし、本当には何もできませんでした。おそらく、今のわたくしであっても何もできないかもしれない。あの方はわたくしの言葉などお聞き入れにならなかったでしょう…」
皇太后が言う「あの方」とは故ロイエンタール元帥の事らしかった。
フェリックスは、俯いて両手を握りしめている皇太后の眉がひそめられているのを見た。
「陛下、もしかして陛下は僕の父を恐れておられたのでしょうか」
皇太后は目を上げて、フェリックスのその父親とよく似た顔立ちを見た。微笑んで青年の頬をまだ小さかった彼にしたように撫でた。
「その通りです。フェリックス。わたくしはラインハルト陛下を尊敬しておりましたが恐れたことはなかった。陛下が単純だったとは申しません。とても複雑な心情の方でした。それでも、わたくしは陛下を恐れたことはなかった。しかし、あなたのお父様について、わたくしが本当に理解したことはありませんでした。分からないことは恐ろしいものです」
皇太后はため息をついて首を振った。
「あなたのお父様は誰にも理解されようと努めることをしなかった。皇帝陛下に対してすら、理解を求めもしなかった。それを拒むほど誇り高い方でした。おそらく、それがあの方を謀反に追い込んだ原因の一つでもあるかもしれません」

 

フェリックスは茫然としながら、宮殿の皇太后の執務室を退出した。
皇太后のロイエンタール元帥に対する恐れこそが、自分が実の父についてほとんど知ることがなかった理由のような気がした。獅子帝亡き後、皇太后こそがこの帝国の方向を位置付けた人だったのだ。その彼女が亡き夫の面影を神聖なものとして心の糧とするために、ロイエンタール元帥の存在を抹殺しようとしていたのなら…。
親友の母親である人に、子供時代のままの憧れを抱き続けていたことにフェリックスは気づいた。恋心と言うには淡いものだ。一人帝国を支えてきた孤独で健気な美女という幻想がそこにはある。それはある意味で間違ってはいないが、今やフェリックスにとって父に対する評価は非常に重要なものとなっている。皇太后に対する敬意は失いたくなかった。フェリックスは辛うじてレッケンドルフの言葉を思い出して呪文のようにつぶやいた。完璧な人などいない。
―皇太后陛下はまだ獅子帝が亡くなった時、今の僕と同じくらいの年齢だったんだ。その人に、夫を亡くしたばかりの女の人に、女神のような慈悲と完璧さを求めるのはむごいことかもしれない。

 

「フェリックス!」
若い女性の声で呼び止められて、フェリックスはほっとしてその声に振り返った。
その女性は彼よりもさらに背が高く、細面の印象的な顔立ち、女性らしい柔和さとなおかつ強靭な身体を持ち、黒い士官学校生の制服に身を包んでいる。その腰まで届く長い髪は緩くウェーブがかかって燃えるように赤かった。その髪は結んでもいない。結ぶとかえって敵がつかみやすくなるからだと彼女は言う。
おそらく、その炎のような褐色の美しい髪を敵に掴まれたら、彼女は敵と一緒に自分の髪を切り落とすだろう。
彼女は旧帝国の版図内では史上初の女性の士官学校入学者の一人で、新学期にはすでに最終学年となる。もし、彼女の希望が通れば、いずれ史上初の女性の近衛士官になることだろう。
フロイライン・レナーテ・ビッテンフェルトは皇帝陛下の親衛隊員になることを、齢10歳の時にすでに誓っていた。
この前皇帝の尊名の女性形の一つを名にもつ娘は、猛将ビッテンフェルト元帥の一人娘で、彼女はすでに5歳にもならぬうちに獅子の泉の同年の子供たちの誰よりも背が高く、彼らのガキ大将となっていた。フェリックスとアレク陛下は彼女より数年年長であったため、辛うじて彼女からの支配を逃れた。だが、それは彼女が二人に従順であったという意味ではない。彼らの10代前半は艦隊戦を気取った陣地取りの攻防で明け暮れた。
それが終わったのはフェリックスが一人、ギムナジウムに通い始め、翌年、アレク陛下が士官学校に入学したころだ。その日、アレク陛下は共に士官学校に進んだ友人たちと共に、獅子の泉の年少の仲間たちに士官学校の制服姿を見せに来た。皇帝陛下は15歳ですでに亡き父とほぼ同じ背丈になり、ミドルネームをいただいたかのキルヒアイス大公と同じくらいに、―実際二十歳のころにはそうなったのだが―、さらに背が伸びるだろうと思われた。
士官学校生の制服を着たアレク陛下が年少の子供たちの憧れを刺激したのは確かだった。フェリックスも一緒にそこにいて、親友の立派な姿が誇らしく、すでにその父皇帝と同じくらい立派に思えたものだった。
とにかく、その日を境にレナーテは変わった。ただのガキ大将だったものが本格的に文武両道を目指すようになった。同じ年頃の他の少年たちがアレク皇帝の先陣に立つ夢を見ながら噴水の前でチャンバラに精を出しているのに比べたら、確かにこの女の子はませていた。試験で学年一位になった時は、何も知らない父の元帥は大変自慢したものだ。
「フェリックス、春に作ってくれたアプフェルクーヘンのレシピをくれるって言ったのに、まだもらってない。ハイネセンに行く前に必ずちょうだいよ」
「ああ、ごめん…。というか、君、本当に自分で作るの?」
フェリックスは疑わし気に聞いた。
「作るわよ。レシピに忠実に…でしょ。今度こそ余計なことは考えずに忠実に作る」
「レシピはあげるけど、一度うちの母親と一緒に作ったらいいよ。その方がコツをつかむのにもいいんじゃないかな」
レナーテは口をとがらして少し赤くなった。こんなところはまだ子供っぽい。
「エヴァさんに見てもらうのなんてなんだか恥ずかしいもの。そうだ、フェリックス、これから一緒に作ってよ」
「なんで僕ならいいんだ? それに君学校は―」
「今日は土曜日よ。寄宿舎には明日の昼までに戻ればいいから」
レナーテは独り決めに決めてフェリックスの腕を取って歩き出した。並ぶと軍靴の足元のせいもありフェリックスよりかなり背が高く見えた。彼女がフェリックスにしなだれかかっているというより、明らかに彼女にひっぱられている格好だ。
フェリックスはため息をついた。空いている時間にハイネセン行きの準備をし、元帥方から聞いた話をテキストにまとめて、それをレッケンドルフに送るつもりだったのだが。
「今、田舎の農場からたくさんリンゴが送られてきてるから。失敗しても大丈夫」
「僕が教える通りに作ればちょっと変になることはあっても失敗はないよ。そんなに作ってどうするんだ?」
赤毛の娘はフェリックスの腕を引っ張ったまま押し黙った。ビッテンフェルト邸の近くまで来たことだし、そろそろ解放してほしかった。試みに思い当たることを言ってみる。
「アレク陛下はリンゴが好きだったかな?」
レナーテはくるりとフェリックスに向き直って、大きな目を見開いた。そのままじっと彼を見ていたが、やがて少し眉をひそめて心配なことでもあるような表情に変わった。
フェリックスの腕を放してその手を両手に取り、彼の青い瞳を見つめた。
「ねえ、フェリックス、ハイネセンから戻ったらでいいから結婚してくれない?」
フェリックスは目を瞬いた。彼女がひどいいたずらを仕掛ける場面に遭遇したことは数えあげるときりがないが、この突然のプロポーズがどういう落とし穴になるか、用心するに越したことはない。
「―君と結婚したら僕はいったいどんなことになるんだ?」
「あら、あなたはハイネセンから戻ったらどこか財務関係の官僚かなにかになるんでしょ。一足飛びに尚書かな。そしたら皇宮にいつも伺うことになるわよね。そのフェリックス閣下の奥さんも皇宮に伺うことが出来るわよね」
フェリックスはなんとかレナーテの鉄の腕から逃れようとした。
「君は近衛の士官になるんだろ。僕の奥さんとかおかしなこと言うなよ」
「近衛の士官かつ、高級官僚の奥さんなのよ。そうするとほら、…機会が増えるんじゃないかなあと思って」
―つまりアレク陛下に会う機会が増えると。
フェリックスはようやくレナーテの手をふりほどき、自分の腕は背中側に組んで保護した。
「あいにくだけど、僕は官僚になるつもりはないし、ハイネセンからフェザーンへ帰って来るかもわからないよ。帰ってきてもまた新しいビジネスを始めるかもしれないし」
フェリックスはがっかりした表情のレナーテの鼻を人差し指でついた。
「どうせならM・Mと結婚しろよ。あいつは次代の帝国軍期待の星だというし、後ろ盾に軍務尚書のミュラー閣下がいる。僕より陛下に近いかもしれないよ。背も高いし」
バシッと繊細でありながら団扇のような大きな手でフェリックスの指を払って、髪を振ってレナーテは吠えた。
「M・Mなんか冗談じゃない。士官学校じゃ、なんとかしてあいつをへこませてやろうとしてるくらいなのに。それに私、あそこの双子が大っ嫌いなのよ。女の武器を振りかざして男の前に出るとくすくす笑って、きゃぴきゃぴ、クネクネ…」
「ああ、アンネとローズね。無邪気でかわいいじゃないか。どうせまだ15歳の子供だろう」
「馬鹿ね、フェリックス。あいつらは10歳でもう一人前の女よ。あんた気をつけなさいよ。最近の騒ぎのおかげで、改めてあんたに目をつけている子は多いんだから」
「君もちょっとだけあの子たちの真似をしたら、15歳の誕生日パーティーで陛下が踊ってくれただろうにね」
レナーテはフェリックスを睨み付けて黙り込んだ。眉のあたりが険しく、深い溝が刻まれて怖いくらい父親に似ている。フェリックスはさすがに言い過ぎたかなと思った。レナーテがアンネ及びローズ・ミュラーのようになれるはずがない。
やがてレナーテは暗い表情のまま腕組みをして言った。
「言っとくけど、あの子たちのこと羨ましいと思ったことないから。私はあの子たちが出来ないことが出来るの。陛下とは踊らなかったけど、フェリックス、あなたもあの場にいたじゃない。あの時、私のために喜んでくれてたと思ったのに」
「君はアレク陛下と試合をした」
「そうよ」
レナーテは15歳の記念の誕生日パーティーでアレク陛下とフェンシングの試合をした。父親がどうしてもと言い張って彼女に着せた、輝くように真っ白なドレスを着て、大元帥服の陛下と剣を交えたのだ。
それは前代未聞の珍事であると同時に、絵画の中のように美しい光景だった。
「確かにね、僕は嬉しかったよ。陛下が誰かと試合をするところなんて見たことがなかったし、陛下も君の腕前に本当に感心していた。君も大満足で僕は嬉しかった」
「じゃあ、分かるでしょ」
フェリックスは首を振ってつづけた。
「僕は陛下が君だけに陛下と剣を交える権利を許したことが気になる」
「いいの。フェリックス。それが私。陛下と踊れなくても、戦うことは出来る」
フェリックスはため息をついて再び首を振った。なんだか最近、自分の身振りがレッケンドルフさんに似てきた、と思いながら幼馴染の肩に手を置いた。
「とにかく、レナーテ。誰かに頼って自分の望みをかなえようとするなんて、そもそも君らしくないよ。正々堂々とまっすぐ進むのが君のやり方に相応しいと思うね。だから、僕は君と結婚しない」
俯いたレナーテが上目遣いにフェリックスを見て、―彼女の方が背が高いので、上目遣いは難しそうだが、どのようにしてかやり遂げた。レナーテであっても女の武器を一つくらいは知っている―、フェリックスがそのことをからかおうとするといきなり、後ろから首根っこを掴まれた。
「フェリックス! このガキめ!! 分不相応にも俺のレナーテをもてあそぶつもりか!!」
巨大な手がフェリックスの顔を後ろに振り向かせ、強烈なアッパーカットが彼の顎にさく裂した。
フェリックスはどうと倒れ、レナーテの悲鳴と共に世界が真っ暗になった。

 

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