Season of Mackerel Sky
あかつきに咲く花
8、
パーティーの翌日、エルフリーデは自室に閉じこもって出てこなかった。さすがに心配した義母が食事を部屋に持って行かせたが、お茶やスープなどが多少減っていたほかは、固形物はすべて手つかずのまま返された。パーティーの夜、気分が優れずに帰ると言い出した娘の様子から、ロイエンタール中将と何かあったのではないかと両親は推測した。娘に問いただそうにも、彼らを部屋に入れようとしないのだった。
エルフリーデは自分のベッドに座り込んでぼんやりしていた。そして突然、以前取り掛かって途中になっていたレース編みの存在を思い出した。花柄モチーフの淡いピンク色のショールを猛然と編みながら、手元に集中した。しばらくは頭の中にパーティーの夜にオスカーと話した言葉の数々が鳴り響いていたが、それは徐々に遠ざかって行った。まるで波が寄せては返すように、ふとした時にオスカーの声音が蘇ったが、再び編み針と糸と編み図に集中しているとそれはゆっくりと退いていくのだった。
そして、1週間たったころにようやく、これまでのオスカーとの出会いと会話の内容についてじっくり考えることが出来た。
彼は出会った時からまともに挨拶もせず、しかもずっと名乗りもしなかった。常に彼女をからかうような、突き放した態度を取っていた。彼女をまともに扱う気はないと言っていたようなものだ。その明らかな信号に彼女は気づかずに、彼の言動が織りなすミステリアスな雰囲気に酔ってしまっていたのだろうか。
彼は言っていなかっただろうか。いや、あの夜、地上車の中で彼女に接吻した時(何故そんなことをしたの?)、彼女は若すぎる、他の貴族の若者と付き合えと言っていたはずだ。
だが、彼はケーラー男爵夫人が彼女を貶した時、弁護してくれた。彼女をあの男どもから逃がしてくれた。彼女の話を聞いてくれた。いとこのフランツから助け出してくれた時、お前が悪いと言って馬鹿にしたりせずに、どうするべきだったか真摯に助言をしてくれた。初めて会った時にも―。
彼は優しかった。彼と話すことで、エルフリーデは自分という自我の存在を感じた。彼女にもちゃんとした意見があることに気づいたし、それを理解してくれる人がいることも知った。
今にして思えば彼のそういうところに惹かれたのだろう。だがこれは単に理屈を述べただけで、それ以上に彼がいるだけでエルフリーデの胸はいっぱいになり、ただひたすら彼の側にいたい、彼の暖かさを感じていたいと思うのだった。
そうだ―。彼が彼女を逃がしてくれた時、彼の信頼する人を連れてくるためにもっと自分で努力するべきだったのだ。後でオーディン市街の地図を見て、フラウ・ライマンの学校とコールラウシュ邸がかなり離れていることを確認した。もっと自分の身の回りのことに注意していたら、そもそも解放された時、30分では短いと抗議することが出来たかもしれない。
エルフリーデは身震いした。自分ですべて何とかしようとした挙句、約束の時間に間に合わずにオスカーは殺されていたかもしれないのだ。フランツに助けを求めたことはそれほど悪いことでもなかったはずだ。結果的に、それは敵対している人物に救われる羽目になるという侮辱をオスカーに与えることになったとしても。
彼女の拳はオスカーに対する怒りで震えた。ひどい、ひどい。私だって精いっぱい―。
だが、彼女を逃がしてくれた瞬間の彼の言葉を思い出して、彼女の怒りはしぼんだ。彼女がミッターマイヤー中将と言う人を連れてくることが出来たら、彼はどうしただろう。少なくとも、彼女を否定するようなことは言わなかったはずだ。彼女は彼とは違う。彼ほどに世の中のことについて知らないし、いざと言う時、どうするべきかの経験もない。経験は年月が経てばいつか彼女のものになる。だが、彼は待つつもりはないとはっきり言ったのだった。
彼はもう彼女のことを忘れてしまうつもりだろうか。彼女は彼に考えを変えさせることは出来ないのだろうか。
事件後しばらくたってエルフリーデはフラウ・ライマンを訪ねて学校へ行った。すっかりはつらつさを取り戻したフラウ・ライマンはエルフリーデの来訪を喜び、彼女を自分の執務室に出迎えた。だが、そこは事件の時閉じ込められていた部屋ではなく、別の応接室のような場所だった。
「あの部屋は今改装中なのよ。軍隊が飛び込んできたときの銃痕が壁や家具に無数にあって、お客様をお迎えできる状態ではなくて…」
エルフリーデは部屋を見渡して、ここの方があの部屋よりずっと居心地がよさそうな部屋だと思った。天井から床までの窓からはすぐそばに赤と白の花を咲かせる並木があった。
「あら、あの赤い花はやっぱりカメリアみたい。この季節でも咲くんですね」
「遅くまで咲く品種なのだけど、さすがにもう終わりかけね。白い方もカメリアの仲間なのよ。あちらはこれから満開になるわ」
窓からのそよ風を受けながらエルフリーデは外の並木を見た。
「白いカメリアもあるなんて知らなかった。なんだか赤い品種より素朴な感じがする」
フラウ・ライマンはエルフリーデの言葉に頷いて微笑んだ。
「素朴に感じるのは赤いカメリアと違って一重だからかしらね。よろしかったら持ってお行きなさい。すぐ散ってしまうから花が楽しめるうちに差し上げるわ」
そこで二人で庭に出て、通りがかった学生に手伝ってもらいながら、いくつかのカメリアの枝を切った。木の根元にはいくつも赤と白の花が丸い形を留めたまま地面に落ちており、エルフリーデと夫人は面白がってその花をたくさん籠に拾った。
その朝、落ちたばかりの花はまだそれほど痛んでいなかった。部屋に戻ったエルフリーデと夫人は、固い葉と大輪の花を付けたカメリアの枝を上手に花瓶に生けた。夫人は興が乗ったのか、白いカメリアをいくつかまとめてエルフリーデの耳の後ろにピンでとめた。
「花の精みたいね」
夫人は自分のワンピースの胸元にも赤と白のカメリアの花をピンでとめた。そのままの格好で二人でお茶を飲んだ。
「ロイエンタール様はこの頃はどのようにお過ごしかしら?」
唐突にフラウ・ライマンが尋ねたせいで、エルフリーデの喉のおかしなところにお茶が入り込んでしまった。ハンカチで口元を押さえて咳き込みながら、フラウ・ライマンを見ると、夫人は穏やかな期待に満ちた表情をしている。だが、咳が収まったエルフリーデがなおも黙り込んでいるので、夫人は眉をひそめて重ねて聞いた。
「不躾だったわね、ごめんなさい。聞くべきではなかったかしら…?」
「いえ…。私とオスカーは恋人とか、お付き合いしているとか、そういう仲ではないんです。ただ、私が一方的に彼を…好きなだけ」
「そうなの? でも…」
不思議そうなフラウ・ライマンに、ぽつりぽつりと、エルフリーデはオスカーと自分のことを話した。
二人の出会いの場面から始まり、彼女をフランツから助け出した時のこと、オスカーと接吻した話まで夫人は聞き出してしまった。興味津々といった表情で目を輝かせて聞いていた夫人は、ついにエルフリーデがとぎれとぎれにパーティーの夜について話すと、オスカーの台詞に怒った。
「まったく…! 男なんて身勝手なものよね! あなたがこういう女の子だって知っていて、それだからこそ、彼だってあなたに興味を持ったんでしょうに…!」
「でも、私、オスカーが頼んだことをちゃんと出来なかった…」
フラウ・ライマンは首を振った。
「そのことに責任を感じる必要はないわ。あなたも自分は精いっぱい努力したって言ったじゃありませんか。確かに、あなたとのことを改めて考えさせるきっかけになったのかもしれないけれど…」
俯いて、手の中に囲んだお茶のカップの中身をじっと見つめているエルフリーデを見ながら、夫人はため息をついた。
「おそらく…。あなたを正式に紹介されて、まんまと囲い込まれた気分になったのかもね。あなたを自分から遠ざけたかったのではないかと思えて来たわ…。まあ、あの方にしてはずいぶん性急なやり方だこと」
一人納得するフラウ・ライマンの言葉に興味を惹かれてエルフリーデは少し顔を上げた。
「私を遠ざけようと…?」
夫人は頷いた。
「ロイエンタール様は当然、あなたが誰か最初から分かっていたでしょう。あなたはリヒテンラーデ侯爵の近しいご親戚。一方でロイエンタール様はローエングラム伯爵の側近なのよ。あなたは宮廷の勢力図をご存じないでしょうけど、ロイエンタール様は迂闊にあなたとお近づきになることが出来ないお立場なの」
じっとエルフリーデの瞳を見つめて、彼女が理解しやすいようにとかみ砕いて夫人が言葉をつづける。
「でも、ロイエンタール様はあなたに興味を持った。しばらく、身分などのしがらみのない気軽な間柄を楽しみたかったのかもしれないわね。だって、現実はとても政治的な問題を孕んでいるのだもの」
エルフリーデは少しだけ視界が開けた気がした。
「ところが、あなたのお父様は正式にあなたをロイエンタール様に会わせてしまった。これは当然、リヒテンラーデ侯爵のご許可を得てのことだと思うわ。まあ、ロイエンタール様は慌てたでしょうね…」
「…それでは…、オスカーは…」
夫人はけしかけるように悪戯めいた笑顔をエルフリーデに向けた。
「あの方の本心は必ずしも、言葉通りかどうか分からないわね。ロイエンタール様は簡単にご自分のお気持ちを明らかにする方だとは思えないわ」
その言葉を信じたい気持ちがエルフリーデの心の中に芽生えたが、信じることは恐ろしいような気がして彼女は強く首を振った。
「でも…、まったくの嘘とも思えないの…。オスカーはあんなにはっきりと…」
「ローエングラム伯爵が側近の結婚を政治的にどうお思いになるか分からないけど、少なくとも今はもう、あなたの側に障害はないのよ。まだ、諦めるべき時期ではないわよ」
諦める?
不意に、エルフリーデの目の前にオスカーの色違いの瞳が蘇った。それはいつも鮮やかに輝き彼女を痛いほどまっすぐに見つめた。あのパーティーの夜の彼の冷たい瞳は思い出せなかった。
―私、彼が好き…!
突然、エルフリーデの目の前が明るくなり、鼓動は激しく高鳴り、手足が押さえつけられないほど震えた。その震える両手でエルフリーデは口元を覆った。泣き出すか、笑い出すかしてしまいそうだった。
彼に会いたかった。
今すぐ、彼女を受け入れることが出来なくてもいい、ただ、彼に会って、彼の声音を聞き、彼の存在を感じられればいい。その思いを知ってほしいと思った。
彼が彼女を待てないのであれば、彼女の方こそ、彼を待とう。
エルフリーデの頬がピンク色の血色を取り戻し、その表情がすっかり晴れやかになったのを見て、フラウ・ライマンはほっとした。ロイエンタールがどう思っているかなど夫人にも分かりはしないが、まだ諦めてはいけないとの思いには確信を持っていた。
「ロイエンタール様にあなたのことを考える時間を差し上げるべきでしょうね。じき出征されるようだから、その時間は十分あるわ」
「…出征? 戦場に?」
「そうよ。あらやだ、知らないの? 連日新聞に記事が載っているというのに…!」
夫人は立って自分の執務机から電子新聞の専用端末を持ってきた。エルフリーデは新聞に目を通したことなどなかった。
フラウ・ライマンがさし示した新聞には、帝国元帥、ローエングラム伯爵に叛乱軍鎮圧の勅命が下ったとの記事があった。ローエングラム陣営の各提督の説明があり、側近のミッターマイヤー、ロイエンタール両中将も近日中に出征するだろう、との文章がはっきりと書かれていた。
エルフリーデは立ち上がった。
「私…、すぐ行かなきゃ…。会ってオスカーと話さなくちゃ…」
夫人は慌てた。
「今、急いで会わなくても…。少し時間を置いたほうがいいのではないかしら」
「だって、戦場に出てしまって、もし何かあったら…。すぐ会いたいの…!」
両手を揉みしだいてエルフリーデはそわそわと辺りを見回した。まるで、フラウ・ライマンの応接室からオスカーの目の前に一瞬にして辿り着く方法を探しているかのようだった。
「私、行きます…。ごめんなさい、フラウ・ライマン、私これで…」
「行きなさい。がんばって」
夫人はため息をついて言った。何があろうと恋する若い娘をけしかけるような無責任な行為は慎むべきだと悟った。
「ありがとうございます―」
お礼もそこそこに、エルフリーデは急いで扉を出て行った。それはあの事件の時と似ていたが、今度はどこに行くべきか分かっていた。