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リンゴの宇宙と子供たち ~3~

アプフェルクーヘンが腹にもたれている状態でフェリックスがビッテンフェルト家から戻ってみると、秘密めかした表情の母が彼を待っていた。顎に冷却パックを張り付けた息子にびっくりしていたが、クッキーとコーヒーのポットが乗ったトレイをフェリックスに持たせた。
それを持ってフェリックスが自室に行くと、自分の部屋でアレク陛下が長身を窮屈そうにしてソファに腰掛け、母のトルテを食べていた。
「遅かったな。戻らないつもりかと思った。その顎はどうしたんだ? ミッターマイヤーに僕が君を殴ったと思われそうだ」
自室の前に銃を下げた親衛隊の姿を見つけ、重要人物が滞在中であることに気づいていたフェリックスは、皇帝陛下のご来臨に驚きもせずトレイをテーブルに置いた。
「娘を心配する父親が勘違いしたんです。陛下もレナーテの扱いには十分に気を付けてください」
「なんだって? 何の話だ? レナーテ・ビッテンフェルトのことか?」
その言葉にフェリックスはさっとアレク陛下の表情を見た。そこには期待したようなものはなく、ただ面白がっているのが見て取れただけだった。赤ん坊のころからの付き合いでほとんどのアレクの感情に自然と同調することが出来るフェリックスだったが、こと恋愛に関してだけは分からなかった。
アレク陛下はいそいそとジャムが乗った大きなクッキーに手を伸ばした。
「ずいぶん食欲旺盛ですね」
「今日は忙しくてゆっくり食事の時間が取れなかったんだ。フラウ・エヴァの料理は最高だね。そういえば君がこの間持ってきてくれたアプフェルクーヘンは、フラウではなく君が作ってくれたんだろう? 生地は軽くてリンゴの酸味がしっかりしてたし、みずみずしくておいしかった。ハイネセンに行く前に伯母上にレシピをお渡ししてくれないか」
なぜみんな同じことを言うんだろう?

希代の料理上手として有名な大公妃殿下に、レナーテでも作れるお手軽アプフェルクーヘンのレシピをお渡しするなどとんでもないことだ。
しかし、これはレナーテにとっては福音かもしれない。陛下はかなりの甘党だ。レナーテのためにささやかなきっかけを作ってやれるだろう。そのためには親友の考えの一片だけでも知っておきたい。
フェリックスはカップにコーヒーをなみなみと注いでアレク陛下の前に置いた。
「アレク、レナーテがなぜ士官学校に行って近衛師団入りを目指しているか、分かっているか聞いていいですか?」
「駄目だ」
アレクは即座に答えたが、それは確かに一つの答えだった。レナーテの気持ちについて知ってはいるのだ。フェリックスはアレク陛下の正面のソファに座って、その表情を見透かそうと覗き込んだ。
「確かにあなたは皇帝として誰か特定の人に期待を持たせたり、贔屓にしているようなところを見せてはいけないと教えられてきた。だけど、人間らしい感情まで否定するようにとは教えられなかったはずです」
アレク陛下は黙って頷いたが、優美な弧を描く眉をひそめて少し困ったような表情だった。それを見てフェリックスは気づいた。
「もしかして、陛下、ご自分が彼女をどう思っているか分からないんですか」
「…レナーテはいい子だよ」
「―彼女の15歳の誕生日に剣の試合をしましたね。陛下は他の人とはそんなことはしたことがないのに、彼女だけ特別なんだと、あの時僕は思いましたけど」
「僕と試合をしたいと言ったのは彼女だけだった。他にいなかったというだけだ」
アレク陛下の表情はコーヒーカップに隠れた。
おそらく、彼もレナーテを気にしてはいる。それは単に幼馴染への気遣いに過ぎないのかもしれない。だが、それ以上のものになる可能性はあるのだろうか?
―たぶんそうなっても、アレクは容易に感情を理性に優先させたりしない。だけど、僕に出来るのは彼女にレシピを教え込むだけか…。
レナーテが自分の望みを自力で叶えようとするならば、前途は険しい道のりになりそうだ。だが、フェリックスには二人の幼馴染のために道をつける時間はなかった。
「それにしてもいったい、急にどうしたんですか。僕の家に来ていただけるのは本当に久しぶりですね」
「迷惑そうだね」
「そんなことないですよ、ただびっくりしてるんです。まるで幼年学校の頃みたいだなあと」
「そうだな。だが、君も悪いんだ。せっかくオーディンから無事戻って来たと思ったら、ずいぶん忙しそうにしていて、ゆっくり話をする時間もない」
「僕を親善大使などにするからです。そのせいで留学の準備以外にもすることが増えて、毎日てんてこ舞いですよ」
「忙しい方がいいだろう、その方が変な男に引っ掛からずに済む」
フェリックスは親友に向かって肩をすくめて見せた。彼の恋愛に対してこういうことを言うのはアレク陛下だけだった。他の人々は見て見ぬふりをしている。
「僕の相手はいつもいい人ばかりです。時間があったらオーディンで出会った人の話をしたいけど、やめておきます。僕の恋愛事情を話しに来たわけじゃないですよね」
アレク陛下は頷いてコーヒーのカップを両手に包んでため息をついた。
「君と二人で話をしたかったが、公的な場でしか会うことが出来なかったからね。皇宮では話しにくいことなんだ。つまり、君の父上、ロイエンタール元帥についての最近の騒ぎのことだ」
フェリックスは親友の秀麗な顔立ちに目を向けた。それはあくまで真摯で友人に対する率直な懸念が現れていた。
「大変だったな。ミッターマイヤーがあの追悼式典の案を持ってきたとき、君のためにもなるし、いい潮時だと思った。だが、想定以上の騒ぎになってしまった」
「…いえ…。実はオーディンで、父について何人かの人から話を聞くことが出来ました。追悼式典はちょうど同じタイミングだったんです。きっとそういう時期だったんですね。僕らが過去のことを知り、ミッターマイヤーの父のような昔からの人たちは過去を振り返ると言う」

皇帝は真面目な表情を保ったまま続けた。

「フェリックス、ロイエンタール元帥について、僕が何か君を嫌な気分にさせていたことがあったとしたら謝る」

フェリックスは急いでコーヒーカップをテーブルに置いて、両手を振った。
「まさか…! 謝るようなことなんてありません! 陛下もロイエンタールの父について何も知らなかった。そして、僕も何も分かっていなかった。だから、知らなかったことに対して謝罪は不要なんです。―もしかして、母上様から何かお話がありましたか?」
アレク陛下は頷いた。
「詳しいことはお話しにならなかった。ただ、ロイエンタール元帥のことで君を怒らせてしまったようだと。君の亡き父上のことについて、僕は何か出来ることがあるのではないだろうか」
フェリックスはじっと親友の顔を見た。彼は兄弟のような存在であり、無二の親友でもある。だが、彼の母親は皇太后で、摂政を退いたとはいえ今でもこの国の政治の中心だ。皇太后が誠実な人であることを疑ってはいない。しかし皇太后が動くとき、彼女と政治を切り離すことは出来なかった。
フェリックスは慎重に答えた。
「アレク、僕はロイエンタールの父に対して今以上の待遇を求めない。彼は彼なりに立派な人で、獅子帝への忠誠は偽りではなかったと思う。でも、謀反を起こしたことは事実だ」
「わが父、獅子帝はロイエンタールに元帥の称号を復された。その後、母が元帥の名誉を回復した。君が言うとおり、獅子帝に対する忠誠そのものに偽りはなかったと認めるものだ。それでは僕には何が出来るだろうか?」
皇帝もまた、テーブルにカップを置いてからその両手を膝の上で握り合わせ、親友を正面から見た。
「僕は、ロイエンタール元帥は讒言の犠牲者であり、その讒言の結果、元帥は心ならずも謀反を起こす道に追い込まれた、と正式に認めることが出来る」
フェリックスは立ち上がって、アレク陛下の前に身を乗り出した。
「駄目です…! そんなことはしないでください。アレク、僕がハイネセンに行っている間に、父を知りもしない人が父についてあることないことを語り始めるのじゃないかと僕は思ってる。だけどそれを聞いても、父について獅子帝が下された以上の評価は与えないでください」
「しかし、君のために何かしたいんだ」
フェリックスは顎の痛みも忘れて激しく首を振り、親友の手を取った。
「父についての再評価は始まったばかりです。もし今、陛下が父について正式な評価を下されると、それ以上の研究も解明もされなくなってしまう恐れがある。約束してください、もし、父を全面的に許すことがあるとしたら、それは議会開設後のことにすると」
アレクは親友の真剣な青い瞳をじっと見つめた。そして、自分の手を取る親友の手の上に、彼よりも大きな手を重ねて置いた。
「君が心配しているのはロイエンタール元帥のことだけではないな。僕が母の教えを忘れて、自分が気に入った人のために、君のために、権力を専横することを恐れているんだろう。だが、心配するな。僕が言えるのはそれだけだ」
「アレク、君を疑う訳じゃないんです。だけど、僕たちはそれを忘れてはいけないんだ」
「分かっている」
皇帝に叛逆した父を持つ息子と、その叛逆された皇帝を父に持つ息子―。その事実は急に大きく彼らの前に立ちあがって来た。その事実の向こうに皇太后の厳しい表情が見えた。だがその厳しさは彼ら二人を断罪するためではなく、守るためなのだ。もし、彼らが少しでも進む道を間違えれば、それはかつての旧王朝と同じ腐敗した権力の道をたどることになる。
それは彼らの二人の父のためにも絶対に避けなければならないことだった。
フェリックスは親友である皇帝の前に跪いて、その大きな手を握っていた。アレク陛下は一方の手をフェリックスの肩に置いた。
「僕の言葉が守られるかどうか確信が持てないのであれば、フェリックス、ハイネセンから必ず帰ってこい。僕のために国務尚書になれとは言わない。だが、君の助言が必要になる時が必ず来る」
跪いたまま、フェリックスもアレク陛下の力強い腕に手を置いて頷いた。
「君を信じている。それに、どこにいようと君が呼ぶなら僕はすぐさま帰ってくる」
その時、玄関ホールから賑やかな声が聞こえてきた。この家の主、すなわちミッターマイヤー国務尚書が帰ってきたのだ。いずれ、お忍びの皇帝陛下にお灸を据えにこの部屋にもやって来るだろう。
二人は互いに顔を見合わせた。アレクが気恥ずかし気にフェリックスの胸を小突いた。フェリックスもアレクの肩を小突いて、その勢いで床に尻を突きそうになり、二人して笑った。

 

―フェリックス、手紙をありがとう。

私が君からの便りをもらってどれほど喜んでいるか、君には分かるまい。忙しいだろうに私のために時間を割いてくれたことで、君の気遣いが感じられて嬉しかった。ことに昨今のオーディンのニュースや新聞ときたら、君かお父上の話題ばかりで、君は私とはまったく関係のない有名人の誰かのような気分になっていた。だが、手紙の中の君は私が知っている君だった。
私は今でもあのフロイデンでの休暇を思い出す。深淵なる宇宙に輝く星より眩しい、君の青い瞳が―(中略)
元帥の閣下がたの貴重な思い出ばなしを教えてくれてありがとう。しかも、私が閣下がたと連絡を取れるようにしてくれるとは、君がやることにはそつがない。驚くことに、昨日ワーレン閣下みずから私にご連絡をくださったのだ。こちらからするべきであったに恐れ多いことだ。閣下は自分ではメックリンガー閣下のように本を書くことは出来ないが、誰かに自分の思い出をまとめて欲しかったとおっしゃった。だから、近日中に私はフェザーンに行って、閣下とお会いしなくてはならない。残念ながら、君がハイネセンへ旅立った後になるがね。
ところで、ビッテンフェルト閣下とは都合が合わず、お話を伺えなかったとは残念なことだ。ことにビッテンフェルト閣下には、必ずや我が閣下についての思い出がおありだと思うのだが。フェザーンに赴いた時、閣下が私とお会いくださるかどうか試してみよう。
フェリックス、ハイネセンまでのつつがない航海を祈っている。もしあちらでお父上の情報を得ることが出来たら、簡単なメモで構わないから私に教えて欲しい。その時、君がどんな日常を送っているか一言教えてもらえると、なお嬉しい。

―君の友 エミール・フォン・レッケンドルフ

 

レッケンドルフの手紙の『ことにビッテンフェルト閣下には』、というくだりは太字で書かれているような気がするのは気のせいだろうか、とフェリックスは思った。実際には何の変哲もないタイプ文字なのだが。
あのレッケンドルフにかかったら、猛将ビッテンフェルト閣下も思わぬ思い出話を話してしまうのではないだろうか。写真について話さない代わりに、何か別の話を披露してくれる可能性はある。
レッケンドルフが見たという宇宙の深淵に思いを馳せつつ、ビッテンフェルト閣下に父の元副官と会ってくれるようにお願いしよう、とフェリックスは考えた。

 

Ende
 

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